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エピソード

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保守長期政権と対米協調W(佐藤栄作内閣、3億円事件)
 ここでは1968年〜1969年を扱います。
 1967(昭和42)年2月17日、@62第二次佐藤栄作内閣が誕生しました。
 1968(昭和43)年1月1日、公明党は、安保条約解消後、非武装中立路線をとると発表しました。
 1月1日、ジョンソン大統領は、ドル防衛に関する特別教書を発表しました。
 1月3日、ジョンソン大統領特使のロストウ国務次官が佐藤首相と会談し、ドル防衛に協力を要請しました。
 1月15日、エンタープライズ寄港阻止闘争で、中核派の学生200人は、法政大学校内で機動隊と衝突し、学生131人が凶器準備集合罪などの疑いで逮捕されました。
 1月16日、社・公・共3党の書記長会談で、核持込み反対など5項目に合意しました。
 1月16日、社・公・共3党は、エンタープライズ寄港反対を政府に申入れました。
 1月16日、博多駅構内で、米原子力空母エンタープライズ寄港阻止の反日共系学生と警官隊が衝突しました。これを博多駅事件といいます。
 1月19日、米原子力空母エンタープライズが北ベトナム攻撃のため同海域に向かう途中、佐世保港に寄港しました。佐世保港で、反対運動が激化しました。
 1月21日、朴正煕大統領暗殺を狙った北朝鮮の工作員が韓国の青瓦台を襲撃しました。
 1月23日、アメリカのスパイ船「ブエブロ号」が北朝鮮に拿捕され、米朝関係が緊張しました。
 1月24日、東京都北区長は米軍八王子キャンプにベトナム負傷兵用野戦病院が開設されることを公表しました。
 1月27日、佐藤首相は、衆参両院本会議で、「核の持込みに反対すること、沖縄返還は3年以内にメドをつける」と表明しました。
 1月29日、東大医学部学生自治会は、インターン制廃止に伴う処置に反対して、無期限ストに突入しました。ここから東大紛争が始りました。
 1月30日、南ベトナム全土で、解放勢力が大攻撃を開始しました。これをテト攻勢といいます。
 1月31日、ベトナムの解放勢力は、テト攻勢で、サイゴンのアメリカ大使館を破壊しました。
 2月1日、ジョンソン大統領は、「テト攻勢は完全に失敗に終わった」と勝利宣言しました。この時、テレビで放送された路上での解放戦線兵士の処刑の様子が世界に衝撃を与えました。
 2月4日、南ベトナム派遣の米兵が50万人に達しました。
 2月6日、農相の倉石忠雄は、記者会見で「現行憲法は他力本願、軍艦や大砲が必要」と発言しました。
 2月11日、南ベトナムの解放民族戦線がサイゴンに猛攻をかけました。
 2月12日、社・公・共3党は、日本の非核武装と核兵器禁止の決議案を国会に提出しました。
 2月15日、アメリカは、1967年度の国際収支は赤字35億7000万円に達したと発表しました。これは戦後2番目の赤字額となりました。
 2月16日、農林省は、農林業人口が、労働者の2割を切ったことを発表しました。
 2月23日、農相の倉石忠雄は、憲法他力本願の発言の責任を取って、辞任しました。
 2月26日、成田市役所前で、空港建設に反対する農民・反日共系学生が機動隊と衝突しました。
 3月6日、古井喜実・田川誠一らは、北京で日中覚書(LT)貿易協定に調印しました。これは日中関係悪化のため期間を5年間から1年間に短縮し、以後毎年更新するというものでした。
 3月12日、ドル不安が起こり、ロンドン金市場で金買いラッシュが起こりました。
 3月15日、欧州各国の金・為替市場の取引が停止となりました。
 3月16日、南ベトナムのソンミ村で米軍による大虐殺事件が起こりました。
 3月22日、自民党は、非核3原則・安保条約堅持・核軍縮・核の平和利用の決議案を提出しました。与党・野党提出の決議案は、審議未了となりました。
