print home

エピソード

279_02

安保改定問題U(岸信介内閣、警職法、勤評闘争)
 ここでは、1958年を扱います。A級戦犯岸信介の時代です。アメリカ的に民主化路線にさまざまな妨害が始まりました。
 日米安保に命を懸けるほどアメリカの忠実な首相が、アメリカの民主主義には理解が少ないことが気になりました。
 1957(昭和32)年 2月25日、@56岸信介内閣が誕生しました。
 1958(昭和33)年1月1日、日本は、国連安全保障理事会の非常任理事国に選出されました。
 1月7日、米軍は、神奈川県に対して、日本人の基地従業員328人を解雇すると通告しました。
 1月0日、琉球政府は、沖縄に教育基本法教育委員会法学校教育法社会教育法を公布しました。これを教育4法といいます。沖縄にも、日本国民としての教育を明示しました。
 1月12日、那覇市長選挙で、民主主義擁護連絡協議会の兼次佐一が、社大党候補を破り、当選しました。
 1月17日、米軍は、羽田空港施設の返還を日本に通告しました。
 1月20日、インドネシアと平和条約・賠償協定などを調印し、経済開発借款に関する公文を交換しました。その結果、12年間に2億2308万ドルを支払うことを約束しました。
 1月29日、海上自衛隊の練習艦隊は、戦後初めて、真珠湾に入港しました。
 1月31日、アメリカは、フロリダ州ケープ・カネベラルから、陸軍の中距離弾道ミサイルを使った人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功しました。
 2月1日、歴史学者は、紀元節問題懇談会を発足させ、紀元節復活反対の声明を出しました。
 2月4日、日印通商協定及び日印円借款協定に調印し、日本輸出入銀行が180億円を貸し付けることになりました。
 2月10日、北海道で、戦争中、強制労働をさせられた中国人が13年の潜伏後、石狩郡の山中で発見されました。
 2月11日、東京高裁は、昭電疑獄に関して、芦田元首相らに無罪を言い渡しました。
 2月16日、民主主義擁護連絡協議会に参加の旧社大党員を中心に、沖縄社会党を結成しました。
 2月19日、アメリカ国務省は、「国連軍は朝鮮半島から撤退しない」と言明しました。
 2月27日、科学技術庁は、初の「科学技術白書」を発表しました。
 3月5日、北京で、第4次日中民間貿易協定が調印されました。
 3月12日、最高裁は、公務員法による一般職公務員の政治活動制限を合憲と判決しました。
 3月13日、文部省は、越境入学抑制を各教委に通達しました。
 3月14日、台湾の国民政府は、日中貿易協定に抗議し、日本と御通商会議中止を通告しました。
 3月16日、第4回琉球立法院選挙が行われ、社大党9人、民主党7人、民連5人、無所属8人が当選しました。
 3月18日、米国は、伊丹飛行場を返還しました。
 3月19日、文部省は、小中学校の道徳教育実施要綱を各教委に通達しました。
 3月27日、ソ連のブルガーニン首相が辞任しました。ソ連最高会議は共産党第1書記のフルシチョフを首相に指名しました。
 3月28日、岸首相は、衆議院内閣委員会で、「在日米軍への攻撃は、日本への侵略である」と答弁しました。
 3月31日、ソ連は、核実験の一方的中止を発表しました。
 4月1日、駐台湾大使は、岸首相の親書を蒋介石総統に手渡して釈明しました。
 4月1日、売春防止法を全面施行し、罰則規定を新設しました。その結果、全国3万9000軒・売春婦12万人が法的には無くなりました。
 4月1日、教員の勤務評定が実施されました。
 4月5日、防衛庁は、次期主力戦闘機にグラマンF11F-1Fの採用内定しました。
 4月11日、京都府知事に蜷川虎三が当選しました。
 4月15日、第4次日韓会談は、4年半ぶりに開始されました。
 4月18日、自民党の岸信介は、社会党の鈴木茂三郎は、解散について会談し、不信任案上程・討論後採択せずに解散の方式で意見が一致しました。
 4月23日、東京都教育委員会は、勤務評定案を可決しました。都教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。
 4月25日、衆議院が解散しました。これを話し合い解散といいます。
 4月30日 刑法・刑事訴訟法改正が公布され、凶器準備集合罪・斡旋収賄罪が新設されました。
