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エピソード

276_01

国際社会への復帰(サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約、日米行政協定)
 アメリカを中心とする連合軍は、日本をアジアのスイスにする占領政策を行っていました。
 中国に社会主義の中華人民共和国が誕生しました。ベトナムにベトナム人民共和国が誕生しました。共産主義のドミノを恐れたアメリカは、朝鮮戦争を経て、日本を反共の砦と位置づけ、サンフランシスコ平和条約を急ぎました。この時の選択が、現在の日本に継続されています。
 1948(昭和23)年10月15日、@48第二次吉田茂内閣(民主自由党単独)が誕生しました。
 1949(昭和24)年1月23日、@24衆議院議員選挙が行われ、民主自民党が第一党となりました。
 2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。アメリカの意向を受けて逆コ−スを推進しました。
 3月7日、ドッジ公使は、経済安定9原則を発表しました。これをドッジ=ラインといいます。
 4月15日、ドッジ公使は、昭和24年度予算案につき、超均衡予算を強調しました。
 4月25日、1ドル=360円の単一為替レートが実施されました。
 7月4日、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明しました。
 7月6日、下山事件三鷹事件が発生しました。
 8月17日、松川事件が発生しました。
 9月13日、アチソン国務長官・英のベヴィン外相は、対日講和会議の早期開催に合意しました。
 9月15日、GHQは、税制の根本改革というシャウプ勧告の全文を発表しました。
 10月1日、毛沢東は、北京天安門広場で、中華人民共和国の成立を宣言しました。
 11月11日、吉田茂首相は、参議院で、「単独講和でも全面講和に導く1つの途であるならば喜んで応ずる」と答弁しました。
 12月4日、社会党は、「全面講和・中立堅持・軍事基地反対の平和3原則」を決定しました。
 12月7日、蒋介石の国民政府は、首都を台湾の台北に移しました。
 1950(昭和25)年1月1日、マッカーサーは、「日本国憲法は、自衛権を否定せず」と言明しました。
 1月12日、アチソンは、「米国の防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線」と演説しました。
 2月9日、マッカーシーが「国務省に共産党員がいる」と演説し、マッカーシー旋風が始まりました。
 4月6日、トルーマン大統領は、ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命しました。
 4月26日、野党外交政策協議会は、平和・永世中立・全面講和を主張する共同声明を発表しました。
 4月27日、アメリカ政府筋は、「中立声明は理想論である」との見解を発表しました。
 5月3日、マッカーサーは、「共産党は侵略の手先」と非難し、非合法化を示唆しました。
 5月3日、吉田首相は、南原繁東大総長の全面講和論を「曲学阿世」の論と非難しました。
 5月6日、南原繁東大総長は、「学問への権力的強圧である」と反論しました。
 5月8日、吉田茂首相は、「米国などとの単独講和は事実上既にできている」と発言しました。
 6月6日、マッカーサーは、吉田首相に、「共産党中央委員24人の公職追放」を指令しました。
 6月25日、朝鮮戦争の勃発しました。
 7月28日、報道8社で336人が解雇されました。これをレッドパージ(the Red Purge)といいます。
 8月10日、ポツダム政令で、警察予備隊令が公布されました。
 9月15日、国務相顧問ダレスは、ワシントンで、「日本再軍備に制限を加えない」と演説しました。
