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エピソード

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雪どけの動きU(1959年〜1962年、キューバ危機)
 ここでは、1959年から1962年までを扱います。1962年は私の20歳の体験です。
 1959(昭和34)年1月1日、キューバで、革命軍がパテスタ政権を打倒し、バチスタはドミニカへ亡命しました。
 1月3日、キューバで、臨時大統領にウルチタ、軍参謀総長にカストロが就任しました。
 1月5日、キューバで、カルドナが首相に就任しました。
 1月7日、アメリカがキューバの新政府を承認しました。
 1月27日、ソ連共産党第21回大会で、フルシチョフ第1書記は、資本主義国との経済競争と平和共存を強調しました。
 2月7日、キューバで、憲法である国家基本法が公布されました。
 2月16日、キューバで、カルドナ首相が辞任し、公認にフィデル=カストロが就任しました。
 3月5日、米は、トルコ・イラン・パキスタンと相互防衛条約に調印しました。これをアンカラ協定といいます。
 3月10日、チベットで反乱がおこりました。
 3月12日、ダライラマ14世がチベットの独立宣言を行いました。
 3月23日、中国軍がチベットのラサを占領しました。
 3月28日、中国政府は、チベット地方政府を解散させ、パンチェン=ラマをジベット自治区準備委員会主任に任命しました。
 3月31日、チベットのダライ=ラマがインドへ亡命しました。
 4月15日、キューバのカストロ首相がアメリカを訪問しました。
 4月21日、アメリカで、ハワイが合衆国に加盟し、50番目の州となりました。
 4月27日、中国で、国家主席に劉少奇が就任しました。
 6月4日、キューバのカストロ首相は、「農業改革法」を公布して、アメリカ資本のさとうきび農園の国有化を図りました。
 6月20日、ソ連は、中ソ間の国防用新技術に関する協定を破棄しました。
 7月24日、ニクソン大統領は、モスクワで、フルシチョフ首相と会談しました。
 8月7日、中印国境紛争起こりました。
 8月21日、イラクの脱退のため、バグダッド条約機構を中央条約機構(CENTO)に改組しました。
 9月14日、ソ連の宇宙ロケットが月面到着に成功しました。
 9月15日、ソ連のフルシチョフ首相がアメリカを訪問しました。
 9月25日、アイゼンハワーは、フルシチョフとキャンプ=デービッドで、会談を行ないました。
 9月30日、ソ連のフルシチョフ首相が訪中しましたが、共同声明発表されず、中ソ意見の対立が表面化しました。
 10月21日、フルシチョフは、スターリン時代に処分された人々の名誉を回復しました。
 11月15日、西独で、社会民主党は、バード=ゴーデスベルク綱領を採択し、国民政党に転換しました。
 11月20日、イギリス・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・オーストリア・スイス・ポルトガルのEC非加盟7カ国は、ヨーロッパ自由貿易連合(E FTA)条約に調印しました。
 1960(昭和35)年1月9日、アスワン=ハイ=ダムの起工式が行われました。
 1月11日、アメリカは、キューバのアメリカ資本接収に抗議しました。
 1月22日、ド=ゴールは、アルジェリアのマシュー司令官を解任しました。
 1月23日、アルジェリア現地軍が「バリケード反乱」を起こしました。
 1月24日、 アルジェリアで、フランスのド・ゴール大統領のアルジェリア政策に反対するフランス人入植者右派が暴動を起こしました。
 2月3日、フランス議会は、アルジェリア問題についてド=ゴールに特別権限を授与しました。
 2月4日、ソ連のミコヤン副首相は、キューバを訪問して、1億ドルの貿易借款協定に調印しました。
 2月11日、フルシチョフ首相は、インド・ビルマ・インドネシア・アフガニスタンを歴訪しました。
 2月13日、仏は、サハラで初の原爆実験を行いました。
 2月22日、アイゼンハワー大統領は、ラテンアメリカを歴訪しました。
 3月15日、韓国で選挙が行われましたが、不正選挙の疑いが濃く、李承晩の独裁に対する不満が高まりました。
 3月16日、韓国で、李承晩が大統領に再選されました。
 4月11日、コナクリで、第2回アジア=アフリカ人民連帯会議が行われました。
