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エピソード

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保守政権と国連加盟W(ハトマンダー、日ソ国交回復、国際連合加盟)
 ここでは、1956月(昭和31)年の国内問題と国連加盟を扱います。
 1956(昭和31)年1月4日、原子力委員会第1回会合で、委員長に正力松太郎、委員に石川一郎・藤岡由夫・湯川秀樹・有沢広巳が就任しました。
 1月17日ソ交渉がロンドンで再開されました。
 1月28日、次期総理の最有力候補の緒方竹虎が急逝しました。国連で活躍した緒方貞子氏は竹虎の子供です。
 1月31日、鳩山一郎首相は、衆議院本会議で、「軍備を持たない現行憲法には反対である」と答弁して、議場が混乱しました。
 2月2日、鳩山首相は、国会答弁を取り消して、釈明しました。
 2月11日、岸信介らは、憲法調査会法案を国会に提出しました。
 2月29日、鳩山首相は、参議院予算委員会で、「自衛のためなら敵基地を侵略してもよい」と失言して、直ちに取り消しました。
 3月8日、鳩山内閣は、地方教育行政の組織および運営に関する法律案を国会に提出しました。これを新教育委員会法案といいます。
 3月11日、第3回琉球立法院選挙が行われ、民主党15人、社大党8人、人民党1人、無所属5人が当選しました。
 3月13日、鳩山内閣は、教科書検定の強化をねらった教科書法案を国会に提出し、衆議院で可決されましたが、審議未了で、廃案となりました。
 3月20日、日ソ交渉第23回会談は、領土問題で行詰り、以後無期限休会となりました。 
 3月21日、モスクワ放送は、北洋漁業制限に関するソ連政府決定を発表しました。鳩山内閣は、これに抗議しました。
 3月29日、衆議院は、憲法調査会法案を可決しました。
 4月5日、自民党臨時大会は、投票で、初代総裁に鳩山一郎を選出しました。
 4月9日、ソ連は、駐英大使の西春彦を通じて、漁業協定締結につき申し入れました。
 4月11日、日本中小企業政治連盟が結成され、総裁に鮎川義介が就任しました。
 4月19日、衆議院本会議は、新教育委員会法案をめぐって大混乱となりました。
 4月20日、益谷秀次は議長職権で、新教育委員会法案を強行可決しました。これを暁の国会といいます。
 4月20日、防衛庁設置法改正・自衛隊法改正が公布され、定員を1万9193人増員、混成団1・航空団1を新設することになりました。
 4月29日、農相の河野一郎らは、モスクワで、日ソ漁業交渉を開始しました。
 4月30日、衆議院議長の益谷秀次は、議長職権により、本会議を開会し、小選挙区制法案をめぐり大混乱となりました。鳩山首相は、自派の自民党に有利な悪意的な選挙区割りを行いました。これをハトマンダーといいます。
 5月1日、益谷秀次議長斡旋で、小選挙区制法案を特別委員会に差し戻しました。
 5月9日、フィリピンと賠償協定・経済開発借款に関する交換公文などに調印しました。その結果、賠償金は20年間に5億5000万ドルの支払い、借款2億5000万ドルの供与することになりました。
 5月14日、日ソ漁業条約・海難救助協定・1956年度出漁暫定取決めに調印しました。日本は7月31日までに国交回復交渉再開を約束しました。
 5月16日、衆議院で修正可決しましたが、審議未了で廃案となりました。
 5月19日、科学技術庁が開庁し、初代長官に正力松太郎が就任しました。
 6月1日、参議院は、新教育委員会法をめぐり大混乱となりました。
 6月2日払暁、参議院議長の松野鶴平の要請で、警官500人が出動し、文教委員長の中間報告のみで新教育委員会法を可決しました。
 6月9日、沖縄のアメリカ民政府モーア副長官は、軍用地に関するプライス勧告要旨を沖縄側に伝達しました。プライス勧告とは、米下院調査団のプライスを団長は、現在の軍用地4万エーカーのほか1万2000エーカーの接収・無期限使用を勧告したというものです。
 6月11日、憲法調査会法が公布され、内閣に憲法調査会が設置されました。
 6月15日、琉球立法院の全員協議会は、反対運動のため総辞職を決定しました。
 6月30日、新教育委員会法が公布され、公選であった教育委員会が地方自治体の首長による任命制となりました。