 9月21日、第2次シャウプ税制勧告を発表しました。その内容は、平衡交付金の大幅増額でした。
 11月8日、GHQは、A級戦犯重光葵の巣鴨刑務所を仮出所を発表しました。
 11月10日、吉田政府は、陸海軍学校入学者の旧軍人3250人に初の追放解除を発表しました。
 12月13日、地方公務員法により、地方公務員・公立学校教員の政治活動などが禁止されました。
 1951(昭和26)年1月1日、北朝鮮・中国軍は38度線を南下し、国連軍はソウルを撤退しました。
 1月1日、マッカーサーは、年頭の辞で「集団安全保障と講和」とを強調しました。
 1月8日、前首相の芦田均は、「自衛の軍備は違憲ではない」と講演しました。
 1月10日、トルーマン大統領は、対日講和締結交渉の大統領特別代表にダレスを任命しました。ダレスの任務は、(1)対ソ巻返し強硬外交(2)社会主義国をのぞいた単独講和の締結でした。
 1月20日、吉田茂首相は、「再軍備は国民の自由である」と表明しました。
 1月21日、社会党第7回大会は、平和3原則および再軍備反対を決議しました。
 1月27日、川上貫一は、吉田首相に「全面講和と再軍備反対」を主張し、除名されました。
 1月29日、経団連・日経連・経済同友会など経済8団体は、ダレス特使に講和に関する要望を提出しました。その内容は、(1)国連による集団安全保障(2)それまでの米軍の駐留と基地提供(3)アメリカの援助のもとの日本の再軍備などでした。
 2月11日、ダレス特使は、日本政府は米軍の駐留を歓迎と声明しました。吉田首相は、「米国との安全保障取り決めを歓迎し、自衛の責任を認識する」と声明しました。、
 3月1日、警察予備隊は、先に追放解除された旧軍人から300人の幹部採用を決定しました。
 3月7日、国連軍は、ソウルを奪回しました。 
 3月24日、国連軍最高司令官のマッカーサーは、「中国本土攻撃も辞せず」と声明しました。
 4月11日、トルーマン大統領は、マッカーサーを解任し、後任にリッジウェイ中将が就任しました。
 5月5日、マッカーサーは上院で「日本人の成熟度は12歳、勝者にへつらう傾向」と発言しました。
 6月11日、旧陸士58期生・海兵74期生ら245人は、幹部候補生として警察予備隊に入隊しました。
 6月20日、石橋湛山三木武吉菊池寛ら2958人の第1次追放解除名簿を発表しました。
 6月21日、国際労働機構(ILO)は、日本の加盟を承認しました。
 7月10日、朝鮮休戦会談は、開城で開催されました。
 7月11日、ダレス特使は、「講和条約と同時に日米安全保障条約を結びたい」と言明しました。
 7月20日、アメリカは、対日講和会議への招請状を50カ国に送付しました。
 7月23日、ビルマは、対日講和草案に反対であることをアメリカに通知しました。
 7月24日、自由党は、社会党などに講和全権団への参加を要請しましたが、社会党は拒否しました。
 7月27日、フィリピン最高会議は、米の対日講和草案に反対方針を表明しました。
 8月6日、吉田内閣は、第2次追放解除を決め、鳩山一郎・大麻唯男緒方竹虎前田米蔵松野鶴平松村謙三・河上丈太郎(社会党)・河野密(社会党)ら1万3904人の名簿を発表しました。
 8月15日、米英は、対日講和条約最終草案を発表し、中国の周恩来首相は、これを非難しました。
 8月16日、吉田内閣は、旧陸・海軍正規将校1万1185人の追放解除を発表しました。
 8月16日、吉田内閣は、講和条約最終草案の全文を発表しました。
 8月16日、吉田首相は、臨時国会で、「講和後の米軍駐留は日本から希望した」と報告しました。
 8月25日、インドは、外国軍の駐留や中国の不招待に抗議し、対日講和会議不参加を通告しました。
 8月31日、吉田茂首相・苫米地義三・星島二郎ら講和全権団49人が羽田を出発しました。
 9月4日、対日講和会議がサンフランシスコで開かれ、52カ国が参加しました。これをサンフランシスコ講和会議といいます。インド・ビルマ・ユ−ゴは、内容不満が参加しませんでした。中華人民共和国と国民政府は招待されませんでした。
