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エピソード

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雪どけの動き(1955〜1958年、ハンガリー・スエズ動乱)
 ここでは、1955〜1958年の世界の情勢を概観します。
 1955(昭和30)年1月1日、アメリカは、南ベトナム・ラオス・カンボジアへの直接援助を開始しました。
 2月9日、マレンコフがソ連首相を解任され、後任にブルガーニン元帥が就任しました。
 2月11日、南ベトナム軍の指揮権がフランスからゴ・ジン・ジェム政権へ移譲されました。
 2月17日、イギリスが水爆製造開始を発表しました。
 2月24日、トルコ・イラクは、反共相互防衛条約に調印しました。これをバグダッド条約といいます。
 3月16日、フランスが原爆製造開始を発表しました。
 3月16日、ヤルタ会談秘密議事録が公開され、アメリカ・イギリスは、ソ連の対日参戦を条件に南樺太・千島・旅順の提供を約束し譲歩していた事実が判明しました。
 4月5日、英のチャーチル首相が辞任しました。
 4月7日、イーデン内閣が誕生しました。
 4月18日、バンドンで、アジア=アフリカ会議が開かれ、29カが国が参加して、バンドン10原則・集団自衛権を採択しました。
 4月28日、サイゴンのチョロン地区で、ゴ・ジン・ジェム政府軍は、ビン・スエン派軍と衝突しました。
 4月30日、南ベトナムで、クーデターがあり、南ベトナム革命委員会は、バオ・ダイ主席の解任を決定しました。
 5月5日、「パリ協定」が発効し、主権を回復し再軍備した西ドイツは、NATOに加盟しました。
 5月14日、ソ連・東欧の8か国は、ワルシャワ条約に調印しました。
 5月15日、米・英・仏・ソは、オーストリア国家条約に調印し、その結果、オーストリアは、国家主権を回復しました。
 6月1日、サイゴンに駐留していたフランス軍は、ビエンホア地区へ移動しました。その結果、サイゴンの警察権は、80年ぶりにベトナム人の手に戻りました。
 6月4日、北ベトナムのファン・バン・ドン副首相は、南ベトナムに対して、南北統一のための予備会談を申し入れました。
 6月25日、北京で、北ベトナムのホー・チ・ミン主席は、毛沢東と会談しました。
 7月9日、バートランド=ラッセルとアインシュタインら世界の科学者や知識人は、宣言を発表し、各国首相に核戦争の危険を警告しました。
 7月17日、南ベトナムは、北ベトナムのファン・バン・ドン副首相の南北統一のための予備会談申し入れを拒否しました。
 7月18日、ジュネーブで、米・英・仏・ソ4国巨頭会談が行われ、緊張緩和の空気高まりました。
 7月27日、オーストリアが独立を回復しました。
 10月26日、オーストリア議会は、永世中立を議決しました。
 10月26日、南ベトナムで、ベトナム共和国が成立し、初代大統領にゴ・ジン・ジエムが就任しました。
 11月22日、中東条約機構(METO)が発足し、トルコ・イラ ン・イラク・パキスタン・英が加盟しました。
 12月13日、ソ連・国府は、18カ国国連一括加盟案に拒否権を発動し、その結果、日本は、国連入りを拒否されました。
 12月14日、オーストリアとハンガリーの国連加盟が承認されました。
 12月15日、スペインとポルトガルの国連加盟が承認されました。
 1956(昭和31)年1月11日、南ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領は、反国家分子の強制収容令第6号を発令しました。
 1月16日、ダレス国務長官は、戦争瀬戸際政策を発表しました。
 1月25日、ソ連のブルガーニン首相は、米ソ友好条約の締結を提案しましたが、アイゼンハワー大統領は、これを拒否しました。
 1月27日、東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟しました。
