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エピソード

279_04

安保改定問題W(新安保条約発効、東大生樺美智子の死)
 1960年は、私が18歳の時です。1960年は、水俣病とか三池闘争もありました。
 ここでは、安保改定問題を取り上げます。
 1958(昭和33)年6月12日、@57第二次岸信介内閣が誕生しました。
 1960(昭和35)年1月5日、三井三池労組は、1214人の解雇通告を一括返上しました。
 1月6日、藤山愛一郎外相は、駐日アメリカ大使のマッカーサーとの間で、安保改定交渉が1年3カ月ぶりに妥結しました。
 1月12日、岸内閣は、が436品目の自由化を決定しました。
 1月16日、岸首相ら新安保調印全権団は、アメリカに出発しました。渡米を阻止しようとする全学連主流派学生700人は、羽田空港ビルに座り込み、警官隊と衝突しました。
 1月18日、朝日新聞は、世論調査結果を発表しました。安保改定(是29%、非25%)、6月2日の政府の国会での安保審議の進め方(是12%、非58%)、6月3日岸内閣の存続(是12%、非58%)。
 1月19日、ワシントンで、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)、施設・区域・米軍の地位に関する(行政協定に代わる新協定)、事前協議に関する交換公文などが調印されました。
 1月20日、岸首相は、アイゼンハワー大統領と会談して、大統領の訪日(6月20日頃)と皇太子夫妻の訪米(日米修好100年祭記念)とを決定しました。
 1月23日、総評主流派の労働者同志会は、労働運動の前進のためにという新方針を発表しました。その内容は、経済闘争重視の日本的労働組合主義を提唱するものでした。
 1月24日、民主社会党結成大会が開かれ、委員長に西尾末広、書記長に曽爾益を選出しました。民社党は、衆院40人・参院16人の勢力で、新安保条約には反対するが、安保条約の即時廃棄にも反対する考えを表明しました。
 1月25日、三井鉱山は、三池鉱業所にロックアウトを実施しました。労組側は、全山で無期限ストに突入しました。
 1月27日、ソ連は、対日覚書で新安保条約を非難し、「外国軍隊が撤退しない限り、歯舞・色丹は引き渡さない」と通告しました。
 1月30日、緑風会は、参議院同志会と改称しました。
 2月3日、大蔵省、渡航外貨制限の緩和、外国向け雑送金自由化など、為替自由化措置を実施。
 2月5日、岸内閣は、ソ連の対日覚書に対して、「不当な内政干渉である」と反論しました。
 2月8日、岸首相は、衆議院予算委員会で、政府統一見解として、「新安保の極東の範囲は、フィリピン以北・日本周辺」と答弁しました。
 2月10日、岸首相は、再度、衆議院予算委員会で、「北千島を含まず、金門・馬祖島は範囲内」と答弁しました。
 2月13日、フランスがサハラで核実験し、第四の核保有国になりました。
 2月19日、衆議院安保特別委員会で審議が開始され、社会党は、国会による条約修正権を主張し、修正権論争が続き、紛糾しました。
 2月20日、東京株式市場ダウ平均が初の1000円台を突破しました。
 2月23日、美智子皇太子妃が男児を出産し、浩宮徳仁親王と命名されました。
 2月26日、新安保条約が審議入りしました。
 3月1日、自民党の三木武夫・松村謙三と自民党の石井光次郎総務会長は、「極東の範囲に金門・馬祖島を入れるのは反対」と申し入れました。
 3月6日、三池炭坑社宅で、会社側宣伝車が労組員を轢く事件が発生しました。
 3月9日、三池労組は、スト破り勢力の台頭に非常事態を宣言しました。
 3月10日、昭和天皇の第5皇女である清宮貴子内親王が島津久永と結婚しました。
 3月15日、韓国で選挙が行われましたが、不正選挙の疑いが濃く、李承晩の独裁に対する不満が高まりました。
 3月16日、韓国の李承晩が大統領に再選されました。
 3月17日、三池炭鉱で、第2労組が組織されました。
 3月19日、安保改定阻止1000万署名簿が国会に提出されました。
 3月24日、社会党臨時大会は、委員長に浅沼稲次郎、書記長に江田三郎を選出しました。
 3月25日、三池第1組合は、中労委決定の線で「強力な高姿勢をとる」ことを確認しました。
 3月26日、三池第1組合の1500人のデモ隊が三池鉱業所本館に入りました。
