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エピソード

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保守長期政権と対米協調X(佐藤栄作内閣、ドル=ショック)
 ここでは1970(昭和45)年〜1971(昭和46)年を扱います。
 1970(昭和45)年1月5日、共産党は、公明党が藤原弘達らの著作に不当な圧力をかけていると批判し、藤原弘達『創価学会を斬る』への創価学会による出版妨害が表面化しました。
 1月5日、沖縄米軍は、基地労働者の第2次解雇728人を通告しました。
 1月6日、在日米海軍司令部は、横須賀基地で働く日本人労働者500人の解雇を通告しました。
 1月14日、@63第三次佐藤栄作内閣が誕生しました。外相に愛知揆一、蔵相に福田赳夫、文相に坂田道太、農相に倉石忠雄、通産相に宮沢喜一、運輸相に橋本登美三郎、郵政相に井出一太郎、建設相に根本龍太郎、官房長官に保利茂、総理府総務長官に山中貞則、国家公安委員長に荒木万寿夫、防衛庁長官に中曽根康弘らが就任しました。
 1月23日、長沼ナイキ訴訟で、札幌高裁は、基地建設のための保安林解除の執行停止を認めた一審判決を取消し、農民側の訴えを却下しました。
 1月26日、西ドイツで、サリドマイド裁判の被告である製薬会社グリューネンタール社は、1億マルクの補償金を条件に裁判の中止を申し入れました。
 2月3日、佐藤内閣は、核拡散防止条約に調印しました。
 2月18日、通産省は、カドミウム汚染を起こした東邦亜鉛安中精練所の拡張工事認可を取り消しました。
 2月18日、ニクソン大統領は、アメリカの外交政策「ニクソン・ドクトリン」を発表しました。
 2月20日、佐藤内閣は、米の減産など総合農政の基本方針を決定し、1970年度産米より減反政策を始めました。
 3月31日、八幡製鉄・富士製鉄が合併して新日本製鉄が発足しました。資本金2293億6000万円・従業員8万人の巨大企業が復活しました。
 3月31日、赤軍派9人は、日航機よど号をハイジャックして、北朝鮮へ向かいましたが、対空放火とミグ戦闘機の追跡にあって南下し、韓国の金浦空港に着陸しました。犯人らは、機内にたてこもりました。
 4月3日、赤軍派9人にハイジャックされた日航機よど号は、衆議院議員の山村新治郎政務次官を人質として、韓国の金浦空港から北朝鮮に出航しました。
 4月13日、京都府知事選で、社・共の推す蜷川虎三が6選を果たしました。
 4月14日、アメリカの月探索船アポロ13号は、故障のため月着陸を断念し、着陸船を使って帰還しました。
 4月18日、長沼ナイキ訴訟の民事訴訟で法務省は、福島重雄裁判長が青年法律家協会員であることを理由に忌避を申し立てました。
 4月19日、松村謙三・周恩来は、日中覚書貿易協定に調印しました。席上、周恩来首相は、日本の軍国主義復活を非難しました。
 4月22日、国税庁は、高額所得者を発表し、地主が上位を独占しました。
 4月22日、アメリカのニクソン大統領は、1971年春まで15万人のベトナム撤兵を言明しました。
 4月23日、佐藤首相は、軍国主義化は誤解と反論しました。
 5月1日、沖縄・北方対策庁が設置されました。
 5月3日、創価学会総会で、池田大作会長は、出版妨害問題を反省し、公明党との「政教分離」を表明しました。
 5月16日、ベ平連系の在日アメリカ人ら1200人は、アメリカ大使館前で、米軍のカンボジア侵攻抗議のデモを行いました。
 6月2日、韓国で詩人の金芝河が反共法違反で逮捕されました。
 6月6日、部落解放同盟正常化全国連絡会議が結成されました。
 6月15日、森永砒素ミルク事件で、森永側の弁護団が初めて原因が粉ミルクであったと認めました。
