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エピソード

279_01

安保改定問題T(ジラード事件、岸信介内閣、勤評闘争)
 1957(昭和32)年は、私の高校1年生です。後に学習したものなのか、当時の体験記憶なのか、はっきりしませんが、ジラード事件と学校の先生のストとA級戦犯であった岸信介の総理大臣就任です。
 ジラード事件は、明治初期のノルマントン号事件を想起させました。教員のストは、私が学校に勤務するようになって、外から見たストと内から体験したストと格差です。
 A級戦犯といえば、鬼畜米英を唱えた戦争の指導者です。その人物が釈放され、総理大臣になると、忠犬ポチのように、アメリカの言いなりになる外交を推進したことに違和感を覚えました。私は、釈放される時、魂を売ったのか、日本を売ったのかと、感じました。こういう人が愛国心を訴えるのですから、不思議なものです。
 1956(昭和31)年12月23日、@55石橋湛山内閣が誕生しました。法相に中村梅吉、外相に副総理格で岸信介、蔵相に池田勇人、文相に灘尾弘吉、農相に井出一太郎、通産相に水田三喜男、自治庁長官に田中伊三次、官房長官に石田博英らが就任しました。
 1957(昭和32)年1月4日、アメリカ極東軍司令官兼米民政府長官のレムニッツアーは、沖縄軍用地問題に関し、地代一括払いの方針を声明しました。
 1月16日、労農党は、社会党との統一を決定しました。
 1月17日、社会党大会を開催し、左派が中央執行委員会の過半数を占めました。
 1月30日、米兵のジラードは、群馬県相馬が原射撃場で、薬莢拾いの農婦を射殺しました。これをジラード事件といいます。
 1月31日、石橋湛山首相は、病気のため、外相の岸信介を首相代理に指定しました。
 2月6日、衆議院内閣委員会は、ジラード事件の調査を開始しました。
 2月13日、自民党議員らは、建国記念日法案を国会に提出し、衆議院で可決されましたが、審議未了となりました。
 2月14日、佐賀県教組は、259人の定員減に反対して、休暇闘争を開始しました。
 2月23日、石橋首相は、病気のため、内閣総辞職しました。
 2月25日、@56岸信介内閣が誕生しました。法相に中村梅吉、外相に岸信介兼任、蔵相に池田勇人、文相に灘尾弘吉、農相に井出一太郎、通産相に水田三喜男、自治庁長官に田中伊三次、官房長官に石田博英、副総理に石井光次郎らが就任しました。
 3月9日、岸内閣は、ソ連に核実験中止を申し入れました。
 3月15日、参議院は、原水爆禁止決議を採択しました。
 3月21日、自民党大会は、岸信介を総裁に選出しました。
 4月22日、社会党訪中団長浅沼稲次郎は、中国側と、「台湾政府を認めず、日中国交を回復」という共同コミュニケを発表しました。
 4月24日、佐賀県教育委員会は、佐賀県教組の10人を告発し、逮捕されました。不当弾圧反対の全国闘争が組織されました。この闘いを、石川達三は『人間の壁』として小説化しました。
 4月26日、岸内閣は、参議院内閣委員会で、「攻撃的核兵器の保有は違憲」との統一見解を発表しました。
 4月29日、岸政府は、米政府にネバダの核爆発実験中止を申し入れました。
 4月30日、防衛庁設置法改正を公布し、定員を8498人を決定しました。
 5月3日、岸首相は、伊勢で、「汚職・貧乏・暴力の3悪を追放する」という方針を言明しました。
 5月10日、自衛隊法改正を公布して、2航空団増設などを決定しました。
 5月16日、日米合同委員会は、「ジラード事件は日本側で裁判をおこなう」と発表しました。
 5月20日、岸首相は、東南アジア6カ国訪問に出発しました。これは戦後初の首相のアジア諸国訪問です。岸首相は、各国首脳に、アジア開発基金構想などを提示しました。
 5月26日、政貯、参院内闇委員会で「攻撃的核兵器の保有は違憲」との統一見解を発表。5月7岸首相、参院で自衛の範囲なら核保有も合憲と発言、問題化。
 6月3日、岸首相は、台北で、蒋介石総統と会談し、国府の大陸反攻に同感の意を言明しました。