 3月28日、三井三池鉱業所は、第2組合だけにロックアウトを解除し、生産を再開しようとしましたが、第1組合がピケを張って阻止したため、乱闘・流血騒ぎとなりました。
 3月29日、暴力団員は、ピケラインの第1組合員を襲撃し、第1組合の久保清を刺殺しました。
 3月29日、建設省は、熊本県下の筌ダム建設予定地の測量を強行し、反対派住民は「蜂の巣城」に籠城しました。
 3月31日、熊本県警は、久留米市の浜田組組長浜田常喜らを、久保清殺害犯として逮捕しました。
 4月6日、三池闘争に斡旋工作をしてきた中労委の藤中委員長が、会社側に指名解雇を撤回することなどを骨子とする斡旋案を示し、会社は受諾する。
 4月12日、東工大の清浦雷作教授は、水俣病は「魚の毒」と発表しました。窒素工場の水銀説を主張いている熊本大教授らは、ただちに反論しました。
 4月15日、 安保改定阻止国民会議は、第15次統一行動を起こしました。
 4月15日、第4次日韓前面会談が再開されましたが、韓国情勢のため停止状態となりました。
 4月17日、炭労大会は、中労委の藤林委員長の斡旋案を拒否し、三鉱連(全国三井炭鉱労働組合連合会)脱退を表明しました。
 4月18日、韓国で、李承晩大統領の退陣要求デモが行われました。
 4月19日、韓国で、李承晩退陣要求の学生デモが暴動化し、警察が実弾で鎮圧し、ついに戒厳令が出されましたこれを4.19学生革命といいます。
 4月20日、岸首相は、衆議院安保特別委員会で、「在日米軍への防衛義務は集団的自衛権ではなくて、個別的自衛権の発動である」と答弁しました。
 4月20日、東大の教官有志374人が新安保反対声明を出しました。
 4月20日、第2組合の253人が炭坑に強行入坑しました。これを阻止しようとした第1組合は、警官隊と衝突し、多数の負傷者が出ました。
 4月21日、三池労組は、三鉱連を脱退し、炭労に直接加盟しました。
 4月25日、韓国で、大学教授らが李承晩の退陣を要求してデモを行いました。
 4月26日、韓国のソウルで、デモ隊が大統領官邸を包囲しました。
 4月26日、全学連主流派は、国会周辺で警官隊と衝突しました。
 4月27日、韓国の李承晩大統領が辞任しました。これを4月革命といいます。
 4月28日、沖縄で、革新系団体は、沖縄県祖国復帰協議会を結成しました。
 4月28日、韓国の李起鵬が当選を辞退して自殺しました。許政暫定内閣が誕生しました。
 5月1日、アメリカのU2型偵察機は、ソ連国内のウラル上空でソ連のミサイルに撃墜されました。 
 5月3日、池田大作が創価学会会長に就任しました。
 5月5日、ソ連は、米のU2型機を領空侵犯で撃墜と発表しました。
 5月7日、アメリカは、「ソ連の領空を侵犯した米偵察機は、スパイ飛行であった」と認めました。
 5月9日、社会党は、衆議院安保特別委員会で、米軍厚木基地の黒いジェット(U2型)機の任務など追及しました。
 5月10日、アメリカの国務省は、「在日U2型機は情報活動を行っていない」と声明しました。
 5月12日、第1組合のピケ隊2500人は、警官がにらみ合い、そこへ、応援に来た機動隊がデモ隊に突入して乱闘となり、170人の負傷者が出ました。
 5月13日、全学連主流派1500人は、国会正門前で、総決起大会を開きました。
 5月14日、安保阻止国民会議は、10万人の第2回国会請願デモを行いました。請願署名1350万人と発表されました。
 5月15日、ソ連は、人工衛星船第1号の打ち上げに成功しました。
 5月17日、三鉱連(全国三井炭鉱労働組合連合会)は、妥結調印を承認しました。
 5月17日、富士重工は、初の純国産ジェット機の試験飛行に成功しました。
 5月17日、自民党の清瀬衆議院議長と社会党の中村衆議院副議長が党籍を離脱しました。
 5月17日、東西首脳会談がU2スパイ飛行事件のため流会となりました。
 5月19日、自民党は、衆議院安保特別委員会で、質疑を打ち切り、強行採決を行い、議場が混乱しました。衆議院議長の清瀬一郎は、警官500人を導入して、社会党議員の座り込みを排除し、本会議開会しました。野党・与党反主流派が欠席のまま、会期50日延長を議決しました。
 5月20未明、新安保条約・協定を討論なしで、自民党単独で強行可決しました。以後国会は空転状態で、連日国会周辺にデモが繰り広げられました。
 5月20日、社会党・民社党・共産党は、「安保質疑打切り・会期延長・新安保条約の各議決の無効、衆議院解散要求」などを声明しました。