 2月1日、アメリカのアイゼンハワー大統領は、イギリスのイーデン首相と、中近東地域での共同歩調に関するワシントン宣言を発表しました。
 2月6日、カンボジアのシアヌーク殿下は、SEATO加盟を拒否して、中立を宣言しました。
 2月14日、ソ連共産党20回大会で、平和共存を主張するフルシチョフは、スターリン批判を演説しました。
 3月1日、イギリスのグラブ将軍は、ヨルダン軍司令官を解任しました。
 3月2日、フランスは、モロッコと、共同宣言に調印し、その結果、モロッコは、フランスの支配から解放されました。モロッコの首都はカサブランカです。
 3月2日、ヨルダンのフセイン国王は、アラブ軍団司令部のイギリスのグラブ中将を解任しました。
 4月3日、ニューデリーで、インドとエジプトの友好条約が調印されました。
 4月17日、コミンフォルムが解散しました。
 4月21日、エジプトは、サウジアラビア・イエメンと、軍事協定に調印しました。
 5月15日、韓国で、正副大統領選挙が行われ、大統領に李承晩、副大統領に野党民主党の張勉が当選しました。
 5月16日、エジプトが中華人民共和国を承認しました。台湾の国民政府は、エジプトとの断交を宣言しました。
 5月20日、ビキニで、アメリカが最初の水爆投下実験を行いました。
 5月22日、南ベトナムのジェム政権の外相は、ジュネーブ会議共同議長に書簡を送り、南北統一選挙を拒否する旨の声明を出しました。
 6月13日、英軍は、スエズ運河から撤退し、イギリスの支配が終結する。
 6月18日、エジプトは、スエズ運河をイギリスから正式接収しました。
 6月23日、エジプト共和国憲法が採択され、初代大統領にナセルが就任しました。
 6月28日、ポーランドのポズナニで反政府暴動がおこりました。
 7月18日、チトー・ネルー・ナセルが会談し、軍事ブロック・植民地主義反対を訴えました。
 7月19日、アメリカは、アスワン・ハイダム建設のための資金援助の撤回を発表しました。
 7月26日、エジプトのナセル大統領は、スエズ運河の国有化を宣言しました。
 7月28日、ナセル大統領のズエズ運河国有化宣言を受けて、イギリスは、エジプトの在英ポンドの凍結とスエズ運河会社の資産を凍結しました。
 7月31日、ナセル大統領のズエズ運河国有化宣言を受けて、アメリカは、エジプトの在米資産を凍結しました。
 8月2日、イギリス・フランス・アメリカは、スエズ運河国有化反対宣言を発表しました。
 8月3日、イギリス政府は、スエズ問題で、非常事態宣言を行いました。
 10月19日、フルシチョフがワルシャワを訪問しました。
 10月21日、ポーランドの党第1書記にゴムルカが就任しました。これを10月革命といいます。
 10月22日、アルジェリアで、フランス軍がベンベッラを逮捕しました。
 10月22日、ハンガリーで、学生や文学者クラブらは、ナジの首相再任を要求しました。
 10月23日、ハンガリーのブダペストで、反政府暴動がおこりました。これがハンガリー事件です。
 10月24日、ハンガリーのブダペストで、市民がたちあがり、ソ連軍や保安隊に武力で対抗し、やがて運動は全国に波及しました。
 10月24日、ソ連軍がブダペストに全面的に出動しました。
 10月25日、ハンガリー共産党のゲレ第1書記が解任され、後任にカダルが就任しました。
 10月26日、ハンガリー反乱軍は、東部と南部を占領して、革命政府の樹立を宣言しました。
 11月1日、ハンガリーのナジ首相は、ワルシャワ条約機構から脱退を表明しました。
 10月29日、イスラエル軍は、ガザおよびシナイ半島に進撃しました。
 10月30日、ハンガリーのナジ首相は、一党制の廃止・自由選挙の実施を発表しました。
 10月30日、ソ連軍がブダペストから撤退の協定に調印しました。
 10月30日、イギリス・フランス軍がスエズ運河に進撃しました。
 10月31日、イギリス・フランス軍がエジプト攻撃を開始しました。これをスエズ動乱または、第二次中東戦争といいます。
