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エピソード

276_02

パール判事と日本無罪論(1)
 2007年8月14日、NHKは「パール判事は何を問いかけたのか 〜東京裁判・知られざる攻防」を放映しました。
 その後、中島岳志氏の『パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義』(2007年、白水社)を購入しました。
 両者に共通しているのは、「法によらないで、戦争に勝った国が負けた国を裁けることが戦争を生み出す。強い者の言いなりになる世界をつくっては、いつまでも平和は来ない」という信念で判決書を書いたということと、もう一つは「日本軍の残虐行為は無謀で卑劣であった」と激しく非難しているということです。
 あの田中正明氏の『パール判事の日本無罪論』(2001年、小学館文庫)は一体なんだったのか。
 田中正明氏は、上記の書物で、パール判事を「東京裁判において、ひとり敢然と全員の無罪を主張し、世界の注目を浴びた。彼の堂々たる正論と該博なる知識は、国際法学界にその名声を高めた」と崇拝し、尊敬もしています
 パール判事も、田中正明氏を、「私が一日でも顔をださないとご機嫌が悪かった。”お前は永久に私の子供だ”ともいわれた」「私はこのような博士の信頼に対し、いったい何をもって報いたらいいのか、責任の重さに空おそろしい感じさえ抱いた」(上記の書物)と書くほど、信頼をしていました。 
 安倍晋三首相のブレーンである八木秀次氏が田中正明氏を師匠といい、小林よしのり氏が上記の書に「推薦のことば」を寄せていても、私は田中氏の書物を信じていました。
 2005年6月25日、田中氏の書物を信じてか、靖国神社にパール博士の顕彰碑が建立されました。
 2007年8月23日、田中氏の書物を信じてか、インドを訪問中の安倍首相は、パール博士の長男ブロシャント=パール氏と会見しました。
 そこで、再度、東京裁判とパール判事を検証することにしました。
 1945(昭和20)年7月17日、ベルリン郊外のポツダムに、米英ソの3カ国の首脳が集まり、ポツダム会談が行われました。その結果、ポツダム宣言が発表することが決まりました。
 7月26日、ポツダム宣言13カ条が発表されました。主な内容は、次の通りです。
10条「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」(戦争犯罪人の処罰)
13条「全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ…保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス@右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
 7月28日、鈴木貫太郎首相は、記者団に対しAポツダム宣言黙殺・戦争邁進と談話しました。
 8月6日B広島に原子爆弾が投下されました。
 8月8日Cソ連が日本に宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に進攻を開始しました。
 8月9日D長崎に原子爆弾が投下されました。
 8月10日、御前会議は、国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定し、連合国に通告しました。
*解説(うーん、残念!!。@ポツダム宣言の完全なる壊滅を原爆投下・ソ連参戦と読めば、Aの黙殺・戦争邁進宣言はなかったはずです。そうするとBCDは防止出来たはずです。この読みを誤った指導者に対して、責任を取って欲しいと思うのは、常識ではないでしょうか)
 8月15日、日本は、無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表し、第2次世界大戦が終了しました。
 9月2日、日本全権の重光葵・梅津美治郎は、米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。その結果、天皇・日本政府の権限は、正式にGHQの支配下に入りました。
 9月11日、GHQは、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令しました。東条英機は、逮捕に出向いた連合国側の官憲の前でピストルを左腹部に撃ち込み自殺を図りましたが、未遂に終わりました。