 5月20日、全学連主流派が首相官邸に突入し、警官隊と衝突しました。
 5月20日、ソ連は、対日覚書で、U2型機の日本駐留を非難しました。
 5月21日、東京都立大の竹内好教授は、安保強行採決に抗議して辞表を提出しました。
 5月23日、全学連主流派は、首相官邸前で、警官隊と衝突し、双方に多数の負傷者が出ました。
 5月24日、社会党の浅沼稲次郎委員長は、マッカーサー大使と会談し、アイゼンハワー大統領の訪日延期を申し入れました。この会談で、アメリカ帝国主義をめぐり議論となりました。
 5月26日、参議院本会議で、自民党・参議院同志会だけで会期50日延長を議決しました。
 5月26日、安保阻止国民会議は、第16次統一行動を起こし、17万人を越える空前のデモ隊が、国会周辺で、「安保批准阻止、岸内閣総辞職、国会解散」を叫びました。
 5月26日、三池闘争で、第1組合員と第2組合員が乱闘となりました。
 5月27日、自民党は、衆議院本会議を単独で再開しました。
 5月28日、ソ連のフルシチョフ首相は、「スパイ米機の基地は報復攻撃」と警告しました。
 5月28日、元日本兵2人は、グアム島で16年間隠れ過ごして、やっと帰国しました。
 5月28日、岸首相は、首相官邸で内閣記者団と会見し、「声ある声」を批判し、「声なき声に耳を傾けるべきだ」と述べました。
 5月28日、沖縄の教職員会などが中心になって、沖縄県祖国復帰協議会を結成しました。
 5月28日、大統領を辞任した韓国の李承晩がハワイに亡命しました。
 5月30日、労働省は、「三井三池闘争のピケは違法である」と警告しました。
 5月30日、参議院同志会は、「国会の正常化まで一切の審議に応じない」と決定しました。
 6月1日、社会党は、代議士会で、議員総辞職の方針を決定し、全議員の辞表を浅沼委員長に預けました。
 6月4日、「声なき声の会」のプラカードを掲げた300人の主婦・未組織の市民は、国会でもに参加しました。
 6月4日、安保改定阻止第1次実力行使で、国労など交通部門で早朝スト、全国で総評・中立労組76単産460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人が参加しました。
 6月7日 東久迩稔彦、片山哲、石橋湛山の首相経験3者が、岸首相に即時退陣を求める勧告文を渡す。
 6月8日、最高裁は、「衆議院の解散は高度の政治性をもち、その有効・無効の審査は司法裁判所の権限外である」と判決しました。
 6月8日、参議院自民党は、単独で安保特別委員会を開き審議を強行しました。
 6月10日、米大統領新聞係秘書のハガチ一が来日しましたが、羽田空港で、労働者・全学連反主流学生のデモ隊に乗用車を包囲され、米軍ヘリコプターで脱出しました。
 6月12日、アイゼンハワー大統領が極東訪問に出発しました。
 6月14日、三井工業所は、労組の三川鉱ホッパーの長期ピケに対抗し、運搬船の資材陸揚げを強行し、第1組合の三池艦隊と衝突しました。
 6月15日、安保改定阻止第2次実力行使で、全国で111単産580万人が参加しました。安保阻止国民会議・全学連などが国会のデモ行進しました。右翼は、全学連反主流派・新劇人などのデモに殴り込み、60人が負傷しました。
 6月15日19時、全学連主流派(反共産党系)は、国会突入をはかり、警官隊と衝突して、東大生の樺美智子が死亡しました。学生4000人は、国会構内で抗議集会を行いました。それに対し、警官隊は、暴行のすえ未明までに学生など182人を逮捕し、負傷者1000人を越えました。
 6月15日、ラジオ関東のアナウンサーは、警官隊に暴行を受けながら安保デモを報道しました。
 6月15日、藤山外相は、マッカーサー大使と会談し、警備計画を伝えました。
 6月16日0時18分、岸内閣は、臨時閣議を開き、自衛隊を出動させてまで米大統領を迎えるか否かなど議論しました。その結果、岸首相は、「大統領訪日延期要請」を決定しました。
 6月16日、岸内閣は、アイゼンハワー大統領に訪日延期要請を伝え、マニラに滞在中のアイゼンハワー大統領も同意しました。
 6月17日、最高裁は、砂川事件につき、「町長は知事の命令に従え」とした東京地裁判決を破棄し、裁判のやり直しを命じました。
 6月17日、社会党顧問の河上丈太郎は、参院議員面会所で請願受け付け中、右翼少年に背中を切出しナイフで刺され、全治2週間の傷を負いました。