 6月22日、佐藤内閣は、安保条約の自動延長を声明しました。
 6月22日、通産相の宮沢喜一は、ワシントンで、米商務長官のスタンズと会談し、日本の対米輸出規制につき日米繊維交渉を開始しました
 6月23日、安保条約が自動延長され、反安保統一行動に77万人が参加しました。
 6月24日、日米繊維交渉が決裂しました。
 6月26日、公明党大会は、創価学会との政教分離をはかる新綱領を採択しました。
 7月7日、共産党大会は、委員長に宮本顕治、書記局長に不破哲三を選出しました。
 7月14日、佐藤内閣は、日本の呼称を「ニッポン」に統一しました。
 7月17日、東京地裁は、家永教科書裁判で、文部省に不合格処分取消しを命じました。
 7月18日、東京都杉並区の高校運動場で、女生徒40人は、吐き気などを訴えて倒れ、近くの病院に運ばれました。「原因は光化学スモッグのオキシダントと硫酸スミトによる複合汚染であると推定される」と発表されました。
 7月18日、防衛庁は、企業限定など防衛産業の育成策を発表しました。
 7月31日、中央公害対策本部が設置されました。
 8月2日、銀座・新宿・池袋・浅草の繁華街で、車を締め出す「歩行者天国」がスタートしました。
 8月4日、中核派に拉致された革マル派の東京教育大生が死体となって発見される。以後、両派の内ゲバが激化しました。
 8月9日、静岡県田子ノ浦港で、ヘドロ公害追放の住民抗議集会が開かれました。
 8月10日、愛知揆一外相は、参議院で、米石油会社の尖閣列島の油田調査への中国国民政府の許可に抗議したと答弁しました。以後、尖閣列島の帰属問題に発展しました。
 8月11日、富士市公害対策市民協会などは、田子ノ浦のヘドロ公害で、大手4製紙会社と知事を告発しました。
 8月13日、総評大会は、議長に市川誠、事務局長に大木正吾を選出しました。
 9月1日、佐藤内閣は、第3次資本自由化措置を実施し、その結果、自由化率は80%強となりました。
 9月7日、厚生省は、キノホルムがスモンの原因の疑いがあるとして使用と販売の中止を通達しました。
 9月20日、有明海の漁民は、カドミウム汚染に抗議して、三井三池精練所の正門前に、汚染した赤貝を撒きました。
 10月20日、佐藤内閣は、初の防衛白書「日本の防衛」を発表しました。
 10月21日、防衛庁は、第4次防衛力整備計画の概要を発表しました。
 10月21日、国際反戦デーで、京橋の水谷公園でヘルメットをかぶった女性たちは、「男は立ち入り禁止」の集会を開きました。これが日本でのウーマンリブの初めといわれます。
 10月24日、アメリカを訪問している佐藤首相は、ニクソン大統領と会談し、繊維交渉再開で合意しました。
 10月26日、徴兵拒否でヘビー級チャンピオンのライセンスを剥奪されていたモハメド・アリが復帰し、ジェリー・クォーリーにTKO勝ちしました。
 10月29日、佐藤栄作首相は、自民党臨時大会で三木武夫を破って総裁に4選されました。
 11月13日、鹿島工業地帯でアンモニアが噴出し、数百人が中毒となりました。
 11月15日、沖縄で、戦後初の国政選挙が行われ、衆議院で革新3人・保守2人、参議院で革新1人・保守1人が当選しました。
 11月19日、経団連など3団体は、公害罪法案に反対を表明しました。
 11月25日、三島由紀夫(45歳)らは、市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入って、演説を行ったあと割腹自殺しました。三島由紀夫は、国家主義の立場で、自衛隊を合憲とする憲法改正を企図して、クーデタを図りました。
 12月2日、社会党大会は、委員長に成田知巳、書記長に石橋政嗣を選出しました。
 12月9日、超党派で、日中国交回復促進議員連盟379人が発足し、会長に藤山愛一郎が就任しました。