 5月1日、公立小中学校の学級定員を50人と定める法が公布されました。これが50人学級制です。
 5月2日、長崎の中国切手展で、一青年が会場の中国国旗を引きずり降ろし、逮捕されました。これを長崎中国国旗事件といいます。
 5月6日、東京地裁は、蒲田事件につき、都公安条例を違憲と判決しました。
 5月9日、中国の陳毅外交部長は、長崎中国国旗事件に関し、これを放任した岸政権に対し、「岸政府は、中国敵視政策をとっている」と言明しました。
 5月10日、中国は、長崎中国国旗事件に関し、日本政府の対応に抗議して、日中貿易の停止を通告しました。
 5月13日、岸内閣は、閣議で、日中問題静観を確認しました。
 5月22日、@28衆議院議員総選挙が行われました。その結果、自民党287人、社会党166人、共産党1人、無所属・諸派13人が当選しました。社会党は議席166人・得票率32.9%で、戦後の最高水準を記録しました。
 5月23日、防衛庁設置法改正・自衛隊法改正が公布され、定員を1万9216人増員、1混成団新設、航空総隊・航空方面隊を編成することになりました。
 5月24日、第3回アジア競技大会が、東京の国立競技場を中心に開催される。参加20ヵ国で、日本スポーツ界始まって以来最大の祭典となる。
 6月1日、日本共産党は、党中央と対立した全学連共産党グループを除名しました。
 6月2日、防衛庁は、国産地対空・空対空ミサイルを初実験しました。
 6月5日、和歌山県教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。
 6月8日、憲法問題研究会第1回会合が開かれ、代表に大内兵衛が就任しました。
 6月10日、岸内閣が総辞職しました。
 6月12日、@57第二次岸信介内閣が誕生しました。法相に愛知揆一、外相に藤山愛一郎、蔵相佐藤栄作、文相に灘尾弘吉、厚相に橋本龍伍(橋本龍太郎元首相の父)、通産相に高碕達之助、労相に倉石忠雄、経済企画庁長官に三木武夫、防衛庁長官に左藤義詮、国務大臣に池田勇人、官房長官に赤城宗徳、総理府総務長官に松野頼三らが就任しました。この結果、岸・河野・大野・佐藤の主流4派で主要ポストを独占することになりました。自民党は、衆院の正副議長と16の常任委員長をすべて独占し、岸内閣の高姿勢が強調されました。
 6月18日、公定歩合が戦後初めて引き下げられました。
 6月20日、原子力研究所の東海研究所一号炉が50000キロワット時を記録しました。これは沸騰水型原子炉では世界最高記録です。
 6月20日、原水爆禁止を訴える1000キロ平和行進が広島平和記念公園をスタートする。
 6月26日、高知県教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。
 6月30日、仙台高裁は、平事件の原判決を破棄して、騒乱罪を認めて、有罪判決を下しました。
 7月7日、国鉄幹線調査会は、東海道新線の早期着工を答申しました。
 7月16日、東京都教育委員会は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入した指導教員284人を処分しました。
 7月21日、太田薫が総評議長に選出されました。
 7月21日、共産党大会が開かれ、「51年綱領」を廃止し、行動綱領と規約を採択しました。議長に野坂参三、書記長に官本顕治を選出しました。
 7月30日、ブース高等弁務官は、沖縄の軍用地代一括払いの取止めを声明しました。
 7月31日、文部省は、小中学校学習指導要領改定案を発表し、基準性を強化しました。
 8月11日、官公労240万人が解散し、総評に加盟しました。
 8月12日 全日空ダグラスDC3型旅客機が伊豆下田沖で墜落し、33人が死亡しました。
 8月14日、自民党の河野一郎総務会長は、防衛庁長官の佐藤義詮にロッキードFlO4Cの次期戦闘機機種問題につき再検討を申入れました。
 8月15日、総評が、教員の勤務評定に反対して、勤評反対・民主教育を守る国民大会を開催する。
 8月17日、スイスから誘導弾エリコンが横浜に到着しましたが、労組は荷役を拒否しました。
 8月22日、アメリカは、「10月以降1年間の核実験停止をする」と発表しました。
 8月22日、衆議院決算委員会は、機種選定に関する不正を追及しました。