 3月31日、ジョンソン大統領は、北爆停止を発表し、ジョンソン自身の退陣も表明しました。
 4月8日、東京地検は、日本通運の福島敏行社長・西村猛男副社長を業務上横領の疑いで逮捕しました。これを日通事件の発端といいます。
 4月15日、日本大学の経理に、使途不明金20億円があることが明らかにされ、日大紛争の発端となりました。
 5月13日、パリで、ウ・タント事務総長の提案で、ベトナム和平交渉が開始されました。
 5月15日、欧州国際金市場で、金価格が一斉に高騰しました。
 5月24日、植村甲午郎が経団連会長に就任しました。
 5月26日、自民党は、田中角栄を中心に作成した「都市政策大綱」を発表しました。これは日本列島改造論の原型といえるもので、社・公・民・共各党も都市政策を発表しました。
 5月30日、消費者保護基本法が公布されました。
 6月4日、東京地検は、日通事件にからむ200万円の斡旋収賄容疑で、社会党の大倉精一議員を逮捕しました。
 6月5日、大統領候補のロバート・ケネディは、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで銃撃され、翌日に亡くなりました。
 6月7日、東京地検は、日通事件で国税局職員を逮捕しました。
 6月10日、大気汚染防止法・騒音規制法が公布されました。
 6月15日、東大医学部全学闘争委員会の学生が安田講堂を占拠しました。
 6月17日、自民党は、安保調査会の船田中会長の見解として、安保条約の自動延長方針を打ち出しました。自民党タカ派が党首脳を独占し、機密保持法令の制定・防衛庁の国防省昇格・自衛隊の海外派兵などとセットに安保条約の10年間の固定延長を唱えました。
 6月24日、東京地検特捜部は、日通事件にからむ300万円収賄容疑で、自民党の池田正之輔議員を任意で取り調べました。後に、池田池田正之輔は、懲役1年6カ月の実刑判決を受けました。
 6月26日、小笠原諸島が日本に復帰し、東京都に所属しました。
 7月7日、第8回参議院選挙が行われ、自民党69人、社会党28人、公明党13人、民社党7人、共産党4人、無所属5人が当選しました。。全国区の石原慎太郎は301万票でトップ、その他の青島幸男・今東光・大松博文・横山ノックのタレント4人も上位当選しました。
 7月23日、『経済白書』は、「国際化の中の日本経済」を発表しました。
 8月21日、社・公・民3党は、ソ連軍のチェコ侵入に抗議声明をだしました。佐藤内閣も、重大関心と談話を発表しました。
 8月21日、産業構造審議会総合部会基本問題特別委員会は、大型合併に賛成の意見をまとめました。
 8月24日、日本共産党もソ連非難声明を出しました。
 9月2日、検事総長の井本台吉は、日通事件捜査中に、池田正之輔代議士と会食した事実が判明しました。
 9月26日、厚生省は、公式発表で、「水俣病は新日本窒素から排出するメチル水銀化合物が原因である」と断定し、新潟水俣病とともに公害病と認定しました。
 9月30日、日大全共闘の学生ら1万人が学内の民主化を要求して、古田重二良会頭と翌朝に及ぶ大衆団交を行いました。この結果、古田重二良会頭は、これまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生自治権の確立・体育会の解散などを約束しました。
 10月3日、日本大学の大学当局は、先のの学生との約束を一方的に破棄し、学生には逮捕状を出しました。
 10月4日、社会党大会は、参院選の敗北で執行部が辞任し、委員長に成田知巳、書記長に江田三郎を選出しました。
 10月17日、川端康成のノーベル文学賞受賞が決定しました。
 10月23日、明治100年記念式典が日本武道館で開催されました。
 11月1日、明治100年恩赦により、復権14万8732人、特別恩赦4086人が恩恵を受けました。
 11月5日、アメリカ大統領選挙で、共和党のニクソンは、民主党のハンフリーを破り、当選しました。