 6月5日、米政府は、アイゼンハワー大統領命令で、沖縄米民政府長官を高等弁務官とすると発表しました。その結果、高等弁務官には、国防長官が選任した現役軍人が就任することになりました。
 6月11日、岸首相は、韓国代表部の金祐沢大使と会談し、抑留者相互釈放を実現して、日韓会談再開を図ることで、意見が一致しました。岸首相は、渡米前の釈放を希望しましたが、実現しませんでした。
 6月14日、国防会議は、第1次防衛力整備3カ年計画を決定しました。その内容は、陸上18万人・艦艇12万4000トン・航空機1300機を目標にするという初の本格的な軍事力拡充計画でした。
 6月16日、岸首相は、訪米に出発しました。
 6月17日、那覇市議会は、瀬長亀次郎市長の不信任案を可決しました。
 6月18日、瀬長亀次郎市長は、市議会を解散しました。
 6月19日、岸首相は、米大統領のアイゼンハワーと会談しました。
 6月21日、日米共同声明を発表し、安保条約検討の委員会設置・在日米地上軍の撤退などを決定しました。岸首相は、「日米新時代」を強調しました。
 6月27日、立川基地拡張のため、砂川町で強制測量が行われました。
 7月1日、沖縄の初代高等弁務官にムーア中将が就任しました。
 7月8日、立川基地拡張のため、砂川町で強制測量が行われ、反対派は、警官隊と衝突し、学生ら一部が基地内に突入しました。これが砂川闘争です。
 7月10日、岸信介首相は、内閣を全面的に改造しました。法相に唐沢俊樹、外相に日商会頭の藤山愛一郎、蔵相に一万田尚登、農相に赤城宗徳、通産相に前尾繁三郎、郵政相に田中角栄、労相に石田博英、建設相に根本龍太郎、経済企画庁長官に河野一郎、行政管理庁長官に石井光次郎、国家公安委員長に正力松太郎、官房長官に愛知揆一らが就任しました。
 7月30日、文相の松永東は、小中学校に「道義」に関する独立教科の設置を表明しました。
 8月1日、米国防総省は、在日地上戦闘部隊の撤退を発表しました。在日米軍兵力は、1952年末26万人、1957年8月8万7000人、1958年末6万5000人と減少し、しかも、在日米軍は空海軍が中心となりました。
 8月4日、那覇市議選挙が行われ、瀬長市長支持派は、不信任決議阻止に必要な3分の1を獲得しました。
 8月6日、日米安保委員会が発足しました。
 8月9日、総評は、道徳教育反対などを文相に申し入れ、道徳教育時間の特設問題がおこりました。
 8月13日、憲法調査会は、社会党委員が空席のまま、第1回会合を開き、会長に高柳賢三が就任しました。自民党17人・緑風会5人・学識経験者17人が出席しましたが、社会党10人は不参加でした。
 8月26日、前橋地裁は、ジラード事件の公判を開廷しました。
 9月10日、文相の松永東は、教員の勤務評定の趣旨徹底を通達しました。
 9月14日、文相の松永東は、教育課程審議会に小中学校教育課程改善などを諮問しました。その中で、(1)道徳教育の強化(2)基礎学力・科学技術教育の向上などを示唆しました。
 9月14日、藤山愛一郎外相は、アメリカ大使と「日米安保条約の運用は国連憲章に則る」との公文を交換しました。
 9月22日、砂川町で、警視庁は、23人を刑事特別法違反で検挙しました。
 9月23日、日本は、国連に核実験停止決議案を提出しました。
 9月28日、外務省は、「わが外交の近況」を初めて発表しました。これを外交青書といいます。
 10月1日、日本は、国連安保理事会非常任理事国に当選しました。
 10月4日、インド首相ネルーが来日しました。
 10月24日、愛媛県教育委員会は、勤務評定実施を通知しました。
 11月18日、芹首相は、東南アジア・オセアニア9カ国訪問に出発しました。特に、経済協力や賠償間譲などを協議するためです。
 11月19日、前橋地裁は、ジラードに対して懲役3年執行猶予4年の判決を言い渡しました。
 11月24日、沖縄のムーア高等弁務官は、地方自治・選挙関係法を布令により改正し、首長の不信任の条件などを緩和しました。