10  11月1日、ハンガリーのナジ首相は、ワルシャワ条約脱退・中立を宣言しました。ソ連軍が再度ハンガリーへ進撃しました。
 11月4日、ソ連は、戦車1000台でハンガリーのブダペストに進駐し、カダル政権が誕生しました。ナジ首相は、ユーゴ大使館に避難しました。
 11月4日、国連安保理で、ハンガリーが提出したソ連撤退要求決議案は、ソ連の拒否権行使で否決されました。
 11月7日、アメリカ大統領選挙で、アイザンハワーが再選されました。
 11月7日、国連緊急総会で、国連緊急軍設置と英仏およびイスラエル軍の即時撤兵案が可決されました。イギリスとフランスがエジプト攻撃中止を決定しました。
 11月14日、ソ連軍がハンガリー全土を制圧しました。
 12月2日、カストロはチェ=ゲバラら82人を8人乗りのヨットに乗せてメキシコ湾を渡り、キューバへの上陸作戦を敢行しました。
 12月22日、英・仏軍がエジプトから撤退しました。
 この年 北朝鮮で、「千里馬」運動が始まりました。
11  1957(昭和32)年1月5日、米のアイゼンハワー大統領は、中東特別教書を議会に提出して、軍隊出動の権限等を要請しました。中東地域でのソ連の進出に対抗する姿勢を示しました。
 1月9日、英のイーデン首相は、スエズ問題で辞任し、後任にマクミランが就任しました。
 1月18日、モスクワで、中ソ共同宣言が出され、社会主義国の団結が強調されました。
 1月、ヤセル・アラファトは、パレスチナ解放を目的として、エジプトのカイロ大学の「パレスチナ学生連合」を中心に、戦闘的な「ファタハ」を結成しました。これが後のPLOに発展します。
 3月8日、イシラエル軍は「前年のスエズ動乱時に侵入したシナイ半島とガザ地区から撤退を完了した」と発表しました。
 3月25日、欧州共同市場(EEC)条約が調印されました。
 4月1日、西ドイツは、第1回徴兵を実施して、連邦軍を組織しました。
 5月15日、イギリスが初の水爆実験をクリスマス島で行いました。
 7月6日、カナダで、パグウォッシュ会議が開かれました。
 7月11日、米・英・ソの科学者は、パグウォッシュで、核兵器の脅威と科学者の社会的責任を訴えました。
12  8月22日、ソ連は、大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功しました。
 10月4日、ソ連は、人工衛星スプートニク1号の打上げに成功しました。
 10月10日、台北で、国民党8全大会が開催さ、総裁に蒋介石が就任しました。
 10月15日、ユーゴスラビアがソ連との国交を回復しました。
 10月23日、ユーゴスラビアがソ連と国交回復した結果、アメリカは、ユーゴスラビアへの経済援助を打ち切りました。
 11月3日、ソ連は、ライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げに成功しました。
 11月18日、毛沢東は、モスクワで「東風は西風を圧す」「米帝国主義は張り子の虎」と演説しました。
 12月17日、米は、大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功しました。
 12月26日、カイロで、第1回アジア=アフリカ人民連帯会議が開催されました。
13  1958(昭和33)年1月1日、日本が国連安保理非常任理事国に就任しました。
 1月1日、欧州経済共同市場(ECC)・欧州原子力共同体(EURATOM)が発足しました。
 2月1日、エジプト・シリアが合併し、アラブ連合共和国が成立しました。
 2月14日、イラクとヨルダンがアラブ連邦を結成しました。
 3月17日、カストロが率いる革命軍は、パティスタ政権に対して、全面戦争を宣言しました。
 3月27日、ソ連で、ブルガーニン首相が辞任し、後任にフルシチョフが就任しました。
 4月15日、ガーナのアクラで、第1回アフリカ独立諸国会議が開催され、8カ国が参加しました。
 4月17日、ブリュッセルで、戦後初の万国博覧会が開催されました。
 4月22日、アラブ連合のナセル大統領は、初めて正式にソ連を訪問しました。