 11月?日、外相の三木武夫は、総裁選出馬のため辞任して、「沖縄の核抜き本土並み返還」を主張し、佐藤首相を批判しました。
 11月10日、琉球政府主席初の公選で、即時無条件全面返還を掲げる革新統一候補の屋良朝苗が当選しました。
 11月27日、佐藤栄作は、自民党臨時大会で、三木武夫・前尾繁三郎を破って3選を果たしました。
 11月30日、佐藤首相は、内閣を改造しました。法相に西郷吉之助、外報に愛知揆一、蔵相に福田赳夫、文相に坂田道太、通産相に大平正芳、郵政相に河本敏夫、労相に原健三郎、自治相に野田武夫、官房長官に保利茂、行政管理庁長官に荒木万寿夫、防衛庁長官に有田喜一らが就任しました。幹事長に田中角栄が就任して、ポスト佐藤の候補である福田赳夫・田中角栄が入閣しました。
 12月1日、那覇市長に革新である社会大衆党の平良長松が当選しました。
 12月10日、東京都府中市の路上で、白バイ警察官を装った若者が東芝府中工場の現金輸送車を奪い、3億円を強奪する事件が起こりました。これを3億円事件といいます。
 12月29日、東大と東京教育大は、来年度の入試中止を決定しました。
 この年 国民総生産(GNP)は1428億ドルに達し、西独を抜き、米に次いで第2位に躍進しました。
 1969(昭和44)年1月6日、沖縄いのちを守る県民共闘会議は、B52撤去を要求して「2.4ゼネスト」を決定しました。
 1月9日、国防会議は、次期主力戦闘機ダグラス社のF4E104機の国産方針を決定しました。
 1月12日、沖縄全軍労も、「2月4日の24時間スト」を決定しました。
 1月15日、米ロッキード社は、児玉誉士夫をトライスター売込みのコンサルタントとして5000万円で契約しました。これは、1976(昭和51)年のロッキード事件で発覚しました。
 1月18日、東大に機動隊8500人・車両346台が出動しました。工学部列品館での攻防で、学生側は催涙ガスの攻撃に降伏しました。
 1月19日17時55分、機動隊は東大安田講堂にたてこもる学生を攻撃し、安田講堂を開放しました。
 1月20日、坂田道太文相は、東大の入試中止を、加藤一郎学長代行に申し入れ、東大側はこれを受入れました。
 1月20日、アメリカ第37代大統領に共和党のニクソンが就任しました。
 1月24日、東京都の美濃部亮吉知事は、都の公営ギャンブル廃止を発表しました。
 2月2日、県民共闘会議は、尾長朝苗主席の回避要請でスト中止を決定しました。
 2月4日、「2.4ゼネスト」を中止して、B52撤去要求の総決起大会を実施しました。
 3月6日、アメリカは、南ベトナム駐留軍は54万4500人と発表しました。
 3月10日、佐藤首相は、参議院予算委員会で、沖縄返還に関して、「核抜き・基地本土なみの方針で米と折衝する」と表明しました。
 5月3日、自主憲法制定国民会議が結成され、会長に岸信介が就任しました。
 5月9日、衆議院本会議でアメリカの繊維輸入制限政策に抗議する決議を全会一致で採択しました。
 5月12日、アメリカ商務長官は、繊維の対米輸出の自主規制を強行に申し入れました。
 5月13日、佐藤首相は、アメリカの繊維輸出自主規制強行申し入れを断り、日米通商関係が緊迫化しました。
 5月14日、ニクソン大統領は、全ての外国軍隊を相互に段階的に撤退させるなどの8項目のベトナム和平案を発表しました。
 5月16日、公務員の総定員法が公布され、国家公務員の総定員を50万6571人に制限することになりました。
 5月16日、佐藤内閣は、自主流通米制度を決定し、1969年度産米より実施することにしました。
 5月23日、佐藤内閣は、初の『公害白書』を発表しました。
 5月24日、佐藤内閣は、文部大臣が大学に介入し大学紛争を収拾するための大学運営に関する臨時措置法案を国会に提出しました。野党・国立大学協会らは、大学自治への介入と反対しました。衆参両院で実質審議なしに自民党が強行採決しました。
