print home

エピソード

275_07

朝鮮戦争(1951〜1953)
 1950年6月に朝鮮戦争が始まりました。私は8歳でしたが、古くて大型のラジオから、ピーガーという雑音に混じって、アナウンサーが「38度線云々」と熱く語っていたことを記憶しています。
 今回は、『韓国戦後史年表HP版』を主に利用させていただきました。今まで知らなかった事実が、かなり判明しました。全部で7ページに及びますが、今回は7ページ分のみを掲載しました。いずれ、じっくり整理して全てをアップするつもりです。
 日本は、この戦争で、アメリカ軍に軍需物資を供給して、戦後の経済復興の足場にしました。これを朝鮮特需といいます。「朝鮮を犠牲にして、日本の現在がある」という指摘もあります。 
 1950(昭和25)年6月6日、マッカーサーは、「共産党中央委員24人の公職追放」を指令しました。
 6月7日、祖国統一戦線の拡大委員会は(1)8月の南北総選挙(2)ソウルでの最高立法会議開催などを提起し、3人の伝達連絡員を南に送り込みましたが、逮捕されたとも逃亡したとも言われています。
 6月10日、トルーマン大統領は、「ソ連の支配者たちが企図する全体主義的な支配の拡大に対処するため、米国は孤立主義をとらず、自由の強固な砦となるであろう」と演説しました。
 6月10日、ソ連の政府機関紙イズベスチアは、「8月5日から8日の間に、南北朝鮮を通ずる総選挙を実施し、15日にソウルで統一国会を開くであろう」と報道しました。
 6月10日、北朝鮮は、全師団を南部国境地帯に移動させました。
 6月16日、国家警察本部は、デモ・集会の全国的禁止を全警察に指令しました。
 6月18日、ジョンソン国防長官・ブラッドレー統合参謀本部議長が来日しました。
 6月19日、北朝鮮最高人民会議は、全朝鮮立法機関設置を含む統一案を採択しました。
 6月19日、ジョンソン国防長官・ブラッドレー統合参謀本部議長は、東京で、マッカーサー元帥と会談し、防備態勢・日本基地維持を検討しました。
 6月19日、韓国の中央情報部(CIA)現地本部は、東京のGHQに対して、「38度線の北側で大規模な部隊移動が展開され、国境地帯への兵器・弾薬の大量の輸送が行われている」と報告しました。しかし、GHQは、この報告を無視しました。アメリカ得意の「相手に先に手を出させる」作戦でしょうか。
 6月20日、米国務省のダレス顧問は、38度線を視察して、李承晩に、「いま始まろうとしている偉大なドラマで、貴国が果たすことができる決定的な役割を大いに重視している」と述べました。
 6月20日、ジョンソン国防長官とブラドレー統合参謀本部議長は、極東軍関係者と情勢を協議しました。極東軍当局者は、「中国が共産化したことで、ソ連はアジア最大の基地を獲得した。米国は侵略の危険に対処するため、日本、沖縄およびフィリピンの基地を保持しなければならない」と発言しました。
 6月22日、米国務省のダレス顧問が来日し、羽田空港で、マッカーサー元帥・シーボルド外交局長らの出迎えを受けました。
 6月22日、沖縄基地視察中のジョンソン国防長官は、「沖縄を米国の難攻不落の要塞とする。一切の攻撃に耐え得る恒久的な作戦施設を建設する」と発言しました。
 6月22日、米議会は、選抜徴兵法の延長を承認しました。
 6月22日、北朝鮮軍最高司令官の金日成は、全面的南進作戦の発動を命令しました。
 6月24日19時、ソウルで陸軍会館の落成式があり、ダンスパーティーが始まりました。
 6月25日4時、北朝鮮軍は、38度線全域で、砲撃を開始し、戦争状態に入りました。これを朝鮮戦争の勃発といいます。「冷たい戦争」でなく、実際の戦争を熱い戦争といいます。
 6月25日5時、日本にいたマッカーサーは、北朝鮮の奇襲攻撃を知りました。
 6月25日5時25分、平壤放送は、「アメリカ帝国主義者たちの扇動によって南朝鮮傀儡軍が38度線全域で北進を開始した」と報じました。これは北朝鮮側が流したデマであると言われています。
 6月25日7時、韓国放送は、「北朝鮮が大規模攻撃を開始した」と報じました。
 6月25日11時30分、ワシントンに、北朝鮮攻撃開始の第一報が入りました。駐韓アメリカ大使のムチオは「攻撃の性質および方法から見て、これは全面攻撃と見られる」と報告しました。
 6月25日12時、米国務省は、リー国連事務総長と連絡し、「北朝鮮軍の韓国侵入に抗議するため、直ちに安全保障理事会を開くよう」要請しました。アメリカの国連への対応が早いことが気になります。
 6月25日13時、北朝鮮軍は、開城を制圧しました。開城は、38度線をやや南下した所にあり、ソウルからは50キロです。韓国軍第1師団第12連隊は兵力の半ばを失い、敗走しました。