 4月22日、チトー大統領は、ユーゴスラビア共産党大会で、「ユーゴスラビアはソ連圏に入らない」と独自路線を強調しました。
14  5月10日、レバノンで、反米武力反乱が発生し、内戦に突入しました。
 5月23日、中国共産党は、「15年でイギリス経済に追い付く」という「大躍進」政策を打ち出しました。
 6月1日、仏で、ドゴール内閣が誕生しました。
 7月14日、イラク革命により、ファイサル国王(23歳)が殺害され、共和国が誕生しました。
 7月15日、米の海兵隊は、イラク革命の余波を防ぐために、レバノンに上陸しました。
 7月17日、イギリスは、イラク革命の余波を防ぐために、ヨルダンに派兵しました。
 8月3日、中国を訪問中のフルシチョフ首相は、毛沢東・周恩来が共同声明を発表し、アメリカのレバノン派兵を非難しました。
 8月21日、国連総会は、米英軍のレバノン・ヨルダンからの撤退を決議しました。
 8月29日、中国で、人民公社建設運動が全国化しました。
15  9月19日、カイロで、アルジェリア共和国臨時政府が誕生しました。
 9月26日、ビルマで、軍部クーデターが起こり、ネ=ウィン政権が誕生しました。
 10月2日、ギニア共和国が独立し、フランス共同体から離脱しました。
 10月5日、仏で、第5共和制が発足しました。
 10月7日、パキスタンで、アユーブ=ハーンが指導するクーデターが起こりました。
 10月20日、タイで、軍部のクーデターが起こり、タイム内閣が倒れ、サリット将軍が軍事政権を樹立ました。
 12月8日、アクラで、第1回全アフリカ人民会議が開催され、28カ国が参加しました。
 12月8日、アイゼンハワー大統領は、大陸間弾道弾(ICBM)アトラスが地球を回る軌道に乗ったことを発表しました。
 12月21日、フランスのドゴールが大統領に当選しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ハンガリー動乱とスエズ動乱
 1956(昭和31)年は、世界史上、重要な年です。私は、この年は、14歳でしたから、中学3年生の体験・記憶ということがあります。
 たくさんの戦車のイメージがあります。
 ナセル大統領の髯をはやした精悍な顔が印象にあります。
 高校生になり、大学生になり、歴史を学ぶうちに、その背景が分かってきました。
 時々、学者や評論家が「高校では現代史を学ばなかった」という表現をして、免罪符のような使い方をしています。私の場合も、歴史の先生は戦争の話や、自分の体験談ばかりで、殆ど受験には関係のない進め方でした。当然、江戸時代も終わりません。
 今考えると、教科書や本を読んで得る知識は何時でも入手できます。しかし、学校でなければ教われない内容に接して幸せだったと思います。
 ハンガリーは、西はオーストリア・スロベニア・クロアチアと接し、北はスロバキアと接しています。東はウクライナ・ルーマニアと接し、南はユーゴスラビア・ボスニア=ヘルツェゴビナと接しています。
 民族は、非インド=ヨーロッパ系のマジャール人が98%を占めています。
 1953年に、ハンガリーでは、国民の支持を受けた改革路線のナジ=イムレが首相となりましたが、スターリン主義者であったラーコシと対立し、弾圧されました。
 1955年に、フルシチョフは、ユーゴスラビアのチトー会談し、平和共存政策を推進するために、粛清・恐怖政治のスターリンを一掃する意思を固めました。
 1956年2月に、フルシチョフは、スターリン批判を開始し、4月には、コミンフォルムを解散しました。
 10月に、ラーコシ派のゲレーの罷免とナジ=イムレの復帰を要求して、ハンガリーの首都であるブダペストで、デモが発生しました。ゲレーは、ソ連に対して軍の介入を要請しましたが、ソ連軍は、学生のデモに労働者が合流するのを見て介入を中止しました。デモ隊のハンガリー人は、戦車のソビエト兵士に話し合ったりしました。そして、ソ連は、ゲレーを辞任させ、ラーコシに弾圧されていたカーダール・ヤーノシュを党第一書記に、ナジ=イムレを首相に就任させました。
