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エピソード

281_01

保守長期政権と対米協調U(佐藤栄作内閣、ベトナム戦争、日韓基本条約)
 ここでは、1964(昭和39)年と1965(昭和40)年を扱います。
 ベトナム戦争や日韓基本条約が大きなテーマです。
 1963(昭和38)年12月9日、@59第二次池田勇人内閣が誕生しました。
 1964(昭和39)年1月30日、 南ベトナムでクーデターが起こり、グェン・カーン少将が軍事革命委議長となりました。
 2月8日、南ベトナムにグェン・カー内閣が誕生しました。
 2月15日、ILO理事会は、87号条約批准問題で対日実情調査団派遣の提案を採択しました。
 2月23日、元首相の吉田茂は、池田勇人首相の要請により、台湾を訪問しまし、蒋介石総統と3回にわたり会談しました。
 2月26日、最高裁は、「義務教育は授業料の無徴収だけで、教科書代は親に負担させても違憲ではない」との判断を下しました。
 4月1日、日本は、IMF8条国に移行しました。その結果、国際収支の悪化を理由とした為替取引の制限が禁止され、円は交換可能通貨となりました。
 4月5日、熊本県は、下筌ダム建設予定地の収用を採決し、国有地としました。住民はこれに反発しました。これを蜂ノ巣城事件といいます。
 4月28日、日本は、OECDに加盟し、先進資本主義国の一員になりました。
 5月14日、ソ連最高会議議員団が初めて来日しました。
 5月30日、東京地裁は、三無事件に破壊活動防止法を初めて適用し、有罪判決を下しました。
 5月30日、元首相の吉田茂は、台湾に対して、「対中国プラント輸出で輸出入銀行資金を年内は使わない」ことを約束しました。これを吉田書簡といいます。
 6月1日、新三菱重工・三菱日本重工・三菱造船が合併して、三菱重工業が発足しました。
 6月2日、韓国ソウルの大学生は、朴政権退陣要求のデモを行いました。
 6月3日、ソウルで、非常戒厳令が公布され、日韓会談反対運動が弾圧されました。
 6月5日、ソウルの大学生のデモの弾圧により、金鐘泌民主共和党議長が辞任しました。
 6月20日、自民党と社会党が妥協し、暴力行為処罰法が参議院で可決成立しました。
 6月24日、暴力行為処罰法改正が公布されました。その結果、テロの頻発に対し、鉄砲や刀剣による傷害の刑罰を強化することになりました。しかし、野党は、労働運動などの弾圧に悪用されると反対しました。
 7月3日、工業整備特別地域整備促進法が公布されました。
 7月3日、外相の大平正芳は、台湾訪問しました。その結果、台湾政府支持を改めて約束し、日中関係改善の動きは頓挫しました。
 7月3日、憲法調査会は、最終報告書を首相に提出しました。その内容は、改憲論の多数意見と改憲不要論の少数意見が併記されていました。
 7月10日、自民党臨時大会で、池田勇人は、佐藤栄作・藤山愛一郎を破り、総裁に3選されました。この総裁選では、10数億円が動いたといわれ、ニッカ〈二派から金を受けとる〉・サントリー〈三派から金を受けとる〉の言葉が生れました。不埒な代議士もいたものです。
 8月2日、アメリカ駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受けて交戦しました。これをトンキン湾事件といいます。この事件で、アメリカ議会は大統領に戦争に関する絶大な権力を与えました。 しかし、日に分かったことですが、北ベトナムが攻撃した事実はないことが判明しました
 8月4日、アメリカ機が北ベトナム基地4ヵ所を報復爆撃しました。
 8月10日、社会党・共産党・総評など137団体は、ベトナム反戦集会を開催しました。
 8月11日、池田内閣は、南ベトナムへの緊急援助を決定し、米のベトナム軍事介入を支援しました。
 8月16日、南ベトナム軍事革命委は、暫定憲法を採択しました。その結果、グェン・カーン首相が大統領に就任しました。
 8月18日、池田内閣は、韓国に対して、2000万ドルの原材料・機械部品の延払い輸出を決定しました。
 8月24日、南ベトナムで、反グェン・カーンのデモが全国に広がりました。
 8月25日、南ベトナムで、カーン大統領が辞任しました。
 8月26日、原子力委員会は、「米原子力潜水艦の寄港は安全に支障なし」と発表しました。
 8月28日、池田内閣は、米原子力潜水艦の寄港受諾を通告しました。野党は反対を声明しました。
 9月2日、池田内閣は、「サブロック積載の原子力潜水艦の寄港は事前協議の対象になる」との統一見解を発表しました。
 9月4日、日本国会議員団は、ソ連を訪問しました。初めて相互訪問が実現したことになります。
 9月23日、横須賀市で、米原子力潜水艦の寄港に反対の集会に7万人が参加しました。
 10月1日6時、東海道新幹線が開業し、一番列車が東京駅を発車しました。
 10月10日、第18回オリンピック東京大会の開会式が行われ、94カ国5541人が参加しました。
 10月12日、ソ連の3人乗り宇宙船ボストークが打ち上げられました。
 10月15日、フルシチョフ首相が解任され、首相にコスイギン、第1書記にブレジネフが就任しました。
 10月16日、中国がタクラマカン砂漠で初の原爆実験を行いしました。
 10月17日、池田内閣と社会党・民社党・公明党は、中国の核実験に抗議声明を出しました。他方、共産党は、「実験はやむをえない自衛手段」との見解を発表しました。