 12月2日、GHQ、戦犯容疑で、元帥の梨本宮守正陸軍大将・元首相の平沼騏一郎・元外相の広田弘毅をはじめ皇族・陸海軍将校・政治家・財界人・記者ら59人の逮捕を命令しました。
 12月6日、GHQ、戦犯容疑で、「16日の午後12時までに」と期限を区切って、元首相の近衛文麿・前内大臣の木戸幸一・貴族院副議長の酒井忠正・前駐独大使の大島浩陸軍中将・前国務大臣の緒方竹虎・理研工業社長の大河内正敏ら9人の逮捕を命令しました。これで、逮捕を命じられた戦争責任者は合計で286人になりました。
 12月6日、キーナン首席検事が来日しました。
 12月16日、戦犯容疑者の中で最も重要な人である近衛文麿(55歳)は、自宅で青酸カリで服毒自殺しました。
 1946(昭和21)年1月19日、連合軍最高司令官のマッカーサーは、特別宣言により、「極東国際軍事裁判所条例」を承認し、戦争犯罪人(平和・人道に対する罪、戦時法規違反の罪)を審問・処罰のため裁判所の設置を命令しました。17条よりなり、主な内容は次の通りです。
 2条(裁判官)「本裁判所ハ降伏文書ノ署名国並ニ「インド」、「フイリツピン」国ニヨリ申出デラレタル人名中ヨリ連合国最高司令官ノ任命スル6名以上11名以内ノ裁判官ヲ以テ構成ス」
 16条(刑罰)「本裁判所ハ有罪ノ認定ヲ為シタル場合ニ於テハ、被告人ニ対シ死刑又ハ其ノ他本裁判所ガ正当ト認ムル刑罰ヲ課スル権限ヲ有ス」
 2月15日、連合軍最高司令官は、極東国際軍事裁判所の裁判官・裁判長を任命しました。判事は11カ国から1名ずつ任命され、オーストラリアのウェッブ判事が裁判長に選任されました。
 3月23日、極東国際軍事裁判所の法廷が東京の市ガ谷に完成しました。
 4月21日、マッカーサーが起訴状に署名しました。
 4月24日、極東国際軍事裁判日本弁護団が結成されました。団長には鵜沢総明、副団長には清瀬一郎が就任しました。
 4月25日、極東国際軍事裁判手続規定を公布しました。
 4月26日、極東国際軍事裁判所条例の一部改正を公布しました。
 4月29日、極東国際軍事裁判所は、東条英機ら28人のA級戦犯容疑者の起訴状を発表しました。
(1)根拠は、ポツダム宣言第10条の戦犯処罰規程
(2)訴因は、極東軍事裁判所条例により、「平和に対する罪」「殺人と通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」の3つに分類された55項目
(3)起訴は、11カ国の連合国
 5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷し、法廷成立手続・検事起訴状などが朗読されました。
 5月6日、清瀬一郎ら弁護人は、裁判所の構成・裁判官忌避・管轄権に対する動議を申し立てました。
 5月17日、パール判事が入廷しました。
 5月17日、裁判所は、弁護側の動議の全面的に却下しました。
 5月中旬、アメリカ人の弁護人コールマン海軍大佐以下21名が到着し、先陣組と合流しました。
 6月4日、検察側のキーナン首席検事は、「東京裁判が世界を破滅から救うための文明の闘争である」と前置きし、冒頭陳述を行い、立証を開始しました。
 6月27日、松岡洋右被告が病死しました。
 1947(昭和22)年1月5日、永野修身被告が病死しました。
 1月24日、検察側の立証が終了しました。
 1月27日、弁護側は公訴棄却の動議を申し立てました。
 2月3日、裁判所は、公訴棄却の動議を却下しました。
 2月24日、弁護側の清瀬一郎は、冒頭陳述で、「平和に対する罪」「人道に対する罪」へと拡大された戦争犯罪の概念が国際法上未確立である上、「日本に侵略する意図はなく、満州事変から太平洋戦争にいたる戦争はすべて自衛のための戦争」であると反論して、反証を開始しました。
 4月9日、大川周明被告は、精神鑑定の結果、裁判より除外されました。
 12月26日、東条英機が反証を開始しました。
 12月30日、東条英機に対する反対尋問が行われました。
 12月31日、キーナン首席検事が反対尋問を行いました。
 1948(昭和23)年1月7日、東条英機に関する証言が終了しました。
 1月12日、弁護側の補充立証が終了しました。
 1月13日、検察検察側の反駁立証が終了しました。
 1月13日、弁護側が再反駁立証を開始しました。
 2月10日、弁護側の再反駁立証が終了しました。
