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エピソード

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二大陣営対立の激化(1953〜1954年)
 ここでは、1953〜1954年の世界情勢を概観します。
 資本主義国のリーダーであるアメリカの指導者は、アイゼンハワーです。社会主義国のリーダーであるソ連の指導者はフルシチョフです。資本主義と社会主義とは、水と油の関係です。当時は、社会主義国は、資本家のいない搾取のない理想の国とされていました。
 逆に、資本家にとっては、自分の存在を否定される社会主義国は、許されない国家でした。アイゼンハワーは、「ドミノ理論」を唱え、インドシナが共産主義化されれば南アジア全体が共産化されると真剣に考えていました。今となっては、滑稽な理論だったわけですが、当時は、共産主義化が着実に増加しており、現実的な理論として、受け止められていました。
 その頃の世界情勢を調べてみました。
 1953(昭和28)年1月12日、ユーゴスラビアは、新憲法を採択しました。
 1月13日、カンボジアで、シアヌークは、国民議会を解散し、全権を掌握しました。
 1月14日、ユーゴスラビアは、大統領にチトーを選出しました。
 1月20日、共和党のアイゼンハワーは、アメリカ34代大統領に就任しました。
 1月27日、アメリカのダレス国務長官は、対ソ巻き返し政策を表明しました。
 2月4日、李ライン上で操業していた日本漁船の第一大邦丸が韓国警備艇に拿捕されました。
 2月16日、インドのネルー首相は、議会で「第三世界」の結束を提唱しました。
 3月5日、ソ連のスターリン首相が亡くなり、後任にマレンコフが就任しました。
 4月27日、エジプト政府は、イギリス軍のスエズ運河周辺からの撤退問題で、イギリスと交渉を開始しました。
 5月2日、フセイン(17歳)が第3代ヨルダン国王として即位しました。
 5月2日、イラクで、ファイサル2世が即位しました。
 5月14日、エジプトは、スエズに駐留するイギリス軍に対して、経済封鎖を行いました。
 5月15日、中ソ経済援助協定が調印されました。
 5月19日、エジプトは、スエズ運河周辺からのイギリス軍撤退に関するイギリスとの交渉が決裂し、交渉を打ち切りました。
 6月17日、東ベルリンで、反ソ暴動がゼネストとなり、ソ連戦車が出動し、16人が死亡しました。これをベルリン暴動といいます。
 6月18日、エジプト共和国が誕生し、大統領にナギブが就任しました。
 6月19日、アメリカで、米のローゼンバーグ夫妻は、原子スパイ容疑で死刑が執行されました。しかし後に、無実の罪であることが証明されました。
 6月29日、アメリカ政府は、共産圏向け輸出統制の強化を発表しました。
 7月4日、ハンガリーで、首相にナジが就任しました。
 7月26日、キューバで、カストロの反政府蜂起が失敗しました。
 7月27日、板門店で、朝鮮休戦協定が調印され、朝鮮戦争が終結しました。
 8月12日、ソ連は、水爆実験に成功し、8月20日にそれを公表しました。
 8月8日、米韓相互安全保障条約が調印されました。
 8月19日、イランで、国王派のザーヘディー将軍による軍事クーデターがおこり、モサディク政権を打倒しました。
 8月22日、パーレビ国王がイランに帰国しました。
 9月12日、ソ連共産党第1書記にフルシチョフが選出されました。
 9月14日、マッカーシー委員会は、国連の赤狩りで公聴会を開催しました。
 9月28日、モスクワで、中ソ経済技術援助協定が調印されました。
 9月29日、日米行政協定改定が調印されました。
 10月1日、米韓相互防衛条約が調印されました。
 10月2日、池田・ロバートソン会談が行われ、再軍備で合意しました。
 10月12日、アメリカとギリシャが軍事協定で合意しました。
 10月20日、西ドイツで、アデナウアーの新内閣が発足しました。
 10月30日、シュバイツァーは、ノーベル平和賞を受賞しました。
 11月7日、フィリピン大統領選挙で、マグサイサイが当選しました。
 11月20日、インドシナ戦争で、フランス軍が北ベトナムのディエンビエンフーを占領しました。
 1211日、インドシナ戦争で、ホー=チ=ミンのベトナム人民軍が反撃を開始しました。
 12月14日、ホー=チ=ミンは、ラジオで、「第1次インドシナ戦争の休戦についてフランスと話し合う用意がある」と放送しました。
 1954(昭和29)年1月7日、アイゼンハワー大統領は、一般教書で、武装平和最確認と沖縄無期限保持を表明しました。
 1月12日、米のダレス国務長官は、外交問題評議会で、大量報復政策について演説しました。これをニュールック政策といいます。
 1月21日、米の原子力潜水艦ノーテラス号が進水しました。
 2月3日、フランス軍は、ベトナム軍と、ディエンビエンフーで戦闘となりました。
 2月18日、アメリカ上院のマッカーシー議員は、陸軍幹部を非米活動委員会の査問委員会に召喚して、軍務不適格を宣言しました。
 2月24日、アメリカのアイゼンハワー大統領は、インドのネルー首相に軍事援助を申し出ました。
 2月25日、エジプトで、ナギブ大統領が辞任し、後任にナセルが就任しました。