 6月17日、東京の7新聞社は、「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を発表しました。地方紙多数も同調しました。
 6月18日、岸内閣は、F104Jの日米共同生産に調印しました。
 6月18日、安保阻止統一行動で、33万人が徹夜で国会を包囲し、「岸を倒せ」とフランス式デモを展開しました。
 6月19日0時、衆議院通過後1カ月して、新安保条約・協定が自然成立しました。
 6月20日、参議院は、安保関係国会法などを自民党の単独採決により抜き打ち可決しました。
 6月23日、新安保条約批准書を交換し、発効しました。岸首相は、臨時閣議で退陣を表明しました。
 6月24日、岸内閣は、貿易為替自由化計画の大綱を決定しました。その内容は、3年後の自由化率約80%を目標とするというものです。
 7月1日、自治庁が自治省に昇格しました。
 7月2日、安保阻止国民会議は、東京三宅坂で新安保不承認大会を開き、10万人が参加しました。
 7月7日、福岡地裁は、三池三川鉱ホッパー付近のピケ排除の仮処分を決定しました。海上で大衝突が起きました。
 7月7日、総評・炭労は、全国から2万人を動員し、ピケを強化して、緊張が激化しました。
 7月14日、第1組合員は、ホッパー付近に溝を掘って、重油やマキを燃やす火のピケラインを作って抵抗しました。
 7月14日、自民党大会で、官僚派の池田勇人は、決戦投票で石井光次郎を破り、総裁に就任しました。
 7月14日、池田勇人就任祝賀会で、退陣を表明していた岸首相が右翼に刺されて負傷しました。
 7月15日、岸信介内閣が総辞職しました。
 7月16日 ソ連は、中国に派遣中のソ連人専門家1300人を1カ月以内に引き上げると通告しました。同時に、数百の契約を破棄して、設備供給を停止しました。
 7月18日、衆議院で、池田勇人が首相に指名されました。
 7月19日、@58第一次池田勇人内閣が誕生しました。外相に小坂善太郎、蔵相に水田三喜男、厚相に中山マサ、通産相に石井光次郎、郵政相に鈴木善幸、労相に石田博英、建設相に橋本登美三郎、経済企画庁長官に迫水久常、防衛庁長官に江崎真澄、官房長官に大平正芳らが就任しました。厚相の中山マサは、初の女性大臣として話題となりました。
 池田首相は、高姿勢の岸首相の後継を意識して、低姿勢で、(1)寛容と忍耐(2)所得倍増・高度成長政策(3)人づくりを主張しました。
 7月19日、中労委は、三池争議に異例の労使双方白紙委任による斡旋を申し入れました。
 7月20日 最高裁は、東京都の公安条例の集会・デモ許可制に対して、合憲と判断を下しました。
 7月20日 三池争議で中労委、労使双方に対し中労委への白紙委任による斡旋を提示、労組側、受諾。石田博英労相が中労委に職権斡旋を依頼する。炭労は受諾を解答するが、会社側は拒否する。
 7月22日、警官隊と三池闘争を支援する全学連が衝突し、組合と学生213人、警官61人が重軽傷を負う。
 7月25日、三井鉱山の会社側は、中労委申し入れを受諾しました。
 7月29日 北富士演習場での演習中止を求め着弾地へ入る。山梨県忍野村の農民300人は、北富士演習場で、米軍・自衛隊の演習中止を要求し、10人が着弾地に座り込みました。
 8月6日、東京地検は、「樺美智子は胸部圧迫による窒息死で損害致死の疑いはない」として不起訴処分を決定しました。
 8月7日、池田首相は、減税・社会保障・公共投資を新政策の三本柱にすることを表明しました。
 8月8日、池田内閣は、西イリアン駐留のオランダ空母の横浜寄港を許可しました。
 8月10日、中労委は、三池争議の労使双方に、最終斡旋案を提示しました。
 8月11日、インドネシアは、空母の寄港を許可した日本政府に抗議しました。
 8月12日、第1組合員は、指名解雇を認めるような中労委斡旋案は呑めないと表明しました。
 8月12日、韓国で、尹普善が大統領となりました。
 8月13日、同和対策審議会が設置されました。
 8月16日、炭労は、条件付きで中労委の斡旋案受諾を決定しました。
 8月23日、韓国で、張勉が首相に就任しました。
10  9月5日、自民党は、高度成長・所得倍増などの新政策を発表しました。
 9月5日、日本・北朝鮮両赤十字代表は、新潟で、在日朝鮮人帰還問題をめぐり会談を開始しました。
 9月6日、炭労臨時大会は、中労委斡旋案で三池闘争の事態収拾をはかることを確認し、第1組合もこれに従うことを決定しました。
