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エピソード

277_01

保守政権と国連加盟T(血のメーデー事件、破壊活動防止法、バカヤロー解散)
 ここでは、1952(昭和27)年〜1953(昭和28)年までの国内政治を扱います。
 日本が独立して、アメリカの世界戦略の一環に組み込まれていく時代です。
 私は、吉田茂元首相の国葬の時に、100人の職員の内、反対の意見表明をした2人の1人です。後で同僚から「休みたくないのか」と揶揄されましたが、吉田首相も功績は認めつつ、意に反して、国連軍構想から一歩一歩後退する道を選択した責任は重いと感じたからです。
 再び、大きな戦争を起こりそうな危惧を持つのは私だけでしょうか。その後の国連軍構築では、余りにも悲劇です。
 1952(昭和27)年1月18日、韓国政府は、海洋主権を主張し、李承晩ラインを設定しました。
 2月8日、国民民主党は、松村謙三らの新政クラブと農民協同党の一部と合同して、改進党を結成しました。三木武夫が民主党から引き続いて幹事長に就任しました。
 2月9日、吉田内閣は、追放解除を決め、宇垣一成有田八郎ら138人の名簿を発表しました。
 2月28日、日米行政協定が調印されました。その内容は、以下の通りです。
(1)米軍駐留の条件を規定
(2)刑事裁判権は属人主義とする。属人主義とは、その人が現在どこにいるかにかかわらず、その人の国籍のある国家の法律に従うべきであるという考え方です。その対語が属地主義といいます。
(3)日米安全保障条約に基づくとして国会承認の手続きをふまず
 3月6日、吉田首相は、参議院で「自衛のため戦力は違憲ではない」と答弁しました。
 3月10日、吉田首相は、野党の猛反発で、「自衛のため戦力は違憲ではない」を訂正しました。
 3月26日、衆議院は、「行政協定は国会の承認を要する」との決議案を否決しました。
 3月29日、武装警官100人は、共産党の工作隊23人を検挙しました。
 4月28日、対日講和条約・日米安保条約が発効しました。連合軍の占領が終結しましたが、日米安保条約によって、米軍は、引き続き、日本に駐留することになりました。
 4月28日、GHQ・対日理事会・極東委員会が廃止されました。
 4月28日、その結果、岸信介ら5700人が自動的に追放を解除されました。
 4月28日、日華平和条約が調印されました。日本は「二つの中国」の一方を承認したことになります。
 4月28日、日華平和条約が調印されました。
 5月1日、独立後初の中央メーデーで、使用不可の皇居前広場に入ったデモ隊6000人は、警官隊5000人と衝突しました。これを血のメーデー事件といいます。
 6月9日、日印平和条約が調印されました。
 6月13日、追放解除された重光葵が改進党総裁に就任しました。
 6月24日、吹田市でデモ隊が警官隊と衝突して60人が逮捕されました。これを吹田事件といいます。
 7月1日、自由党議員総会で、吉田首相の側近である福永健司を1年生議員でありながら幹事長に推薦しました。しかし、反対派は激しく抵抗して、吉田は窓に押し付けられて身動きできなくなりました。
 7月4日、衆議院は、参議院修正通り破壊活動防止法案を可決しました。
 7月7日、名古屋で、デモ隊と警官隊が火炎瓶とピストルで衝突し、121人を検挙しました。これを大須事件といいます。
 7月14日、警察予備隊は、幹部増強のため旧軍人の大佐ら236人を採用しました。
 7月30日、鳩山系議員の大野伴睦や吉田反乱部隊の石田博英らの働きかけで、福永健司は、幹事長指名を辞退し、党人御三家の1人である林譲治が幹事長に就任しました。党人事の主導権を鳩山不在の鳩山系が握りました。その結果、自由党内での対立が深刻化しました。
 7月、平野力三は、党勢がふるわず、農民協同党と合同して、協同党に発展的解消しました。
 7月31日、保安庁法が公布され、保安庁を設置し、警察予備隊を保安隊に編成替え、海上に海上警備隊を新設しました。保安隊は、「わが国の平和と秩序を維持し、人命及び財産を保護するため、特別の必要ある場合に行動する」となっています。警察予備隊と違い、特別の必要に対応して、装備も規律も訓練も定められ、後の自衛隊に改組される性格を持っていました。
 8月4日、吉田首相は、保安庁長官として保安庁幹部に「新国軍の土台たれ」と訓示しました。