 4月18日、韓国のソウルで、李承晩大統領退陣要求のデモが行われました。
 4月19日、アメリカのハーター国務長官は、李承晩を非難しました。
 4月19日、韓国で、李承晩大統領退陣要求の学生デモが暴動化し、警察が実弾射撃で鎮圧しようとしました。李承晩大統領は、戒厳令をだしました。これを4.19学生革命といいます。
 4月25日、韓国で、大学教授らが李承晩の退陣を要求してデモを行いました。
 4月27日、李承晩大統領が辞任しました。これを4月革命といいます。
 5月3日、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)が発足しました。
 5月5日、フルシチョフは、ソ連最高会議で、アメリカのU2型スパイ飛行事件を公表しました。
 5月7日、アメリカは、「ソ連の領空を侵犯した米偵察機は、スパイ飛行であった」と認めました。
 5月11日、イスラエルの情報機関員は、アルゼンチンに亡命中のナチス戦犯アドルフ・アイヒマンを発見して、イスラエルに連行しました。
 5月27日、トルコで、クーデターがおこり、メンデレス政権が崩壊しました。
 5月28日、元大統領の李承晩がハワイに亡命しました。
 6月14日、ド=ゴールは、アルジェリア停戦を提案しました。
 6月21日、ベルギー領コンゴで、ルムンバ政権が誕生しました。
 7月、カストロ首相は、キューバにあるテキサス・スタンダード・シェルの各石油会社の製油所を摂取しました。
 7月6日、カストロ首相は、アメリカ資産国有化法を制定しました。
 7月6日、アメリカは、キューバからの砂糖の輸入割当を削減しました。
 7月6日、独立したばかりのコンゴで、ベルギー人将校に反発して暴動が起こりました。
 7月9日、フルシチョフ首相は、反米政策をとっているキューバをミサイルで支援すると表明しました。
 7月11日、コンゴのカタンガ州で親ベルギー派のチョンベ首相は、同州の分離独立を宣言しました。これがコンゴ動乱の始まりです。
 7月14日、国連安保理は、ベルギー軍のコンゴ撤退・国連軍派遣要求決議案を採択しました。
 7月15日、西ドイツは、ナチに迫害されたフランス人への補償に合意しました。
 7月16日、ソ連は、中国への技術援助停止を通告しました。
 7月20日、アメリカは、潜水艦からのポラリス・ミサイルの水中発射に成功しました。
 7月21日、セイロンの選挙で、自由党が統一国民党を破って第1党となり、前年暗殺された首相の未亡人で党首のバンダラナイケが世界初の女性首相となりました。
 7月23日、キューバは、中国と、貿易・科学技術・文化諸協定に調印しました。
 7月29日、韓国の総選挙で、民主党が圧勝しました。
 8月7日、キューバのカストロ首相は、アメリカ資産の接収を宣言しました。
 8月12日、韓国で、大統領に尹普善が就任しました。
 8月27日、ソ連は、アラブ連合とアスワン=ハイ=ダム援助協定に調印しました。
 9月2日、キューバは、アメリカとの軍事同盟を破棄しました。
 9月5日、コンゴ動乱で、カサヴブ大統領は、ルムンバ首相を解任しました。
 9月14日、石油輸出国機構(OPEC)が結成されました。
 9月17日、キューバは、アメリカの銀行の在キューバ支店の接収を開始しました。
 9月19日、ソ連のフルシチョフ首相は、ニューヨークを訪問し、米ソ関係改善を強調しました。
 9月26日、アメリカの大統領選挙で、ケネディは、ニクソンと第1回テレビ討論を行いました。
10  11月8日、米大統領選で、民主党のケネディが当選しました。
 11月10日、モスクワで、81カ国共産党・労働者党会議が開催されました。
 11月20日、南ベトナムで、ゴ・ジン・ジェム反共政権打倒・抗米救国をめざす南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成されました。
 12月1日、コンゴ動乱で、ルムンバ首相が逮捕されました。
 12月8日、ラオスで、右派ノサバンが反撃して北上し、ブーマ首相がカンボジアへ亡命しました。
 12月14日、国連総会は、植民地独立宣言を採択しました。
 12月14日、経済協力開発機構(OECD)条約が調印されました。
 12月20日、南ベトナムで、南ベトナム民族解放戦線が結成されました。
11  1961(昭和36)年1月3日、アメリカは、キューバと国交を断絶しました。
