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エピソード

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保守長期政権と対米協調T(池田勇人内閣、所得倍増計画)
 1955(昭和30)年の保守合同、社会党合同を55年体制といいます。自民党が3分の2弱、社会党が改憲を阻止する3分の1強の議席が続きました。これを保守長期政権といいます。
 外交面では、日米安保を基調とする対米協調路線を採用し、経済重視を政策を推進しました。
 1945(昭和20)年8月17日、@43東久邇宮稔彦内閣が誕生しました。
 10月9日、@44幣原喜重郎内閣が誕生しました。
 1946(昭和21)年4月10日、@22衆議院議員総選挙が新選挙法により実施され、自由党141人、進歩党94人、社会党93人、協同党14人、共産党5人、諸派38人、無所属81人が当選しました。日本自由党が第1党になりました。日本進歩党は273人から一気に94人と激減しました。
 5月22日、@45吉田茂内閣が誕生しました。自由党と進歩党の連立内閣です。
 1947(昭和22)年4月25日、@23衆議院議員選挙が行われて、社会党は143人、自由党は131人、民主党は121人、国民協同党は29人、共産党は4人、諸派は25人、無所属は13人が当選しました。その結果、日本社会党が第1党となりました。
 6月1日、@46片山哲内閣が樹立しました。社会党・民主党・国民協同党の連立内閣です。
 1948(昭和23)年3月10日、@47芦田均内閣(民主党)が誕生しました。連立継続を望むGHQ民政局(GS)の意向で、民主・社会・国民協同の3党連立内閣です。
 10月15日、@48第二次吉田茂内閣(民主自由党単独)が誕生しました。
 1949(昭和24)年1月23日、@24衆議院議員選挙が行われ、その結果民主自民党(民自党)264人、進歩党69人、社会党48人、共産党35人、国民協同党14人、諸派12人が当選しました。吉田茂首相は、大蔵次官の池田勇人・運輸次官の佐藤栄作・外務次官の岡崎勝男ら官界出身者を含む大量の新人候補を擁立し、圧倒的過半数を獲得しました。この新人を吉田学校の生徒と呼びます。小泉チルドレンとは似て非なりです。他方、進歩党は69人と大敗しました。
 2月16日、@49第三次吉田内閣(民主自由党・民主党連立)が誕生しました。GHQのマッカーサーの権力・絶対多数をバックに保守安定政権の確立を目指し、また、アメリカの意向を受けて逆コ−スを推進しました。
 1952(昭和27)年10月1日、@第25回総選挙が行われ、自由党240人、改進党85人、右派社会党57人、左派社会党54人が当選し、共産党は全員落選でした。自由党は第1党になりましたが、ぎりぎりの過半数でした。再起不能と言われ、悲劇の宰相候補と言われた鳩山一郎が当選して、政界に復帰しました。鳩山派の動向次第で政局は不安定なものとなりました。
 10月30日、@50第四次吉田茂内閣が誕生しました。吉田茂は、鳩山派を抱き込み党内民主化等の要求を受け入れ、追放解除組の緒方竹虎を起用して、体制の安定化を図りました。
 1953(昭和28)年4月19日、@26衆議院議員総選挙が行われ、自由党199人、改進党76人、左派社会党72人、右派社会党66人、分党派自由党35人、労農党1人、共産党1人、無所属・諸派12人で、自由党が第1党を確保しましたが、過半数を割りました。社会党では、左派社会党が躍進して、右派社会党を上回りました。自由党の吉田茂は、改進党の重光葵と会談し、連立を模索しましたが、失敗に終わりました。
 5月21日、第5次吉田茂内閣が誕生しました。首相指名の決選投票で、社会党が改進党の重光葵に投票しなかったために、吉田茂単独少数内閣が成立しました。
 1954(昭和29)年12月10日、@52鳩山一郎内閣が誕生しました。
 1955(昭和30)年2月27日、@27回衆議院総選挙が行われ、その結果、民主党185人、自由党112人、左派社会党89人、右派社会党67人、労農党4人、共産党2人、無所属・諸派8人が当選しました。革新派は、改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保しました。