 8月22日、A級戦犯の元首相である平沼騏一郎が服役中に死去しました。
 8月28日、吉田派内では、党人派の廣川弘禅と官僚派の増田甲子七との対立も激化していました。
 吉田総裁は、反主流派の気勢を制するため松野鶴平の示唆で「抜き打ち解散」を断行しました。
 9月18日、日本の国際連合加入申請が、ソ連の拒否権で否決されました。
 9月21日、石川県内灘村緊急拡大村議会は、米軍の試射場接収反対を決議しました。これを内灘闘争の始まりといいます。
 9月29日、自由党の吉田茂総裁は、選挙活動で、反吉田演説をしているとして、石橋湛山・河野一郎を除名しました。
 10月1日、@第25回総選挙が行われ、自由党240人、改進党85人、右派社会党57人、左派社会党54人が当選し、共産党は全員落選でした。自由党は第1党になりましたが、ぎりぎりの過半数でした。再起不能と言われ、悲劇の宰相候補と言われた鳩山一郎が当選して、政界に復帰しました。鳩山派の動向次第で政局は不安定なものとなりました。
 10月6日、通産省は従来の取締り方針を改め、兵器産業を保護・育成する基本方針を決定しました。
 10月13日、平野力三らの協同党が解党しました。
 10月15日、保安隊4000人が都内を行進しました。
 10月23日、鳩山一郎は、吉田茂首相と会談し、約束どおり、政権移譲を求めましたが、拒否されました。そこで、三木武吉・河野一郎らと共に対決姿勢を強めることになりました。また、占領政治・吉田時代からの脱却を唱えて、石田博英ら自由党内の反吉田派とも連携しました。 
 10月24日、安藤正純・三木武吉ら自由党鳩山派強硬分子は、民主化同盟を結成し、委員長に安藤正純が就任しました。これを民同派といいます。
 10月30日、@50第四次吉田茂内閣が誕生しました。法相に犬養健、通産相に池田勇人、運輸省に石井光次郎、建設相に佐藤栄作、官房長官に緒方竹虎らが就任しました。吉田茂は、鳩山派を抱き込み党内民主化等の要求を受け入れ、追放解除組の緒方竹虎を起用して、体制の安定化を図りました。しかし、
 11月4日、米大統領選挙で、共和党のアイゼンハワーが当選しました。
 11月27日、池田勇人通産相は、衆院で「中小企業の倒産・自殺もやむをえない」と発言しました。
 11月28日、池田通産相の不信任案が提出されると、鳩山一郎らの民同派は、欠席戦術を採用しました。その結果、不信任案が可決されました。
 11月29日、池田勇人通産相が引責辞任しました。
 12月5日、農相の小笠原三九郎が辞任し、後任に吉田系のベテラン議員である広川弘禅が就任しました。広川弘禅は、吉田茂が追放解除の緒方竹虎を吉田のの後継として重用したことに反発し、吉田茂と距離を置くようになりました。
 12月13日、自由党の鳩山一郎らの民同派は、補正予算の野党修正案に同調を決定しました。
 12月15日、補正予算の採決を前に、民同派は、石橋湛山・河野一郎除名の取り消しと林譲治幹事長の更迭を要求しました。そこで、状況を打開するため、吉田側近と民同派7人が会談します。
 12月16日、この会談を受け入れた官房長官の緒方竹虎は、吉田茂首相に鳩山一郎らとの和解を進言し、吉田もこれを受け入れました。その結果、石橋湛山・河野一郎の除名を取り消し、総務会長に三木武吉が就任しました。三木は、反吉田の廣川弘禅をも引き入れました。
 1953(昭和28)年1月6日、韓国の李承晩大統領は、吉田茂首相と会談し、日韓交渉再開につき意見が一致しました。
 1月10日、ベトナム・ラオス・カンボジアの3国は、対日国交回復を通告しました。
 1月17日、吉田内閣は、閣議で、軍人恩給の復活800億円えお決定しました。
 1月19日、自由党の林譲治幹事長は、辞表を提出しました。後任をめぐり党内対立が激化しました。
 1月24日、自由党の吉田茂総裁は、後任幹事長に佐藤栄作、総務会長に益谷秀次留任を内定しました。
 1月25日、自由党大会は、広川弘禅派・民主化同盟派が佐藤幹事長案に反対のため役員指名を延期しました。
 1月30日、幹事長に佐藤栄作が就任しました。
 2月3日、総務会長に三木武吉が就任して、自由党の対立が妥協しました。
 2月28日、吉田首相、衆院予算委で質問中の右派社会党の西村栄一に「バカヤロー」と暴言を吐きました。
 3月2日、衆議院は、前代未聞の吉田内閣総理大臣懲罰動議を可決しました。自由党民同派が賛成し、広川弘禅農相が欠席したために、成立しました。
