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エピソード

282_01

特需と経済復興(朝鮮特需と経済成長率)
 以前にも書きましたが、戦争を公然と肯定する人はいません。にも拘わらず、人間の歴史は闘い・戦争の歴史でした。それは、何故なんでしょうか。
 口では、戦争に反対しても、戦争を商売にしている人がいるのです。破壊する武器・弾薬類を製造する会社、破壊された建造物を再建したり、その材料を製造する会社などがあるのです。死の商人といわれる人々です。
 戦争は、個人では出来ません。国家行事となります。国家行事ということは、税金が投入されます。戦争に必要な商品を注文します。これを別な要といいます。つまり、特需です。それに対して、商品を供給します。
 広辞苑を見ると、特需は「一般に、在日米軍が日本で調達する物資・役務に対する需要をいう」とあります。
 戦後、日本では、戦争による特需が2度ありました。1つは朝鮮戦争の時です。もう1つはベトナム戦争の時です。ここでは、1945年〜1958年を扱いますから、朝鮮戦争が対象となります。
 下記の表を見ると、アメリカの対日援助に代わって、朝鮮戦争による戦争特需が出てきて、増加していることが分かります。朝鮮戦争後も、特需があるのは、復興特需があったためです。
1946年〜1967年までのアメリカの対日援助(A)とアメリカの対日特需(B):単位は億ドル
  46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67
A 2.0 4.0 4.5 5.0 3.5 2.0                                
B         2.5 6.5 7.5 7.0 5.0 4.8 5.0 4.0 3.5 3.5 4.0 3.5 3.5 3.1 3.0 3.5 4.5 5.0
朝鮮戦争 ベトナム戦争
 次に、この戦争特需が日本の経済にどのような影響を与えたのか調べてみます。 
  1949年 1950年 1951年 1952年 1953年 @国家の経常収支と特需収入
A1952年には、特需は歳出
 の半分なっています。
B1953年にいたっては、60
 %に達しています。
C朝鮮人が塗炭の苦しみの時、
 日本経済は復興しています。
歳入 217.8 629.9 934.3 873.1 893.4
歳出(A) 331.9 458.5 815.7 814.0 960.1
特需(B)   100.0 340.0 430.0 580.0
比率(B/A)   21.8% 41.7% 52.8% 60.4%
 具体的に朝鮮特需を調べてみました。
 北朝鮮を支援する中国義勇軍は、陸続きで、兵隊や武器・弾薬を輸送します。他方、アメリカを中心とする国連軍は、海外から兵隊や武器・弾薬を輸送します。それでは、間に合いません。そこで、朝鮮にいる米軍・日本にいる米軍や関係機関は、戦場に近い日本に、戦争に必要な物資やサービスを注文しました。1950年8月には、横浜に米軍の兵站司令部が設置され、そこから注文が日本に届けられました。その額は1950年〜1955年までに33.5億ドルに達しています。関係機関からの特需を間接特需といいますが、その額も36億ドルに達しています。
 特需商品としては、土嚢(土袋)やテント、鉄条網やセメント、食料品、車両修理などのサービスがありました。この結果、糸ヘン景気といわれるほど繊維業界は好景気に沸きました。
 1947年〜1958年の実質成長率の10%以上を調べてみました。12年間の間に5年間が超えています。朝鮮戦争による特需が大きく影響していることが分かります。
実質経済成長率
47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66
8.6 12.7 2.1 11.0 13.0 10.9 7.4 3.7 11.0 7.4 6.4 7.2 9.2 13.3 11.8 8.6 8.7 11.1 5.7 10.3
67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86
11.1 11.9 12.0 10.3 4.5 8.6 8.1 -1.4 3.2 4.0 4.4 5.4 5.6 2.7 2.8 3.2 2.3 3.8 4.6 2.9
87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02
4.4 6.5 5.2 5.2 3.3 1.0 0.3 1.0 1.9 3.4 1.8 -0.7 -1.1 0.1 2.8 0.3