 9月6日、小坂善太郎外相は、政府代表として、戦後初めて、韓国を訪問し、日韓共同声明を発表しました。
 9月8日、池田内閣は、オランダに空母寄港延期を要請し、オランダ大使は遺憾の意を表明しました。
 9月8日、新安保条約に基づき、外務省で、第1回日米安保協議委員会を開催しました。日本側は外相と防衛庁長官、アメリカ側は駐日大使・太平洋軍司令官が出席しました。
 9月14日、産油五カ国は、石油輸出国機構を結成しました。これをOPECといいます。
 9月22日、皇太子夫妻は、アイゼンハワー大統領の招きで訪米に出発しました。
11  10月1日、第9回国勢調査が行われる。総人口は9341万8501人。東京都は1000万人を突破する。
 10月12日、社会党の浅沼稲次郎委員長(61歳)は、日比谷公会堂の3党首立会演説会で、17歳の右翼少年山口二矢に刺殺されました。
 10月13日、国家公安委員長兼自治相の山崎巌が辞任しました。
 10月13日、社会党臨時大会で、前日刺殺された浅沼委員長の代行に江田三郎を選出しました。
 10月15日、文部省は、高等学校指導要領を改定しました。
 10月19日、東京地裁は、「朝日訴訟」につき現行の生活保護水準は憲法25条に反しており、違憲と判決しました。
 10月25日、第5次日韓会談の予備会談が開始されました。
 10月27日、日本・北朝鮮両赤十字代表は、現行協定1年延期の合意書に調印しました。
12  11月1日、三井三池工業所(三池炭坑)労使は、ストとロックアウトを解除し、ここに、史上最大の三池争議が妥結しました。総評は、この争議に6億4800万円と延べ29万5000人のピケを投入したことになります。ピケとはpicketのことで、「デモ隊、見張りの兵隊、杭、見張り、デモ参加者」の意味です。
 11月2日、浅沼委員長を刺殺した山口二矢は、収監中の練馬少年鑑別所の獄壁に「七生報国、天皇陛下万歳」と書いて、自殺しました。
 11月8日、米大統領選挙で、民主党のJ・F・ケネディが当選しました。
 11月20日、@29衆議院議員総選挙が行われ、自民党296人、社会党145人、民社党17人、共産党3人が当選しました。西尾末広が率いる民主党が惨敗しました。
 11月28日、大日本受国党員は、深沢七郎の『風流無譚』を掲載した「中央公論」に対して、「皇室を悔辱している」と同社に抗議しました。
 11月29日、宮内庁は、深沢七郎の『風流無譚』に抗議しました。
13  12月1日、三池闘争が終了、労組員が全面就労する。
 12月1日、中央公論社は、深沢七郎の『風流無譚』に関して、宮内庁に陳謝しました。
 12月8日、@59第二次池田勇人内閣が誕生しました。法相に植木庚子郎、外相に小坂善太郎、蔵相に水田三喜男、厚相に古井喜実、通産相に椎名悦三郎、労相に石田博英、建設相に中村梅吉、国家公安委員長に安井謙、経済企画庁長官に迫水久常、防衛庁長官に西村直巳、近畿圏整備委員長に河野一郎、官房長官に大平正芳らが就任しました。
 12月19日、池田首相は、参議院で、「中国承認につながる恐れがあり、対中貿易は政府間協定以外で行う」と言明しました。
 12月20日、南ベトナムで民族解放戦線が結成されました。
 12月26日、総理府統計局は、家計収支の調査結果を発表し、そこでは、全国の月平均生活費は2万5444円となっていました。
 12月27日、池田内閣は、閣議で、「国民所得倍増計画」を決定しました。
 12月29日、琉球の米民政府は、祝日の日の丸掲揚を拒否しました。
 12月29日、大蔵省は、来年度(1961年度の926億円の減税案を決定しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
安保闘争と声なき声と樺美智子
 岸信介首相は、国会を取り囲むデモ隊について、記者会見で、「国民のすべてではない。国民の『声なき声』に私は耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と述べました。戦前は天皇に命を捧げ、戦後はアメリカに忠誠を誓う日本のリーダーに、非常な違和感を思えました。
 他方、青春を政治闘争に捧げた女子大生の死を知りました。民俗学に関心を持って、農村を駆け巡って調査活動に専念していた私には、遠い世界の出来事でしたが、確実な情報だけは得たいと必死だったことを覚えています。