 8月24日、誘導弾エリコンは、横須賀の自衛隊用岸壁から陸揚げされました。
 8月25日、防衛庁は、機種正式決定を中止しました。
 8月26日、首里高校が持ち帰った甲子園の土が植物防疫法に触れると、那覇港で海中に投棄されました。
 8月28日、文部省は、週一時間の道徳教育を義務化と通達しました。
10  9月6日、文部省は、警官に守られて、道徳教育指導者講習会を強行開催しました。
 9月7日、埼玉県ジョンソン基地の米兵は、小銃を暴発させ、西武電車に命中し、学生1人が死亡しました。
 9月10日、防衛庁は、米国防総省に対して、空対空誘導弾サイドワインダー14発を発注しました。
 9月11日、藤山愛一郎外相は、米国務長官グレスと会談し、安保条約改定に合意しました。
 9月12日、下中弥三郎・上代タノの呼びかけで、14大学長は、勤評問題の斡旋に乗り出しました。
 9月14日、文相の灘尾弘吉は、勤評問題の斡旋案を拒否しました。
 9月15日、総評・日教組は、勤評反対第1次全国統一行動を行いました。勤評反対全国統一行動に90万人以上が参加しました。
 9月17日、文部省は、小中学校の「学習指導頭領」を発表し、儀式での日章旗掲揚と「君が代」斉唱を強調しました。
 9月25日、全国一斉に学力テストが実施され、248万人が受験しました。
 9月30日、ソ連が核実験を再開しました。
11  10月4日、藤山外相は、マッカーサー米大使と日米安保改定交渉を開始しました。
 10月4日、岸首相は、日米安保条約改定の第1回日米会談を開きました。
(1)賛成派は、アメリカの核の傘による日本の発展を主張しました。
(2)反対派は、アメリカのアジア戦力体制に巻き込まれる危険性を主張しました。
 10月8日、岸内閣は、警察官職務執行法改正案を国会に提出しました。これを警職法といいます。内容は、大衆運動取締りのため、職務質問・所持品調べ・土地建物への立入りなど警官の権限を大幅に拡大強化するものでした。社会党は、即時撤回を主張しました。
 10月9日、岸首相は、NBC放送のブラウン記者と会見し、「憲法第9条廃止の時」と言明しました。
 10月11日、衆議院議長の星島二郎は、職権で警職法改正案を地方行政委員会に付託しました。
 10月11日、警職法反対の社会党は、地方行政委員会室を占拠しました。
 10月13日、社会党・総評を中心に65団体は、警職法改悪反対国民会議を結成し、5次にわたる全国統一行動を呼びかけました。「デートも邪魔する警職法」というスローガンが国民の共感を得て、「オイコラ」警察復活の危惧が広がりました。
 10月15日、ラオスと経済・技術協力協定を調印し、2年間で10億円を供与することになりました。
 10月27日、西ドイツ経済相が記者会見で、日本の低賃金は脅威であると述べる。
 10月28日、日教組勤評闘争で、群馬県・高知県で10割休暇闘争に入りました。
 10月31日、橋本忍作、フランキー堺主演のテレビドラマ「私は貝になりたい」が放送され、大反響を呼ぶ。
12  11月4日、政府・自民党は、警職法改正案の成立を目指して、衆議院本会議で、「会期延長30日」を抜き打ちで、強行採決しました。
 11月7日、社会党は、会期延長の無効を主張して、院内より引き上げました。
 11月13日、藤山外相は、「安保改定交渉は国会正常化まで延期」と言明し、交渉を中断しました。
 11月13日、新聞協会は、「週刊明星」の皇太子妃内定記事は法同協定を無視したものと雑誌協会に抗議しました。
 11月19日、中国外相の陳毅は、「日米安保条約改定に関し日本の中立を期待する」と声明しました。
 11月22日、岸首相は、社会党の鈴木茂三郎委員長と会談し、警職法審議未了・衆議院自然休会で了解が成立しました。
 11月27日、皇室会議が、日清製粉社長の正田英三郎の長女で、聖心女子大学卒業の正田美智子を皇太子妃とすることを承認しました。宮内庁は、皇太子明仁と日清製粉社長の長女である正田美智子と婚約を発表しました。
13  12月2日、ソ連は、安保改定問題に関し、日本に中立化政策を望むとの覚書を通告しました。
 12月9日、神奈川県教育委員会と県教組は、自己反省の記録とする勤務評定の「神奈川方式」を決定しました。しかし、文部省は、これに反対しました。