 1945年〜1958年の貿易収支を調べてみました。1950年以外は、輸入超過で、経済構造までは波及していません。しかし、朝鮮戦争による特需がなければ、超過はもっと大きかったかも知れません。
1945年〜1988年貿易収支(単位百万ドル)
45 46 47 48 49 50 51 52 53 54
-18 -236 -266 -232 -192 38 -287 -408 -790 -427
55 56 57 58 59 60 61 62 63 64
-54 -131 -402 369 361 185 -550 422 -357 872
65 66 67 68 69 70 71 72 73 74
2,084 2,057 1,126 2,971 3,718 4,439 8,420 8,333 789 3,940
75 76 77 78 79 80 81 82 83 84
5,843 11,148 20,335 20,531 2,438 6,766 20,358 20,141 34,546 45,601
85 86 87 88            
61,601 101,648 94,034 95,302            
戦後インフレ期 【1】戦後の民主化
(1)財閥解体・農地解体
(2)労働組合の育成
【2】インフレの激化
1945年、財閥解体
1946年、農地改革・金融緊急措置令
1947年、傾斜生産方式・独占禁止法
1947年、復興金融金庫・労働基準法
復興期 【1】日本経済の自立化促進
(1)インフレ収束
(2)不況(安定恐慌)
1948年、経済安定九原則
1949年、ドッジ=ライン・シャウプ税制
成長期 【1】朝鮮特需
(1)景気回復
(2)資本蓄積・技術革新
(3)重化学工業化
【2】米の経済圏に編入
1950年、朝鮮戦争
1951年、対日講和・日米安保
1952年、IMF・世界銀行に加盟
1953年、国際収支悪化→金融引締
特需
景気
1954年、MSA協定 不況
高度成長期 【1】第一次高度成長期
(民間設備投資主導型)
(1)技術革新
(2)需要の拡大ー消費革命
1955年、GATTに加盟
1956年、設備投資・造船世界一
1957年、国際収支悪化→金融引締
神武
景気
31カ月
1958年、戦後初の公定歩合引下 不況
 戦後の日本経済は、以前にも見たように、猛烈なインフレ、食糧難による買出し、復員兵・引揚者なども加えた膨大な失業者など惨憺たるものでした。
 そこで、吉田内閣は、傾斜生産方式を採用し、資金と資材を鉄鋼や石炭などの重要基幹産業に注入し、その利潤を、上から下へと波及するように、他産業に注入する計画を考えました。その資金を賄うために、復興金融金庫を設立しました。しかし、その結果は、インフレを加速させました。
 米ソ冷戦や中華人民共和国の誕生などに不安を感じたアメリカは、日本の経済自立を求め、日本の共産化を防止することに努めました。均衡予算・物価統制などの経済安定九原則を指令したり、補助金の削減・復興債発行の禁止のドッジ=ラインやシャウプ税制勧告を行いました。その結果、インフレを抑制し、日本経済はアメリカ経済圏に組み込まれることになりました。さらに、1ドル=360円の単一為替レートが設定されて、日本経済は資本主義経済体制に一員になりました。
 朝鮮戦争によって、日本に特需景気となり、電力・鉄鋼・石炭など重大産業投資して、資本の蓄積を図りました。また、自動車などの新産業には、技術革新をはかりました。その結果、重化学工業を中心に設備投資が進められ、神武景気を迎えました。
 1951年には、鉱工業生産は、戦前の水準を超えました。
 1953年には、@テレビ放送が始まりました。
 1956年には、造船業はオランダを抜いて、念願の世界一を果たしました。経済白書は、「もはや戦後ではない」と誇らかに、経済発展を謳いました。
 1956年には、日本初のドラム式全自動A洗濯機が発売になりました。
 1963年には、冷蔵室と冷凍室が完全に独立した2ドア2温度式B冷蔵庫が発売になりました。@〜Bを家電の三種の神器といい、庶民の憧れの的でした。
 つなみに、1960年代の高度経済成長時代の耐久消費の三種の神器は、カラーテレビ・クーラー・カーで、3Cと言われました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『日本史総覧』(とうほう)などを参考にしました。
アメリカナイズされた日本人のライフスタイル