 11月25日、那覇市議会は、市長不信任案を可決し、瀬長市長を解任しました。
 11月26日、愛媛県教育委員会は、評定書未提出校教員に対する年末手当の支払い停止方針を決定しました。
 12月4日、文部省は、小中学校教頭を職制化し、職務内容などを規定し、管理職手当支給を開始しました。
 12月6日、ジラードは、アメリカに帰国しました。
 12月6日、東京で、日ソ通商条約が調印されました。
 12月10日、愛媛県教組の勤評闘争でピケに警官が出動しました。
 12月17日、岸内閣は、経済審議会の答申により、新長期経済計画を決定しました。その内容は、(1)高度成長政策を継承(2)年率6.5%の経済成長が目というものです。
 12月19日、第4回日米安保委員会は、空対空誘導弾サイドワインダーの受け入れを決定しました。
 12月20日、全国都道府県教育委員長協議会は、教職員の勤評試案を了承しました。
 12月22日、日教組は、勤評闘争を強化し、「非常事態宣言」を発表しました。
 12月31日、韓国と抑留者相互釈放・日韓前面会談の再開に関する覚書に調印しました。
 この年、なべ底不況が始まりました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ジラード事件
 ジラード事件は、独立国日本の状況を如実に教えてくれた事件でした。
 明治時代に起こったノルマントン号事件によって、日本人は初めて、治外法権を知り、激怒しました。当時の日本の指導者は、条約改正に全力を注ぎました。
 ジラード事件によって、日本人は初めて、独立国日本に治外法権があることを知り、激怒しました。当時の日本の指導者、現在の日本の指導者の立場でどうでしょうか。
 戦後、群馬県相馬が原は、戦前は陸軍が使用し、戦後は米軍に接収され、演習場となりました。
 演習後、基地内で、親切な米兵が実弾を発射し、立ち入り禁止の基地内に入って、その薬莢を拾い、生活する地元の人との間で、奇妙な友好関係が形成されていました。これは戦前からの奇妙な慣習でした。ただ当時の刑事特別法では、基地内に立ち入った場合、懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定がありました。
そんな背景の中で、次のような事件が発生しました。
 1957年(昭和32年)1月30日、群馬県相馬が原の米軍演習場内の立ち入り禁止の場所で、相馬村議の妻である坂井なかさん(46歳)は、日常的に、村民と一緒に薬莢を拾っていました。その時、米軍第1騎士団第8連隊第2大隊のジラード3等特技兵(21歳)が坂井なかさんを小銃弾で射殺しました。1発目は外れ、2発目が致死でした。2発を撃ったということは、偶然でなく、故意といえます。
 2月2日、この事件はタブー視されていました。しかし、この日、殺人を目撃した人が社会党の茜ヶ久保重光衆院議員に相談して、発覚しました。それによると、「米兵が”ママさん、だいじょうぶ!”と手招きしたので、坂井なかさんが指示する場所に移動すると、10メートルの距離から狙撃した」というものでした。
 2月3日、新聞は、これをきっかけに事実を報道しました。
 2月4日、米軍の憲兵隊は、ジラードの自供を公表しました。憲兵隊は、「ジラードの行為は、公務遂行中であり、その場合には、日米行政協定により日本の主権は制限され、米側に裁判権がある」と主張しました。
 米軍は、日本人は、日米安保条約や日米行政協定の中に、治外法権的な扱いがあることを初めて知り、びっくりすると同時に憤激もしました。
 日本の世論に配慮した米側は、「裁判権不行使」という裏技により事態収拾しようとしました。
 5月18日、アメリカ本国では、ジラードを日本に引き渡すことに反対する運動がおこりました。米連邦地裁は、ジラードの身柄を日本へに引渡すことを禁じました。
 7月5日、ジラードは、この騒動の中で、日本人女性と結婚しました。
 7月11日、米政府が控訴して、アメリカの最高裁は、米政府の主張を支持する判決を下しました。