 先日(2006年6月11日)、NHKのTVで、額賀福志郎防衛庁長官が面白い発言をしていました。日米安保条約を危惧する人々の前で、「日本には憲法9条があって、東南アジアの人々からは日本は侵略しない国だと思われている。だから、日米安保条約を強化しても大丈夫である」と発言しました。
 憲法9条と日米安保がセットであるというのです。憲法9条の改正はないのでしょうか。
 1960(昭和35)年6月23日に発効した改定日米安保条約です。1952年4月28日に発効した旧安保条約に対して、新安保条約ともいいます。
 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
 日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的な安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有しているを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よって次のとおり協定する。
 第一条(平和の維持のための努力)
 締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武器の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
締約国は、他の平和愛好国と共同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。
 第二条(経済的協力の促進)
締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによつて、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する。
 第三条(自衛力の維持発展)
 締約国は、個別的に及び相互に協力して、持続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。
 第四条(臨時協議)
 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。
 第五条(共同防衛)
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
 第六条(基地の許与)
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合州国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合州国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
 第七条(国連憲章との関係)
 この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響を及ぼすものではなく、また、及ぼすものとして解釈してはならない。
 第八条(批准)
 この条約は、日本国及びアメリカ合州国により各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生ずる。
 第九条(旧条約の失効)
 千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国とアメリカ合州国との間の安全保障条約は、この条約の効力発生のときに効力を失う。
 第十条(条約の終了)
 この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合州国政府が認めるときまで効力を有する。
 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意志を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後一年で終了する。
 以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。
千九百六十年一月十九日にワシントンで、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。
千九百五十一年九月八日にサンフランシスコ市で、日本語及び英語により、本書二通を作成した」