 私は、出来るだけ、英語的カタカナ語は使わないにようにしています。例えば、以前。TVに出演した学者や評論家は、法令順守のことを「コンプライアンス(compliance)」と発言しています。他の出席者も当然の如く聞き流しています。しかし、私は聞きなれない言葉だったので、「コンプライアンス」を和英辞書で調べてみました。「規則や要求に従うこと、協力、順守、従順、服従、応諾、承諾、準拠、整合性」とありました。しかし、これでは、意味が通じないので、法律順守を調べると「compliance with the law」とありました。学者や評論家が知ったかぶりして喋っていますが、正確な表現ではないことが分かりました。
 法令順守という立派な日本語があるにもかかわらず、正確は表現ではない英語を使う心理は、劣等な学者や評論家の優越感を満足させたい気持ちの裏返しなのでしょう。
 こういうのを「自虐的」と指摘するなら、同感です。
 以前紹介したかもしれませんが、文化祭でバザーをしたことがあります。元気な男子ばかりのクラスでしたから、時間を有効に使う必要があります。近くのパン屋さんでパンを買って、ホットドッグにして販売しました。あまり売れず、時間は「有効」に使えました。
 次の年です。昨年より少なめにパンを買って、ホットドッグにして販売しました。所が、数時間で売り切れました。同じ数だけ買ったのですが、それも完売です。結局3回パン屋さんでパンを買って、昨年の4倍近い数量を完売しました。儲けの大半を地元に福祉協議会に寄付し、残りを私の誕生したばかりの子供の祝いに人形をプレゼントしてくれました。
 同じパン屋さんで買い、同じクラスのメンバーが販売したのに、大変な違いです。そこで、調べてみました。その結果、パン屋さんが仕入れたパンの名前が「○○屋」という日本名から「□□ポーレ」と横文字に変わっていたことが分かりました。その時、日本人は漢字より横文字に弱いということが実感しました。
 最初に勤務した学校は、ラジオはNHKのFM放送しか聞けませんでした。そこで、唯一の娯楽はレコードでした。数か月分の給料をつぎ込んで、トリオのアンプ、山水のプレーヤー、音響のスピーカーをセパレートで購入しました。
 その後、ケンウッドがこの世界のトップになりました。前身は、トリオだったのです。名前を違えるとこうも変貌を遂げるのでしょうか。
 キャノンは「観音」でした。サントリーは創業者鳥井信治郎の鳥井と赤玉ポートワインの玉を太陽サンに見立てたことから着けられました。「鳥井さん」を逆に読んだというのは、事実ではありません。
 こうしたことも一部の人には、「自虐的」と写るようです。
 次は安室奈美恵のアルバム「Queen of Hip-Pop」に収録された歌の題です。24曲のうち、日本語の題は1つもありません。
(1)Queen of Hip-Pop(2)WANT ME, WANT ME(3)WoWa(4)I Wanna Show You My Love
(5).GIRL TALK(6)the SPEED STAR(7)My Darling(8)Ups & Downs(9)Violet Sauce
(10)ALL FOR YOU(11)Don't wanna cry(12)ALARM(13)Body Feels EXIT(14)shine more
(15)SO CRAZY(16)LOVE 2000(17)You're my sunshine(18)Chase the Chance(20)Say the word
(20)No(21)Put 'Em Up(22)CAN YOU CELEBRATE(23)White Light(24)I Love You
 こうしたことも一部の人には、「自虐的」と写るようです。
 現在の日本人は、ドップリ、アメリカナイズされたライフスタイルを楽しんでいます。
 私も、アメリカTV映画の「うちのママは世界一」などを見て、大きな冷蔵庫をあけて、1リッターの牛乳を口飲みしたり、自家用車で買い物に行く世界にあこがれたものです。
 高校3年生の時にTVが我が家に入りました。父親は、高校3年の時に、娯楽の王様TVを買うことに抵抗しましたが、私は「お父ちゃんやお母ちゃんの楽しみを奪うような高校生活はしないから、TVを買いたかったら買ったらいいよ」といいました。その結果、我が家には近所ではどこよりも早く白黒のTVがやってきました。午後3時頃から、近所の子供たちがやってきます。そこで、私は、「晩の5時から1時間だけTVをつけるから、その時にお出で」と時間制限を設けました。2部屋には入りきれないほどの小学生がやって来ました。1960年はそんな時代でした。
 今、そのあこがれのアメリカ的日常生活をしています。物質文明を堪能しても、武士道としての、責任感・節操は持っています。衣食足りて礼節を知る世界です。 

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