 6月25日14時、李承晩は、臨時閣議を招集しました。蔡秉徳陸軍参謀総長は「攻撃は全面的であるが、政治犯の解放を強制する北側の戦術ではないか」と報告しました。
 6月25日15時、緊急国連安保理が開かれ、リー国連事務総長は、「国連朝鮮委員会の報告によれば、今回の事件が北朝鮮の侵略行動であることは疑う余地がない」と説明しました。
 6月26日、マッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、「朝鮮戦争についての報道態度を理由にアカハタの30日間発行停止」を指令しました。
 6月27日12時、トルーマン大統領は、韓国軍援助のため海空軍に出撃を命令しました。
 6月27日15時、国連安保理は、国連加盟国に武力攻撃撃退・韓国援助の勧告する決議案を採択しました。
 6月28日、北朝鮮軍は、韓国の首都ソウルを占領しました。
 7月1日、アメリカ陸軍は、釜山に上陸しました。
 7月4日、吉田内閣は、閣議で、朝鮮おける米国の軍事行動に行政措置の範囲内で協力する方針を了承しました。その内容は、以下の通りです。
(1)日本商船による韓国向け輸送
(2)特定労働者の超過勤務対策
 7月7日、国連安保理は、ソ連欠席下で、アメリカによる国連軍(16カ国参加)指揮を決定しました。
 7月8日、トルーマン大統領は、マッカーサー元帥を国連軍最高司令官に任命し、司令部を東京に設置しました。
 7月8日、マッカーサーは、「国家警察予備隊7万5000人の創設」を指令しました。 
 7月26日、16カ国参加の国連軍の組織が完了しました。
 7月28日、報道8社で336人を解雇されました。これをレッドパージ(the Red Purge)といいます。
 7月31日、ソ連は、国連の議事に復帰しました。
 8月10日、ポツダム政令で、警察予備隊令が公布されました。第1陣として7000人が入隊しました。
 8月16日、日産は、朝鮮特需で米軍よりトラックの大量受注に契約しました。
 8月18日、韓国政府は、大邱から釜山に遷都しました。
 8月25日、GHQは横浜に在日兵站司令部を設置と発表しました。これが朝鮮特需の本格化です。特需を背景に、景気が回復しました。これを特需景気といいます。
 9月14日、トルーマン大統領は、対日講和・日米安全保障条約締結予備交渉の開始を国務省に許可しました。
 9月15日、国務相顧問ダレスは、ワシントンで、「日本再軍備に制限を加えない」と演説しました。
 9月15日、国連軍は、仁川に上陸し、ソウルへの反攻を開始しました。
 9月26日、国連軍は、ソウルを奪回し、李承晩大統領はソウルに帰還しました。
 10月1日、マッカーサーは、北朝鮮に即時降伏を要求しましたが、北朝鮮は拒否しました。
 10月1日、周恩来首相は、「侵略戦争粉砕のため奮闘せよ」と演説しました。これを抗米援朝運動といいます。
 10月3日、韓国軍は、38度線を突破して北進しました。
 10月8日、国連軍も、38度線を突破して北進しました。
 10月13日、吉田内閣は、解除訴願中の1万90人の追放解除を発表しました。
 10月14日、トルーマン大統領は、ウェーク島でマッカーサー元帥と、対日講和条約・朝鮮戦争に関して会談しましたが、両者の意見が一致しませんでした。
 10月20日、国連軍は、平壌を占領しました。
 10月21日、フランス軍は、北部インドシナの重要基地ランソンを放棄しました。
 10月25日、中国人民義勇軍は、鴨緑江を渡河して、朝鮮戦線に出動しました。
 10月26日、国連軍は、鴨緑江岸の新義州に迫りました。
 10月29日、朝鮮戦争の特需が累計で1億3000万ドルに達しました。
 11月10日、吉田政府は、陸海軍学校入学者の旧軍人3250人に初の追放解除を発表しました。
 11月26日、北朝鮮軍・中国軍は、総反撃を開始しました。
 11月30日、トルーマン大統領は、記者会見で、「朝鮮戦争で、原爆使用もありうる」と発言しました。
 12月3日、韓国の国防長官は、国連に対して、原爆の使用を要請しました。
 12月4日、英首相のアトリーは、アメリカのトルーマンと会談して、原爆使用に反対を表明しました。
 12月5日、北朝鮮軍・中国軍は、平壌を奪回しました。
 12月14日、国連総会は、アジア・アラブ13カ国提出の朝鮮戦争停戦決議案を採択し、停戦3人委員会の設置を決定しました。
10  1951(昭和26)年1月1日、北朝鮮軍・中国軍は、38度線を越えて南下しました。
 1月4日、国連軍は、ソウルを撤退しました。
 2月1日、国連総会は、朝鮮戦争に関し、中国政府を侵略者とする非難決議案を採択しました。
 3月7日、国連軍は、ソウルを奪回しました。
