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エピソード

278_01

保守政権と国連加盟U(造船疑獄、MSA協定、鳩山内閣)
 ここでは、1954(昭和29)年の国内問題を扱います。
 1953(昭和28)年5月21日、第5次吉田茂内閣が誕生しました。
 1954(昭和29)年1月14日、保守3党防衛折衝で、自由党防衛5カ年計画を提示しました。
 1月15日、憲法擁護国民連合発会式があり、議長に片山哲を選出しました。
 2月1日、保守3党は、自衛隊などの設置要綱につき意見が一致しました。
 2月1日、右派社会党の平野力三は、衆議院行政監察特別委員会で、保全経済会の政治基金につき、受領者の名をあげて証言しました。
 2月15日、吉田内閣は、改正警察法案を国会に提出しました。
 2月22日、吉田内閣は、教育の政治的中立確保に関する法案及び教育公務員特例法改正案を国会に提出しました。これを教育2法といいます。これによって、教員の平和教育禁止・政治活動を制限しようというものです。小学校長会・日教組などが反対しました。
 2月23日、衆議院は、汚職容疑で、自由党の有田二郎の逮捕許諾請求を期限付きで許諾しました。海運業から自由党などへの贈収賄事件が発覚しました。つづいて衆参両院で4議員の逮捕を許諾しました。これを造船疑獄の発端といいます。
 3月1日、マグロ漁船第5福竜丸は、ビキニのアメリカ水爆実験で被災しました。
 3月8日、吉田内閣は、防衛庁設置法案・自衛隊法案を決定しました。
 3月8日、米国と相互防衛援助協定に調印しました。これをMSA協定といいます。同時に、余剰農産物購入協定・経済的措置協定・投資保証協定に調印しました。MSAとはMutual Security Actのことで、直訳すると相互安全保障法となります。
 3月11日、吉田内閣は、防衛庁設置法案・自衛隊法案を国会に提出しました。
 3月12日、自由党憲法調査会は、首相官邸で発会式を行いました。会長に岸信介が就任しました。
 3月14日、第5福竜丸は、静岡県焼津に帰港しました。
 3月14日、第2回琉球立法院選挙が行われ、その結果、社会大衆党12人、民主党12人、人民党12人、無所属3人が当選しました。
 3月17日、沖縄の米民政府は、地代の一括払いにより、米軍用地に永代借知権を設定する構想を発表しました。問題点は、アメリカ側が評価した地価相当額で買い上げるとことです。
 3月25日、外相の岡崎勝男は、衆議院で、「米国の核実験阻止は日本としてしべきではない」と答弁しました。
 3月28日、副総理の緒方竹虎は、保守合同構想を発表しました。
 4月7日、改進党の憲法調査会は、第1回総会を開催し、会長に清瀬一郎が就任しました。
 4月21日、法相の犬養健は、検事総長に対して、指揮権を発動し、自由党の佐藤栄作幹事長の逮捕許諾を請求しないように」と指示しました。
 4月22日、法相の犬養健が辞任しました。
 4月22日、全日本労働組合会議が結成されました。これを全労会議といい、穏健な経済闘争を重視しました。
 4月23日、参議院は、犬養健法相の指揮権発動に関して、内閣に警告する決議案を可決しました。
 4月24日、衆議院は、吉田内閣不信任決議案を賛成208人、反対228人で、否決しました。
 4月30日、琉球立法院は、軍用地処理に関する請願を決議し、(1)地代一括払い反対(2)適正補償(3)適正賠償(4)新規接収反対の土地を守る4原則を主張しました。
 5月4日、ガリオア・エロア返済問題の交渉開始について日米共同声明を発表しました。
 5月7日、衆議院は、防衛庁設置法案・自衛隊法案を可決しました。
 5月14日、MSA協定に基づいて、米国と艦艇貸与に関する協定に調印しました。
 5月15日、地方財政平衡交付金法改正を公布しました。その結果、平衡交付金を地方交付税と改めて、公布税率を定めました。これは、国によって算定され国による地方自治体への介入の財政的手段となりました。
 5月28日、自由党・改進党・日本自由党の保守3党は、新党結成問題で交渉委員会設置を決定しました。
 5月29日、交渉委員会第1回会合で、政策で一致し、新党総裁問題で難航しました。
 5月29日、教育2法が修正して可決され、6月月3日に公布されました。
 6月月2日、参議院は、自衛隊の海外出動を行わないことを確認する決議案を可決しました。