 12月18日、公害対策基本法の改正など公害関係14法が成立し、「経済との調和」条項が削除削除されました。
 12月20日、沖縄コザ市で、米軍MPの交通事故処理に怒った市民5000人が車などを焼打ちし暴動化しました。ランバート高等弁務官は、「暴動は沖縄復帰を阻害、化学兵器を撤去しない」と特別声明を出しました。
 12月21日、屋良朝苗主席がランバート高等弁務官の特別声明に抗議しました。
 12月25日、最高裁は、部下に天皇制の是非を問う書簡を出した鹿児島地裁の飯守重任所長を解任しました。
 12月26日、アメリカは、ベトナムでの枯葉剤使用は翌春までと発表しました。
 12月30日、愛知揆一外相は、駐日米大使マイヤーと会談し、ランバート特別声明を修正しました。
 1971(昭和46)年1月4日、金沢地・家裁の平沢啓吉判事補(35歳)は、「東大裁判を契機として平賀書簡問題など最高裁の動きが信頼できなくなった」として退官届を提出しました。
 2月1日、東邦亜鉛安中工場の女子従業員の遺体からカドミウムが検出されました。
 2月5日、国会の裁判官訴追委員会は、全国の裁判官210人が訴追請求を受けている問題について、「青法協会員」だけを理由に裁判官訴追はできないと結論を下しました。
 2月17日、京浜安保共闘は、真岡市で銃を強奪しました。
 2月19日、衆議院は、政府に対する要望で物価対策が上位の物価問題を集中審議しました。
 2月26日、赤軍派の重信房子(25歳)は、ベイルートへ出国しました。
 3月22日、赤軍派幹部の坂東国男らは、資金獲得のため、宮城県泉市の相互銀行支店で、現金115万円を強奪しました。
 3月31日、最高裁は、青年法律家協会加入の判事補宮本康昭の再任を拒否・裁判官志望の司法修習生7人の不採用を決定しました。これを司法の反動化といいます。
 4月5日、西ドイツは、ドル売りに対抗して為替市場を閉鎖しました。
 4月11日、第7回統一地方選が行われ、大阪で黒田了一が当選し、革新知事が誕生しました。東京で、美濃部亮吉が再選しました。
 4月16日、天皇・皇后は、広島原爆碑に初めて参拝しました。
 4月23日、ワシントンのベトナム反戦集会に20万人が参加しました。
 4月29日、三菱化成黒崎工場は、がんの集団発生を13年間隠匿していたことが判明しました。
 5月3日、ワシントンの第2次ベトナム反戦デモで、1万2600人が逮捕されました。
 5月6日、西ドイツは、変動相場制に移行しました。
 5月12日、クライスラー社は、三菱重工業の子会社である三菱自動車工業への資本参加契約に調印しました。
 5月14日、名古屋地裁は、津市の市立体育館の公費による神式地鎮祭を違憲と判断しました。
 5月19日、沖縄全軍労など54組合は、沖縄返還協定反対で、初の24時間ゼネストを実施しました。
 6月17日、沖縄返還協定の調印式が行われましたが、琉球政府屋良朝苗主席は欠席しました。協定は、(1)米軍基地は存続(2)秘密協定で朝鮮有事の際の日本基地からの米軍出撃を認めるというものでした。
 6月27日、第9回参議院選挙が行われ、自民党62人、社会党39人、公明党10人、民社党6人、共産党6人、無所属2人が当選しました。
 6月30日、富山地裁は、イタイイタイ病慰謝料請求訴訟で、カドミウムが原因と認定し、三井金属鉱業に慰謝料支払を命令しました。
 7月1日、環境庁が発足し、初代長官に山中貞則が就任しました。
 7月1日、日本繊維産業連盟は、輸出量増加を年5〜6%に抑制するという対米輸出の自主規制を実施しました。