 10月25日、池田首相は、病気療養(喉頭癌)のため辞意を表明しました。佐藤栄作・河野一郎・藤山愛一郎が後継に名乗り出ました。
 11月9日、自民党両院議員総会は、池田勇人首相の裁定で、佐藤栄作を後継首班候補に指名しました。
 11月9日、池田勇人内閣が総辞職しました。
 11月9日、@61佐藤栄作内閣が誕生しました。外相に椎名悦三郎、蔵相に田中角栄、文相に愛知揆一、農相に赤城宗徳、通産相に桜内義雄、労相に石田博英、防衛庁長官に小泉純也、国務相に河野一郎、官房長官に橋本登美三郎など池田内閣の閣僚を留任しました。小泉純也は、小泉純一郎首相(2006年)の父です。
 11月9日、佐藤首相は、次の公約を発表しました。(1)日韓国交正常化(2)高度経済成長政策(3)安保体制堅持・対米協力政策などです。
 11月12日、解散した総同盟・全労に全官公を加えて全日本労働総同盟が結成されました。これを同盟といいます。
 11月12日、米原子力潜水艦のシードラゴン号が佐世保に入港しました。
 11月13日、シードラゴン号が佐世保に入港に反対するデモ隊が警官隊と衝突しました。
 11月17日、公明党結成大会が開かれ、委員長に原島宏治、書記長に北条浩が就任しました。
 12月3日、第7次日韓会談が開始されました。これは、ベトナム戦争の開始により、アメリカが日韓国交正常化への圧力を強化したためといわれています。
 12月8日、社会党大会は、綱領的文書「日本における社会主義への道」を採択しました。
 1965(昭和40)年1月8日、韓国政府が南ベトナム派兵を発表しました。
 1月10日、佐藤栄作首相が訪米しました。
 1月11日、中央教育審議会が「期待される人間像」の中間草案を発表しました。
 1月13日、佐藤・ジョンソン共同声明が出されました。
 1月14日、毛沢東は、劉少奇らを党内の「資本主義の道を歩む実権派」と批判しました。
 1月28日、慶應義塾大学は、学費13万円を28.5万円に値上げと発表し、これに反対して、全学ストに突入しました。
 2月1日、社会党・総評などは、原水爆禁止日本国民会議を結成しました。これを原水禁といいます。
 2月5日、慶應義塾大学で、学費値上げ闘争に関して塾長の提案がなされ、三田で1万人の学生の学生大会が開かれました。その結果、4年生の試験ボイコットだけは避けられました。
 2月7日、アメリカ軍が北ベトナムのドンホイを爆撃しました。これが北爆の開始です。
 2月10日、社会党の岡田春夫は、衆議院予算委員会で、防衛庁統幕会議の極秘文書「三矢研究」を暴露しました。それは、朝鮮有事を機に日本の戦時体制への転換を研究するもので、有事立法の先駆けといわれます。
 2月20日、外相の椎名悦三郎が訪韓して、日韓基本条約に仮調印しました。
 2月21日、南ベトナムで、グエン・カーン将軍が3軍司令官を解任され、後任にチャン・バンミン将軍が就任しました。
 3月3日、佐藤内閣は、三矢研究の資料提出を拒否しました。
 3月6日、兵庫県姫路市にある山陽特殊製鋼が480億円の負債を出して倒産しました。これを戦後最大の倒産といいます。この月、繊維業界の中小企業倒産も激増しました。
 3月8日、アメリカ軍がベトナムのダナンに上陸しました。
 3月16日、東京地検は、東京都議会議長選挙での汚職事件で、小山貞雄議長の自宅を捜索し、都議3人が逮捕されました。
 3月18日、ソ連のウォスホート2号のレオーノフ飛行士が人類初の宇宙遊泳を行いました。
 3月22日、アメリカ軍がベトナム戦争で毒ガスを使用しました。
 3月31日、著名人300人は、ニューヨーク・タイムズ紙に、ジョンソン大統領宛にベトナム反戦の公開状を掲載しました。
 4月7日、オーストラリアとニュージーランドは、ベトナムに地上軍の派兵を決定しました。
 4月12日、中国は、アメリカの北爆に対して、戦争準備強化を指示しました。
 4月17日、ワシントンで、ベトナム反戦デモに2万人が参加しました。
 4月20日、緑風会が解散し、参議院の政党化が進みました。
 5月6日、社会党大会は、委員長に佐々木更三を選出しました。
 5月17日、ILO87号条約と関係国内法が成立し、結社の自由・団結権の保護がはかられることになりました。
 5月21日、社会党・公明党・民社党・共産党は、都議会解散リコール運動一本化を決定しました。
 5月21日、西日本新聞は、山一証券の経営難をスクープ報道しました。これが山一証券事件の発端となりました。
 5月28日、田中角栄蔵相は、「山一証券の倒産の危機に無制限・無期限の日銀特別融資」を発表しました。
 6月9日、社会党と共産党は、ベトナム侵略反対で1日共闘を実現しました。
 6月11日、南ベトナムで、グエン・カオ・キとグエン・ヴァン・チューがクーデターを起こし、政権を掌握しました。
 6月11日、3都議を起訴しました。
 6月12日、新潟大学の植木幸明教授らは、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表しました。これを第2次水俣病といいます。やがて、昭和電工の廃水であることが判明しました。
 6月12日、東京教育大学の家永三郎教授は、教科書検定を違憲として民事訴訟を起こしました。これを家永訴訟といいます。
 6月14日、都議会は、満場一致で解散を議決しました。
 6月14日、ILO87号条約の批准書が寄託されました。