 5月26日、東名高速道路が全線開通しました。
 5月30日、佐藤内閣は、新全国総合開発計画を決定しました。それは、巨大都市圏・巨大コンビナート地帯・巨大産業基地などを配置、新幹線・高速道路網による巨大開発計画というものですが、高度成長の終了により、机上のブランで終わりました。
10  6月3日、愛知揆一外相は、米国務長官に安保自動延長を提案しました。
 6月10日、経済企画庁は、「1968年度の日本の国民総生産が52兆円で、西ドイツを抜いて世界第2位になった」と発表しました。
 6月10日、南ベトナム民族解放戦線は、臨時革命政府を樹立したと発表しました。
 7月10日、10年間の時限立法である同和対策事業特別措置法が公布されました。
 7月13日、東京都議選がおこなわれ、自民党が第1党に復活し、社会党は第3党に転落しました。
 7月20日、アメリカのアポロ11号が月面に着陸しました。月着陸船「イーグル」からアームストロング船長は、人類初の月面第一歩を踏み出し、「この一歩は小さいが人類にとって偉大な飛躍だ」というメッセージを伝えました。
 7月23日、参院本会議徹夜審議で、自衛隊法・防衛庁設置法改正案が可決されました。
 8月3日、参議院本会議に上程された「大学の運営に関する臨時措置法案」が議長発議により、審議ゼロのまま抜き打ち採決され、成立しました。
 8月7日、ゼロ審議の「大学運営に関する臨時措置法」が公布されました。
 8月22日、札幌地裁は、ミサイル基地反対の長沼町民の申し立てを認める判決を下しました。これを長沼判決といいます。
 9月14日、札幌地裁の平賀健太所長は、長沼ナイキ基地訴訟を審理中の福島重雄裁判長に訴訟判断に触れる書簡を出しました。その事実が判明しました。
 9月29日、農政審議会は、コメ過剰時代の農業政策を答申しました。
 9月29日、中国が水爆実験に成功しました。
11  10月10日、ベ平連・全国全共闘会議など新左翼各派が初の統一行動を行いました。
 10月15日、アメリカで、ベトナム反戦デモがあり、100万人以上が参加しました。
 10月16日、日経連代表理事の桜田武は、日経連総会で、70年安保を控え、「憲法改正も必要」と発言し、改憲論が活発化しました。
 11月5日、大菩薩峠で武装訓練していた赤軍派のメンバー53人が逮捕されました。
 11月13日、沖縄で、佐藤首相訪米反対県民大会に10万人が参加しました。
 11月16日、ニューヨーク・タイムズは、ベトナムのソンミ村虐殺事件を報道しました。
 11月17日、佐藤首相が訪米しました。
 11月19日、佐藤首相は、ニクソン大統領と会談しました。
 11月21日、日米共同声明を発表し、(1)安保条約堅持・自衛力漸増(2)韓国の安全は日本の安全に緊要との韓国条項(3)米軍基地の機能を損わない前提で沖縄の1972(昭和42)年返還などを確認しました。しかし、佐藤首相が公約した「核抜き」は明記されませんでした。
 11月22日、野党は、「韓国・台湾を含む極東地域の安全が日本の安全に重大な関係がある」と批判しました。沖縄の屋良主席も不満を表明しました。
 12月27日、@32衆議院議員総選挙が行われ、沖縄復帰を訴えた自民党288人、社会党90人、公明党47人、民社党31人、共産党14人、無所属16人が当選しました。自民党は、得票率は減少しましたが、その後の入党組みをいれると300の大台に乗りました。他方、社会党は50減の大敗で、「70年安保」問題の決着がついたといわれました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
1968(昭和43)年と3億円事件
 1969(昭和43)年は、私の27歳の時の体験です。既に教師生活を送っていました。
 大学紛争が高校にも徐々に影響を及ぼしている頃でした。
 日米安保問題、大学紛争、公害問題などが重く垂れ込めていました。そんな時に、3億円事件がおこりました。とても印象深い事件でした。