 8月26日、前橋地裁でジラード事件の公判が開始されました。検察側は、「傷害致死・懲役5年」を求刑しました。
 11月19日、前橋地裁は、ジラードに対し、傷害致死で、懲役3年・執行猶予4年の判決を下しました。しかし、検察側は、殺人事件に対して、執行猶予をつける軽い判決にもかかわらず、控訴しませんでした。ジラードは、もちろん控訴しなかった。また、この間に日本人女性と結婚していた。
 12月6日、ジラードは、裁判中に結婚した日本人女性を連れて帰国しましたた。
 これは、ジラード事件に対する前橋地裁の判決です。
「  判  決
    合衆国陸軍三等特技兵
     ウイリアム・エス・ジラード
 右被告人に対する傷害致死被告事件について、当裁判所は、検察官杉本覚一、同大平要、同小縄快郎出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。
   主  文
 被告人を懲役三年に処する。
 ただし、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。
 訴訟費用中、証人に支給した分は、すべて被告人の負担とする。
   理  由
 (罪となるべき事実)
(一)被告人の略歴
(二)本件当日午前における演習の状況
 被告人は、昭和三二年一月三〇日、群馬県群馬郡相馬村(この村名は本件当時のもので、以下の記載も同様である。)所在キヤンプ・ウエア演習場(榛名山の東南麓に位置し、面積約七〇〇万坪に及ぷ旧日本陸軍相馬原演習場。)で行われた右F中隊所属将兵三〇余名による演習に小銃手として参加し、同日午前八時前後頃、同演習場内相馬村大字広馬場所在御嶽山(米軍による呼称名はシユライン・ヒル、以下括弧中の名称はすべて同趣旨である。)附近から小銃および軽機関銃の実包射撃による陣地攻撃演習を開始し、その北西方約一キロメートルの距離に在る天神山(チョコレート・ドロップ。)を経て、その北西方約二〇〇メートルに在る同大字所在物見塚(六五五ヒル、標高約六五五メートル。)を攻撃し、午前一一時過頃ひとまず午前中の演習を終了し、昼食のため物見塚附近で休憩に入つたのである。
(三)米軍将兵とタマ拾いの関係
 そもそも、日米両当局は、かねてより同演習場周辺の要所に立入禁止の標柱および制札を設置するほか、演習実施の際にはその周辺の住民に対し、関係機関を通じて演習を行う旨予告するとともに、演習当日同演習場周辺など各所から見易い特定の場所に赤旗を掲揚して、危険につき演習場内への立入を禁止する旨警告し、地元日本国警察当局も演習中一般民衆の立入禁止のため種々の方策を実施し、かつ日米両国の関係機関においてしぱしば協議を開き、その実効をあげるための対策を講じ、もつて危害の発生を未然に防止するよう努力していたが、同演習場が前記の行政協定第二条にいわゆる合衆国軍隊が使用する施設又は区域であるか否かが明らかでないため、同演習場内の立入行為そのものを遽に処罰できなかつたことと、他方銃弾の空薬きようや砲弾の破片などの金属が高価で売れるところ、米軍当局がこれら物資の処理に殆んど関心を示さなかつたことから、これを拾得して生計の足しにするなどのため、右住民のうち演習場内へ立ち入る者も漸次に増え、遂には右の警告などをも無視して、演習実施中にもかかわらず場内へ立ち入り、しかもこれらタマ拾いの増加に伴ない、その相互間の競争も 激化し、演習のため行動する将兵につきまとつて拾い集める者も出て来る一方、米軍将兵のうちにも右のタマ拾いに対し好意的に多量の空薬きようを与える者もあつて、タマ拾いに対する日米双方の取締も所期の成果をあげ得ない実状であつた。
(四)本件当日におけるタマ拾いの行状
 本件の一月三〇日におけるF中隊の演習に際しても、真ちゆうの小銃弾や軽機関銃弾の空薬きようが拾えるためか、演習開始の頃から少なくとも六、七〇名に余るタマ拾いが前記警告を冒して演習楊内に立ち入り、ある者は演習中の将兵につきまとい、ある者は散兵線の前方に飛び出し、ある者は射撃直後のやけた軽機関銃の周囲に群がり、先を争つて空薬きようの拾得に熱中する余り、演習の執行を妨げるとともに、将兵ならびにタマ拾いの身命に危険を招いたため、実包による演習を中止させ、午後の演習においては空包を使用することにその予定を変更させてしまう程の状況であつた。