 7月2日、国防会議構成法が公布され、議長に鳩山一郎首相が就任しました。外相・蔵相・防衛庁長官などを構成員とし、国防の基本方針・防衛計画などを審議するという法律です。
 7月4日、岸信介の強力な後援者である三木武吉が亡くなりました。
 7月8日、第4回参議院選挙が行われ、自民党61人、社会とう49人、緑風会5人、創価学会3人、共産党2人、無所属・諸派10人が当選しました。革新派は3分の1を突破しました。
 7月31日、重光葵外相は、モスクワで日ソ交渉を再開しました。領土問題で、日ソは激しくやりあいしました。
(1)日本の主張
@「北海道の一部である歯舞諸島・色丹島及び国後・択捉両島は日本固有の領土である」
A「この北方四島はサンフランシスコ平和条約で日本が放棄することになった千島列島にま含まれるものではない」
(2)ソ連の主張は「ヤルタ協定は全千島に及ぶ」
 8月10日、鳩山首相は、軽井沢別邸で、自民党首脳と会談し、「なるべく早く後継者をきめて退陣したい」と言明しました。この時、河野一郎農相は、石橋湛山通産相・岸信介幹事長・石井光次郎総務会長・大野伴睦総裁代行委員の名を上げましたが、結論は出ませんでした。
 8月12日、重光外相は、歯舞・色丹のみの返還というソ連案の受諾を請訓しました。
 8月13日、鳩山内閣は、国後・択捉の返還も求めて、ソ連案を拒否しました。
 8月19日、鳩山首相は、河野一郎農相に対して、領土問題を棚上げして、日ソ交渉のため訪ソの決意を表明しました。しかし、自民党内には、鳩山首相の訪ソに反対する勢力があり、党内調整が続けられました。
 8月24日、重光外相は、ロンドンで、ダレス国務長官と、日ソ交渉などについて会談しました。
 9月6日、経団連会長の石坂泰三・日商会頭藤山愛一郎は、財界有志を代表して、自民党三役と会談し、後継首班を決定して、庶政一新をはかるよう申し入れました。
 9月11日、鳩山首相は、日ソ交渉再開の5条件につきブルガーニン首相に書簡を送りました。ブルガーニン首相が同意しました。
 10月7日、鳩山首相・河野農相らは、モスクワに向いました。
 10月12日、立川基地拡張のため、砂川町2次強制測量が行われ、警官隊と地元反対派・支援労組・学生が衝突し、負傷264人を出しました。
 10月13日、砂川町で再度衝突がおこり、負傷887人を出しました。
 10月14日、鳩山内閣は、測量中止を決定しました。
 10月19日、モスクワで、日ソ国交回復に関する共同宣言が行われ、貿易発展及び最恵国待遇相互許与に関する議定書に調印しました。この結果、日ソ戦争は終結し、ソ連は、日本の国連加盟を支持したり、戦犯の釈放を約束しました。平和条約は継続交渉とし、平和条約発効時に歯舞・色丹を返還することが約束されました。鳩山首相は、日ソ国交回復を花道に引退を表明しました。
 11月1日、沖縄のアメリカ民政府は、琉球行政主席に当間重剛那覇市長を任命しました。
 12月14日、自民党大会が開かれ、石橋湛山は、決戦投票で、岸信介を258対251の7票差で破り、新総裁に就任しました。これは、2位石橋湛山・3位石井光次郎が連合して、逆転勝利したものです。その結果、7個師団3連隊と呼ばれる岸信介・橋湛山・石井光次郎・大野伴睦・河野一郎・三木武夫・松村謙三などの10大派閥が誕生しました。
 12月18日、国連総会は、ソ連の支持で、日本の国連加盟を全会一致で承認しました。日本は、松岡洋右が「意気揚々と退場して以来」、念願の国際社会に復帰することができました。
 12月19日、ラオスは、対日賠償請求権の放棄を通告しました。
 12月19日、大赦令・特赦・特別減刑等7万1782人。
 12月20日、鳩山一郎内閣が総辞職しました。
 12月23日、@55石橋湛山内閣が誕生しました。法相に中村梅吉、外相に副総理格で岸信介、蔵相に池田勇人、文相に灘尾弘吉、農相に井出一太郎、通産相に水田三喜男、自治庁長官に田中伊三次、官房長官に石田博英らが就任しました。
 12月25日、沖縄那覇市長選挙が行われ、人民党の瀬長亀次郎書記長が当選しました
 12月27日、アメリカ民政府は、補助及び那覇市都市計画への融資を中止しました。
(32月11月25)。
  1957(昭和32)年11月25日、那覇市議会は、アメリカの民政府の圧力で、瀬長亀次郎市長を罷免しました。瀬長亀次郎は、被選挙権を奪われ、立候補できませんでした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ハトマンダー、日ソ国交回復と国連加盟、石橋内閣の誕生秘話