 3月2日、吉田首相は、怒って、広川弘禅農相を罷免しました。
 3月14日、河野一郎・石橋湛山を加えた自由党民同派議員22人は、院内団体分党派自由党結成を届け出ました。代表者に三木武吉が就任しました。
 3月14日、衆議院は、野党3派提出の吉田内閣不信任案可決を可決しました。院内団体分党派自由党22人が賛成したので、賛成賛成229人、反対218人となり、成立しました。
 3月14日、吉田茂首相は、衆議院を解散しました。これをバカヤロー解散といいます。
 3月16日、自由党広川弘禅派は、分党を届け出て、分党派自由党に合流しました。
 3月18日、分党派自由党総会は、総裁に鳩山一郎を推挙しました。鳩山総裁は、自由党に分党届けを提出しました。
 3月18日、岸信介が自由党に入党しました。
 3月23日、日本工業倶楽部と経済団体連合会など財界4団体首脳の合同会議は、総選挙に関し保守政党全体と右派社会党を支援の方針につき意見が一致しました。
 4月2日、日米友好通商航海条約が調印されました。
 4月3日、沖縄の米民政府は、土地収用令を公布しました。その内容は、所有者の許可なく米軍による土地収用を可能にするというものです。その結果、武装米兵が出動して、軍用の土地を強制収用することが続発しました。
 4月8日、最高裁判所は、政令201号につき、「公共の福祉による公務員の争議権制限は違憲ではない」「勅令542号(ポツダム緊急勅令)は憲法外において法的効力を有する」と判決しました。
 4月15日、第2次日韓会談が開かれ、請求権・漁業問題では対立のまま、7月23日まで自然休会となりました。
 4月19日、@26衆議院議員総選挙が行われ、自由党199人、改進党76人、左派社会党72人、右派社会党66人、分党派自由党35人、労農党1人、共産党1人、無所属・諸派12人で、自由党が第1党を確保しましたが、過半数を割りました。社会党では、左派社会党が躍進して、右派社会党を上回りました。自由党の吉田茂は、改進党の重光葵と会談し、連立を模索しましたが、失敗に終わりました。
 4月24日、第3回参議院議員選挙が行われ、自由党46人、左派社会党18人、緑風会16人、右派社会党10人、改進党8人、無所属・諸派30人で、分党派自由党は全滅しました。
 5月21日、第5次吉田茂内閣が誕生しました。首相指名の決選投票で、社会党が改進党の重光葵に投票しなかったために、吉田茂単独少数内閣が成立しました。法相に犬養健、農相に内田信也、運輸相に石井光次郎、労働相に小坂善太郎、防衛庁長官に木村篤太郎、国家公安委員長に小坂善太郎、官房長官に福永健司らが就任しました。
 5月22日、石川県議会は、全員協議会で内灘米軍試射場無期限使用絶対反対を声明しました。県議会を先頭に全県一致で反対運動を推進しました。
10  6月2日、吉田内閣は、閣議で、石川県内灘試射場を無期限使用と決定しました。
 6月9日、保安庁長官の木村篤太郎は、記者団に、警備5カ年計画につき、1957年度に保安隊20万人、艦船14万トン、航空機1350機の実現をめざす長期防衛計画を発言し、問題化しました。
 6月18日、自治庁は、学生の選挙権は原則として郷里に置く旨を地方選挙管理委員会に通達しました。学生の選挙権を守る運動が激化しました。その後、最高裁判所は「学生の選挙権は修学地にある」と判決し、自治労は先の通達を撤回しました。
 6月26日、吉田内閣は、対日MSA援助に関する日米交換公文を発表しました。MSAとは、アメリカの国内法である相互安全保障法のことです。
 7月14日、外務省は、竹島は日本領と発表しました。
 7月15日、MSA(相互防衛援助)日米交渉が開始されました。これはMSAにもとづき、日米相互防衛援助協定を締結しようとするものです。その内容は、アメリカの軍事・経済援助を受ける代わりに、日本の防衛力を漸増することを約束するものです。日米安保条約を相互化・強化という問題をはらんでおり、9月30日に交渉は中断しました。
 7月30日、吉田首相と芦田元首相は、衆議院予算委員会で、保安隊の自衛軍化をめぐり論争を展開しました。
 7月31日、衆議院本会議は、会期延長をめぐり議場が大混乱しました。
11  8月7日、電気事業・石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律が成立しました。これをスト規制法といいます。