(五)本件当日午後の演習開始より本事件発生に至るまでの経緯
 かかる状況の下にF中隊は昼食後午後〇時半過頃より演習を再開し、部隊をモーホン少尉指揮の一隊とジガンテイ少尉指揮の一隊とに二分し、被告人は、モーホン少尉の隊に属し、まずモーホン少尉指揮の下に御嶽山附近に至り、同所から行動を開始して物見塚東峯およぴその附近に布陣するジガンテイ少尉の隊を攻撃し、この攻撃においては匍匐前進し、あるいは空包を撃ちながら進撃し、物見塚東南麓附近に到達した午後一時半頃攻撃を終止して将兵一同物見塚東峯に登り、続いてジガンテイ少尉の隊が右同様の演習を実施するためモーホン少尉の隊と交代して物見塚を降り、御嶽山に向かい出発したのであるが、その交代に際し、モーホン少尉はジガンテイ少尉より物見塚の東西両峯の中間に存する鞍部中央附近に存置する軽機関銃一挺およびフイールド・ジヤケツなど数点の管理を引き継いだのである。当時モーホン少尉指揮下の将兵は右のような攻撃演習を実施した直後であつて、その多くの者はかなり疲労していたため、物見塚東峯頂上附近から、その東側斜面上にかけて、モーホン少尉をはじめ各自思い思いの姿態で休憩をとつていたのであるが、同少尉はたまたまその身辺にいた被告人および ビクター.エヌ・ニクル三等特技兵の両名に対し、前記軽機関銃などの警備を命じ、これがため、被告人はニクル三等特技兵とともに右の鞍部におもむき、休憩を兼ねながら右軽機関銃などの警備の任に就いたのである。たまたま、その頃、物見塚西峯の東側斜面およびその南側麓附近に少なくとも数名以上のタマ拾いが、空薬きようを拾う機会をうかがいながら演習の推移や将兵の挙勤を見守るようにしていたのであるが、ニクル三等特技兵は右の警備に就くや間もなく、身辺に落ちていた銃弾の空薬きようを拾つて右の鞍部南斜側面下方に投げ棄て始め、この動作を数回繰り返し行ううち、被告人は、右ニクルをして被告人の所在位置からほど遠くない右の鞍部南側斜面上の個所に空薬きようを投げさせたうえ、前記西峯の東側斜面に待機していたタマ拾いに向かつて手招をしながら声をかけ、右の空薬きようの投げ棄てられた個所を指したので、タマ拾いの一人が右の斜面上から下り、その場に駆けつけ空薬きようを拾い始めたが、同時に右鞍部の西端北側附近からもタマ拾いの一人である相馬村大字柏木沢六五四番地の二農業坂井秋吉の妻女なか(明治四三年八月一三日生)が同所に駆けつけ薬きようを拾 得しようとしたところ、被告人ジラードは、同女に対し、鞍部西端附近に在る壕を指さし、「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と申し向け、もつて同女をして右の壕内に空薬きようが多量にあるから拾つてよい旨を理解させ、よつて同女をその壕内におもむかせたうえ(時に午後一時五〇分頃と思われる。)、所携のMワン小銃(当庁昭和三二年領第八〇号の四)の銃先に装着せる手りゆう弾発射装置(同号の五)に空包小銃弾空薬きよう(同号の三、長さ約六二・六ミリメートル、底部の直径約一一・九ミリメートル)を、その開口部を奥にして差し込み、空包一発を装てんしたうえ、突如、同女に向かい、「ゲラル へア」と叫ぶとともに右小銃をたずさえたまま前記の壕に向かい走り寄り、もつて同女を威嚇し、これに驚いた坂井なかが壕からはい上り、その北西方へ逃げ延びようとして走り行くその背後一〇メートル内外の距離から、同女の身辺をねらつて空包を撃ち、この空包のガス圧により前記空薬きようを発射し、もつて同女に対し暴行を行えたところ、意外にも右空薬きようが同女の左背面第七肋間部に命中し、この射入に因つて同女に、左背部から下行大動脈上部に達する全 長約一一センチメートルの盲管射創に基づく大動脈裂創を負わせ、右裂創による失血のため、即時、その場において、右坂井なかを落命させたものである。