 12月10日、共産党除名の全学連幹部らは、共産主義者同盟を結成しました。
 12月10日、自民党議員総会で、反主流は、執行部の責任追及と党人事刷新を要求しました。
 12月11日、高知県立安芸高校の生徒会は、勤評闘争処分教師の処分撤回闘争に立ち上がりました。高知県教委は、勤評反対の校長を任命しました。
 12月13日、全学連第13回臨時大会三役改選で、革命的共産主義者同盟が主導権を握りました。
 12月18日、米は、大陸弾道弾(ICBM)の試射に成功しました。
 12月27日、国民健康保険法が改正され、国民皆保険となりました。
 12月27日、自民党の池田勇人・三木武夫・灘尾弘吉の反主流派3閣僚は、岸首相の強硬姿勢に反発し辞表を提出しました。
 12月31日、自民党の池田勇人・三木武夫・灘尾弘吉の反主流派3閣僚は、辞任しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
勤評闘争と学力テスト
 1957年は、私が高校1年の時です。記憶なのか、学習なのか、分かりません。しかし、教師になった動機
 競争は、誰かが1位になれば、誰かが最下位になります。他人が提供した場所で、人は、上位をめざして、頑張ります。私は、そんな姿が嫌で、自然体で、勝てばいいし、負ければいいというスタンスです。他人が煽る競争には参加したくありません。
 日本教職員組合(日教組)50万人は、総評の御三家といわれ、政権党にとっては、強大な組織でした。
 1950年12月、第3次吉田内閣は、地方公務員法を成立させ、第40条で、地方公務員の勤務について定期的に成績評価を義務づけました。これを勤務評定といいます。しかし、教育という特殊性から客観的な勤務評価(勤評)は困難であり、実施されることはありませんでした。
 1954年6月、第5次吉田内閣は、教育2法(「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」・「教育公務員特例法の一部を改正する法律」)を成立させ、教員の政治活動を禁止しました。
 1956年6月、第3次鳩山内閣は、警官隊500人を本会議場に出動させ、新教育委員会法(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」)を成立させ、公選制の教育委員を任命制にしました。
 愛媛県の白石春樹知事は、早速、5人の教育委員を任命しました。
 11月、知事によって任命された愛媛県教育委員会は、市町村教育委員会に対して、小中学校教職員の勤務評定書の提出を命じました。評価の方法は、校長が教員の計画性・協調性・指導性などの項目を5段階で評定するというものです。校長を評価するのは、教育委員会です。教育委員を評価するのは知事です。こうして教育の中央集権化が始まったのです。
 12月、県下767校で、教員の勤務評定書が全て提出されました。
 愛媛に続いて、香川県でも勤務評定が実施されました。
 教員の勤務評定が行われた結果、上司の意に沿わない先生は、給与・人事異動で差別されます。
 1961年から、文部省は、「学習指導の改善の資料にする」という理由で、中学校2・3年生を対象に、全国一斉学力テストを実施しました。1962年から小学校・高等学校を対象に、抽出学力調査を行いました。文部省は、「全国一斉学カテストは基本的な事項について出題するのでテスト対策のドリルや補習授業は必要ない」と説明しました。
 香川県では、学力テストが公表された結果、全国でも下位に位置していました。そこで、学力テスト日本一を合言葉に、学力調査に合わせたカリキュラム編成や学校現場に宿題プリ ントやドリルなどが強要されました。反対する先生は、島の学校に強制配転させられました。物言えぬ状況の中、生徒の実態を無視した放課後の連日の補習授業が行われたり、県教委は学力テスト対策として教科研究会に先生を強制動員しました。
 学力テスト前には、予習という名目で、テストの答えあわせが何回も行われました。テスト当日は、教師が正解を教えてまわったり、学習の遅れた生徒を強制的に休ませたり、特殊学級にいれるなど、人為的な不正行為が公然と行われました。その結果、社会科の平均点が97点の学校も出てきました。香川県は学力テストに中学の部は4年連続、小学の部は3年連続で日本一に「輝き」ました。これをテストあって教育なしといいます。