 9月1日、町村合併促進法が公布されましたその結果、標準人口80000人以上・9895市町村が3975に減少しました。
 9月27日、自由党の吉田茂総裁と改進党の重光葵総裁が会談し、軽部総論を主張していた吉田茂は、保安隊の自衛隊切替え・長期防衛計画に同意しました。重光葵は、吉田後継を期待するようになりました。
 9月29日、日米行政協定改定が調印され、北大西洋条約行政協定に准じて米軍人・軍属の公務外の犯罪を日本側裁判権に切替えられました。
 10月2日、自由党の池田勇人政務調査会長は、吉田首相の特使として、ワシントンに行き、日本の再軍備・対日MSA援助につき、ロバートノン国務次官補と会談しました。これを池田・ロバートソン会談といいます。この時、アメリカは、日本に35万人の軍隊設立を要求したといいます。
 10月6日、第3次日韓会談が再開されました。
 10月14日、共産党の徳田球一書記長(59歳)が北京で客死しました。
 10月15日、第3次日韓会談で、日本代表の久保田貿一郎が「日本の朝鮮統治は朝鮮に恩恵を与えた」と発言し、激しい応酬がありました
 10月21日、第3次日韓会談は、決裂しました。
 10月30日、池田・ロバートソン会談が終了し、18万人の陸上部隊創設で合意し、日本は愛国心の育成など自衛力増強の制約を取除く努力を約束しました。
12  11月15日、アメリカのニクソン副大統領が来日しました。
 11月17日、自由党の吉田茂総裁は、分党派自由党の鳩山一郎総裁と会談し、自由党に憲法調査会を設置することを条件に、分党派自由党の自由党復党を認めました。
 11月19日、来日中のニクソン副大統領は、日米協会で、「憲法9条は米の誤りであった」「保安隊を増強し、それへの援助は惜しまない」と演説しました。
 11月29日、分党派自由党を解体し、鳩山一郎ら23人が自由党に復党しました。後援者のブリジストンタイヤ会長の石橋正二郎らの勧告でした。
 11月29日、三木武吉・河野一郎・松田竹千代・松永東・中村梅吉・山村新治郎・池田正之輔・安藤覚の残留派8人は、復党を拒否して、日本自由党を結成しました。彼らは8人の侍とよばれました。
 12月7日、アメリカの空軍長官は、「日本之空軍再建を計画」と演説しました。
 12月9日、国連総会は、日本の国際司法裁判所への加盟申請を全会一致で承認しました。
 12月21日、アメリカのロバートソン国務次官補・ラドフォード統合参謀本部議長が来日しました。
 12月23日、吉田首相は、ロバートソン国務次官補と会談し、防衛問題などを検討しました。
 12月23日、最高裁判所は、「皇居前広場のメーデー使用に関する厚生大臣の不許可処分は、意見でない」との見解を表明しました。
 12月24日、奄美群島返還の日米協定が調印されました。
 12月24日、アメリカのダレス国務長官は、「沖縄・小笠原両島の管轄権は、当分保有する」と言明しました。
 12月25日、奄美群島返還の日米協定が公布・発効されて、奄美群島は、日本に返還されました。その後、アイゼンハワー大統領は、一般教書で「沖縄基地は無期限に保持する」表明しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
バカヤロー解散、血のメーデー事件、破壊活動防止法
 1953年2月28日、衆議院予算委員会で、右派社会党の西村栄一は、「首相は国際情勢を極めて楽観しているようですが、どのような根拠にもとづいてのことなのでしょうか」と質問しました。それに対して、吉田茂首相は、「アメリカのアイゼンハワー大統領もイギリスのチャーチル首相も同様の見解を持っています」と答えました。西村は「私は欧米の政治家の意見を聞いているのではない。日本国首相として答弁されたい」と再度問うと、吉田首相は「私は日本国総理大臣として答弁したのである」と少し興奮して答えました。
 そこで、西村は、「首相は興奮せずに答弁されたい」と挑発しました。挑発に乗った吉田首相は「無礼なことを言うな」と言ってしまいました。すかさず、西村は「何が無礼だ」とやり返しました。冷静さを失った吉田首相は「無礼じゃないか」と喧嘩を買いました。調子に乗った西村は、「質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか」と詰問すると、吉田首相は「バカヤロー!」と言ってしまいました。
