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エピソード

278_02

保守政権と国連加盟V(砂川闘争、55年体制)
 ここでは、1955(昭和30)年の国内問題を扱います。
 1955(昭和30)年1月1日、日本共産党は、『アカハタ』に極左冒険主義の自己批判を発表しました。
 1月10日、鳩山一郎首相は、車中記者会見で、「中ソとの国交回復・憲法改正に積極的意志」を表明しました。
 1月13日、『朝日新聞』は、自由人権協会の沖縄調査報告を掲載しました。記事は「米軍の『沖縄民政』を衝く」と題して、沖縄の圧政の実情を本土に初めて紹介しました。
 1月16日、アメリカの極東軍司令部は、この記事に反論する声明を発表しました。
 1月18日、左右社会党臨時大会は、総選挙後の統一のため同文の決議を採択し、統一準備委員を選出しました。
 1月24日、衆議院が解散されました。
 1月25日、元ソ連代表部首席ドムニッキーは、鳩山首相官邸を訪れ、国交正常化に関するソ連政府の公式文書を手交しました。
 1月27日、財界首脳は、財界の政治献金団体として、経済再建懇談会を設立しました。
 2月4日、鳩山内閣は、閣議で、対ソ交渉開始を決定しました。
 2月25日、米国より貸与の2駆逐艦が横浜に入港しました。あさかぜ・はるかぜと命名しました。
 2月27日、@27回衆議院総選挙が行われ、その結果、民主党185人、自由党112人、左派社会党89人、右派社会党67人、労農党4人、共産党2人、無所属・諸派8人が当選しました。革新派は、改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保しました。
 3月5日、来日したアメリカのヘンゼル国務次官補は、防衛庁長官の大村清一・蔵相の一万田尚登と会談し、「日本の防衛努力不足」を指摘しました。
 3月14日、防衛庁首脳会議は、対米折衝の基礎となる防衛6か年計画案を決定しました。目標は、陸上18万人、海上12万トン、航空機1200機です。
 3月18日、第22特別国会が召集され、民主党・自由党の支持を得て、鳩山一郎が首相に指名されました。
 3月19日、@53第二次鳩山一郎内閣が誕生しました。外相に重光葵、蔵相に一万田尚登、文相に松村謙三、厚相に川崎秀二、農相に河野一郎、通産相に石橋湛山、運輸相に三木武夫、郵政相に松田竹千代、国務相に高碕達之助、自治庁長官に川島正次郎、官房長官に根本龍太郎らが就任しました。
 3月23日、経済同友会全国委員会は、保守2党の緊密な連携を求める要望書を決定しました。
 3月25日、重光葵外相・一万田尚登蔵相は、駐日アメリカ大使のアリソン・ハル国連軍司令官と、防衛分担金削減につき正式交渉を開始しました。
 4月12日、民主党の三木武吉総務会長は、社会党の統一に危機感を抱き、「保守合同のためには鳩山首班に固執せず」と記者団に語りました。
 4月19日、防衛分担金削減に関する日米交渉が妥結しました。その内容は、(1)178億円の分担金減額(2)米軍飛行場の拡張(3)1956年以後の防衛予算増額などです。
 4月23日、第3回統一地方選挙が行われ、創価学会が51人当選しました。
 4月25日、鳩山内閣は、交渉地をロンドンとすることでソ連側と意見が一致しました。
 5月6日、経団連総会は、保守統一を要請する決議を採択しました。
 5月15日、民主党の三木武吉総務会長は、自由党の大野伴睦総務会長と会談を持ち、保守合同の約束が出来ました。鳩山と大野は戦前からの同志でしたが、戦後、鳩山が三木を寵愛したことから、大野は居場所を失って、自由党に走った因縁がありました。
 5月23日、自由党・民主党の幹事長・総務会長の4者会談は、保守合同につき協議しました。
 5月24日、鳩山内閣は、閣議で、松本俊一への全権委任状を決定しました。
 5月31日、重光葵外相は、アメリカ大使と日米余剰農産物買付協定に調印し、総額8500万ドルの買付を約束しました。
 6月1日、ロンドンで日ソ交渉が始まり、進行手続きなどを打ち合わせました。
 6月3日、第2回日ソ正式会談が行われました。
 6月3日、民主党と自民党は、予算に関する妥協が成立しました。
 6月4日、自由党の鳩山一郎総裁と民主党の緒方竹虎総裁が会談し、予算共同修正・保守勢力結集について共同談話を発表しました。
 6月14日、ソ連側は、日ソ会談で、平和条約案を提示しました。
 6月27日、清瀬一郎ら5人は、国会に憲法調査会法案を提出しましたが、審議未了となりました。
 7月9日、タイと特別円問題の解決に関する協定に調印しました。その内容は、太平洋戦争中の特別円に関する請求権に対し、日本は5年間に54億円を支払い、96億円の経済協力を行うというものでした。
 7月11日、民主党・自由党・緑風会の保守3派議員有志は、自主憲法期成議員同盟を結成し、会長に広瀬久忠が就任しました。
 7月20日、経済審議庁を経済企画庁に改組しました。
 7月28日、自由党と民主党は、自主的憲法改正の政綱等を決定しました。
 7月28日、アメリカ陸軍は、ロケット砲オネスト=ジョン1中隊の配置を発表しました。
 7月29日、日本共産党第6回全国協議会で、自己批判と再出発のための新方針を発表しました。党内紛争が解決しました。
 7月30日、特別国会が閉会し、国防会議構成法案・憲法調査会法案が審議未了となりました。
 8月1日、防衛庁設置法改正・自衛隊法改正が公布され、定員を3万人増加・西部方面隊・航空団新設が決まりました。
 8月5日、政府は、ジェット機離着陸のため小牧・横田・立川・木更津・新潟の米軍5飛行場拡張の必要について声明を発表しました。
 8月6日、第五福竜丸事件が契機となって、第1回原水爆禁止世界大会広島大会が開催されました。原水爆禁止署名日本3238万人・外国6億7000万人が集まりました。
 8月9日、防衛閣僚懇談会は、防衛庁の1956年度増強計画を承認しました。
 8月9日、重光葵外相は、渡米を控え、防衛6カ年計画に関し協議し、「3年以内に米地上軍撤退を条件に18万人に増強」との方針を了承しました。
 8月11日、日本青年館で開催の6全協記念政策発表会に、潜行中の党幹部である野坂参三・志賀義雄らが出席し、逮捕されました。
 8月13日、フィリピンは、対日賠償額につき、賠償5億5000万ドル・経済協力2億5000万ドルの要求を提示しました。
 8月16日、日本側は、日ソ会談で、草案を提示しましたが、領土問題で対立が起こりました。 
 8月29日、外相の重光葵・民主党の岸信介幹事長・農相の河野一郎は、ワシントンで、ダレス国務長官と会談しました。