 6月19日、グエン・カオ・キが南ベトナム首相に就任しました。
 6月22日、日韓基本条約と付属の協定が調印されました。その結果、韓国を朝鮮における唯一の合法的政府と承認し、無償3億ドル・有償2億ドルの対韓援助が決定しました。これが、日本資本の韓国進出の契機といわれます。
 6月23日、大蔵省は、景気刺激策として1000億円の公共事業など棟上げ支出を決定しました。
 6月28日、アメリカは、南ベトナム派遣軍を12万5000人に増強しました。
10  7月4日、第7回参議院選挙が行われ、自民党71人、社会党36人、公明党11人、民社党3人、共産党3人、無所属3人が当選しました。東京地方区で自民党が全滅し、共産党の野坂参三がトップ当選しました。
 7月23日、東京都議選挙が行われ、社会党45人、自民党38人、公明党23人、共産党9人、民社党4人が当選しました。社会党が第1党に躍進し、自民党は大敗しました。
 7月29日、沖縄の米軍嘉手納基地からB52戦略爆撃機が飛び立ち、北ベトナムを爆撃しました。
 7月30日、野党各党は、米B52の沖縄からの北ベトナム爆撃に抗議しました。琉球立法院も超党派で抗議を決議しました。
 8月14日、韓国の与党である民主共和党は、単独で日韓条約批准案を可決しました。
 8月19日、佐藤首相は、首相として戦後初めて沖縄を訪問しました。佐藤首相は、那覇空港で「沖縄が祖国復帰しない限り、戦後が終っていない」と声明しました。しかし、沖縄の祖国復帰デモに囲まれ、米軍基地内で宿泊しました。
 8月25日、韓国で、日韓条約批准案の強行採決に反対して学生1万人がデモ行進を行い、軍隊と衝突しました。
 9月14日、防衛庁は、三矢研究に関して、秘密保持不全で防衛庁の26人を処分しました。
 10月5日、ライシャワー米大使は、記者会見で、「日本の新聞のベトナム報道は偏向している」と発言しました。
 10月12日、社共両党は、日韓条約批准阻止で統一行動を行い、10万万人が国会デモに参加しました。
11  11月5日、民社党は、日韓条約賛成を決定しました。
 11月9日、衆議院本会議は、日韓条約審議のため、議長職権で開会されました。
 11月9日、社会党・共産党系団体共催の日韓条約粉砕統一集会が開かれました。
 11月10日、中国は、労農兵大衆も参加して、劇作家呉晧を厳しく批判しました。これが文化大革命の発端です。
 11月12日、衆議院本会議の議長発言で、日韓条約が可決されました。
 11月19日、佐藤内閣は、第2次補正予算で不況対策のため、戦後初の赤字国債の発行を決定しました。
 11月26日、アメリカ政府は、佐藤内閣に対して、「将来原子力空母の日本寄港が必要になるかもしれない」と非公式に連絡しました。
 12月4日、参議院日韓特別委員会で、自民党が強行採決を行いました。
 12月10日、日本は、国連安保理事会非常任理事国に当選しました。
 12月11日、参議院本会議で、自民党・民社党は、日韓基本条約等を強行採決、成立しました。日韓両国で大規模な反対運動が起こりました。
 日韓条約の内容は次です。(1)アジアにおける資本主義陣営の結束(2)大日本帝国時代の条約無効(3)韓国が朝鮮半島唯一の合法政権(4)漁業協定(5)在日韓国人の法的地位・待遇(6)竹島・李ライン問題は避けるなどでした。
 この年下半期より「いぎなぎ景気」始まりました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
日韓基本条約
 1965年といえば、私の23歳の時です。
 荒れる日韓基本条約をよく覚えています。朝鮮半島における唯一・合法的な政府を韓国とするということには、当時理想に燃えていた私もびっくりしました。
 私だけでなく、日韓で反対運動が盛り上がりました。主義が違っても、民族は同じです。南北分断を固定することに、日韓に人々が共通して反対したのです。今から思えば、現在の朝鮮半島の問題は、ここから出発したのかもしれません。
 1965年6月22日に調印した「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」です。日韓基本条約ともいいます。
 「日本国および大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係および主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、両国の相互の福祉および共通の利益の増進のためならびに国際の平和および安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、一九五一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定および一九四八年一二月一二日に国際連合総会で採択された決議第一九五号(III)を想起し、この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よって、その全権委員として次のとおり任命した。
   日本国本国外務大臣         椎 名 悦三郎
                         高 杉 晋 一
   大韓民国大韓民国外務部長官   李  東  元
       大韓民国特命全権大使    金  東  祚