 7月5日、佐藤首相は、第3次内閣改造を行いました。法相に前尾繁三郎、外相に福田赳夫、蔵相に水田三喜男、農相に赤城宗徳、通産相に田中角栄、運輸相に丹羽喬四郎、労相に原健三郎、建設相に西村英一、官房長官に竹下登、北海道開発庁長官に渡海元三郎、防衛庁長官に増原恵市、科学技術庁長官に平泉渉、環境庁長官に大石武一らが就任しました。外相の福田赳夫と通産相の田中角栄らポスト佐藤候補の争いが激化しました。
 7月11日、いすゞ自動車工業は、米のゼネラル=モーターズと資本提携協定調印しました。
 7月9日、アメリカ大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーは、パキスタンのヤヒア・カーン大統領の斡旋で極秘に中国を訪問しました。
 7月17日、参議院改革を掲げる河野謙三は、自民党の一部と野党の支持をうけ参議院議長に当選しました。その結果、議長重宗雄三による9年にわたる重宗王国が崩壊しました。
 8月2日、防衛庁長官である増原恵市の後任に西村直巳が就任しました。
 8月2日、アメリカは、中国の国連加盟への賛同と国府の国連追放への反対を決議しました。
 8月3日、民社党大会は、委員長に春日一幸、書記長に佐々木良作を選出しました。
 8月6日、佐藤首相は、現職首相として、初めて広島平和祈念式典に出席しました。
 8月15日、ニクソン大統領は、ドル防衛策として金・ドル交換の一時停止を発表しました。これをニクソン・ショックといいます。
 8月16日、米国のドル防衛策で東京証券取引所のダウが暴落し、ドル売りが殺到しました。これをドルショックといいます。
 8月16日、欧州為替市場が混乱回避のため閉鎖されました。
 8月28日、日本は、変動相場制に移行しました。
10  9月8日、中国の林彪は、毛沢東暗殺意のクーデターに失敗し、亡命を図りました。その後、林彪は、墜落死しました。
 9月21日、公明党の竹入義勝委員長は新宿の党本部前で暴漢に刺され3か月の重傷を負いました。
 9月26日、アメリカは、「中国招請・国府追放」を決めた国連総会決議を受入れました。
 9月27日、天皇・皇后は、欧州7カ国を訪問しました。イギリス・オランダで抗議行動がありました。
 9月29日、新潟地裁は、阿賀野川水銀中毒訴訟で昭和電工に損害賠償支払いの判決を下しました。
 10月1日、第一銀行は、日本勧業銀行と合併して、第一勧業銀行が発足しました。その結果、預金高全国1位となりました。
 10月8日、公労委は、国労が申し立てたマル生運動(生産性教育)による静岡鉄道管理局の不当労働行為を認定し、その結果、マル生は運動は、延期となりました。
 10月14日、運輸省は、東北・上越新幹線の建設を認可しました。
 10月25日、国連総会で、中国招請・台湾追放が可決され、中国の国連加盟が実現しました。
11  11月16日、科学技術庁長官である平泉渉の後任に木内四郎が就任しました。
 11月17日、自民党は、衆議院特別委員会で、沖縄返還協定を強行採決しました。
 11月19日、総評など200万人が、抗議のストに参加しました。
 11月24日、衆議院の船田中議長は、職権で衆議院本会議を開き、自民・公明・民社出席で、返還協定を可決しました。
 12月3日、防衛庁長官である西村直巳の後任に江崎真澄が就任しました。
 12月8日、10カ国先進国蔵相会議は、金1オンス=38ドルなどで合意しました。これをスミソニアン合意といいます。
 12月12日、アメリカの貿易収支は、1894年以来初めて赤字となりました。
 12月19日、10カ国蔵相会議で、固定相場制が復活し、1ドル=360円が1ドル=308円に変更されました。これをスミソニアン体制といいます。
 12月20日、1ドル=308円が実施されました。これをスミニアンニレートといいます。
 12月22日、参議院本会議は、沖縄返還協定を承認しました。
 12月30日、自民党は、衆議院で沖縄復帰関連4法案を単独可決しました。