 8月31日、重光外相とダレス国務長官は、共同声明を発表して、(1)極東の安定と平和のための協力(2)日米安全保障条約改定の条件などを規定しましたが、海外派兵が問題化しました。
 9月9日、左右社会党は、統一綱領案を決定しました。
 9月10日、日本じゃ、ガット(関税および貿易に関する一般協定)に正式に加盟しました。
 9月13日、砂川基地拡張のため強制測量を実施しました。砂川町の反対派住民・労組員・学生は、警官隊と衝突しました。これを砂川闘争のはじまりといいます。
 9月14日、砂川町で再び衝突が起きました。
 9月16日、山形県大高根射撃場拡張のため、警官隊の応援により強制測量を実施して、重軽傷70人を出しました。
 9月21日、日ソ会談は、一時休止につき合意しました。
 9月21日、日本商工会議所総会は、保守合同促進を決議しました。
 9月24日、ソ連のフルシチョフ第1書記は、北村徳太郎ら訪ソ議員団に、歯舞・色丹の日本返還の可能性について語りました。
 10月1日、松本俊一全権は、ロンドンより帰国して、鳩山一郎首相・重光葵外相と会談しました。に
 10月13日、社会党統一大会は、憲法改正阻止をスローガンとして、統一して日本社会党を結成し、委員長に左派の鈴木茂三郎、書記長に右派の浅沼稲次郎を選出しました。衆院156人・参院69人です。憲法改定阻止の3分の1を確保しています。
 11月5日、砂川町で、精密測量を強行し、重軽傷20人が出ました。砂川闘争は、最終的に基地拡張を阻むむことに成功しました。
 11月6日、民主党・自由党の幹事長・総務会長の4者会談で、党首問題をタナ上げし、新党の代行委員制による合同で妥協しました。保守二党論を主張する民主党の三木武夫・松村謙三らがこれに反対すると、鳩山首相は、涙して「それなら内閣総辞職する」と威嚇したので、一気に合同の流れになったといいます。
 11月15日、民主党・自由党が合同し、自由民主党自民党)を結成しました。これを保守合同といいます。代行委員に鳩山一郎・緒方竹虎・三木武吉・大野伴陸を選出しました。衆院299人・参院118人です。3分の2の安定政権を確保しています。社会党の3分の1勢力と自民党の3分の2勢力の体制を1955年の構築されたことから、55年体制といいます。
 11月7日、ロケット砲オネスト=ジョンを富士山麓で最初の試射を行いました。
 11月22日、@54第三次鳩山一郎内閣が誕生しました。外相に重光葵、蔵相に一万田尚登、文相に清瀬一郎、農相に河野一郎、通産相に石橋湛山、労相に倉石忠雄、経済企画庁長官に高碕達之助、北海道開発庁長官に正力松太郎、防衛庁長官に船田中、官房長官に根本龍太郎らが就任しました。
 12月19日、原子力基本法・原子力委員会設置法を公布し、原子力は平和利用に限定することを規定しました。
 この年、神武景気」始まりました(〜1957年中頃まで)。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
砂川闘争と伊達判決・最高裁判決
 砂川闘争に対して、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、違憲判決を出しました。最高裁の田中耕太郎裁判長は、合憲判決を出しました。
 両判決の主な部分を掲載しました。
 東京都のほぼ中央に位置する砂川地区は、西砂町・上砂町・砂川町などから構成されており、1963年に立川市と合併しました。
 大正時代、立川と砂川にまたがる45万坪の土地を、地主から時価の半値(1坪=2円60銭)で買取って、飛行場用地にしました。昭和になると、2000メートルの滑走路を持つ軍事基地に発展しました。
 敗戦後は、立川飛行場は、アメリカ軍の立川基地になりました。アメリカ軍は、ブルドーザーを入れて麦畑を滑走路としました。
 朝鮮戦争には、米軍機は立川基地から出発していきました。大型輸送機が発着するたびに、学校では爆音で授業を中止したといいます。
 1955年、調達庁の役人は、砂川町の宮崎伝左衛門町長の自宅を訪問し、「基地の北側4.5万坪を買収し、五日市街道を300mにわたって分断する」と説明しました。住民は、「砂川町基地拡張反対同盟」を結成しました。
 1959年3月30日に東京地裁で出された砂川事件第一審の判決です。裁判長の伊達秋雄の名をとって伊達判決とも言われます。
 「被告人 7名
主   文
本件各公訴事実につき、被告人らはいずれも無罪
理   由
 本件公訴事実の要旨は、東京調達局においては日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法及び土地収用法により内閣総理大臣の使用認定を得て、昭和32年7月8日午前5時15分頃からアメリカ合衆国空軍の使用する東京都北多摩郡砂川町所在の立川飛行場内民有地の測量を開始したが、この測量に反対する砂川町基地拡張反対同盟員及びこれを支援する各種労働組合員、学生団体員等千余名の集団は同日早朝から右飛行場北側境界柵外に集合して反対の気勢をあげ、その中の一部の者により滑走路北端附近の境界柵は数十メートルに亘って破壊された。 
 被告人らは右集団に参加していたものであるが、他の参加者3百名位と意思相通じて同日午前10時40分頃から同11時30頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所からアメリカ合衆国軍隊が使用する区域であって入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ4.5メートルに亘って立入り、被告人椎野徳蔵は国鉄労働組合の一員として右集団に参加していたものであるが、同日午前10時30分頃から同11時50分頃までの間に、正当な理由がないのに、右境界柵の破壊された箇所から合衆国軍隊が使用する 区域であって入ることを禁じた場所である前記立川飛行場内に深さ2.3メートルに亘って立入ったものである。(中略)
 合衆国軍隊がわが国に駐留するのは、勿論アメリカ合衆国の一方的な意思決定に基くものではなく、前述のようにわが国政府の要請と、合衆国政府の承諾という意思の合致があったからであって、従って合衆国軍隊の駐留は一面わが国政府の行為によるものということを妨げない。蓋し合衆国軍隊の駐留は、わが国の要請とそれに対する施設、区域の提供、費用の分担その他の協力があって始めて可能となるものであるからである。かようなことを実質的に考察するとき、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第9条第2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ないのである。 