 この結果、総理大臣に対する懲罰動議が可決されました。さらに吉田内閣不信任案が可決され、吉田首相を衆議院を解散し、総選挙に突入します。これをバカヤロー解散といいます。
 日本が独立後はじめて第23回メーデーが行われました。これが血のメーデー事件といわれたのは、次のような事実がありました。
 1946(昭和21)年5月1日、国民に解放された皇居前広場で、戦後最初のメーデーが行われました。当時、ここは人民広場と呼ばれていました。
 1950(昭和25)年5月30日、皇居前広場で行われた人民決起大会で、デモ隊と米軍兵士と衝突しました。その結果、GHQは皇居前広場の使用を禁止しました。
 1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本は主権を回復し、独立しました。
 1952(昭和27)年3月13日、メーデー実行委員会は、「GHQの出した皇居前広場の使用禁止は無効である」として、皇居前広場の使用を要求しました。
 しかし、GHQに代わって皇居前広場を管理している厚生省は、例年通り、皇居前広場の使用を禁止しました。
 4月4日、そこで、メーデー実行委員会は、古武恵市厚相に対して、「使用禁止は憲法違反である」として取消しを求める訴訟を、東京地裁に、起こしました。
 4月28日、東京地裁は、「皇居前広場の使用禁止は言論、表現の自由を保障した憲法21条に違反する」として使用不許可処分を取り消す判決を下しました。
 4月28日、吉田内閣は、ただちに控訴しました。
 4月29日、やむなく、メーデー実行委員会は、中央大会会場を明治神宮外苑広場に移しました。
 5月1日、15万人の労働者・学生が参加して、メーデーが行われましたました。
 5月1日12時、8万人が5つのコースに分かれて都内をデモ行進しました。
(1)中部コース第1群3000人は、解散予定地の日比谷公園を通り過ぎ、GHQがある第一生命ビル前で「ヤンキーゴーホーム」などと叫びながら投石しました。その勢いで、集会が禁止されている皇居前広場に向かい、二重橋前で警官隊と衝突しました。警官隊は、放水や催涙ガスでデモ隊を阻止しました。これを第1次衝突といいます。
(2)中部コース第2群1000人は、祝田橋を経由して、第1群と合流しました。
(1)南コース第1群7000人は、皇居前広場近くに来ていました。
 5月1日14時、デモ隊は、二重橋付近で、休憩しました。
 5月1日15時30分、警視庁は、デモ隊に対して、騒乱罪を発動し、警官隊はデモ隊に突撃しました。警官はピストルを空に向って発射し、警防で殴りかかりました。デモ隊はプラカードや旗ざおで抵抗しました。これを第2次衝突といいます。この時、23歳の男子が警官のピストルで即死、23歳の学生が重体となりました(5日後に死亡)。
 5月1日、警視庁は、デモ隊の1232人を逮捕しました。検察庁は、騒乱罪・公務執行妨害罪・傷害罪などで261人を起訴しました。
 1953(昭和28)年2月4日、東京地裁で初公判が開かれました。起訴された261人中求刑は214人でした。騒擾指揮した21人は懲役5年〜懲役2年、騒擾率先助勢した177人は懲役3年〜懲役6カ月、騒擾付和随行した15人は罰金2500円、暴力行為を為した1人は懲役4カ月がそれぞれ求刑されました。
 1970(昭和45)年1月28日、1820回の公判が結審し、東京地裁は、前半に警官隊の違法を認め、公判にデモ隊の騒擾罪を認める判決を下しました。その結果110人が無罪、93人が有罪となりました。その内容は、騒擾指揮した7人は懲役7年〜懲役2年で執行猶予、騒擾率先助勢した68人は懲役1年半〜懲役5カ月で執行猶予、その他18人は罰金刑でした。第1次衝突は罪が構成されないとして、110人が無罪となりました。起訴の数と判決を受けた人数が違うのは、判決までに死亡した被告がいたためです。
 1972(昭和47)年11月21日、控訴審で、東京高裁は、「騒乱の共同意思が成立していたとは認められない」として騒擾罪については全面不成立と認定し、84人に無罪を言い渡しました。残る16人についても、騒擾罪以外の罪を認め、有罪判決をくだしました。原告・被告双方が上告を断念し、20年と7カ月かかった裁判も終結しました。
 長期裁判で、騒擾罪は認められませんでしたが、破壊活動防止法は成立しました。
 作家の高見順は、この時の様子を『中央公論』に掲載しています。