 私は、昨年(2005年9月)の総選挙で、小泉劇場を体験しました。どうして、そのような結果になったのでしょうか。
 私の住んでいる相生市は、兵庫第12区です。自民党の河本三郎氏は11万5731票で当選、民主党の山口壮氏は10万6566票で落選しました(比例代表で当選)。小選挙区制の問題点は、ほぼ半数の47.9%が死票になることです。
 以前の中選挙区制の場合は、選挙区は広くなります。A候補10万票、B候補7万票、C候補6万票だとしても、A・B候補は当選、C候補が落選し、死票は26%しかありません。
 2005年9月の総選挙は、別名小泉劇場とも言われ、焦点を郵政民営化に一本化し、民営化に反対した自民党議員の党籍を剥奪し、さらに対抗馬として有名人を刺客として送り込みました。選挙当日は、今まで見たことがないほど、若者が投票所に足を運び、熱気に溢れていました。
小選挙区300議席の得票率・議席数・議席占有率 自民党は47.8%で219議席
民主党は36.4%で52議席
与党=51.5%で237議席
野党=48.5%で63議席

その原因は小選挙区制です
  得票数 得票率 議席数 議席占有率
自民党 3251万8000 47.8% 219 73.0%
民主党 2485万5000 36.4% 52 17.3%
 鳩山一郎首相が導入しようとしたハトマンダーの語源は、ゲリマンダー(Gerrymander)です。ゲリマンダーの語源は、マサチューセッツ州知事のゲリーが自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした形が怪獣サラマンダーに似ていることから着けられた名前です。つまり、鳩山首相が自分の政党に有利なように小選挙区制を導入したことから、山のゲリマンダーという意味です。
 鳩山首相は、どのようなことを考えたのでしょうか。
 有権者が40万人の中選挙区では、与党2野党2の4人の当選者が出ました。これを4小選挙区にします。過去の投票傾向を分析し、1つの選挙区に野党支持者を固め、他の3選挙区では野党支持者よりやや多くするように線引きします。その結果、野党は1人、与党は3人が当選します。
 しかし、ある時は、与党に風が吹いても、ある時は逆風が吹いて、野党に有利になる場合もあります。選挙区制云々より、冷静に、政党の主張や政治家個人の資質を見抜く目が必要です。
 1945(昭和20)年8月8日、ソ連は、ヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を破棄して、日本に宣戦を布告しました。戦後、ソ連は、満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、歯舞諸島や色丹島を占領しました。
 1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結されましたが、ソ連は条約調印は拒否しました。つまり、この間、日本とはソ連との国交回復がなかったのです。そのため、シベリア抑留者の帰還問題・漁業にも大きな支障が出てくるし、国際連合に加盟して、世界の仲間に入ることも出来ませんでした。
 親米一辺倒の吉田茂首相から、保守派であっても独自外交を指向する鳩山一郎首相になると、ソ連との国交回復を優先課題としました。
 最初は領土問題で暗礁に乗り上げましたが、まず、国交回復をし、平和条約締結後、歯舞諸島と色丹島を返還するという約束が出来ました。
 1956年12月18日、国際連合総会で、ソ連は、他の東欧諸国ともに日本の加盟に賛成し、全会一致による日本の加盟が実現しました。
 これは、1956年10月19日にモスクワで署名された日ソ共同宣言です。
「1【戦争状態の終結】
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。
2【外交及び領事関係】
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に外交及び領事関係が回復される。両国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両国は、外交機関を通して、両国内におけるそれぞれの領事館の開設の問題を処理するものとする。
3【国連憲章の原則・自衛権・不干渉】