 日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へは大体20分の道のりです。安全確保のため、東芝工場へはいくつかのルートを作っており、当日の朝、銀行員にそのルート知らせて、現金を輸送するシステムになっていました。
 1968年(昭和43年)12月7日、日本信託銀行国分寺支店の支店長宛てに、300万円を要求し、「約束を守らない場合は、巣鴨の自宅と銀行を爆破する」という脅迫状が送り付けられていました。
 12月10日、東芝府中工場の従業員4000人のボーナス3億円(正確には2億9430万7500円)を積んだ現金輸送車(日産のセドリック)は、日本信託銀行国分寺支店を出発して、国分寺駅の東の踏み切りを渡って、南下し、大栄ストアの交差点を南西に南下して、府中刑務所の北の通称学園通りを西に向かい、府中街道の交差点を西に進み、武蔵野線の踏切を越えれば、東京芝浦電気府中工場に着く予定でした。
 12月10日9時21分、現金輸送車は、学園通りの北側にある都立府中高校を通過して、府中刑務所(府中市栄町3−4)の北側にやって来ました。その時、カバーを引っ掛けた状態の白バイが現金輸送車を追いかけてきて、現金輸送車の前を塞ぐようにして停車しました。
 現金輸送車の運転手は、窓を開けて、「どうしたのか」と訊くと、白バイの警察官は、「貴方の銀行の支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので、念のために、調べさせて下さい」と言って、銀行員を現金輸送車から降ろさせました。銀行員の脳裏には、4日前の支店長宛の脅迫状がよみがえりました。
 12月10日9時24分、白バイの警察官は、輸送車の車体に潜り込み爆弾を捜していましたが、白い煙が出たので、大声で「爆発するぞ!早く逃げろ!」と叫んで、銀行員を現金輸送車から遠ざけ、銀行員が車から離れた隙に、現金輸送車に乗り込んで、逃走しました。停止から逃走まで僅か3分の出来事でした。
 銀行員の1人が、すぐそばの刑務所監視所に向かって「現金輸送車が盗まれた!」と叫び、それを聞いた刑務所職員が110番通報し、警視庁はただちに緊急配備を敷きました。
 その後、銀行員は、白バイだから警察官だと思い込まされていたことが判明しました。また、白い煙は発炎筒だったことが分かりました。現場には、犯人が乗ってきた白バイが放置されていました。事件のあった現場を第一現場とします。
 犯人は、学園通りを西進し、府中街道を北上し、市立第四中学校の北を東進し、武蔵国分寺跡近くの国分寺市西元町3−26に現金輸送車を乗り捨てていました。第一現場から2.5キロとところです。当然ながら、現金3億円は持ち去られていました。ここが第二の現場です。
 日本信託銀行国分寺支店からどのルートを利用するのか見張っていたグリーンのカローラが目撃されました。ここが第三の現場です。
 4月9日、小金井市本町の住宅供給公社団地の駐車場で、逃走用に使われた紺のカローラが発見されました。この車のトランクから、現金を運んだジュラルミンの箱3個が発見されました。ここが第四の現場です。
 つまり、第三現場でその日のルートを確認し、第一現場から現金輸送車に乗り、第二現場で紺のカローラに乗って、第四現場に行き、そこで発見されていない別の車で逃走したのです。
 白く塗装したバイクも逃走用の自動車も盗難車でした。
 3億円強奪事件は、日本信託銀行の行員4人、府中刑務所の職員、近くにいた自衛隊員などが目撃していました。犯人の残した遺留品は白バイ・発煙筒・ハンチングなど62点もあり、目撃者も多数いて、事件の解明は時間の問題と、楽観的な雰囲気が漂っていました。
 多数の目撃者の証言により、モンタージュ写真が作成されました。その結果、「犯人は複数、年齢は18歳〜26歳」と犯人像として捜査を進めました。
 しかし、モンタージュ写真は、既に死亡している人に酷似していました。遺留品も大量生産時代の商品であり、すぐに壁にぶつかりました。