 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。
   第一条 両締約国間に外交および領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。
 *解説1(領事館を設置する)
   第二条 一九一〇年八月二二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効であることが確認される
 *解説2(1910年8月22日以前の日韓の協定・条約は無効とする→1910年8月22日に結ばれた条約は、日韓併合条約です。それ以前の条約とは第一次〜第三次までの日韓協約があります。韓国は「不法に締結された過去の条約や協定は、(当初から)既に無効である」と主張し、日本は「過去の条約や協定は、サンフランシスコ平和(講和)条約の発効時から無効になる」と反論しました。そこで、「もはや無効であることが確認される」ということで妥協しました)
   第三条 大韓民国政府は、国際連合総会決議第一九五号(V)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。
 *解説3(国際連合総会の決議第195号(V)により、大韓民国政府を朝鮮半島の唯一の合法的政府と認定されました。日本政府は、それを追認して、韓国は朝鮮にある唯一の合法的な政府であると確認した→朝鮮半島では、社会主義国の朝鮮民主主義人民共和国と資本主義国の大韓民国政府が併存していました。日本は、資本主義国の韓国のみを合法政府と認めたのです。現在も同じ立場です。だから、南を韓国といい、北を北朝鮮というのです)
   第四条
(a) 両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。
(b) 両締約国は、その相互の福祉および共通の利益を増進するに当たって、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。
   第五条 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ友好的な基礎の上に置くために、条約または協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする
   第六条 両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。
   第七条 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる」
 日韓基本条約以外にも下記の協定が調印されました
(1)財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定、これを日韓請求権並びに経済協力協定ともいいます。
(2)日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定、これを日韓法的地位協定ともいいます。
(3)日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定、これを日韓漁業協定ともいいます。
(4)文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定
(5)日韓紛争解決交換公文
 1965年6月22日に調印された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権並びに経済協力協定)です。
 「日本国及び大韓民国は、両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決することを希望し、両国間の経済協力を増進することを希望して、次のとおり協定した。
 *解説1(日韓両国及び両国民の財産権・両国民の請求権を解決し、両国の経済協力を増進するためにこの協定を結ぶ)
第1条
@日本国は、大韓民国に対し、
(a)現在において、1080億円(108,000,000,000円)に換算される3億合衆国ドル(300,000,000ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において108億円(10,800,000,000円)に換算される3,000万合衆国ドル(30,000,000ドル)に等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかったときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締約国政府の合意により増額されることができる。
 *解説2(1080億円分の生産物及び日本人の役務を10年間無償で供与する)
(b)現在において720億円(72,000,000,000円)に換算される2億合衆国ドル(200,000,000ドル)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたって行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行なわれるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。