 3月19日、@53第二次鳩山一郎内閣が誕生しました。
 11月22日、@54第三次鳩山一郎内閣が誕生しました。
 1956(昭和31)年12月23日、@55石橋湛山内閣が誕生しました。
 1957(昭和32)年2月25日、@56岸信介内閣が誕生しました。
 1958(昭和33)年5月22日、@28衆議院議員総選挙が行われました。その結果、自民党287人、社会党166人、共産党1人、無所属・諸派13人が当選しました。社会党は議席166人・得票率32.9%で、戦後の最高水準を記録しました。
 6月12日、@57第二次岸信介内閣が誕生しました。岸・河野・大野・佐藤の主流4派で主要ポストを独占することになりました。自民党は、衆院の正副議長と16の常任委員長をすべて独占し、岸内閣の高姿勢が強調されました。
 1960(昭和35)年7月19日、@58第一次池田勇人内閣が誕生しました。
 池田首相は、高度経済成長政策と所得倍増政策を主張しました。
 11月20日、@29衆議院議員総選挙が行われ、自民党296人、社会党145人、民社党17人、共産党3人、無所属12人が当選しました。西尾末広が率いる民主党が惨敗しました。
 12月8日、@59第二次池田勇人内閣が誕生しました。
 1961(昭和36)年2月5日、社会党は、構造改革論を軸とする新方針を決定しました。その内容は、政策転換により平和的に社会主義に移行することをめざすというものです。
 3月8日、社会党大会は、委員長に河上丈太郎を選出しました。
 4月1日、1961年度の予算案1兆9527億円が成立しました。その内容は前年度比24.4%増であり、所得倍増計画初年度の積極予算となりました。
 4月19日、米駐日大使にライシャワーが着任しました。ライシャワーは、ハーバード大学教授で、資本主義的な経済成長による近代化の優位を宣伝し、労働組合幹部・知識人への働きかけが活発化しました。
 5月13日、自民党・民社党は、革新的な大衆運動を取締るためて、政治的暴力行為防止法案を国会に提出しました。これを政防法といいます。
 6月8日、参議院で、政治的暴力行為防止法案が継続審議となりました。
 6月12日、農業基本法が公布されました。その内容は、農業と他産業の格差是正・農業労働力の工業への大量流出・食糧自給率の低下を促進のため、生産の選択的拡大・構造改善・自立経営農家の育成などを進めるというものです。
 6月12日、防衛庁設置法改正・自衛隊法改正が公布され、陸上自衛隊を13師団になりました。
 7月15日、自民党の組織を近代化する名目で、国民協会が設立され、財界から自民党への資金調達機関となりました。
 7月18日、池田勇人首相は、内閣を改造しました。厚相に灘尾弘吉、農相に河野一郎、通産相に佐藤栄作、郵政相に迫水久常、労働相に福永健司、経済企画庁長官に藤山愛一郎、行政管理庁長官・北海道開発庁長官に川島正次郎、科学技術庁長官に三木武夫らが就任しました。
 7月18日、国防会議は、第2次防衛力整備計画を決定し、5カ年計画でミサイル装備強化を図ることになりました。
 7月27日、共産党大会は、議会制民主主義の尊重・反帝反独占の民主主義革命路線の新綱領を採択しました。
 7月28日、池田内閣は、閣議で、公式制度調査連絡会議設置を決定しました。
 8月8日、仙台高裁は、松川事件差戻し審で全員に無罪を判決しました。
 8月21日、検察庁は、松川事件に関して、最高裁に再上告しました。
 9月2日、池田内閣は、ソ連の核実験再開決定に抗議しました。
 9月6日、池田内閣は、米にも核実験再開とりやめを要請しました。
 10月20日、第6次日韓会談が開始しました。
 10月25日、衆議院は、核実験禁止を決議しました。
 10月27日、参議院は、核実験禁止を決議しました。その結果、ソ連の核実験をめぐって社共の評価が分裂し、原水協分裂のきっかけとなりました。
 11月12日、韓国最高会議議長の朴正熙が来日し、日韓会談につき、池田首相と早期妥結で合意しました。その結果、日韓実力者の裏交渉も活発化しました。
 11月2日、第1回日米貿易経済合同委員会が開催され、日米経済協力が推進されました。