 2月11日、検察側の最終論告が開始されました。
 3月2日、検察側の最終論告が終了しました。
 3月2日、弁護側の最終弁論が開始されました。
 4月15日、弁護側の最終弁論が終了しました。
 4月15日、検察側は、弁護側最終弁論に対する回答を行いました。
 4月16日、検察側回答が終了し、東京裁判が結審しました。
 4月16日、裁判所は、判決文の起草に着手しました。
 11月4日、判決文の朗読が開始されました。
 11月12日、判決文の朗読が終了し、刑が宣告されました。開廷から924日して東京裁判が終了しました。
(1)11人の判事の内、少数意見を述べた裁判官がいます。
*ウエップ裁判長は、「どの日本人被告も、侵略戦争を遂行する謀議をしたこと、この戦争を計画及び準備したこと、開始したこと、または遂行したことについて、死刑を宣告されるべきでない」と主張しました。
*フランスのベルナール判事は、「天皇が免責された以上共犯たる被告を裁くこができるのか」と主張しました。
*インドのパル判事は、事後法による裁判を批判し、日本の「無罪」を主張しました。
(2)しかし、多数派は、起訴された28人中、裁判途中で死亡した松岡洋右・永野修身、病気免訴された大川周明を除く25人の被告人全員を有罪としました。
*有罪の理由は、55の訴因中10の訴因を認め、「満州事変から太平洋戦争にいたる日本の軍事行動を侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定しました。
*絞首刑は、東条英機元首相・板垣征四郎陸軍大将・土井原賢二陸軍大将・松井石根陸軍大将・木村兵太郎陸軍大将・武藤章陸軍中将・広田弘毅元首相の7人でした。
*終身禁固刑は、荒木貞夫・橋本欣五郎・畑俊六・平沼騏一郎・星野直樹・賀屋興宣・木戸幸一・小磯国昭・南次郎・岡敬純・大島浩・佐藤賢了・嶋田繁太郎・白鳥敏夫・鈴木貞一・梅津美治郎被告ら16人でした。
*禁固刑20年は東郷茂徳でした。
*禁固刑7年は重光葵でした。
 11月19日、各被告は、連合軍最高司令官マッカーサーにに対して、再審を申し立てました。
 11月22日、マッカーサーは、対日理事会・極東委員会に対して、判決の意見聴取を行いました。
 11月24日、マッカーサーは、再審を申し立て対して、「原判決の変更理由なし」との声明を出しました。
 11月29日、広田・土肥原・木戸・岡・嶋田・東郷・佐藤被告らは、アメリカ最高裁判所に対し再審訴願を申し立てました。
 12月16日、アメリカ最高裁判所は、訴願の聴取をおこないました。
 12月17日、アメリカ最高裁判所は、訴願の聴取を終了しました。
 12月20日、アメリカ最高裁判所は、6対1(棄権1、保留1)の多数決で、再審訴願を却下しました。
 12月23日、アメリカ第八軍は、巣鴨プリズンで、東条英機元首相ら7人の絞首刑を執行しました。
 12月24日、冷戦構造の激化により、準A級容疑者19人全員が釈放されました。その中には、岸信介・児玉誉士夫・笹川良一・後藤文夫・天羽英二・須磨弥吉郎らがいました。安倍晋三首相の外祖父がこの岸信介氏です。
 12月29日、極東国際軍事裁判所が閉鎖されました
10  1950(昭和25)年3月7日、連合軍最高司令官マッカーサーは、巣鴨拘禁中の戦争犯罪人に村し、仮釈放の恩典を付与しました。
 11月21日、重光葵元外相は、この恩典によリ、A級戦争犯罪人として、初めて仮釈放されました。
 1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ平和条約に調印して、日本は独立国となりました。
サンフランシスコ平和条約11条は、一部の人によって、東京裁判史観として批判されています。
第11条【戦争犯罪】
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
 1956(昭和31)年3月31日、佐藤佐藤賢了元軍務局長は、A級戦争犯罪人として、最後に仮釈放されました。
 1958(昭和33)年4月7日、東京裁判を行った連合国11カ国は、日本政府に対して、残りのA級戦犯受刑者10人(いずれも終身刑)の刑執行を免除する旨の通告をだしました。仮釈放でなく、完全に釈放されました。
 1978(昭和53)年10月17日、靖国神社は、A級戦犯で絞首刑になった7人をはじめ14人を「昭和の殉難者」として合祀しました。