 2月27日、エジプトで、ナギブが再び大統領となり、ナセルは首相となりました。
 3月1日、アメリカは、マーシャル諸島ビキニ環礁で、乾式水爆23メガトンの実験を行いました。日本のマグロ漁船である「第五福竜丸」は、「死の灰」をかぶり、23人の漁夫が全員急性放射線症となりました。
 3月1日、ネルー首相は、アイゼンハワー大統領の軍事援助申し出を拒否しました。
 3月2日、東ドイツで、ウルブリヒトが社会主義統一党第1書記に選任されました。
 3月10日、アイゼンハワー大統領は、「議会が宣戦布告しない限り、インドシナへは直接介入しない」と言明しました。
 3月13日、ベトナム人民軍は、ディエンビエンフー作戦を開始しました。
 4月7日、アイゼンハワー大統領は、「ドミノ理論」を説明し、インドシナが共産主義化されれば南アジア全体が共産化されると訴えました。
 4月8日、アメリカは、東南アジア集団防衛機構(SEATO)計画を9カ国に申し入れました。
 4月13日、米原子力委員会特別調査委員会は、水爆製造に反対したオッペンハイマー博士の忠誠を調査しました。これをオッペンハイマー事件といいます。
 4月13日、フランスは、インドシナ戦争で、初めて2000ポンド爆弾を使用しました。
 4月18日、エジプトで、ナセル政権が誕生しました。
 4月26日、イギリスのイーデン・フランスのマンデス・フランス・アメリカのダレス・ソ連のグロムイコ・中国の周恩来とヴェトナム・ラオス・カンボジア・南北朝鮮の各代表が集って、ジュネーブ極東平和会議が開かれました。
 4月28日、コロンボで、インド・セイロン・パキスタン・ビルマ・インドネシアが参加して、東南アジア5カ国会議が開催されました。
 5月7日、ベトナム人民軍は、ディエンビュンフーの仏軍要塞を占領しました。
 5月12日、アメリカのSEATO計画に、インドネシアとセイロンが参加を拒否しました。
 5月19日、アメリカ・パキスタン相互安全保障協定が調印されました。
 6月4日、フランスは、南ベトナムとの間に、南ベトナム独立協定を締結しました。
 6月18日、フランスで、インドシナ即時停戦を公約したマンデス=フランス急進社会党内閣が誕生しました。
 6月19日、 南ベトナムのバオ・ダイは、ゴ・ジンジェムを首相に任命しました。
 6月21日、インドシナ休戦協定が結ばれ、17度線で停戦しました。
 6月27日、ソ連で、世界初の工業用原子力発電が始動しました。
 6月28日、インドを訪問中の周恩来首相は、インドのネルー首相と、平和5原則の共同声明を発表しました。
 7月21日、ジュネーブ会議で、インドシナ休戦協定が調印されました。その内容は、フランス軍撤退・ベトナムの独立と統一を承認するというものでした。
 9月3日、中国は、金門・馬祖島への砲撃を開始しました。これを第1次台湾危機といいます。
 9月6日、東南アジア条約機構が創設されました。これをSEATOSouthEast Asia Treaty Organization)といいます。
 9月19日、ユーゴスラビアのチトー大統領は、侵略阻止のためなら、NATOに協力することを言明しました。
 9月20日、中華人民共和国で、憲法が採択され、主席に毛沢東、首相に周恩来が就任しました。
 9月25日、インドのネルーは、インドネシアのスカルノと会談し、アジア・アフリカ会議の開催で共同声明を出しました。
 9月29日、ソ連のブルガーニン副首相・フルシチョフ第1書記が北京を訪問しました。
10  10月17日、インドのネルー首相は、ハノイで、ホー・チ・ミン大統領と会見し、平和5原則のインドシナ適用で合意しました。
 10月18日、ビルマが東南アジア条約機構への参加を拒否しました。
 10月19日、イギリス・エジプト協定が調印され、イギリス軍は、スエズ基地からの撤退の期限を取り決めらました。
 10月29日、インドネシアのスカルノ大統領は、「1955年2月にAA会議を開く」と演説しました。
 11月1日、アルジェリアで独立戦争が始まりました。
 12月2日、米台相互防衛条約が調印されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
インドのネルーの独自の動き
 資本主義国と社会主義国の誕生により、資本主義国を西側陣営、社会主義陣営を東側陣営といいます。資本主義国は、自らを自由主義・民主主義陣営と呼び、社会主義国を共産主義・絶対主義陣営と蔑称しています。
 事実は事実、正邪は正邪として、一方の宣伝に与することなく、冷静に分析する必要があります。
 ヨーロッパでは、イギリス・フランスが主体となって、NATONorth Atlantic Treaty Organisation)が結成されました。和訳すると、北大西洋条約機構となります。1949年4月4日のことです。ソビエト連邦を中心とする社会主義国に対抗する資本主義国の軍事同盟で、アメリカを参加させ、ドイツを抑制する目的でもありました。やがて、主導権はアメリカに移りました。
 1949年段階の加盟国は、アメリカ合衆国・カナダ・イギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・アイスランド・ノルウェー・デンマーク・イタリア・ポルトガルの12カ国でした。この項で扱う1954年までにギリシアとトルコが加盟しました。