 3月24日、国連軍総司令官のマッカーサーは、中国本土攻撃も辞せずと声明しました。
 4月11日、トルーマン大統領は、マッカーサーを罷免し、後任にリッジウェイ中将を任命しました。
 5月18日、国連総会は、中国・北朝鮮への軍需品輸送の禁止・商品の禁輸および統制決議案を採択しました。
 6月23日、ソ連の国連代表マリクは、朝鮮停戦交渉を提案しました。
 6月30日、国連軍最高司令官のリッジウェイは、金日成に休戦会談開催を提案しました。
 7月1日、金日成は、休戦会談開催を受諾しました。
 7月10日、戦闘を継続しながら、朝鮮休戦会議が開城で開催されました。
 7月、ソ連の新鋭戦闘機であるミグが朝鮮戦争に大規模に投入されました。
 8月30日、米・フィリピン相互防衛条約が調印されました。
 9月1日、米・豪・ニュージーランドは、太平洋安全保障条約に調印しました。これをアンザス(ANZUS)条約といいます。
 9月4日、対日講和会議がサンフランシスコで開催され、52カ国が参加しました。
 9月5日、ソ連全権は、条約修正案を提出し、中国代表の参加を要求しましたが、拒否されました。
 9月18日、周恩来首相は、「中国不参加の対日講和条約は非合法・無効」と声明しました。
 10月10日、トルーマン大統領の署名により、相互安全保障法が成立しました。これをMSA法といいます。
 10月25日、朝鮮休戦会談は、板門店で再開されました。会談中も、戦闘は継続され、戦局は膠着状態でした。
11  1952(昭和27)年1月18日、韓国政府は、海洋主権宣言を発し、季ラインを設定しました。
 5月7日、巨済島に収容中の北朝鮮俘虜は、収容所長を捕虜とし、俘虜虐待・虐殺の停止と自由意志送還停止を要求しました。これを巨済島事件といいます。
 5月26日、韓国政府は、責任内閣制改憲案阻止のため、非常戒厳令を宣布して、国会を包囲し、野党議員147人を憲兵司令部に連行しました。
 6月23日、アメリカ空軍は、北朝鮮の鴨緑江近くの水豊ダムを空爆しました。
 7月4日、李承晩大統領の再選を確保するため、抜粋憲法が韓国議会を通過し、大統領直選制を採用しました。
 8月7日、韓国大統領選挙で、李承晩が再選されました。
 11月4日、共和党のアイゼンハウア−は、大統領に当選しました。
 12月2日、アイゼンハワー大統領は、韓国を訪問しました。
 12月15日、朝鮮労働党中央委員会は、党組織の強化・自由主義的傾向との闘争を決定し、党内の粛清が本格化しました。
12  1953(昭和28)年3月5日、ソ連のスターリン首相が亡くなり、後任にマレンコフが就任しました。
 3月15日、マレンコフは、最高会議で「紛争の平和的解決」を強調しました。
 4月9日、韓国の李承晩大統領は、休戦交渉に関してアメリカに抗議しました。
 4月11日、朝鮮休戦会談で、傷病捕虜の交換協定が調印されました。
 5月3日、傷病捕虜の交換が完了しました。
 5月30日、李承晩大統領は、米韓相互防衛条約締結を条件に、共産・国連軍の同時撤退を提案しました。アメリカは、李承晩の説得を開始しました。
 6月18日、李承晩大統領は、休戦交渉に反対し、反共捕虜2万7000人を釈放しました。
 7月12日、李承晩大統領は、アメリカの説得によりアメリカへの協力を約束しました。
 7月27日、朝鮮休戦協定が調印されました。
 7月28日、朝鮮休戦委員会第1回会議が板門店で開かれました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『韓国戦後史年表HP版』などを参考にしました。
先に手を出したのは?、日本分断の可能性
 先に手を出したのは、北朝鮮です。しかし、アメリカの動きを見ていると、先に手を出させる戦法を採用した可能性はあります。真珠湾でとった手法です。日本の場合は、アメリカに仕組まれた自衛戦争という人がいます。しかし、北朝鮮が「アメリカに仕組まれた自衛戦争」と言った場合、認めないでしょう。
 朝鮮の立場を考えると、同じ民族であるのに、社会主義国のソ連に占領された北朝鮮があります。資本主義国のアメリカに占領された南朝鮮があります。
 同じ民族でありながら、主義が違うということで、敵対する立場になりました。そして、代理戦争をするようになりました。歴史は人間が作ったものです。ベルリンの壁が崩壊したように、38度線が無くなるよう、あらゆる民族の知恵を絞ってもらいたいものです。
 日本も、北海道以北をソ連が占領する提案がありました。アメリカがそれを拒否しました。もし、ソ連が朝鮮半島をすべて占領しておれば、日本の民族が分断された可能性もあります。
 朝鮮の立場で、私たちは、朝鮮統一する方策を探り、極東の安全を確保したいものです。

index