 板垣征四郎梅津美治郎木村兵太郎小磯国昭白鳥敏夫土肥原賢二東郷茂徳東條英機永野修身平沼騏一郎広田弘毅松井石根松岡洋右武藤章の14人です(アイウエオ順)。(絞首刑)、(病死)
11  2006年7月20日、日本経済新聞は、富田メモを発表しました。そこには、昭和天皇の意志が表明されていました。
 「私は或る時に、A級が合祀され
 その上 松岡、白取までもが
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか
 易々と
 松平は平和に強い考えがあったと思うのに
 親の心子知らずと思っている
 だから私あれ以来参拝していない
 それが私の心だ」
12  ここに出てくる松岡とは、日独伊三国同盟を締結した当時の外務大臣で、巣鴨刑務所で病死した松岡洋右です。白鳥は、日独伊三国同盟を締結した当時のイタリア特命全権大使で、巣鴨刑務所で病死した白鳥敏夫です。
 筑波は、厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿です。
 松平は、終戦直後の最後の宮内相で、合祀に慎重な松平慶民です。
 松平の子の今の宮司とは、松平慶民の長男松平永芳のことです。松平永芳が14人を合祀したことに対して、昭和天皇は「(父の)松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている」と非難し、それが原因で昭和天皇は靖国神社に参拝されていません。それを「私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」と表現されています。
13  靖国神社は、以降の日本日本が関係した国内外の戦争において、朝廷側及び日本側で戦役に就き戦没・戦病死した軍人・軍属らを顕彰する目的でとして祀る神社です。
 この条件に入らない人は、有名人でも祀ることを拒否されています。
 新r組や西郷隆盛らは、朝廷側でなかったので、拒否されています。
 乃木希典・東郷平八郎らは、戦病死ではなかったので、拒否されています。
 これほど厳しい条件があるのに、A級戦犯14人が合祀されたことに、誰しも、「不自然だと思う」のが自然でしょう。
悪用されたパール判事の日本無罪論
 1949年、A級戦犯の松井石根氏の私設秘書である田中正明氏は、東京裁判の弁護人である清瀬一郎氏からパール判決書の内容を聞きました。
 1952年4月、田中正明氏は『日本無罪論-真理の裁き』(太平洋出版会)を刊行しました。
 1952年10月、パール判事が来日しました(田中正明氏の出版祝賀会も兼ねていました)。
 1963年、田中正明氏は『パール判事の日本無罪論』(彗文社)を刊行しました。
 1966年、『共同研究パル判決書』(東京裁判研究所)が刊行されました。
 新しい教科書を作る会の藤岡信勝氏が編集する『教科書が教えない歴史2』(産経新聞ニュースサービス発行)には「事後法の裁きに反対したパール判事」として、次のように紹介されています。
 「裁判では日本の戦時指導者たちを「平和に対する罪」などを定めた「裁判所条例」により、過去にさかのぼって裁きました。これは文明国では絶対にしてはならないことです。
 このためパールは東条英機元首相ら七人に死刑を宣告した判決に異議を唱え、別の意見書を提出しました。その中でパールは、この裁判が事後法 (事件の起こったあとに、それを裁くために作られた法律で、近代国家では基本的に禁じられている) による裁判で不当であること、裁判の目的が復讐心の満足と勝利者の権力の誇示にあること、勝者が敗者を罰することによって将来の戦争を防止し得ると考えるのは過信にすぎないと説きました」
 この指摘は正しいのですが、同時に、パール判事は、日本の侵略も道義的責任はある、平和憲法・世界連邦制も指摘しています。都合のいい方だけのつまみ食いは、「教科書が教えないほうがいい歴史」です。 
 次に、小林よしのり氏の『いわゆるA級戦犯』(幻冬舎)を紹介します。
 小林よしのり氏は、田中正明氏の「パール判事の日本無罪論」の話をすると、「”その呼び名はパール判事の真意を歪める”という声が必ず出てくる」「今も講談社学術文庫で入手できる『共同研究パル判決書』という序文に、いきなり”(従来の本は)日本無罪論の名がとかく一般国民に誤解を与えてパル判事の真意を伝えず”と書いてあるのだ!」。
 「この本には肝心のパール判決書全訳の前に、編者の日本人法学者たちによる解説が200ページもつけられている。そしてここで繰り返し”パール判決は日本の行為を正当化してはいない”と主張している」