 12月30日、中国外交部は、尖閣列島を沖縄協定の返還区域に含めたのは中国主権の侵害であると公式声明を発表しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
「栄ちゃんと呼ばれたい」と言った政界の団十郎こと佐藤栄作首相
 政界の団十郎といわれ、目玉をぎょろぎょろさせながら、長期間総理大臣を務めた佐藤栄作のことを今回では取り上げます。
 私にとって、一番印象深かったのは、佐藤栄作首相は、退任の記者会見で、TVカメラに向かい、「新聞記者とは話さない。テレビと話したいんだ。新聞記者は出て行ってくれ」と言った場面です。映画を見るように今も強烈の映像として残っています。
 1967年6月17日、佐藤栄作首相は、自民党の両院議員総会で引退を表明した後、首相官邸で内閣記者会と会見しました。その冒頭で、「テレビはどこだ?。NHKはどこにいる?。前に出て下さい。私はテレビと話したいんだ。国民と直接話したいんだ」「偏向的新聞は大嫌いだ。新聞は間違って伝える。新聞記者は出て行ってくれ」と発言しました。反発した新聞記者が抗議しましたが、佐藤首相は、「構わない。テレビは真実を伝えてくれるので、私は直接テレビから国民の皆さんにご挨拶する。やりましょう」と大声でいい、新聞記者が「じゃ、退席しましょう」と一斉に退席した後、、1人でテレビカメラに向かって20分間しゃべり続けました。
 とても印象の悪い佐藤首相ですが、実態はどうなのでしょうか。
 1901(明治34)年3月27日、佐藤栄作は、山口県熊毛郡田布施町で、酒造業を営む佐藤秀助と茂世の7人目の子(三男)として生まれました。
 佐藤家の坊ちゃんとして「栄だんさま」とよばれたり、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶したという話が残っています。
 1924年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業して、鉄道省に就職しました。
 地元の人は、佐藤家の市郎・信介・栄作の3兄弟について、「頭は上から、度胸は下から」と評判しあったそうです。
 1947年、運輸相トップの運輸次官になりました。時に47歳の若さでした。
 1948年3月、遠縁の吉田茂に進められて民主自由党に入党しました。
 1948年、第二次吉田内閣の官房長官に、非議員の資格で、就任しました。
 1949年、衆議院議員に初当選しました。
 1951年、郵政大臣に就任しました。
 1952年、建設大臣に就任しました。
 1954年、造船疑獄事件で、吉田学校の優等生といわれた幹事長の佐藤栄作に逮捕状が請求されましたが、法相の犬養健による検察指揮権の発動により逮捕を免れました。
 1955年、鳩山一郎らが中心になって、自由党と民主党が合同して、自民党が結成されました。この時、自民党入りを拒否した吉田茂に従って行動を共にしました。自民党には大野伴睦・河野一郎らが従いました。吉田茂を不倶戴天の敵として、吉田学校の優等生である佐藤栄作と大野・河野との骨肉の争いが激化しました。
 1958年、第二次岸内閣の大蔵大臣に就任しました。
 1961年、第二次池田内閣の通商産業大臣に就任しました。
 1964年5月、宿敵の大野伴睦が亡くなりました。74歳でした。大野は、戦前からの党人派です。佐藤栄作の兄である岸信介首相から、後継総裁の念書をもらって岸内閣に協力を誓いました。しかし、岸から「床の間に肥溜めをおけるわけがない」と言われて、念書を反古にしたしたという話もあります。
 大野伴睦は、は「政治は義理と人情だ」を信条にしており、「伴ちゃん」と言われて、庶民から親しまれていました。それを意識して、佐藤栄作は「栄ちゃんとよばれたい」と言ったといいます。