 1月17日、アイゼンハワー大統領は、離任演説で、「軍産複合体」が民主政治に与える危険性を訴えました。
 1月20日、ケネディは、アメリカ合衆国第35代大統領に就任しました。
 2月12日、コンゴのムルンバ首相が殺害されました。
 2月20日、ケネディ大統領は、就任式でニューフロンティア精神を強調しました。
 4月12日、ガガーリン少佐が運転するソ連の宇宙船ヴォストーク1号は、地球一周有人飛行に成功しました。
 4月16日、キューバで、カストロは、「社会主義革命」を宣言しました。
 4月17日、米のCIAが支援した反革命軍は、キューバに侵攻しましたが、失敗しました。これをピッグズ湾事件といいます。
 4月22日、アルジェリアの首都アルジェで、反ドゴール派のスランス軍退役将軍らが反乱を起こしました。
 4月23日、フランスのドゴール大統領は、アルジェリア反乱に対する非常大権発動を出しました。
12  5月1日、カストロ首相は、「キューバは社会主義国家を目指す」と述べました。
 5月11日、ケネディは、ベトナムに特殊部隊400人を派遣し、北ベトナムに対して隠密作戦を行うことを決定しました。
 5月16日、韓国で、朴正煕の軍事クーデクーがあり、張勉首班の反共親米内閣が誕生しました。
 5月18日、張勉内閣が総辞職しました。
 5月31日、南アフリカが共和国となり、イギリス連邦から離脱しました。その結果、アパルトヘイトが実施されることになりました。
 6月3日、アメリカのケネディは、ソ連のフルシチョフと、ウィーンで会談しました。
 6月3日、南ベトナムから北ベトナムに侵入した飛行機は、スパイ基地を建設するため、クヮビン省に6つのパラシュートを落下しました。
 6月4日、ウィーンで開かれた米ソ首脳会談で、ケネディは、フルシチョフとベルリン問題で激しく対立し、雪解けが遠のきました。
13  7月2日、北ベトナム領空を侵犯した飛行機がニンビン省上空で撃墜されました。
 7月3日、朴正熙少将は、国家再建最高会議議長に就任しました。
 7月4日、韓国で、朴正熙議長は、反共法を公布しました。
 8月10日、イギリスは、EECへの加盟を申請を行いました。
 8月13日、東ドイツで、東西ベルリンの境界に、突如、ベルリンの壁が構築されました。
 9月1日、ベオグラードで、第1回非同盟諸国首脳会議が開かれ、25カ国が参加しました。
 9月1日、ソ連が核実験を再開しました。日本政府と日本社会党は、ソ連に抗議しましたが、日本共産党はソ連の核実験を支持しました。
 9月15日、ケネディ大統領は、核実験再開を発表し、ネバダで核実験を行いました。
 9月18日、国連のハマーショルド事務総長は、北ローデシアで、飛行機事故のため死亡しました。
 9月29日、シリアは、クーデターでアラブ連合共和国から離脱しました。
14  11月3日、国連事務総長の後任代理にウ=タントが就任しました。
 11月25日、ソ連は、アルバニアと断交しましたが、中国は同調しませんでした。
 12月11日、アメリカの援助計画に従って、米空母コア号から米軍事要員400人・ヘリコプター40機がサイゴンに到着しました。
 12月15日、国連総会は、中国代表権問題を重要事項に指定しました。
 12月15日、イスラエルは、元ナチスのアイヒマンに死刑を判決しました。
15  1962(昭和37)年1月4日、ケネディ大統領は、南ベトナム経済援助計画を発表しました。
 1月9日、キューバは、ソ連と通商条約を締結しました。
 1月14日、ドゴール大統領は、ナッソー協定への不参加と、イギリスのEEC加盟拒否を表明しました。
 2月3日、ケネディ大統領は、キューバに対して、輸出入を全面禁止することを発表しました。
 2月4日、キューバは、ケネディの輸出入全面禁止措置に対抗して、ハバナ宣言を出しました。
 2月8日、米は、ベトナムに軍事援助司令部を設置しました。
 2月14日、キューバが米州機構を脱退しました。
 3月16日、韓国で、朴正熙軍事政権は、政治活動浄化法を公布しました。
 3月18日、仏は、アルジェリアと停戦協定に調印し、アルジェリア戦争が終結しました。これをエビアン協定といいます。
 3月22日、尹普善大統領は、政治活動浄化法に抗議して、辞任しました。朴正熙が大統領代行に就任しました。
16  5月19日、マリリン・モンロー(35歳)は、ケネディ大統領(45歳)の誕生日を前に、民主党員1万5000人のパーティで「ハッピーバースデイ」を歌い、話題となりました。