 9月8日、サンフランシスコ平和条約に調印して、独立を果たしました。調印国は資本主義49カ国でしたが、ソ連・チェコ・ポーランドは、新しい戦争のための条約であるとして調印を拒否しました。その内容は、(1)戦争状態の終結(2)日本の主権承認(3)領土の限定(4)賠償協定などで、その意義は、資本主義陣営の一員として、アメリカの東アジアにおける反共の砦という役割を担いました。
 9月8日、吉田首相は日米安全保障条約に調印しました。その内容は(1)米軍の駐留(2)侵略や内乱の際の出動(3)期限なく片務的(4)第3国の駐留禁止(5)詳細は日米行政協定で決めるなどです。
 9月8日、吉田内閣は、旧特高・思想検察関係336人の追放解除を発表しました。
 9月18日、中国の周恩来は、「中国不参加の対日講和条約は非合法・無効」と声明しました。
 10月24日、社会党は左派・右派に分裂し、右派の西尾末広が率いる民主社会党が結成されました。
 10月26日、衆議院は講和条約を賛成307・反対47、安保条約を賛成289・反対71で承認しました。
 11月18日、参議院は講和条約を賛成174・反対45、安保条約を賛成147・反対76で承認しました。
 11月26日、吉田首相は、アメリカのラスク国務次官補と行政協定につき会談しました。
 12月24日、吉田首相は、ダレス宛て書簡で「蒋介石の国民政府と講和する」を確約しました
 1952(昭和27)年1月18日、韓国政府は、海洋主権を主張し、李承晩ラインを設定しました。
 2月9日、吉田内閣は、追放解除を決め、宇垣一成有田八郎ら138人の名簿を発表しました。
 2月28日、日米行政協定が調印されました。その内容は、以下の通りです。
(1)米軍駐留の条件を規定
(2)刑事裁判権は属人主義とする。属人主義とは、その人が現在どこにいるかにかかわらず、その人の国籍のある国家の法律に従うべきであるという考え方です。その対語が属地主義といいます。
(3)日米安全保障条約に基づくとして国会承認の手続きをふまず
 3月6日、吉田首相は、参議院で「自衛のため戦力は違憲ではない」と答弁しました。
 3月10日、吉田首相は、野党の猛反発で、「自衛のため戦力は違憲ではない」を訂正しました。
 3月26日、衆議院は、「行政協定は国会の承認を要する」との決議案を否決しました。
 4月28日、対日講和条約・日米安保条約が発効しました。連合軍の占領が終結しましたが、日米安保条約によって、米軍は、引き続き、日本に駐留することになりました。
 4月28日、GHQ・対日理事会・極東委員会が廃止されました。
 4月28日、その結果、岸信介ら5700人が自動的に追放を解除されました。
 4月28日、日華平和条約が調印されました。日本は「二つの中国」の一方を承認したことになります。
 6月9日、日印平和条約が調印されました。インドは、日本に対して、賠償請求権を放棄しました。その他多くの国が、日本に対する賠償請求権を放棄しました。日本は、こうしたアジアの諸国の上に現在の日本があることを理解する必要があります。
 6月13日、追放解除された重光葵が改進党総裁に就任しました。
 7月4日、衆議院は、参議院修正通り破壊活動防止法案を可決しました。
 7月14日、警察予備隊は、幹部増強のため旧軍人の大佐ら236人を採用しました。
 7月31日、保安庁法が公布され、保安庁を設置し、警察予備隊を保安隊に編成替え、海上に海上警備隊を新設しました。
 8月4日、吉田首相は、保安庁長官として保安庁幹部に「新国軍の土台たれ」と訓示しました。
 8月22日、A級戦犯の元首相である平沼騏一郎が服役中に死去しました。
 9月18日、日本の国際連合加入申請が、ソ連の拒否権で否決されました。
 9月21日、石川県内灘村で、米軍の試射場接収反対を決議しました。これを内灘闘争といいます。
 10月1日、@第25回総選挙が行われ、自由党は第1党になりまし。