 11月14日、通産省は、山口県徳山・岡山県水島の石油化学センター設立を認可しました。その結果石油化学コンビナートの建設が進みました。
 11月16日、池田首相は、東南アジア4か国を歴訪の旅に出発しました。
 12月12日、旧軍人らによる内閣要人暗殺計画が発覚し、旧陸軍士官学校出身者ら13人が逮捕されましたこれを三無事件といいます。これは、安保闘争に危機感を持った右翼のクーデター計画といわれています。
 1962(昭和37)年1月13日、社会党訪中使節団の鈴木茂三郎団長は、中国人民外交学会長の張■若と共同声明を発表し、「米帝国主義は日中人民共同の敵」と確認しました。
 1月17日、創価学会政治連盟は、公明政治連盟と改称しました。
 2月13日、池田内閣は、港湾整備5カ年計画を決定しました。
 2月15日、臨時行政調査会が初会合し、会長に三井銀行の佐藤喜一郎会長が就任しました。
 5月7日、政治的暴力行為防止法案が廃案となりました。
 5月10日、新産業都市建設促進法が公布されました。
 5月15日、防衛庁設置法改正が公布され、防衛施設庁が新設されました。
 7月1日、第6回参議院選挙が行われ、自民党69人、社会党37人、公政連9人、民社党4、共産党3人、参議院同志会2人、無所属3人が当選しました。公政連は全員が当選し、革新系は3分の1を割り込みました。
 7月6日、経済企画庁の藤山愛一郎長官は、池田内閣の高度成長政策を批判して辞任しました。
 7月11日、参議院で公明会が結成されました。
 7月18日、池田勇人首相は、内閣を改造しました。外相に大平正芳、蔵相に田中角栄、厚相に西村英一、建設相に河野一郎、経済企画庁長官に宮沢喜一、首都圏整備委員長に川島正次郎、官房長官に黒金泰美らが就任しました。大平正芳・宮沢喜一らは池田勇人の秘書官グループだったので、秘書官内閣と呼ばれました。
 7月27日、社会党の江田三郎書記長は、社会党全国オルグ会議で、江田ビジョンを発表しました。その内容は、アメリカの高い生活水準・ソ連の徹底した社会保障・イギリスの議会制民主主義・日本の平和憲法の4つを基盤にした新しい社会主義イメージを主張しました。
 9月5日、運輸省は、港湾埋立などで3億1080万平方メートルを造成する臨海工業地再開発計画を発表しました。
 9月19日、松村謙三は、北京で、周恩来首相と会談し、積上げ方式による日中関係改善で合意しました。
 10月2日、池田首相の私的諮問機関である「人づくり」懇談会が初会合を開きました。
 10月5日、池田内閣は、全国総合開発計画を決定しました。これは新産業都市を開発拠点として、過密都市問題と地域格差の解消をねらうものです。
 11月4日、池田首相は、欧州7か国歴訪の旅で出発しました。日本のOECD加盟・日本に対する輸入制限撤廃などを訴える予定です。
 11月9日、高碕達之助は、中国の靡承志と日中総合貿易に関する覚書に調印しました。碕のTと承志の頭文字から1文字とってLT貿易と称しました。
 11月27日、社会党大会は、江田ビジョン批判決議を賛成232、反対211で可決し、江田三郎は書記長を辞任しました。
 11月29日、社会党大会は、後任の書記長に成田知巳を選出しました。
 12月5日、池田首相の私的諮問機関である「人づくり」懇談会は、茅誠司・安岡正篤・森戸辰男・松下正寿らが出席して発足しました。
 12月11日、地元酪農民は、自衛隊北海道島松演習場で、生活を守るため電話線を切断しました。これを恵庭事件といいます。
 1963(昭和38)年1月9日、米大使ライシャワーは、原子力潜水艦の日本寄港を申入れました。
 2月20日、日本は、ガット理事会で、ガット11条国への移行を通告しました。この結果、国際収支を理由として貿易を制限することが禁止されました。
 3月22日、池田内閣は、開放経済体制への移行に伴い、国際競争力強化のため特定産業振興臨時措置法等を決定しました。この通産省主導に対し経済界は反発しました。
 3月31日、中小企業近代化促進法が公布されました。
 4月17日、第5回統一地方選挙が行われ、知事選では現職が全員当選し、横浜市長には革新系の飛鳥田一雄が当選しました。