 もとより、安全保障条約及び行政協定の存続する限り、わが国が合衆国に対しその軍隊を駐留させ、これに必要なる基地を提供しまたその施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であるとしても、前記のように合衆国軍隊の駐留が憲法第9条第2項前段に違反し許すべからざるものである以上、合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益と同様の刑事上、民事上の保護を受けることは格別、特に後者以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何等存在しないところであるから、国民に対して軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもって臨む刑事特別法第2条の規定は、前に指摘したように何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し無効なものといわなければならない」
 1959(昭和34)年12月16日に最高裁大法廷での判決です。
「上告人 東京地方検察庁検事正
被告人 7名
弁護人 海野普吉 外282名
主   文
原判決を破棄する。
本件を東京地方裁判所に差し戻す。
理   由
 原判決は要するに、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法9条2項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約3条に基く行政協定に伴う刑事特別法2条が、憲法31条に違反し無効であるというのである。
1.先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵 抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応し て適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
 そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。
2.次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条、98条2項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和27年4月28日条約5号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約6条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される2国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあって、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によって認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国60箇国中40数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的およ び集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当っては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。
 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となっている場合であると否とにかかわらないのである。
3.よって、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその3条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であって、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となってあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約1条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じょうを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなっており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたもの に外ならないことが窺えるのである。
 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和27年2月28日その調印を了し、同年3月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあったが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和27年3月25日に行政協定が憲法73条による条約であるから、同条の規定によって国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月26日に行政協定は安全保障条約3条により 政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法73条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約3条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかったからといって、違憲無効であるとは認められない。)
 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤ったものであり、従って、これを前提として本件刑事特別法2条を違憲無効としたことも失当であって、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。
 よって刑訴410条1項本文、405条1号、413条本文に従い、主文のとおり判決する。
 この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである」

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