 10月6日、通産省は従来の取締り方針を改め、兵器産業を保護・育成する基本方針を決定しました。
 10月15日、保安隊4000人が都内を行進しました。
 10月30日、@50第四次吉田茂内閣が誕生しました。
 11月4日、米大統領選挙で、共和党のアイゼンハワーが当選しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
サンフランシスコ講和条約、日米安保条約(1951年版)、日米行政協定
 沖縄の米軍がグアムに移転する費用をめぐって、アメリカは102億7000万ドルを試算しました。日米交渉の結果、アメリカ側の75%の主張に対し、日本側の59%で決着したとして、防衛庁の守屋武昌事務次官は「日本政府の直接負担は、米側より3億8000万ドルも少ない」とその成果を強調しました。
 子供でも、親から小遣いをもらう時には、「友達は皆○○円や」と吹っかけます。最終的には、子供がいう額と親が思っている額との折半になります。子供はほくそ笑んでいるパターンです。
 次に思いやり予算という言葉があります。これは1978年、当時の金丸信防衛庁長官が在日米軍基地で働く日本人従業員の給与の一部を日本側が負担すると決めた時、「思いやりの立場で対処すべきだ」との言葉からきています。行政協定の枠を越えた米軍を思いやる予算です。その額は62億円でした。
 こうした税金を、米軍に支払う原点は、サンフランシスコ講和条約と同時に結んだ日米安保条約と行政協定にあります。
思いやり予算の推移(単位:億円) 1979年〜2000年間
の施設整備費の総額
は1兆6050億円です
1978 1979 1980 1985 1990 1995 2000 2005
62 280 374 807 1680 2714 2567 2378
 アメリカ海軍は、日本政府に対して、空母が接岸する横須賀基地の埠頭の延長工事を要求しました。現在の長さは264メートルで、空母インディペンデンスの全長が326メートルですから、接岸に支障をきたすというのが理由です。136メートル延長して、414メートルにしたい意向です。調査費に1億円、工事費に14億円を請求しました。
 講和条約を受け入れる場合、全ての国が納得するような条文をいれ、調印・批准する立場を全面講和論といいます。
 他方、一部の勢力が納得する条文をいれ、納得した一部の勢力と調印・批准する立場を単独講和論といいます。
 サンフランシスコ講和条約は、単独講和論の立場で作成され、アメリカ・イギリス・フランスなど資本主義国が調印・批准しました。ソ連など社会主義国は調印を拒否されました。日本が戦争した中国は、社会主義国の中華人民共和国と資本主義国の中華民国があり、招待されませんでした。インド・ビルマは内容が偏っているとして、出席を拒否しました。
 ここでは、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約(1951年版)・日米行政協定を見ます。
 1951年9月8日に調印し、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約です。対日講和条約ともいわれます。
第一条【戦争状態の終了、日本国の主権承認】
(a)日本国と各連合国間との戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b)連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。
 *解説1(日本と連合国との戦争状態は、この条約が効力を生じた日に終了する。その場合、日本は主権を認められ、独立国家となる。→日本はこの条約を受け入れて、批准国との戦争を終結し、独立国家となりました。一部の内容(11条)がおかしいと言って、受け入れたのではありません。その事実を厳粛に受け止めることが、歴史を学ぶ者の務めです)