 7月、自民党臨時大会で、総裁公選が行われました。佐藤栄作と藤山愛一郎との間には、2位3位連合の約束がありました。しかし、第一回の投票は、池田勇人は242票、佐藤栄作は160票、藤山愛一郎は72票、灘尾弘吉は1票、無効が3票でした。池田は、党人派の支持を得て、過半数をわずかでしたが5票超えて、辛うじて3選を果たしました。
 9月、池田勇人首相は、喉頭ガンで、国立がんセンターに入院しました。後継首相となる自民党総裁は、川島正二郎副総裁と三木武夫幹事長が党内の意見を聞いて調整し、その報告をもとに病床の池田首相が指名するという手続をとりました。2人は、佐藤栄作
 10月、池田首相は、辞意を表明し、後継総裁に佐藤栄作を推挙しました。
 11月、佐藤栄作は、内閣総理大臣に就任しました。64歳でした。
 1965年7月、宿敵の河野一郎が亡くなりました。この時、「死んでたまるか」と言ったいわれています。67歳でした。参議院議長の河野謙三は弟、衆議院議長の河野洋平は次男です。戦前からの党人派です。
 1970年10月、自民党内部に政権の長期化を懸念し、佐藤栄作勇退論の声が挙がりました。佐藤栄作も、岸派の後継者で福田派の領袖の福田赳夫に譲りたいと考えていました。福田赳夫も禅譲を期待していました。従って、福田は、主流派内の多数派工作に動けませんでした。
 他方、田中角栄は、総裁選に備えて、佐藤派内の掌握のため、その時間稼ぎに佐藤4選に尽力しました。また、旧岸派分裂時に、福田赳夫嫌いから袂を分かった自民党副総裁川島正次郎も、佐藤に4選を持ちかけました。
 その結果、自民党総裁に4選されました。これは自民党史上唯一のことです。また、総理大臣の在任は7年8カ月で、連続では、歴史上最長です。長期政権の秘訣は、宿敵がいなかったこと、政策の福田赳夫と行動力の田中角栄を両輪として競わせて、求心力を高めた「人事の佐藤」にあったといわれています。
 1974年、佐藤栄作は、非核3原則・核抜き本土並み沖縄の返還などを評価されて、ノーベル平和賞を受賞しました。 
 佐藤栄作は、沖縄返還、日韓基本条約などの功績で、ノーベル平和賞を受賞しました。
 しかし、当時も、現在も、官僚的・高圧的態度で、余り評判は芳しくありません。
 例えば、大宅荘一は「栄作ではなく無策」と酷評しています。
 三木武吉は、兄の岸信介に対して、弟の佐藤栄作に関して、「君はとにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつはいざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と評していました。
 細川隆元は「一番出来が悪くっても長く総理をやり、また国民の協力を得ることが出来、ノーベル賞までもらう。全く運のいい男だ」と書いています。
 2001年、ノルウェーのノーベル賞委員会は、『ノーベル平和賞・平和への百年』を出版し、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」として、当時の選考委員会を批判しました(2001年9月5日付け朝日新聞)。
 結局、死後まで鞭打たれる政治家だったのでしょうか。
吉田茂・岸信介閨閥図(は政治家)
竹内綱
┏━ 健  一 (英文学者)
吉田健三 ・・ ・・茂 ┣━ 桜  子
佐藤信彦 ━━━━ さわ 吉田寛
‖━ ╋━ 正  男 (学習院大教授)
佐藤茂世 岸信介 ━━━洋子
佐藤栄作 ‖━ 安倍晋三
安倍晋太郎
大久保利通 牧野伸顕 雪 子 ┣━ 江子
┗━ 和子
‖━━━ 麻生太郎
麻生太賀吉 ━━━信子
三笠宮寛仁親王

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