 6月月3日、衆議院は、2日間の会期延長をめぐり大混乱しました。堤康次郎議長の要請により、警官隊200人が初めて院内に出動しました。
 6月月4日、左右の社会党は、会期延長は無効と共同声明を出しました。以後、両派社会党・日本自由党・労農党・共産党は、衆議院には出席しませんでした。
 6月月5日、衆議院は、両派社会党・日本自由党・労農党・共産党の欠席のまま、10日間の会期延長を議決しました。
 6月月8日、経団連・日経連など経済4団体は、連名で国会の紛糾収拾に努力せよと声明しました。
 6月月8日、改正警察法が公布され、国家地方警察と自治体警察を都道府県警察に一元化し、警察力の中央集権化を強化しました。
 6月月9日、防衛庁設置法・自衛隊法を公布し、保安隊を改組し、陸軍・海軍・空軍の3軍方式に拡大して、戦後初めて外敵への防衛任務を規定しました。
 6月月9日、MSA協定等に伴う秘密保護法を公布し、防衛秘密の探知・収集・漏洩とその未遂・教唆・扇動などの処罰を規定しました。
 6月月15日、衆議院本会議は、堤ツルヨら45議員の30日間登院停止を可決しました。続いて、全員協議会を開き、乱闘事件に関し、自粛を決議しました。
 6月月23日、自由党は、新党結成問題に関して、交渉の打切りを発表しました。
 7月1日、陸軍・海軍・空軍3軍の自衛隊が発足しました。1975年段階の防衛状況は、自衛隊員は24万人、艦艇150隻、航空機920隻、在日米軍5万人となっています。
 7月3日、岸信介・石橋湛山・芦田均らは、新党結成準備会を結成しました。
 8月10日、吉田首相は、自由党全国支部長会議で、「指揮権発動につき流言飛語に耳をかすな」と演説しました。
 8月16月日、吉田首相の発言が問題化し、衆議院決算委員会は、検事総長らを証人喚問することに決定しました。
 9月6月日、検事総長の佐藤藤佐は、「指揮権発動で捜査に支障」と証言しました。そこで、衆議院決算委員会は、吉田首相の喚問を決定しました。
 9月9日、アメリカのダレス国務長官は、SEATO条約調印の帰途来日し、吉田首相・岡崎勝男外相と会談しました。
 9月13日、改進党の憲法調査会は、現行憲法の問題点の概要を発表しました。
 9月18日、吉田首相は、外遊準備を理由に「衆議院決算委員会の喚問に応じない」と回答しました。衆議院決算委員会は、吉田首相告発動議を可決しました。
 9月19日、鳩山一郎・重光葵・岸信介・三木武吉・大麻唯男ら6人は、反吉田新党結成で意見が一致しました。
 9月21日、鳩山一郎・重光葵・岸信介ら6月人は、新党結成準備会を結成しました。
 9月25日、吉田内閣は、竹島領有問題の国際司法裁判所への提訴を韓国に提案しました。韓国は、これを拒絶しました。
 9月26月日、吉田首相は、欧米7カ国歴訪に出発しました。帰国は11月17日でした。
 10月13日、日経連総会は、「清新強力な政治力の結集が急務である」と決議しました。
 10月20日、経済同友会大会は、「速やかに保守合同を実現せよ」と決議しました。これは財界が、保守勢力の結集のため、吉田退陣の圧力を強化している証拠です。
 11月1日、新党結成準備会は、委員長に鳩山一郎を決定しました。
 11月5日、岸信介会長は、日本国憲法改正案要綱を発表し、その結果、保守派の改憲論議が活発化しました。
 11月5日、ビルマとの間に平和条約・賠償及び経済協力協定を調印しました。
 11月8日、自由党は、岸信介・石橋湛山を除名しました。
 11月15日、新党結成準備会は、新党創立委員会を設立し、委員長に鳩山一郎を決定しました。
 11月17日、吉田首相が帰国しました。
 11月24日、自由党鳩山派・岸派・改進党・日本自由党が合同して、日本民主党が結成されました。総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介、総務会長に三木武吉、最高委員に芦田均・石橋湛山が就任しました。その結果、衆議院121人・参議院18人の勢力となりました。改憲・反吉田連合という性格を持っています。吉田首相は、解散を強行しようとしましたが、吉田学校の池田勇人・佐藤栄作を除いて、自由党内は、解散回避で一致して反対しました。副総理の緒方竹虎も解散に反対しました。
 吉田首相が総理の座に執着するのを見て、緒方は「総理、延命のための解散への署名は副総理の私にはどうあってもできません。それならば私は政界引退か、自由党分裂も覚悟しております。そうなれば総理は、格好の悪い西郷南州になってしまいます」と諌めたという話が残っています。西郷南州とは西郷隆盛のことです。