第二条【領土権の放棄】
(a)日本国は朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 *解説2(日本の領土は、植民地であった朝鮮・台湾の領土権を放棄し、千島列島や日露戦争で得た領土権を放棄する→日本の領土は、日清戦争以前の状態になりました。その上、ヤルタ協定に従って千島列島、今の北方領土を失うことになりました)

第三条【信託統治】
 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
 *解説3(沖縄諸島や小笠原群島が信託統治されることになりました→アメリカの軍政下に置かれ、沖縄の悲劇が続くことになりました)

第六条【占領終了】
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とんまたは駐留を妨げるものではない。

 *解説4(連合国のすべての占領軍は、この条約の効力が発生した後、すみやかに、しかも、どんな場合でも、90日以内に日本から撤退する。しかし、日本と協定を結んだ場合は、外国軍隊は日本に駐留できる→アメリカは、米軍の駐留を前提に、日本の独立を認めるという考えでした)
第十一条【戦争犯罪】
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。

 *解説5(日本国は、東京裁判ならびに日本国外の戦犯法廷の裁判を受諾し、しかも、その計を執行する。東京裁判で刑を課された者については、裁判に参加した過半数の勧告がなければ刑の変更は出来ない→「日本は、裁判を受諾したのでなく、判決を受諾したのである」と発言する人がいますが、judgmentsと複数であるのは字句通り解釈すれば裁判以外にありません。ためにする議論です。それより、この11条は気に入らないが、この条約に調印・受諾するという国際法が存在するでしょうか。噴飯ものです。日本人の一部に通じても、23条に列記された国々に通ずる議論ではありません)
第二十三条【批准、効力発生】

 この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、即ちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を有する。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
 *解説6(この条約は、署名した国が各国の議会で批准された国が過半数の時有効となる→調印と批准の違いがよく分かります)
 1951年9月8日に調印し、1952年4月28日に発効した日米安全保障条約です。独立後に調印した1960年の日米安全保障条約を新安保というのに対して、占領下に調印されたので旧安保といわれます。
 「日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には、危険がある。よつて、日本国は、平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。(略)
 *解説1(日本国は武装を解除されているので、固有の自衛権を行使できない。そこで、日本国は、アメリカとの安全保障条約を希望する→日米安保は、日本を反共の砦にするというトルーマン=ドクトリン上の戦略の一環であるが、日本が日米安保を望んでいるというレトリックを主張しています)
 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。
 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従って平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。
 よって両国は次の通り協定した。
 *解説2(日本国は、外国からの武力攻撃を阻止するために、日本国内・付近にアメリカ合衆国が軍隊を維持することを希望する。但し、アメリカは、日本国が国連憲章の目的以外の軍備を持つことは避けるが、自衛のために漸増的に自ら責任を負うことを期待する→日本がアメリカ軍に駐留することを希望した。アメリカは、日本が自衛のための軍隊を少しずつ増やすことを期待する。サンフランシスコ講和条約と同時に、アメリカは自衛隊を増強して、米軍との協力を期待しています。完全にアジアのスイス構想は破綻しています)

   第一条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。
 *解説3(日本はアメリカの陸海空軍を日本国内に配備する権利を与え、アメリカはそれを受諾する。この軍隊は、極東における平和と安全に寄与し、外国の干渉によって引き起こされた日本国内における内乱を鎮圧する→言葉で、平和と安全・内乱の鎮圧といえば、最もだと思うが、どの国にとっての平和であるのか、誰への内乱なのかを定義していくと、アメリカにとっと不都合な勢力を指している。日本にとって、あるいは、アジアとか世界という規模ではありません)

   第二条 第一条に掲げる権利が行使される間は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。
 *解説4(日本は、アメリカの同意なくして、第三国に色々な権利を与えない→第三国とは、ソ連のことを指していますが、これは、当然の権利でしょう。外国の代理戦争は避けたい)

   第三条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。
 *解説5(米軍の配備に関する条件は、行政協定で定める→サンフランシスコ講和条約や日米安保条約が議論になりますが、本当は日米行政協定を問題にしなくてはなりません)