 そこで、捜査方針を改め、1から徹底的に操作を開始しました。その結果、白バイを白に塗装する際マスキングの為に使用したと思われる数mmの糸状の物体を調べた結果、新聞紙の切れ端である事が判明し、何月何日のどこの新聞かも突き止め、その新聞を契約している付近の家を片っ端から調べましたた。
 ジュラルミンケースに付着していた泥を精密検査した結果、現場から4キロ離れた国分寺市恋ヶ窪の雑木林の土壌と酷似していた。この為この付近にアジトがあると見て、徹底的に捜索しました。
 容疑者として浮かんだ人物は11万人の及び、動員された警察官は述べ17万人に達しました。使った捜査費用は10億円と言われています。
 1969年12月12日、ある新聞は、「三億円事件に重要参考人」「極秘に身辺捜査始める」「府中市の元運転手」「土地カン、タイプも経験」というタイトルの記事を掲載しました。それによると、府中市の元運転手(26歳)は、任意同行を求められ、三鷹署に連行されました。元運転手は、アリバイとして「池袋の会社に就職試験を受けに行った」と主張しましたが、警察の調べでは、そのような会社はありませんでした。そこで逮捕したというのです。
 しかし、元運転手が池袋と言ったのは、別の場所の就職試験だったことが判明し、アリバイが成立しました。しかし、新聞には、実名で、しかも写真付き報道されました。犯人扱いされた元運転手は、学歴・職歴・生育歴まで詳細に報じられ、冤罪が判明しても、一度暴露されたプライバシーが「盆に戻る」ことはありませんでした。
 1973年、平塚八兵衛警視は、前線指揮官になると、今までの犯人像を大きく覆し、強引に、「犯人は単独で、家族持ち、年齢は36歳〜37歳前後」と変更しました。それから以降、この線で、捜査が開始されました。
 平塚八兵衛といえば泣く子も黙る警視です。警察界では最高の栄誉である警察功労賞を帝銀事件と吉展ちゃん事件で2度も得てます。これは警察史上初めてのことだそうです。
 しかし、警察のエースを投入しても、犯人を検挙することは出来ませんでした。
 その結果、刑事事件の時効7年が過ぎ、1975年12月10日に公訴時効が成立しました。民事事件の時効20年も終り、1988年12月10日に民事時効が成立しました。
 東芝のボーナスには保険がかけられていたので、東芝の損害はありませんでした。
 当時、事件現場の府中高校生であった歌手の布施明やタレントの高田純次らも容疑リストに載っていたそうです。これは、確認していません。
 世論は、特にだれも怪我をしたり、損害が出ていないことから、時代の閉塞感を打破する出来事と感じて、盗難になった額の2億9430万7500円を憎しみのない(2943075)強盗(00)と噂しました。
 しかし、支店長宛の脅迫状の内容を知っている、現金輸送の日時・現金輸送車のルートを熟知していることから、計画的な犯行には間違いがありません。
(1)一番有力視されているのは、非行グループのリーダー(19歳)です。彼は、発炎筒を炊いてスーパーを襲撃したりして、東京鑑別所にも入っていたことがありました。しかし、彼の父は、現職白バイの警察官で、事件の5日後に父親が隠していた青酸化合物で自殺しました。
(2)銀行内部に精通していることから銀行員が疑われました。
(3)売れない推理小説家犯人説もありました。
(4)新聞記者の間では、過激派グループ説がありました。盗まれた3億円は、新札で通し番号と打たれており、使用すれば、犯人逮捕につながったのですが、未だに使っていません。これはミステリーです。
 当時、三多摩地区には全学連の活動家が多数下宿していました。3億円事件の犯人を捜査する目的で、ほとんどの家が家宅捜索を受けました。その結果、70年安保の自動延長はスムーズになされたという説もあります。ビートたけしのTV番組のその1つでした。

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