 11月27日、カンボジアは、日本政府に対日賠償請求権を放棄すると通告しました。
 11月27日、経済4団体は、解散回避に努力することで意見が一致しました。
 11月28日、自由党議員総会は、吉田茂総裁の勇退と緒方竹虎の後任総裁推薦を決定しました。
 12月6月日、民主・左右社会党は、内閣不信任案を提出しました。
 12月7日、保利茂農相は、吉田側近の池田勇人・佐藤栄作を説得して、3人で吉田首相に総辞職を進言しました。吉田首相は、黙って官邸を後にし、首相不在のまま、内閣は総辞職しました。ワンマン宰相のあっけない幕切れでした。
 12月8日、自由党議員総会は、新総裁に緒方竹虎を決定しました。
 12月9日、衆参両院は、鳩山一郎を新首相に指名しました。民主・左右社会党は、「1955年3月上旬までに総選挙を行う」と共同声明を出しました。鳩山一郎は、早期解散を約束して、左右社会党の支持を得ました。
 12月10日、@52鳩山一郎内閣が誕生しました。外相に重光葵、蔵相に一万田尚登、文相に安藤正純、厚相に鶴見祐輔、農相に河野一郎、通産相に石橋湛山、運輸相に三木武夫、国務相に高碕達之助、官房長官に根本龍太郎ら実力者が就任しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
造船疑獄
 造船疑獄に、特に関心があるのは、戦後最大ともいえる汚職事件ということもありますが、地元相生の播磨造船所が絡んでいるからです。
 吉永小百合のデビュー作『キューポラのある街』の映画監督浦山桐朗や『素足の女』を書いた作家佐多稲子は、相生とゆかりのある人々です。浦山や佐多のお父さんが播磨造船所に勤めていたのです。
 相生では、播磨造船所の六岡周三社長を知らない人はいません。播磨造船は造船で世界一になり、人口5万だった相生市に新幹線が停車します。私の父が播磨造船に勤めていた関係で、相生球場が完成すると、阪神と巨人のオープン戦をみました。目の前に、髭をそって、青々した顎の長島選手がキャッチボールをしていたのを覚えています。体育館が落成すると、当時全盛を誇っていた島倉千代子がワンマンショーをしたのを記憶しています。
 その播磨造船が疑獄事件をおこし、社長が捕まった訳ですから・・・。しかし、記憶と事実との間のギャップが大きすぎます。記憶の曖昧さを恥じるこの頃です。
 1953(昭和28)年1月、吉田自由党・鳩山自由党・改進党の保守3派は、朝鮮戦争休戦以後、日本の海運・造船業は不況となり、それを救済するために、外航船舶建造融資利子補給法及び損失補償法を共同提案として、10日間で成立させました。この法律は、日本開発銀行で借りていた年利5%を3.5%、市中銀行から借りていた年利11%を5%とし、その差額は政府が負担するというものでした。その結果、差額として支払われたのは167億円になりました。
 8月、自民党の佐藤栄作幹事長は、造船業界から、党資金の名目で2000万円、個人的に200万円を受け取りました。飯野海運の俣野健輔社長は、海運・造船業の代表として、2億7000万円を贈賄しましたといいます。
 1954(昭和29)年1月、有名な高利貸しである森脇将光は、列車の椅子を製作している日本特殊産業会社の猪俣功社長を貸した金を返さないという理由の詐欺罪で、東京地検に告訴しました。東京地検の捜査で、猪俣の日本特殊産業会社は、一流会社から多くの金を借りたまま返さないでいる事実を把握しました。そして、猪俣の日本特殊産業会社に金を貸した会社の重役が独断で利ざやを稼いでいたことも分かりました。その中に、山下汽船の1億6000万円・日本海運の3350万円の焦げ付き融資がありました。
 1月15日、東京地検は、山下汽船を強制家宅捜索を行って、横田愛三郎社長や重役を特別背任の容疑で逮捕しました。この強制捜査で、1953(昭和28)年の外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法が成立する前に、山下汽船側が赤坂の料亭に政治家・官僚らを接待して贈賄していた書類を発見しました。この書類を横田メモといいます。
 1月21日、塩山ドック社長の泉正明が贈賄罪で逮捕されました。
 1月25日、運輸省官房長の壷井玄剛が収賄罪で逮捕されました。
 2月8日、日立造船の松原与三松社長ら4人を特別背任の容疑で逮捕しました。