 私の手元に『人しれず微笑まん 樺美智子遺稿集』(三一新書)という本があります。1979年に発売されていますから、私の37歳の時に購入したことになります。編者は樺美智子の母である樺光子となっています。この本は、1960(昭和35)年6月15日の安保闘争に参加し、国会に突入して、死亡した東大生の遺稿集です。1960年というと私が18歳の時です。新聞・TVで報道されていたので、実体験の記憶に違いありません。
 樺美智子は、父親が中央大学教授の樺俊雄で、兵庫県の神戸高等学校を卒業して、東大文科に入学しました。日本共産党が議会闘争に転換したことで、それを不満に思った共産党員の学生らは、共産主義者同盟(ブント)を結成し、樺美智子は、そのメンバーで、文学部学友会副委員長でした。
 1960(昭和35)年1月20日、岸首相は、アイゼンハワー大統領と会談して、「大統領の訪日を6月20日頃」と約束しました
 5月19日23時48分、衆議院の清瀬一郎議長は、警察官500人に守られながら、会期延長を宣言しました。
 5月20日0時6分、自民党は、単独で、新安保条約を強行採決しました。これで、1カ月後の6月20日には自然発効することになりました。なぜ6月20日にこだわったのかというと、1月に岸首相がアイゼンハワー大統領に来日を約束したのが6月20日だったことが分かります。
 6月15日、アイゼンハワーとの約束を守るために、日本での手続を強引に進める岸首相の手法に、私も含め当時の国民は激しく反発したものです。国会を包囲していた学生7000人のうち1500人は、衆議院の南通用門から国会に突入し、警官隊と衝突し、樺美智子(22歳)が死亡しました。
 樺美智子と国会に突入した学生は、次の様に証言しています。
 「ぼくらは警官隊の群に向かって前進した。警官隊もこっちへ進んできた。やがて、正面からぶつかった。ぼくらの武器は、スクラムだけなのに、警棒をめちゃくちゃにふるった。樺さんは髪を乱しながら頭を下げた。ぼくらも頭を縮めた。うしろからデモ隊が押して来て、ものすごいもみ合いになり、彼女は両方から押されて動けなくなったところを、警棒の一撃を浴び、悲鳴を上げて倒れた。その上に学生が何人か折り重なって倒れ、さらに警察官が殺到して、それっきり、とうとう起き上がれなかったのだ。やっと彼女を抱き上げたときは、倒れてから5分くらいもたっていた。血とドロにまみれた両手、両足はだらんと下がったまま、仮診療所に寝かせたときには、もう一言も発しなかった」(『女性自身』)
 現場を取材していた記者は、次の様に証言しています。
 「向かって右側が4機動(警視庁第4機動隊)、左側が7方警(警視庁第7方面警察本部)、学生たちの先頭は門の内側10メートルくらいのところまで突き進んだ。警官隊はズルズルと後退、しばらくのあいだ奇妙な隙間(30メートル)ができて警官と学生が対立した。このとき、左手を受け持つ7方警はおじけずいたかのように、“敵”を前にして50メートルほど下がった。このときだった。4機動の3〜4人が『さがる奴があるか』『突っ込め』『方警のバカヤロ−』と口々にどなりながら突進した。“泣く子もだまる4機動”と異名をとる彼らは確かに“精鋭部隊”なのだ。これが、ダイナマイトの導火線となった。『わあ−つ』と喚声をあげて“突撃”に移ったこの数人に、つられたようにほかの隊員が、そして方警隊が続いた。あとは警棒の雨。「やっちちまえ」。キチガイじみた、こんな怒声まで飛んで警棒の雨が瞬く間に血の雨となった」(読売新聞)
 8月6日、東京地検は、慶応大学の中館久平教授の所見にもとづいて、「樺美智子は胸部圧迫による窒息死で損害致死の疑いはない」として不起訴処分を決定しました。
 多磨霊園にある樺美智子の墓碑には、彼女が1956年に書いたといわれる「最後に」の詩が刻まれています。
 誰かが私を笑っている 向うでも こっちでも 私をあざ笑っている
 でもかまわないさ 私は自分の道を行く 笑っている連中もやはり
 各々の道を行くだろう よく云うじゃないか 「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と
 でも私は いつまでも笑わないだろう いつまでも笑えないだろう それでいいのだ
 ただ許されるものなら 最後に 人知れずほほえみたいものだ

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