 *解説3(720億円分の生産物及び日本人の役務を長期低利で貸し付ける)
 前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。
A両締約国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行なう権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
B両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。
第2条
@両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
 *解説4(日本は、韓国に対して、多額の無償供与や長期低利の貸し付ける。その結果、「請求権に関する問題完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」する。→日本は、「韓国は日本に対して、戦争賠償金の請求権を求めない。日本は、韓国にある財産権を放棄する」と解釈しています)
Aこの条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執った特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。
(a)一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益
(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって1945年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいったもの
BAの規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。  
第3条
@この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする。
A@の規定により解決することができなかった紛争は、いずれか一方の締約国の政府が他方の締約国の政府から紛争の仲裁を要請する公文を受領した日から30日の期間内に各締約国政府が任命する各1人の仲裁委員と、こうして選定された2人の仲裁委員が当該期間の後の30日の期間内に合意する第三の仲裁委員又は当該期間内にその2人の仲裁委員が合意する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員との3人の仲裁委員からなる仲裁委員会に決定のため付託するものとする。ただし、第三の仲裁委員は、両締約国のうちいずれかの国民であってはならない。
Bいずれか一方の締約国の政府が当該期間内に仲裁委員を任命しなかったとき、又は第三の仲裁委員若しくは第三国について当該期間内に合意されなかったときは、仲裁委員会は、両締約国政府のそれぞれが30日の期間内に選定する国の政府が指名する各一人の仲裁委員とそれらの政府が協議により決定する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員をもって構成されるものとする。
C両締約国政府は、この条の規定に基づく仲裁委員会の決定に服するものとする。   
第4条 
この協定は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この協定は、批准書の交換の日に効力を生ずる。以上の証拠として、下名は、各自の政府からこのために正当な委任を受け、この協定に署名した」
 1965年6月22日に調印された「日韓法的地位協定日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓法的地位協定)です。
 「日本国及び大韓民国は、多年の間日本国に居住している大韓民国国民が日本国の社会と特別な関係を有するに至つていることを考慮し、これらの大韓民国国民が日本の社会秩序の下で安定した生活を営むことができるようにすることが、両国間及び両国民間の友好関係の増進に寄与することを認めて、
次のとおり協定した。
 *解説1(多年の間、日本に居住している大韓民国国民は、日本社会と特別な関係があり、彼らが日本で安定した生活を営むことができるようにしたい→韓国が独立したことにより、在日韓国人は「日本にいる外国人」となりました。しかし、植民地韓国より日本に強制連行されたりした在日韓国人の歴史を踏まえて、扱うことを協定しました)
第一条
1 日本国政府は、次のいずれかに該当する大韓民国国民が、この協定の実施のため日本国政府の定める手続に従い、この協定の効力の発生の日から五年以内に永住許可の申請をしたときは、日本国で永住することを許可する。
(a)千九百四十五年八月十五日以前から申請のときまで引き続き日本に居住している者
(b)(a)に該当する者の直系卑属として千九百四十五年八月十六日以後この協定の効力発生の日から五年以内に日本国で出生し、その後申請のときまで引き続き日本国に居住している者
2 日本国政府は、1の規定に従い日本国で永住することを許可されている者の子としてこの効力の発生の日から五年を経過した後に日本国で出生した大韓民国国民が、この協定の実施のため日本国政府の定める手続に従い、その出生の日から六十日以内に永住許可の申請をしたときは、日本国で永住することを許可する。