 4月21日、都知事東竜太郎の選挙ポスターにせ証書使用容疑で、自民党都選対本部事務主任が逮捕されました。
 5月12日、水爆積載可能のF105D米ジェット戦闘爆撃機14機が板付に配備されました。
 6月5日、外務省は、原潜の安全性などにつき、日米交捗の中間報告を衆院委員会に提出しました。
 7月1日、防衛庁は、バッジシステム(半自動防空警戒管制組織)で、米ヒューズ社製の採用を決定しました。
 7月8日、防衛庁は、新島で、国産初の空対空ミサイルの試射実験に成功しました。
 7月12日、池田内閣は、生存者叙勲の復活を決定しました。
 7月12日、池田内閣は、閣議で、新産業都市に岡山県水島など13カ所、工業整備特別地域に茨城県鹿島など6カ所の指定を決定しました。
 7月18日、池田勇人首相は内閣を改造しました。法相に賀屋興宣、文相に灘尾弘吉、農相に赤城宗徳、行政管理庁長官に山村新治郎、北海道開発庁長官・科学技術庁長官・オリンピック担当国務相に佐藤栄作、総理府総務長官に野田武夫らが就任しました。
 7月20日、中小企業基本法が公布され、保護主義から近代化政策へ転換しました。その結果、電子部品・音響機器・セラミックなどで中堅企業が誕生しました。同時に、中小企業内にも二重構造が発生しました。
 8月14日、日本は、米・英・ソの3首都で、部分的核実験停止条約に調印しました。
 8月15日、政府主催の第1回全国戦没者追悼式が日比谷公会堂で挙行されました。
 8月23日、池田内閣は、倉敷レイヨンのビニロンプラント対中国延払い輸出を了承しました。この結果、池田内閣の対中関係改善積極策に対し、台湾や自民党内台湾派の批判が強まりました。
 9月1日、安保反対国民会議は、米原潜寄港反対集会を横須賀・佐世保で開催しました。
 9月12日、最高裁は、松川事件再上告審で、検察側の上告を棄却し、被告全員の無罪が確定しました。
 9月23日、池田首相は、フィリピン・インドネシア・オーストラリア・ニュージーランドを訪問しました。
 10月17日、自民党組織調査会の三木武夫会長は、派閥の無条件解消など党近代化を総裁に答申しましたが、派閥抗争の中でうやむやになりました。
 11月21日、@30衆議院議員総選挙が行われ、自民党283人、社会党144人、民社党23人、共産党5人、無所属12人が当選し、民社党は、解党の危機を免れました。
 12月9日、@59第二次池田勇人内閣が誕生しました。全閣僚が留任しました。
 12月26日、最高裁は、砂川事件再上告審で、上告を棄却し、7被告の有罪が確定しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
池田勇人首相と所得倍増論
 池田勇人は、佐藤栄作と共に、吉田学校の優等生です。京大から大蔵省に入り、30歳で宇都宮税務署長になりましたが、病気で5年間ブランクがあります。このとき、四国の遍路で、心身を克服したというエピソードが残っています。
 47歳で大蔵次官となりました。1949年の吉田茂内閣では、池田勇人は1年生議員ながら、蔵相に抜擢されました。時に、50歳の時です。
 1950年3月、吉田内閣の蔵相の時、池田は記者会見で、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」と放言しました。
 12月、参議院の予算委員会で、木村禧八郎が米価・麦価につてい質問した時、池田は、「私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。」と発言しました。これが「貧乏人は麦を食え」と伝えられ、マスコミから強く批判されました。真意は、池田自身が麦食であったために出た言葉だったそうです。
 1952年、社会党の加藤勘十が「中小企業発言」の内容を確認すると、池田勇人は「中小企業者が倒産し、思いあまって自殺するようなことがあってもやむをえない」と再度放言して、不信任案が可決されました。
 1954年、自民党の幹事長になりました。造船疑獄に連座しましたが、指揮権発動により、救われました。
 1959年、岸信介内閣の時、通産相になりました。