 「確かにパール判決書には張作霖爆殺事件を”無謀でまた卑怯でもある”とか、満州事変を”たしかに非難すべきものであった”とする表現もある」
 しかし、小林氏は「それは日本の戦争を正当化しないものなのか?」「日本は無罪ではないのか?」と疑問を持ち、思考を一時停止します。しかし、パール判事の次のような表現を見つけて、自分の結論に結び付けていきます。
 「日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されていくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない」「彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない」
 そして、小林氏は「これこそがパール氏の真意である」「太平洋戦争は日本の責任ではない。あの判決文さえ読めば、欧米こそ侵略者だということがわかるはずだ。あの”遊就館”の展示とほとんど同じ主張だ」「明らかに日本は無罪だと言っている!」(215P)という結論に至ります。
*解説(小林氏は、この書により、田中正明氏の『パール判事の日本無罪論』と『共同研究パル判決書』を読んでいることが分ります。法的に素人の小林氏は、難解で専門的なパール判事の判決文をほとんど読まず、分りやすく書いた解説文を読んだということも分ります。田中正明氏の日本無罪論に推薦のことばを寄せている小林氏です。パル判決書そのものと日本無罪論を対比して、読み解くという根気が小林氏にはありません。最後には、自分の政治的信条と同じ文脈をつまみ食いして、自分の都合のいいように解釈します。こういう立場を歴史修正主義といいます)
 パール判事を尊敬している田中正明氏、パール判事から「お前は永久に私の子供だ」と信頼された田中正明氏、その彼が書いた「パール判事の日本無罪論」を、小林氏と同様、私は信じて疑いませんでした。
 しかし、NHKのTV「パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判・知られざる攻防〜」を見て衝撃を受け、中島岳志氏の『パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義』と『共同研究パル判決書(上・下)』を購入しました。
 現在、1952年発行の『日本無罪論−真理の裁き』は入手できないので、中島岳志氏の書物を通じて田中正明氏の欺瞞性を指摘します。
 GHQが出版を阻止する権利を失った一九五二年四月二八日、田中は満を持して『日本無罪論−真理の裁き』を出版した。
 田中が本書に付した解説文は、同人が一九六三年に出版した『パール博士の日本無罪論』(二〇〇一年に小学館文庫から復刊)よりもはるかに正確で、都合のよい解釈・省略が少ない。
(1)田中はこの解説文で、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」 の事後法的側面を指摘した上で、次のように述べている。
 この裁判とは別に、われわれは冷静に反省してみて、たしかに日本には侵略戦争の意図も実践もあつたと思う。しかしそれが日本の過去五十年間の全部ではない。(中略)ともあれパール判事は、半世紀おくれて日本が頭をもちあげた時には、司法先進国の旗にかこまれていたと述べ、日本は先進国の模倣をするのに半世紀後れた。そのために、アジアからも歓迎されず、また先進国からも叩かれたのである。という意味のことを論じている。
(2)「パール判事は、結論として、虚構橋事変以後の敵対行為を含めることが妥当であろうという見解をのべている」とし、パールが日中戦争以降を東京裁判の管轄とした点を正確に紹介している。しかし第三章でも言及したが、田中は一九六三年出版の『パール博士の日本無罪論』において、次のような改鼠を行っている。
 パール博士はこの点を指摘して、「本裁判所における管轄権は、一九四一年一二月七日以降、日本降伏までの間に起きた、いわゆる太平洋戦争中の戦争犯罪に対してのみ限定すべきである」と主張するのである。
(3)また、田中は南京虐殺に関するパールの記述も、概ね正確に紹介している。
  「よしんばこれらの事件が、検察側の主張どおりでないにしても、日本軍隊に虐殺行為のあったことは、まぎれもない事実である。」しかし「問題は、いまわれわれの目の前に居ならぶ被告に、かかる行為に関するどのていどの刑事的責任を負わせるか、ということである」と。