 同じ四国の愛媛県は、香川県に追いつき追い越せをスローガンに徹底した学力テスト対策を行いました。これを涙の愛媛といいます。そして、文部省高官が「愛媛は全国でトップの栄誉を勝ち得た。ひとえに教師みなさんの不断の努力のたまもの」と煽ったことで、全国の競争化が進みました。
 このような弊害が表面化し、反対運動が高揚する中、1966年に学力テストは廃止されました。
 これは香川県高松市にある中学校の記録です。香川県の中学校は4年連続で学力テスト日本一に輝き、この中学校は、全国でもトップクラスの成績でした。日本一の次は世界一の「イートン校」を目標にしたといいます。
 毎日6時間の授業の後、2時間の補習をします。1日平均5時間ですから、週に30時間の授業をしました。教科書は空で読み上げたといいます。日が暮れるまで続く補習では、「テストに出るぞ」が口癖でした。過熱ぶりに疑問は感じても、迷っている暇はありませんでした。
 年間30回を超すテストの中で、難易度の低い学テはむしろ印象が薄いといいます。「学テの準備なんて必要なかった。普段の授業からして、テストを念頭に置いていたんだから」。
 ある人は、「中学2年の秋という学期半ば、国語の先生が着任した。家に帰ってその話をすると、その先生は、学力テスト阻止闘争で処分を受け、裁判闘争に勝って10年ぶりに職場復帰を果たしたということを教えられた。教壇に戻った先生は、ひたすら授業に専念した。教える技術は素晴らしかった」と体験談を語っています。
 1961年〜1962年にかけて、取調べを受けた教師は、2000人にのぼり、逮捕された先生は61人、起訴された先生は15人でした。
 1976年、最高裁は、「学力テストは合憲・適法」と判決しました。
 文科省は、2001年度から、小学生〜高校生約100万人を対象に共通の学力テストを実施している。その理由として「学習指導要領に沿った理解がどこまでできているか測定する」と説明しています。文科省はテストの目的を、競争させて順位をつけることではなく、「その学年の児童・生徒がどれだけ、学習指導要領によって定められた学習内容を理解しているかのデータを得る」としています。
 大学のセンターテストに体験済みですが、マーク方式では、マーク式に適した問題しか出題できません。受験雑誌では、大学の教授や教育専門家の指導・助言より、予備校講師の発言が重視されています。ペーパーテストでは、「見える学力」は測れても、「見えにくい」学力は測れません。その結果、問題が「知識・理解」偏重し、授業改善や学力形成に役立たず、受験のテクニックだけが評価されます。
 県全体の結果を公表している自治体は28で実施しています。
 大分県では、平均点が優秀だった学校名を公表しました。小学校333校の内51校、中学校144校の内56校です。一般の人も、ホームページでも閲覧できる念の入れようです。公表の目的を県教委は次のように説明しています。(1)学力向上に成果を出している学校名が出ることで、他の学校がその取り組みを参考にしたり、情報交換を行ったりできる(2)各学校、各教職員が、学力向上へ向けて意欲的な取り組みを行うきっかけとなる(3)保護者、地域住民に、学力向上への関心をもってもらう機会となる。(4)「学力向上のためには、学校だけでなく家庭の協力が必要。県内全体の機運を上げるためには、まずは現状を知ってもらうことが必要と考え、校名公表に踏みきった」と説明する。県教組は「テストの結果で学校が評価され、教育現場が混乱することは明らか」と反対しています。
 2002年度から校名公表に踏みきった東京都荒川区教委の担当者は、「公表で各学校、行政、家庭、地域とが連携を取る環境を作ることが出来た。学校間の差も以前より縮まっている」と成果を語っています。「学校別の達成率をホームページでも公表し、達成率が低かった項目についての改善プランを作成し、実践している」と豪語しています。
 どのように利用されているのでしょうか。
 これは小学校6年生の担任の実践例です。昨年度の学力テストの結果をスクリーンで見せて、「私が教えれば、成績がこのように向上する」と自慢し、自分について来れば「この1年間で、皆さんをうんと賢くします」と宣言します。つまり奴隷状態にさせるのです。点数が取れやすい科目を数値目標にします。私が奴隷状態にさせるというのは、本当に勉強の楽しさが分かれば、中学生になり、高校生になっても、勉強するものです。奴隷状態から解放された時に、真価が発揮されるのです。