 11月に、ナジ=イムレは、複数政党制・中立国化を宣言しました。ソビエト軍の戦車2500両・歩兵部隊15万人万人がブダペストに到着し、 国会を占拠しました。ナジ=イムレは、ユーゴスラビア大使館に逃げ込みましたが、後にに処刑されました。この過程で、1万7000人が殺害され、20万人が難民となり国外へ逃亡したといいます。弾圧の背景には、ハンガリーは、東西の狭間にあり、周囲を社会主義国に包囲されており、ハンガリーがこければ、皆こけるという東側「ドミノ理論」があったからでした。
 この事件により、私も含めて、多くのリベラリストが、社会主義の幻想から目覚めました。
 ハンガリーは、その後、1989年に、一党支配体制を放棄して、東欧で初めて、社会主義国家から民主主義国家に移行しました。その結果、オーストリア国境の鉄条網もはずされ、ハンガリーから大勢の東ドイツの人が西側に逃げるようになりました。これがベルリンの壁の崩壊につながったことを忘れるわけにはいきません。。
 4カ月早めの、2006年6月22日のハンガリー動乱50周年に、アメリカのブッシュ大統領が演説しました。ブッシュ大統領は、「ソ連軍は民衆蜂起の鎮圧はできたが、人々の自由への渇きを葬ることはできなかった。自由の達成を遅らせることはできても、拒むことはできない」「民主主義への道は平たんではない。成功のためには困難な決定を続けねばならない。その経験は世界の民主化を鼓舞するものだ」と主張しました。自由と民主主義を得るために多大の犠牲と忍耐を払ったハンガリー国民を高く評価する一方、民主化のために苦闘するイラクのマリキ政権にハンガリーの経験を学ぶべきだと鼓舞しました。
 また、「自由のために戦っている国があるならば、米国は必ず支援する」と宣言し、アメリカやブッシュ大統領自身が自由の顕現者であることを表明しました。
 ハンガリー動乱と同じ10月に起きたのが、スエズ動乱、または第二次中東戦争です。
 その前に、スエズ運河を理解する必要があります。
 1859年、フランスの外交官であるフェルディナン・ド・レセップスはスエズ運河の工事をはじめました。
 1869年、10年後にスエズ運河が開通しました。今まで、ヨーロッパ人は、アフリカの南端にある喜望峰を経由して、太平洋に出ました。地中海から163キロの長さのスエズ運河を経由して紅海に出ると、最短で太平洋に出ることが出来ます。運河の幅34メートル、深さ15メートルにしてかなり大型船も通行が可能となりました。
(1)パナマ運河は、太平洋の海面がカリブ海の海面より24センチ高いため、人工的に水位を上げる閘門を利用しています。閘門のサイズにより、船舶の船幅は32.3メートル以下、水深は12メートル以下に制限されています。
(2)スエズ運河は、運河の全長・幅・水深の記録はありますが、構造の説明がありません。知人で、パナマ・スエズの両運河を通ったことのある人に聞くと、スエズ運河は、落差がなく、水河を進む感じだったということでした。
 1882年、開通後は、フランスとエジプトの共有でしたが、債務に悩むエジプトは、スエズ運河の株をイギリスに売却してしまいました。ことの時に、資金を出したのがユダヤ人のロスチャイルドでした。この時から、イスラエルの存在が芽生えたといいます。
 1888年、コンスタンチノポリス条約で、平時・戦時のスエズ運河の自由航行が決まりました。
 1901年、エジプトの南部にあるアスワン地区を流れるナイル川にアスワンダムが完成しました。これをアスワン=ロウ=ダムといいます。
 1922年、イギリスは、第一次大戦中の約束により、エジプトに独立を約束しました。
 1951年、エジプトのファルーク国王は、イギリスとの同盟の破棄とイギリス軍の退去を要請しました。
 1952年1月、しかし、エジプト人は、国王の傀儡的状態に怒り、各地でイギリス軍を襲撃しました。攻撃にはエジプト正規軍も参加しました。
 7月23日、改革派青年将校が率いる自由将校団は、クーデターを起しました。リーダーは、ナセル中佐でした。鎮圧に向かった正規軍も、クーデタに参加しました。正規軍のムハンマド・ネギブ中将が革命軍最高司令官に就任しました。