 1960年、首相になりました。池田勇人は、超エリートという感じがします。就任早々、寛容と忍耐を訴え、強権「岸自民党政権」のイメージを払拭しようとしました。
 11月、総選挙の時には、TVに出演し、「私は嘘は申しません」・「所得倍増」が共感を呼び、国民の意識を再び、保守に引き戻しました。私も含め、所得が倍増する、つまり、父親の給与が倍になると単純に喜んだものです。しかし、よく調べると、所得は所得でも、「国民所得」倍増だったのです。してやられました!!。
 これは1960(昭和35)年12月27日に閣議決定された国民所得倍増計画です。
「国民所得倍増計画の構想
(1)計画の目的
 国民所得倍増計画は、速やかに国民総生産を倍増して、雇用の増大による完全雇用の達成をはかり、国民の生活水準を大巾に引き上げることを目的とするものでなければならない。この場合とくに農業と非農業間、大企業と中小企業間、地域相互間ならびに所得階層間に存在する生活上および所得上の格差の是正につとめ、もつて国民経済と国民生活の均衡ある発展を期さなければならない。
 解説1(国民所得倍増計画の国民所得とは、national incomeのことです。国民総生産とは、gross national productのことで、略してGNPといいます。GNPを倍そうして、雇用を増大し、国民の生活水準を欧米のように引き上げようとするものです。そのためには、農業格差・企業格差地域間格差などを是正する。つまり、→農業・中小企業の近代化や工業の分散化をはかるということです)
(2)計画の目標
 国民所得倍増計画は、今後一〇年以内に国民総生産二六兆円(三三年度価格)に到達することを目標とするが、これを達成するため、計画の前半期において、技術革新の急速な進展、豊富な労働力の存在など成長を支える極めて強い要因の存在にかんがみ、適切な政策の運営と国民各位の協力により計画当初三カ年について三五年度一三兆六千億円(三三年度価格一三兆円)から年平均九%の経済成長を達成し、昭和三八年度に一七兆六千億円(三五年度価格)の実現を期する。
 解説2(今後10年間にGNPを26兆円に倍増させる。そのためには、技術革新・豊富な労働力を活用する→GNPの倍増は2年で達成されました)
(イ)農業近代化の推進
 国民経済の均衡ある発展を確保するため、農業の生産、所得及び構造等の各般の施策にわたり新たなる抜本的農政の基底となる農業基本法を制定して農業の近代化を推進する。
 これに伴い農業生産基盤整備のための投資とともに、農業の近代化推進に所要する投融資額は、これを積極的に確保するものとする。
(ロ)中小企業の近代化
 中小企業の生産性を高め、二重構造の緩和と、企業間格差の是正をはかるため、各般の施策を強力に推進するとともにとくに中小企業近代化資金の適正な供給を確保するものとする。
(ハ)後進地域の開発促進
 後進性の強い地域(南九州、西九州、山陰、四国南部等を含む。)の開発促進ならびに所得格差是正のため、速やかに国土総合開発計画を策定し、その資源の開発につとめる。さらに、税制金融、公共投資補助率等について特段の措置を講ずるとともに所要の立法を検討し、それら地域に適合した工業等の分散をはかり、以つて地域住民の福祉向上とその地域の後進性克服を達成するものとする」
 所得倍増計画は、岸内閣から始まり、池田内閣で促進され、佐藤内閣で是正され、田中内閣で猛烈に推進されました。
 なるほど、現金収入は増えましたが、その反面失うものも多かったといえます。便利なアメリカ的生活に慣れた私たちは、もう、昔の生活に戻ることは出来ません。折り合いをつけながら、山河を取り戻す作業がこれからの課題です。
 私の周囲では、文部省唱歌「ふるさと」のような愛すべき山河が残っています。愛すべき山河を破壊して、愛国心もないものです。
 うさぎ おいし かの やま こぶな つりし かの かわ ゆめは いまも めぐりて わすれがたき ふるさと
 いかに います ちち はは つつがなしや ともがき あめに かぜに つけても おもいいずる ふるさと
 こころざしを はたして いつの ひにか かえらん やまは あおき ふるさと みずは きよき ふるさと

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