 2月16日、東京地検特捜部は、自由党の有田二郎副幹事長に対する逮捕の許諾を国会法第33条に基づいて請求しました。国会法第33条には「各議院の議員は、院外における現行犯罪の場合を除いては、会期中その院の許諾がなければ逮捕されない」とあります。
 2月19日、森脇将光は、衆議院決算委員会に参考人として招致されました。この時、森脇は、決算委員会の田中彰治委員長にメモを渡しました。これを森脇メモといいます。このメモには、造船疑獄にまつわる現職大臣数人を含む政界要人・開発銀行総裁らの名前が書かれていたといいます。
 2月23日、衆議院本会議は有田二郎の期限付逮捕許諾を可決し、有田が逮捕されました。
 2月25日、飯野海運・新日本汽船・東西汽船などを家宅捜索し、飯野海運の三益一太郎副社長らを逮捕しました。
 3月11日、造船疑獄第3次捜査で、飯野海運の俣野健輔社長・播磨造船の六岡周三社長を逮捕しました。播磨造船所・川崎重工業・新三菱が家宅捜索を受けました。
 こうした取調べの結果、船の建造価格の5%が造船所から船会社へリベートとしてバックし、それが政治献金として政界に流れたということが判明しました。
 3月29日、参考人の運輸省課長補佐が運輸省ビルの中庭に飛び降り自殺しました。
 4月14日、河合信太郎検事は、自由党の佐藤栄作幹事長・池田勇人政調会長に任意出頭を求め、取り調べました。佐藤栄作も池田勇人も吉田学校の優等生で、共に、後に総理大臣になりました。
 取り調べの後、佐藤栄作幹事長は「まな板の上の鯉だよ」と言ったそうです。
 4月14日、自由党の関谷勝利衆院議員・岡田五郎衆院議員が逮捕されました。
 4月15日、自由党参の加藤武徳院議員が逮捕されました。
 4月20日、検察庁は、自由党の佐藤栄作幹事長を収賄容疑により逮捕する方針を決定しました。その後、岸信介・大石光次郎運輸相らの逮捕も視野に入れていました。
 4月20日、吉田首相は、犬養健法相に対して、「断じて逮捕させてはならない」と命じました。そこで、犬養健法相は、重要法案審議の為の必要を理由に、検察庁法第14条に基づいて、指揮権発動し、佐藤幹事長の逮捕許諾請求を拒否しました。
 この時、吉田首相は、「佐藤君は、選挙資金、党資金として献金を受けたのだ。その事実は、私が承知している。政府は信念を持って、指揮権を発動した。一体、汚職という内容は何か。流言飛語である。なぜ、幹事長を逮捕しなければならないのか。政党の会計簿が不十分なのは当然である。寄付するものも、受ける者も、名前を出したくないのが人情である。逮捕しなければ、証拠が集まらないというのでは、検察当局の能力を疑わざるを得ない。こうした結果は、民主主義の破壊である」と語ったといいます。
 4月22日、犬養法相が辞任しました。
 検察庁法第14条には、「法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」とあります。
 第14条と関連して第4条には、「検察官は、刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求し、且つ、裁判の執行を監督し、又、裁判所の権限に属するその他の事項についても職務上必要と認めるときは、裁判所に、通知を求め、又は意見を述べ、又、公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務を行う」とあります。
 第14条と関連して第6条には、「検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる」とあります。
 6月16日、佐藤藤佐検事総長は、「収賄容疑での佐藤栄作の逮捕を断念するが、政治資金規制法違反で起訴する」発表しました。しかし、佐藤幹事長は、起訴されましたが、逮捕は免れました。
 7月末、捜査は終了し、摘発は造船8社、逮捕は71人に達しました。
 9月6日、佐藤藤佐検事総長は、「指揮権発動で捜査に支障が出た」と証言しました。その結果、吉田首相の喚問を決定しましたが、吉田首相は外遊を理由に喚問を拒否しました。そこで、衆議院決算委員会は、吉田首相の告発動議を可決しました。
 12月7日、造船疑獄を直接の契機として吉田内閣が総辞職しました。
 1956年、佐藤栄作は、国際連合加盟に伴う恩赦で免訴となりました。起訴された21人の内14人が執行猶予付きの有罪、7人が無罪となりました。

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