 パール判事によれば、それらの悪事を働いた直接の下手人は、この直属上官とともに連合国の裁判でさばかれ、おびただしい兵隊が断罪に服しているではないか、と。
 田中はのちに「南京虐殺はなかった」という説を繰り返し主張する。
*解説は田中正明氏が1952年に発行した『日本無罪論−真理の裁き』にある田中氏の解説です。は田中正明氏が1963年に発行した『パル判事の日本無罪論』にある田中氏の解説です。)
 もっと早く、田中氏のの欺瞞性が指摘されておれば、小林氏が推薦のことばを寄せることもなければ、新しい歴史教科書を作る会が間違った引用をすることもなかったでしょう。
 考えてみれば、田中氏も歴史学者ではありません。A級戦犯の松井石根氏の私設秘書です。小林よしのり氏も漫画家です。しかし、八木秀次氏は政治思想史などを専門とする学者です。
 安部晋三首相は、どういう経緯でパール判事の息子さんと会ったのでしょうか。
 中島岳志氏は、1975年生まれの32歳の北海道大学准教授です。
 逆に、私は、「今まで、歴史実証主義者は史料を恣意的に扱う人々の台頭に何をしてきたのか」、その怠慢も指摘しておきたい。彼らに、根拠とする第一次史料の提示を求めれば、すぐ墓穴を掘るはずです。
 2007年6月、遊就館の横に、パール博士の顕彰碑が建立されました。顕彰碑には次の様に刻まれています。
 「時が熱狂と偏見とを やわらげた暁には
また理性が虚構から その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろう
 ラダ・ビノード・パール
When times shall have softened passion and prejudice,when Reason shall have stripped the mask from misrepresentation,then justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places.
 Radha binod Pal」
 その説明書きには、下記のような南部利昭宮司の“頌”があります。
 「ラダ・ビノード・パール博士は、昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東國際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月の結審・判決に至るまで、他事一切を顧みることなく専心この裁判に関する厖大な史料の調査と分析に没頭されました。
 博士はこの裁判を担当した連合國十一箇国の裁判官の中で唯一人の國際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持ち主でありました。
 博士はこの通称『東京裁判』が、勝利におごる連合國の、今や無力となった敗戦國日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合國の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。
 その意見書の結語にある如く、大多数連合國の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の國際法学界に於ける定説と認められたのです。
 私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本國民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に傳へんとするものであります。
 平成十七年六月二十五日
 靖国神社宮司 南部利昭」
10  追記(2007年10月9日)
 この記事をアップしたのが、2007年9月14日です。
 最近(2007年10月5日)、正論11月号を購入しました。小林よしのり氏が「一体どちらが史料に恣意的か。薄らサヨク学者のご都合主義を斬る」と題して、中島岳志氏の『パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義』を批判しています。
 詳細は、別項に譲るとして、私に関する記事で4点を指摘しておきたいと思います。