 「私の見たそのときの行進は、いはばおだやかなものであった。だが、舗道に立って、警官の列のうしろから見てゐるうちに、武装警官を満載したトラックが、行進とすれすれに威嚇的に通って行った。すると、それに刺戟されてか、急に歌声が行進から高くおこり、そこに対立がはっきりときはだった。その対立は私に、私がどちらにも属してない孤立的な存在であることを妙にしみじみと感じさせた。そんな私は、対立がもしも激化した際は、対立の間に挟まってまっさきに踏み潰されるのではないかと思ったりした。そんな実感とともに、勤労大衆を敵視する拙劣な政治といふものが実感された。…翌日の新聞は、暴徒化したデモ隊が警官を襲ってゐる写真だけをかかげてゐた。あわただしい執筆のため、意をつくせないが、とにかく私にとって、この目撃は非常なショックであった」
 血のメーデー事件のあとの、破壊活動防止法が7月4日に成立しました。 
「(この法律の目的)
第一条 この法律は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もつて、公共の安全の確保に寄与することを目的とする。
(規制の基準)
第三条 (1)この法律による規制及び規制のための調査は、第一条に規定する目的を達成するために必要な最小限度においてのみ行うべきであつて、いやしくも権限を逸脱して、思想、信教、集会、結社、表現及び学問の自由並びに勤労者の団結し、及び団体行動をする権利その他日本国憲法の保障する国民の自由と権利を、不当に制限するようなことがあつてはならない。
(2)この法律による規制及び規制のための調査については、いやしくもこれを濫用し、労働組合その他の団体の正当な活動を制限し、又はこれに介入するようなことがあつてはならない。
(団体活動の制限)
第五条 公安審査委員会は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対して、当該団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるときは、左に掲げる処分を行うことができる。但し、その処分は、そのおそれを除去するために必要且つ相当な限度をこえてはならない。
一 当該暴力主義的破壊活動が集団示威運動、集団行進又は公開の集会において行われたものである場合においては、六月をこえない期間及び地域を定めて、それぞれ、集団示威運動、集団行進又は公開の集会を行うことを禁止すること。
二 当該暴力主義的破壊活動が機関誌紙(団体がその目的、主義、方針等を主張し、通報し、又は宣伝するために継続的に刊行する出版物をいう。)によつて行われたものである場合においては、六月をこえない期間を定めて、当該機関誌紙を続けて印刷し、又は頒布することを禁止すること。
三 六月をこえない期間を定めて、当該暴力主義的破壊活動に関与した特定の役職員(代表者、主幹者その他名称のいかんを問わず当該団体の事務に従事する者をいう。以下同じ。)又は構成員に当該団体のためにする行為をさせることを禁止すること」
 破壊活動防止法、略して破防法は、上記にあるように「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対する必要な規制措置」を定め、「暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定」する治安立法です。
 具体的には、どの団体を指しているのかというと、日本共産党を想定しています。その目的は、「日本共産党による政府や国家転覆を図った革命を防ぐ」ことでした。実際に、戦後の世情は、革命前夜を想像させる労働運動が盛り上がっていました。
 血のメーデー事件を使って、破防法を成立させた過程が理解できます。
 しかし、現実に適用されたのは、1961(昭和36)年のクーデター未遂事件である三無事件が最初です。最近(1995年。今から10年も経過しているので、最近とは言えませんが・・・)、地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教に対して、破防法を適用するか否かの議論があり、関心を持つきっかけになりました。結局、公安調査庁は処分請求をしましたが、公安審査委員会は「破防法の要件を満たさない」と判断し、破防法の適用は見送られました。

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