   第四条 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。(略)
 *解説6(国連軍などが機能したときは、この条約は失効する→国連軍を牛耳り、国連をないがしろにするアメリカには、国連軍を機能させる気持ちはありません)
 1952年2月28日に調印された日米行政協定です。この協定は、日米安全保障条約に基づくとして国会承認の手続きをふまず、批准する必要がありません。
 「第一章 行政協定の締結
(協定の目的)日米両国は、安保条約第三条の規定にもとづく、米軍の日本およびその周辺における配備を規律する条件を定めるため次の条項を協定した。
(定義)軍隊とは米国の陸軍、海軍および空軍で、日本にあるものをいう。軍属とは米軍に使用され、これとともにいる米国籍を有する民間人をいい、家族とは軍人軍属の配偶者、二十一歳未満の子、両親および二十一歳以上の子で生計の半分以上を扶養されているものをいう。
(施設・地域の提供)日本は米軍が日本国内で必要とする施設、地域を合同委員会の決定にしたがって提供する。
(物資・役務の調達)
 (1)米軍隊、軍人、軍属、その家族は必要の物資、役務を一般日本人と同様の条件で、日本で調達できる
 (2)その調達が、日本経済に悪影響を与えないように、また調達の便宜を図るため、両国は緊密に協議する
 3)米軍に必要な日本人労務者は、日本政府機関が協力の上、米軍が使用する。この場合の雇用条件、労働条件、労働者の基本権利は日本の法規による。米軍は日本人労働者の使用に際しては日本の慣習を尊重する。
(米軍の機密および財産の安全保持)日本は米軍の機密および財産の安全を保持するため米軍に協力する。このため日本は必要な措置をとり、米軍の機密および財産の安全を害した者を処罰するための法令を制定する。
(所得税等の免除)米軍人、軍属の駐留に伴う給与には、日本の所得税は課せられない。またこれらのものが日本に滞在するためにもってきた動産にも日本の税は課せられない。ただしこれらのものが日本で営利事業によって得た収入には課税される。また米軍人、軍属、家族相互間の売買には、日本の税は課せられない。しかし米軍人、軍属、家族が行う日本市場への投資は課税される。(略)
(公共事業の利用)米軍は日本の電信、電話、水道、電気、鉄道、ガスなどの公共事業を日本政府が利用する場合よりも不利でない条件で利用することができる。
(刑事裁判権)
 (1)米軍人、軍属およびその家族のうち二十一歳未満の子が日本国内で犯したすべての犯罪は原則として米国が裁判する
 (2)米軍の施設および地域外で犯罪を犯したこれらの米国人は日本の官憲が逮捕し米国の官憲に引渡す
 (3)米軍の施設、地域で犯罪をした日本人は米国の官憲が逮捕し、日本の官憲に引渡し、日本が裁判する
 (4)日米両国はそれぞれ相手国の利害に関係ある事件を処理した場合には、その結果を相手国に通報する
 (5)米軍の施設、地域は米軍隊が警備する。この地域内では日本側は、米軍責任者の許可がない限り、逮捕したり、民刑事の令状を送達できない
 (6)地域外でも、米軍が部隊として行動している場合は、これに対する警察権は米国側が有する
 (7)米軍警察が、地域、施設外で行動することが必要な場合にはその行動は日本側との別段の取決に基くものでなければならない。その場合にも日本側警察と連絡の上行動する
 (8)両国は犯人の逮捕、捜査、証拠の収集、提出につき協力する
 (9)日本は北大西洋条約行政協定の発効するときまたは日米行政協定の発効後一年を経過したときに、北大西洋条約行政協定に準ずる方式か前記方式の何れかを選択する権利を留保する。
(米軍出動の条件)米軍を日米安全保障条約第一条に規定された目的のために使用するに当っては、必要に応じて、日米両国政府の間に協議が行われなければならない。
(合同委員会)
 (1権限=この委員会はこの行政協定の実施に当って日米間で協議を要する事項を取扱う。この委員会が取扱う事項には次のものが含まれる。(一)日米両国間にこの協定の解釈または適用について意見の相違があるとき、これについての決定(二)米軍が必要とする、土地建物で日本が提供するものの決定、画定および変更
 (2)機構=委員は日米各一名とするが、委員はそれぞれ何人かの委員代理を置くことができる。
(経費の負担)米国政府は、米軍が駐留している期間、日本政府が支払うつぎの項目の経費を除き、日本に駐留する米軍の経費を支払う
 (1)日本にある米軍施設、地域の土地、建物の賃貸料
 (2)米軍の輸送費、サーヴィス、光熱費など計一億五千五百万ドルとし、この金額については適当な期間を置いて定期的に同米両国政府の間で検討する。
(協定の廃棄)この協定は、日米安全保障条約が有効である間有効である。但し、同条約の有効期間中でも、この協定の廃止について両国が合意すれば廃棄される。

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