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、相互の関係において、国際連合憲章の諸原則、なかんずく同憲章第二条に掲げる次の原則を指針とすべきことを確認する。
(a)その国際紛争を、平和的手段によつて、国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように、解決すること。
(b)その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使は、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、経済的、政治的又は思想的のいかなる理由であるとを問わず、直接間接に一方の国が他方の国内事項に干渉しないことを、相互に、約束する。
4【日本国の国連加入】
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、国際連合への加入に関する日本国の申請を支持するものとする。
5【未帰還日本国民に対する措置】
 ソヴィエト社会主義共和国連邦において有罪の判決を受けたすべての日本人は、この共同宣言の効力発生とともに釈放され、日本国へ送還されるものとする。
 また、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要請に基いて、消息不明の日本人について引き続き調査を行うものとする。
6【賠償・請求権の放棄】
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、千九百四十五年八月九日(ソ連の対日参戦の日)以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。
7【通商関係の交渉】
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定したかつ友好的な基礎の上に置くために、条約または協定を締結するための交渉をできる限りすみやかに開始することに同意する。
8【漁業協力】
 千九百五十六年五月十四日にモスクワで署名された北西太平洋の航海における日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の条約及び海上において遭難した人の救助のための協力に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の協定は、この宣言の効力発生と同時に効力を生ずる。
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、魚類その他の海洋生物資源の保存及び合理的利用に関して日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦が有する利害関係を考慮し、協力の精神をもつて、漁業資源の保存及び発展並びに航海における漁猟の規制及び制限のための措置を執るものとする。
9【平和条約・領土】
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」
 日ソ共同宣言に関して、外務省はどのような考えなのでしょうか。
「(Q4)1956年の日ソ共同宣言とはどのようなものですか?
(A4)ソ連がサン・フランシスコ平和条約への署名を拒否したため、我が国はソ連との間で平和条約交渉を別途行うこととなり、1956年、日ソ両国は日ソ共同宣言を締結して、戦争状態を終了させ、外交関係を再開しました。日ソ共同宣言は、日ソ両国の立法府での承認を受けて批准された法的拘束力を有する条約です。
 同宣言において、両国は、正常な外交関係が回復された後、平和条約の交渉を継続することとなっており、またソ連は、平和条約の締結後に歯舞群島及び色丹島を我が国に引き渡すこととなっています。
(Q5)1956年当時、なぜ平和条約が締結されずに、「日ソ共同宣言」という名称の条約が締結されたのですか?
(A5)1956年当時、日ソ両国は平和条約を締結すべく交渉を行っていましたが、我が国が一貫して返還を主張した北方四島のうち国後島及び択捉島の帰属の問題について合意が達成できなかったため、とりあえず共同宣言を締結して外交関係を回復し、平和条約交渉を継続することとして、領土問題の解決を将来に委ねたからです。
(Q6)日ソ共同宣言は今も有効ですか?