3 1(b)に該当する者でこの協定の効力発生の日から四年十箇月を経過した後に出生したものの永住許可の申請期限は、1の規定にかかわらず、その出生の日から六十日までとする。
4 前記の申請及び許可については、手数料は、徴収されない。
 *解説2(1945年8月15日以前から申請の時まで日本に居住している者。永住が許可された者の子としてこの法律が発効して5年が経過していても日本で誕生した者は申請すれば永住できる。その子孫も日本で誕生して60日以内に申請すれば永住できる→多年日本に住んでいた韓国人が、即故国に帰っても生活の基盤が整っていません。本人が希望すれば、日本に永住できるというものです)
第二条
1 日本国政府は、第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている者の直系卑属として日本国で出生した大韓民国国民の居住については、大韓民国政府の要請があれば、この協定の効力発生の日から二十五年を経過するまでは協議を行うことに同意する。
2 1の協議に当たつては、この協定の基礎となつている精神及び目的が尊重されるものとする。
 *解説3(この法律が発効して25年間は、韓国政府と永住権について協議する)
第三条
 第一条の規定に従い日本国で居住することを許可されている大韓民国国民は、この協定の効力発生の日以後の行為により次のいずれかに該当することとなつた場合を除くほか、日本国からの退去を強制されない。
(a)日本国において内乱に関する罪又は外患に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者
(b)日本国において国交に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者及び外国の元首、外交使節又はその公館に対する犯罪行為により禁錮以上の刑に処せられ、日本国の外交上の重大な利害を害した者
(c)営利の目的をもつて麻薬類の取締りに関する日本の法令に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者及び麻薬類の取締りに関する日本の法令に違反して三回以上刑に処せられた者
(d)日本国の法令に違反して無期又は七年を超える懲役又は禁錮に処せられた者
 *解説4(永住権を得ている者が、次の犯罪を犯さない限り、日本から退去させられない→平和に暮らす在日韓国人は、永久に日本で定住が出来る)
第四条
 日本国政府は、次に掲げる事項について、妥当な考慮を払うものとする。
(a)第一条の規定に従い日本国で永住を許可されている大韓民国国民に対する日本国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項
(b)第一条の規定に従い日本国で永住を許可されている大韓民国国民が日本国で永住する意志を放棄して大韓民国へ帰国する場合における財産の携行及び資金の大韓民国への送金に関する事項
 *解説5(永住権のある在日韓国人に対しては、日本の教育・生活保護・健康保険については考慮をする。在日韓国人が韓国に帰国する場合は、その財産・資金を韓国に送金する→帰国を望まない、あるいは望む在日韓国人に対しては、妥当な配慮をする)
第五条
 第一条の規定に従い日本国で永住を許可されている大韓民国国民は、出入国及び居住に関するすべての事項に関し、この協定で特に定める場合を除くほか、すべての外国人に同様に適用される日本国の法令の適用を受けることが確認される」
 完全に解決したはずの、戦後補償の問題が再三話題になるのはどうしてでしょうか。
 韓国では、1971年の対日民間請求権申告に関する法律、1972年の対日民間請求権補償に関する法律により、戦前に死亡した軍人・軍属・労務者として召集・徴集された者の遺族に対して、補償金を支払ってきました。しかし、戦後死亡被爆者や在日コリアン・元慰安婦には支払われませんでした。
 日本政府は、韓国の戦争犠牲者に対して、個別に補償金を支払うことを提案しましたが、韓国政府は一括支払いを主張しました。その結果、独立祝賀金と途上国支援金として、無償3億ドル・有償2億ドル・民間借款3億ドルを韓国政府に供与・貸付けました。しかし、韓国政府は、これを個人に支給せず、国家の経済基盤整備に使用したと言われています。これにより、「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展があったと指摘する人もいます。
 竹島問題は、基本条約を結ぶ前提として、触れないことになりました。このツケが今やってきたということです。
 昔から、「遠くの親戚より、近くの他人」という諺があります。遠くにあれば接する機会も少なく、トラブルもありません。近くになればなるほど、接する密度が高いので、利害が常に衝突します。
 うまく付き合えば快適だし、トラブルが続くと顔を見るのも嫌になります。しかし、避ける訳には行きません。私たちの隣保は、大人の集団で、「そこまでいっちゃお終いよ」ということを弁えており、とても快適な近所付き合いが出来ています。
 日韓も大人の政治家で、交際してほしいと思います。ガキの政治屋ではいけません。

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