 7月26日、革命軍は、ファルーク国王に退位を要求しました。国王は、ギリシャへ亡命しました。これをエジプト革命といいます。
 1952年、英米などから資金援助を仰ぎ、その上流にアスワン=ハイ=ダムの着工にかかりました。ナイル川の氾濫・電力の供給・水不足の解消などは、エジプト人の長年の悲願でした。
 1953年6月、エジプト共和国が設立され、首相兼大統領に正規軍のネギブ中将、副首相にナセル中佐が就任しました。
 1954年10月、ネギブ大統領は、実権を握るナセル副首相と対立するようになりました。ナセル副首相は、演説中に、銃弾の襲撃を受けました。この時、「ナセル死すとも、革命は死さず」とどこかで聞いたような名文句を叫んだといいます。ネギブ大統領が逮捕され、ナセルは新大統領に選出されました。
 1956年5月16日、エジプトが中華人民共和国を承認しました。台湾の国民政府は、エジプトとの断交を宣言しました。
 6月20日、名実共に実権を握ったナセルは、居座り続けるイギリス軍に対して、完全撤退を要求しました。その結果、イギリス軍は撤退を完了しました。
 6月25日、イギリス軍の撤退を確認して、ナセルは大統領に就任しました。イギリス軍のスエズからの撤退に危機感を持ったのが、イスラエルでした。
 7月18日、ナセル大統領は、ユーゴスラビアのチトー大統領・インドのネルー首相と会談し、軍事ブロック・植民地主義反対を訴えました。
 7月19日、アメリカは、ナセル大統領の反米活動に対して、アスワン=ハイ=ダム建設のための資金援助の撤回を発表しました。
 7月26日、エジプトのナセル大統領は、アスワン=ハイ=ダムの建設費に当てるという口実で、スエズ運河の国有化を宣言しました。
 7月28日、ナセル大統領のズエズ運河国有化宣言を受けて、イギリスは、エジプトの在英ポンドの凍結とスエズ運河会社の資産を凍結しました。
 7月31日、ナセル大統領のズエズ運河国有化宣言を受けて、アメリカは、エジプトの在米資産を凍結しました。
 8月2日、イギリス・フランス・アメリカは、スエズ運河国有化反対宣言を発表しました。
 8月3日、イギリス政府は、スエズ問題で、非常事態宣言を行いました。
 10月29日、英仏の意を汲んだイスラエル軍は、ガザおよびシナイ半島に進撃しました。
 10月30日、イギリス・フランス軍は、運河の無料使用を求めて、スエズ運河に進撃しました。
 10月31日、イギリス・フランス軍がエジプト攻撃を開始しました。これをスエズ動乱または、第二次中東戦争といいます。ソ連とアメリカは、この行動を非難しました。
 11月7日、国連緊急総会は、イギリス・フランス・イスラエル軍の即時撤兵案を可決しました。英仏はこの提案を受諾しました。
 11月8日、イスラエルは、シナイ半島を占領していましたが、国連の決議により、撤退しました。
 12月22日、イギリス・フランス・イスラエル軍は、エジプトから撤退し、戦争は終結しました。
 1958年、英米の援助が期待できない時、中東進出を狙うソ連邦は、アスワン=ハイ=ダムのための建設資金と機材の提供を申し出ました。
 1960年、ソ連の融資によりアスワン=ハイ=ダムの工事が開始されました。ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿の移築などの話題も記憶にあります。
 1971年、アスワン=ハイ=ダムが完成しました。
 完成した現在のアスワン=ハイ=ダムは、ナイル川の氾濫を防止し、210万キロワットの電力を供給しています。また、ダムにより出来たナセル湖(ナセル大統領の名に由来)から放流される豊富な水は、農業用にも、砂漠の緑化にも、漁業にも活用されています。
 人は死んで名を残すといいます。ナセル死んで、ナセル湖が残りました。米ソ対立を利用して、アラブ人の自尊を高めた人といえます。

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