(A6)もちろん1956年から現在まで一貫して法的に有効です。1960年の日米安全保障条約の締結に際して、ソ連は、日ソ共同宣言で合意された歯舞群島及び色丹島の引渡しに、我が国領土からの全外国軍隊の撤退という新たな条件を一方的に課してきました。また、ソ連はその後長らく、領土問題は既に解決済みであるとの立場をとっていました。
 しかし、冷戦の終焉に伴い、露側は、領土問題の存在を認めるとともに、改めて日ソ共同宣言が日露両国間で有効であることを確認するようになりました。2000年9月、プーチン大統領は日本を訪問した際、首脳会談において、「56年の日ソ共同宣言は有効と考える」と発言しました。2001年3月のイルクーツク声明においては、日ソ共同宣言が両国間の平和条約締結交渉の出発点となった基本的な法的文書であることが確認されています。また、2004年11月、ラヴロフ外相及びプーチン大統領は、相次いで、ロシアにはソ連の法的継承国として、1956年の日ソ共同宣言を履行する義務がある旨の発言を行いました」
 弱小派閥の石橋湛山を総理大臣にしたのが、石田博英と言われています。
 1952年7月1日、自由党両院議員総会で、吉田茂総裁は任期満了の増田甲子七幹事長の後任に福永健司を指名しました。しかし、石田博英らの青年将校らは、それに激しく反対して、議員総会は流会となりました。
 1956年12月14日、自民党の総裁選挙が行われました。第1回投票では、岸信介223、石橋湛山151、石井光次郎137で、3人とも過半数に達しませんでした。そこで、岸信介と石橋湛山との決選投票となりました。石田博英は、石橋湛山・石井光次郎の連合を工作し、7票差で、石橋湛山を総裁にさせました。石田の裏技は、大臣の空手形を乱発したといわれます。特に、農相を打診された政治家は8人もいたとされます。
 岸派は3億円、石橋派は1億5000万円、石井派は8000万円を武器にしたといわれます。
 石田博英は、当時形成されつつある派閥をよく研究し、それを利用したともいいます。それによると、@〜Fを7個師団、@〜Bを3連隊となります。
(1)旧民主党系には旧鳩山派と旧改進党系がありました。
 旧鳩山派には、@石橋湛山派A河野一郎派B岸信介派がありました。
 旧改進党系には、C松村謙三と三木武夫派@芦田均派A北村徳太郎派B大麻唯男派がありました。
(2)旧自由党系には、D石井光次郎派E大野伴睦派F吉田茂派がありました。吉田茂派には、池田勇人系・佐藤栄作系がありました。
 石田は、大まかに派閥人脈を作成し、岸は200人以上、石橋は170人、石井は120人と票読みましました。
(1)岸信介の支持派は、岸派・河野派・吉田派佐藤系・大麻派です。
(2)石橋湛山の支持派は、石橋派・松村と三木派・大野派・北村派・芦田派です。
(3)石井光次郎の支持派は、石井派・吉田派池田系です。
 岸派は、石橋・石井の一本化を恐れていましたが、「両派一本化成らず」という情報が入り、安心して本部を引き上げました。他方、池田勇人は石井一本化を強く主張し、三木武夫と池田勇人によって、2・3位連合が画策されました。
 12月14日12時14分、開票の結果、岸信介223、石橋湛山151、石井光次郎137で、3人とも過半数に達しませんでした。
 岸信介は、「第1回投票は義理もあって、石橋・石井に投票するが、決選投票になればわが方にくるものと読」んで、安心していたと語っています。
 石田博英は、「私の事前の予想からすると20票近く少ない。岸氏が220票近くとることは覚悟していたが、石井氏の票は予想以上に多かった」と語っています。
 12月14日13時15分、開票の結果、石橋湛山258、岸信介251、僅か8票差で、石橋新総裁が誕生しました。後に、岸信介は、「何といっても『ばくえい』君の力だろうね」とか「石田君にやられたんだよ、完全にそうだよ」と語ったということです。ばくえいとは、石田博英のことです。

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