 1955年5月6日、西ドイツがNATOに加盟しました。
 ソ連を中心に、WTOWarsaw Treaty Organization)が結成されました。和訳すると、ワルシャワ条約機構となります。私は、先にWTOが出来て、その対策上としてNATOが結成されたと思い込まされていました。しかし、実際に結成されたのは、1955年5月14日でした。
 WTOが出来た頃の歴史を調べると、5月6日に西ドイツの再軍備および北大西洋条約機構が認められたことが分かりました。つまりNATOの対抗としてWTOが結成されたことが分かりました。
 1955年段階の加盟国は、ソビエト連邦・アルバニア・ブルガリア・ルーマニア・ドイツ民主共和国・ハンガリー・ポーランド・チェコスロヴァキアの8カ国でした。
 アジアでは、アメリカが中心となって、SEATOSouthEast Asia Treaty Organization)が結成されました。和訳すると、東南アジア条約機構となります。1954年9月6日のことです。反共軍事同盟です。
 1954年段階の加盟国は、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン・タイ・パキスタンの8カ国です。
 インドは、アメリカから加盟を呼びかけられましたが、拒否しました。拒否したのは、ネルー首相です。
 ジャワハルラル=ネルーは、富裕なバラモン階級の出身で、ケンブリッジ大学を卒業しました。ここで、ネルーは、アイルランドの独立運動や日露戦争の日本の勝利を学び、弁護士資格をとって、帰国しました。やがて、ガンジーの運動に加わります。
 1921年の時、ネルー(22歳)は、初めて投獄されます。イギリスは、ガンジーよりもネルーを恐れていたという史料が残っています。1924年、ネルー(25歳)は、アラハバードの市長になりました。1926年、妻のカマラの療養として、スイスに行きましたが、そこで、ソビエト革命10周年記念にモスクワに招かれ、社会主義と接することになります。
 1930年、ガンジーの塩の行進に同行して、投獄されます。ネルーの投獄生活は、9回述べ3262日に及んでいます。ネルーは、「弾圧を受けない抵抗は、抵抗でない」「投獄されてこそ、本当の革命家である。革命に立ち上がれば、殺されたって、普通である。牢にも入らず、残酷な非難・中傷の集中攻撃も浴びないそんな革命家など、ありえない。迫害がないのは、うまく適当に泳いでるにすぎないからである」という信念を持っており、「獄中は最も安全な読書・学問・執筆の場」と考えていました。
 『父が子に語る世界の歴史』(ネルー著)全6巻(みすず書房)が手元にあります。訳者である大山聰氏のあとがきには次のようにあります。
 「本書の原書”Glimpase of World History”は1930年10月26日から1933年8月9日までの約3年間にわたって著者の入獄中に、獄中から著者の愛する一人娘インディラへの手紙として書かれた」
 1931年の元旦には「《一》おとしだま」という項があります。そこには、次のことが書かれています。
 「おかあさんが囚えられ、刑務所に入れられたという知らせがあった。それが、わたしのための、たのしいおとしだまだったのだ。それはずっとまえから予期していたことだった。だからわたしは、おかあさんは心から幸福であり、満足していると信じている。・・・この年もやがて月を経てすぎ去るときまでに、このわたしたちのかがやかしい未来の夢を、いっそう現在にちかづけ、そしてインドの過去に、光栄ある歴史の1ページをつけくわえることを」
 1935年、ネルーの妻であるカマラは病死しました。ネルーは、自分の政治活動で、罪もない妻が牢獄に入れられました。これをネルーは、「私のための、楽しいお年玉であり、妻は心から幸福で満足している」と表現しています。つまり、この苦しい闘いは、いずれインドの人に幸福をもたらすだろう。その時、私たちがしてきたことは、インド人に誇る得ることになるであろうと喝破しているのです。
 ”Glimpase of World History”は、直訳すると『世界の歴史を垣間見る』となります。意訳すると『概説世界の歴史』ということでしょうか。大山聰さんは、父ネルーが娘のインディラ=ガンジーに語った世界の歴史という事実から『父が子に語る世界の歴史』という名著を翻訳したのでしょう。とても感動しました。
 インディラ=ガンジーという名前から、ガンジーの娘と錯覚されますが、れっきとしてネルーの娘で、後のインドの首相にもなった人です。
 最愛の妻をなくした後も、ネルーは闘いを辞めず、1942年〜1945年まで投獄されました。第二次世界大戦後、ネルーは、亡くなるまで、インドの首相でした。戦後のリーダーであるアメリカからの呼びかけにも応じず、鉄の意志で、第三世界を提唱しました。1954年、主義・主張の違う中国の周恩来と共に、平和五原則を主張しました。つまり、(1)領土主権の尊重(2)相互不可侵(3)内政不干渉(4)平等互恵(5)平和共存です。私たちも、この原点に帰って、世界を考えたいものです。

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