 岩手県教委は、宮城・和歌山・福岡の3県とともに実施した2005年度の統一学力テストの結果を公表しました。岩手県内の小学5年生は国語・社会・算数・理科の全4教科とも4県でトップだったが、中学2年生は国語・理科がトップだったが、数学・英語は04年度に続き最下位でした。
 岩手県教委は、「中学2年生は家庭学習の時間が全国平均より少なく、主な原因のひとつだろう」と分析し、今後は数学と英語の学力向上を目指し、教員の研修や少人数指導を行う教員を増やすなどの対策を取るとしています。
 1961年に導入され、1965年に廃止になった学力テストの教訓は、学校を序列化し、過度の競争を行い、学校教育に行政が介入したことです。
 現在、学力テストを利用して、学校格差を助長し、教師間の差別化を図り、A教諭・B教諭・C教諭などと選別し、それに対応する賃金格差を導入していると聞きます。いずれ、時間の問題だと予想します。ただ、大屋映子氏が指摘するように「現在の教師は弱い」。40年前の教師は、自分が不利益を蒙っても、子供たちのためには闘う教師でした。彼らの勇気ある告発が、廃止に追い込んだのです。
 私は、勇気ある教師と接する世代の人間でした。
10  以下は、勇気ある教師と接した私の体験談です(1)。
 進学用模擬テスト(業者模試)は、実施の1カ月ほど前に学校に送られてきます。ある時から、急にどんな傾向が出るか見たいという教師が増えました。職員会議で、教科別の模試結果を公表するということがあとで分かりました。私の学校も進学校でしたが、旧制中学校の系列をひく進学校の成績より上回る結果もありました。後で分かったことですが、模試を前もって見て、「今までのおさらいをやろう」と言って、模試の問題を解き過ぎた結果でした。
 2年次は日本史・世界史は必修で、社会科の模試は、3年から公表となりました。ある世界史の教師は急に厳しく指導して、3年の世界史選択希望者が2クラスになりました。例年は世界史選択クラスは10クラスの内4クラスです。後で分かったことですが、勉強の意欲のある生徒には優しく、そうでない生徒には厳しくして「お前は世界史ではついてこれん」などの悪罵を浴びせたということです。その結果、世界史の模試結果は、全国平均をかなり上回り、私の持つ日本史は全国平均以下となりました。そんな背景を知らない同僚は、「世界史はすごいなー。誰が教えてるんかいな」と噂になったということです。
 そんなことを知らない上司は、私をC教諭とするでしょう。私は、生徒に日本史の楽しさ、勉強の面白さを知ってもらえば、上司の評価はどうでもいいです。馬車馬はいやです。競争社会では、勝つ馬もあれば、負ける馬もあります。自分を壊し、家族を壊してまで、勝ち馬にはなりたくありません。
 おかげで、私は定年後は、文化財審議委員の委嘱を受けたり、市の定期講座のパソコン指導員をしたり、学校の研修に招かれたり、忠臣蔵の講演などで、多忙な毎日を送っています。
 上司が私を評価するなら、私にも上司を評価する権限を与えてほしいです!!
11  以下は、勇気ある教師と接した私の体験談です(2)。
 私の勤めていた学校は、進学校です。
 ある学年の国公立進学率や全体の進学率が際立っているので、今でも語り草になっています。しかし実情を知っているものからすると、素直の喜べません。
(1)入学式の時、「進学については、学校の指導に従う」という誓約書を書かせます。
(2)試合前の大切な全体練習の時に、レギュラーの何人かが欠席します。出席した生徒に聞くと、「補習を受けないと、推薦状を書いてもらえない」というのです。
(3)家の事情で家から通える私立大学希望者であっても、合格できる地方の国公立を組み合わせによって複数校受験させます。これが国公立進学率上昇のポイントです。
(4)浪人をさせないという方針なので、九州の南の方にある工業大学を専願推薦で受験させます。これが全体の進学率を上昇させるポイントです。その後、その大学から「3人も同時に退学したが、何かあったのでしょうか」という問い合わせがあり、その実態が浮かび上がったのです。
 ゆめゆめ、数字の魔術には踊らされないようにしたいものです。

index