(弁護人の主張に対する判断)
 弁護人は、本件事犯を目し、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第一七条3(a)(ii)にいわゆる公務執行中の行為から生じた犯罪であると做し、これを前提とし、本件については合衆国の軍当局が裁判権を行使する第一次の権利を有する旨主張し、たとえ合衆国が日本国の当局に本件に対する裁判権を行使しない旨を通告しても、この通告は日本国の当局から第一次の権利の放棄の要請によつてその権利を放棄した場合と異なるのであるから、右の通告により当然日本国が裁判権を行使する第二次の権利を取得するものとは認められないという趣旨と解される。
 しかしながら、本件は、それが公務執行中の行為から生じた犯罪であるか否かにかかわらず、前記行政協定第一七条1(a)および(b)により、日本国の裁判権と合衆国の軍当局の裁判権とが競合する場合であつて、この場合には同条3の規定が適用されるのであるから、いやしくも合衆国の軍当局が同条3(c)前段の規定に従い一九五七年五月一七日附書面で目本国の当局に対し、本件に対する刑事裁判権を行使しない旨を通告した以上、合衆国軍当局は本件につき、日本国内においての裁判権を失つたものと解すべきである。そして右の不行使の通告が他方の国の当局からの要請によつて裁判権を行使する権利を放棄した場合、すなわち同条3(c)後段の規定による場合と異なることは弁護人主張のとおりであるが、右いずれの場合でも合衆国軍当局が日本国内での裁判権を失うという点は全く同一といわねぱならない。従つて、日本国の裁判所が本件につき行政協定第一七条l(b)により有する裁判権を行使することには、いささかも疑義はない。従つて本件につき日本国当局と合衆国軍当局とのいずれが裁判権を行使する第一次の権利を有するかは、もはや過去のことであつて、説示する利益を 欠き、従つてまたこの意味からする本件が公務執行中の行為から生じた犯罪であるか否かを判断する必要は少しもないのであるが、他の意味で重要な争点と認められるので、以下に説示することとする。
 すなわち、本件が公務に従事している時間中に、その場所で発生したものであることは、これを認め得ても、上官の命令による軽機関銃などの警備という公務の遂行とは直接的に何の関係もなく、従つて公務遂行の過程に犯された行為でないことは、判示認定の事実によつて、おのずから諒解すべきであるが、前掲各証拠からも明らかなとおり、本件当時タマ拾いによつて軽機関銃やフイールド・ジヤケツなどが盗まれたり、あるいは毀損されたりするような具体的な心配があつたものとは認められず、タマ拾いはもつぱら空薬きようを拾うことにのみ気を配つていたものである。それゆえにこそ被告人とともに警備の命を受けていたニクル三等特技兵も軽機閲銃などの所在からやや離れた鞍部東寄りの個所で休憩しながら、判示のように空薬きようを特段の意味もなく、いわぱ退屈凌ぎに何度も投擲していたものと思われる。そして被告人がタマ拾いに向けて発砲したのは判示の坂井なかだけに止まらない。その直前にも西峯の東側斜面から下りて来て薬きようを拾つた判示タマ拾いの一人小野関英治に対しても、突然同人の身辺に走り寄り、これに驚いて逃げる同人の背後からその身辺をねらつて判示と同 様の方法により空薬きようを発射した事実があり、このように、わざわざタマ拾いを招き寄せてはこれを追い払うが如きことは到底公務の執行とは考えられない。しかも、空薬きようを手りゆう弾発射装置に挿入して空包を撃ち、これを発射するが如きことも武器を毀損する虞ある使用方法にして合衆国軍当局の許さない用法であり、またみだりに近距離から人に向けて空砲を撃つことも禁止されているのであつて、本件は、軽機関銃などの警備の任務の遂行とはおよそかけはなれた主観的にも客観的にも何の関連もない全く被告人個人の一時の興味を満足させるための度を過ごした一つの悪戯としか考えられない。従つて本件が刑法第三五条にいわゆる正当行為に該当する旨の弁護人の主張は採容の限りではない。