(1)田中正明氏の1952年版『日本無罪論-真理の裁き』(太平洋出版会)の内容と1963年版『パール判事の日本無罪論』(彗文社)の内容に明らかに改竄が見られるという中島岳志氏の指摘に、小林よしのり氏は、「田中は歴史の専門家ではないために単純な史料の読み間違いなどのミスはある」と弁護します。
(2)パール博士の講演要旨は、毎日新聞には「伝統的に無抵抗主義を守って来たインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握るなら平和の大きく高いカベを世界の中に打ち建てることができると信じる」とあるが、田中正明氏の『平和の宣言』には「インドはふたたび武器をとる日本とは手を握れないが、平和主義にたたかう日本となら永久に握手することができる」とあり、小林よしのり氏は、平和主義を採用して、中島氏の「パール判事は護憲派だって?」と批判します。
 教科書では、『「新憲法は、主権在民・平和主義・基本的人権の尊重」の3原則を明らかにしている」として、平和主義の中味を憲法第9条では「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決するための手段としては、これを永久に放棄する」と規定しています。なんら平和主義を平和憲法としてもいいし、憲法9条と置き換えても本質的に問題はありません。字句の違いに救いを求めたい小林氏の気持ちは理解できますが…。
(3)小林氏は、パール判事の思想を「あの”遊就館”の展示とほとんど同じ主張だ」と納得しています。『いわゆるA級戦犯』は2006年6月に発売されています。しかし、岡崎久彦氏は、2006年8月、産経新聞の『正論』で「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と題して、「この安っぽい歴史観は靖国の尊厳を傷つけるものである。私は真剣である」として、訂正を迫っています。
(4)どうして、産経新聞は、中島岳志氏の『パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義』を批判するのに、小林氏のような論客を使用するのでしょうか。私のような者が見ても、格が違いすぎます。
 まっとうな議論が出来る保守の論陣は払底しているのでしょうか。
11  追々記(2008年1月9日)
 朝日新聞の論壇時評で、中島岳志氏の『パール判事』を巡って、政治学者の杉田敦氏は次のように書いています。
 最近では、中島岳志の『パール判事』(白水社)をきっかけに、戦争責任論が改めて争点になっている。東京裁判でのインドのパール判事の少数意見は、事後法の禁止など法律的見地からの「日本無罪論」であり、日本の戦争を正当化したという保守論壇的な見方は誤りだと中島は主張した。これに対し中村圭は、中島の資料操作は恣意的であるし、右派のパール論だけを問題にし、左派のパール批判の一面性を見ていないとした(3)。戦争肯定論の文脈でパール判決を不当に用いたと中島に言われた小林よしのりは、「サピオ」での連載等で中島批判を強めている。
 そうした中、西部邁は両陣営に割って入り、小林は戦争肯定論についてはパールに依拠せず、「独自の見解として
展開」しているので、中島の批判は見当はずれだとする(4)。中島がパールを9条護憲論に結びつけたことにも、資料上の根拠がないと述べる。その一方で、保守派が戦争肯定の文脈でパールに言及する「瑕疵」は中島の指摘通りだと言う。
 戦争責任については、西部は「ジャングルめいた世界環境にあって、日本国家が西洋に伍して帝国主義の牙を研
いだのは、不可避」であるばかりか部分的に肯定されうるが、中国・朝鮮に対しては侵略の要素が大きかったと認める。ここに竹内と似た「二重構造」論があると言えよう。興味深いのは、西部がパールを徹底した「法律至上主義者」、「近代主義者」と呼ぶ一方、反「近代主義」的ガンジー主義者ともしていることである。パールもまた、西洋を高度に内面化しつつ、それに反撥するという、超克派的な側面をもっていたのだろうか。
(3)牛村圭「中島岳志著『パール判事』には看過できない矛盾がある」 (諸君!1月号)
(4)西部邁「パール判事は保守派の友たりえない」(正論1月号)
(2007年12月26日付け朝日新聞)。
 尚、「正論」1月号の西部氏の記事に対して、「正論」2月号で小林よしのり氏が反論を書いています。いずれ紹介したいと思います。

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