 次に、日本国は前記行政協定第一七条1により同条の規定に従うことを条件として裁判権を有するところ、本件については、日本国の当局が合衆国の軍当局に対して金井辰雄ら五名の検察官に対する供述調書を提示せず、同条6(a)の両国当局の犯罪の捜査の実施並びに証拠の収集および提出についての相互援助の規定に違反して公訴を提起したものであるから、日本国は裁判権を有しないとの主張について判断するに、関係資料によれば、合衆国の軍当局が日本国の当局に対し、右証拠資料の提出を要請したこともなく、また日本国の当局において必要と認め自発的に提出したこともなく、従つて合衆国の軍当局が日本国の当局からこれら資料を受領していないことは明らかであるが、前記行政協定第一七条6(a)の規定の趣旨は、両国いずれの当局も他方の国の当局に対し当該事件の証拠資料の一切をあげて提示しなければならないことを要求するものでなく、当該事件処理上必要と思料される範囲内の資料を提示すれば足るものと解するのが相当であつて、弁護人主張の前記証拠資料が本件の処理に重大な影響を及ぼすほどの資料とも認められず、かりにそうでないとしても該資料の存在とその内容 については本件犯罪の捜査当時既に合衆国の軍当局において知りまたは知り得たものと認められるから、日本国の当局が合衆国軍当局に対し、これら証拠資料の提出方の要請もないままにたまたま提示しなかつたところで、前記行政協定第一七条6(a)にいわゆる相互援助に何ら欠くるところはない。従つて、同主張も理由がなく採容することはできない。
(法令の適用および犯情)
 被告人の判示行為は、刑法第二〇五条第一項の傷害致死罪に該当するので、その所定刑期範囲内で処断すべきものである。
 よつてその情状について見るに、まず、本件は、被告人が武器を不法な目的のために不正な用法で使用し、人命を失うに致らしめるという重大な結果を招いたものであつて、必ずしも犯情軽くないものがある。しかしながら、本件の誘因として、これまで、関係当局の努力にもかかわらずタマ拾いの者が立入禁止の警告を冒して演習中の演習場内に立ち入り、尊貴であるべき身命を、自ら危険な境地に挺してまで利欲のため、あえてタマ拾いに熱中する一方、一部のタマ拾いと一部の米兵とが互いに節度を越えて狎れ合つたことなどが考慮され、延いては本件のような悪ふざけによる不祥事の発生も予見できないことではないのである。本件当日もまた、かかる状況のもとで演習が行われたもので、その参加将兵のなかに混入して無秩序に各自思い思いに行動するタマ拾いの側にも非難さるべき一半の責は免れ難く、これを一兵卒に過ぎない思慮の未熟な被告人のみに、本件事故の全責任を負わせることは相当でない。また、本件演習に当り被告人が支給された小銃がたまたま故障したため、副分隊長の某下士官からその携帯の小銃を借り受け、その小銃に通常分隊長や副分隊長のみが所持し、兵卒の所持しな い手りゆう弾発射装置が装着されたままであつたところから、この武器が被告人をして稚気を起こさせ、本件を偶発したものとも認められ、被告人がタマ拾いを特に蔑視したとか、あるいは被告人が坂井なかの身体に命中するようにねらい射ちしたという証拠は何処にもないのであつて、被告人にとつて致死の結果はもとより、発射薬きようの命中ということがいかに意外な出来事であつたかは、本件発生直後の被告人の周章狼狽ぶりからも容易に推測することができるのである。また合衆国の軍当局においても、坂井なかの遺族の将来を案じてその慰しやの方法を講じ、その承諾さえ得れぱ相当額の金員を直ちに交付できる用意を完了していることが認められる。そして被告人自身も十分に前非を悔い、再犯の虞もないと思われるから、被告人の年令、性行、経歴、環境など諸般の情状を考慮すれぱ、被告人を懲役三年に処し、刑法第二五条第一項を適用して、この裁判確定の日から、四年間右刑の執行を猶予するのが相当である」

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