 6月23日、ラオスで、連立政府が成立し、首班にプーマ殿下が就任しました。
 7月26日、キューバのカストロは、サンチャゴ市で「アメリカの再度の軍事侵攻に備え、まもなくソ連船がロケット兵器を運び込むだろう」と演説しました。
 8月5日、マリリン・モンローが全裸死体で発見されました。「睡眠薬バルビタールを47個飲んでいた」と発表されましたが、他殺説もあります。
 8月5日、南アフリカの黒人指導者ネルソン・マンデラが逮捕されました。
 8月10日、ラスク国務長官の執務室で会合を開き、マクナマラは、カストロの暗殺計画を示しました。
 9月2日、ソ連は、キューバへの武器供与と軍事指導要員派遣協定を結んだことを発表しました。
 9月22日、ソ連からキューバのマリエル港へ向けた核弾頭を乗せた船がイギリスの西を通り大西洋へ出ました。
 9月25日、アルジェリアは、民主人民共和国を宣言しました。
 9月27日、イエメンで、王制が打倒され、イエメン共和国が宣言されました。
17  10月14日、アメリカの偵察機であるU2型機は、キューバの森の中に、建設中の核ミサイル基地を発見しました。
 10月16日、キューバでのU2型機の偵察結果がケネディに報告されました。
 10月17日、中印国境紛争が再発しました。
 10月17日、マクナマラは、ケネディに対して、キューバ危機に関して海上封鎖を強く主張しました。
 10月20日、アメリカの大西洋艦隊がキューバを攻撃する体勢を固めました。
 10月22日、ケネディ大統領は、キューバで、ソ連が核ミサイル基地を建設中と発表し、キューバ海上封鎖を声明しました。核戦争への危機高まりました。これをキューバ危機といいます。
 10月24日、ケネディは、キューバへの核ミサイル運搬に備えて海上封鎖を始めました。
 10月25日、国連で、アメリカの国連大使がソ連の国連大使に対して、キューバへのミサイルの配備の事実の有無を問いました。
 10月26日、キューバで、核弾頭のミサイル発射基地への輸送が始まりました。
 10月26日、フルシチョフがケネディに対して出した長文の電文書簡が届きました。
 10月27日、アメリカ人飛行士のアンダーソンが操縦するU2型偵察機は、キューバ上空に向けて飛び立ち、ソ連基地のミサイルによって撃墜されました。これを暗黒の土曜日といいます。
 10月28日、フルシチョフは、ケネディの提案をを受け入れました。フルシチョフは、ラジオを通して「キューバの核ミサイルを撤去する」と放送しました。これを黄金の日曜日といいます。
 11月20日、米は、海上封鎖を解除しました。
 12月12日、ソ連のフルシチョフ首相は、演説で「平和共存」を強調しました。
 12月12日、ケネディ大統領は、ホワイトハウスとクレムリンを結ぶホットラインの設置を提案しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『日本史総覧』(とうほう)などを参考にしました。
キューバ危機
 1962(昭和37)年は、私が20歳の時の体験です。TVであったか、ラジオであったか、新聞であったかは分かりませんが、本当に第三次世界大戦を予想して、「今、自分は何をなすべきか」を真剣に考えたことを思い出します。
 後に、アメリカ映画の『13デイズ(ThirteenDays)』を見て、改めてその恐怖を追体験しました。
 しかし、2人の指導者の叡智に、地球は救われました。
 もう一度、アメリカとキューバの関係を見てみましょう。
 1953(昭和28)年1月、アイゼンハワーが第34代大統領に就任しました。
 7月、キューバで、フィデル=カストロは、モンカダ兵営を攻撃しましたが、鎮圧されました。これをカストロの解放運動の開始といいます。
 1956(昭和31)年2月、ソ連のフルシチョフは、平和共存政策を主張して、スターリン批判を行いました。
 4月、キューバで、反バチスタ蜂起がおこりました。
 12月2日、カストロは、メキシコからキューバに上陸しました。
 1958(昭和31)年4月、キューバで、カストロ派がゼネストを決行しましたが、失敗しました。これをキューバ革命といいます。
 5月、キューバのバチスタ政権は、軍隊を出動させ、カストロ派を弾圧しました。
 7月、キューバで、反バチスタ革命的市民戦線が結成されました。
 1959(昭和34)年1月、キューバのパテスタ政権を打倒した新政権をアメリカが承認しました。
 2月、キューバで、首相にカストロが就任しました。
 4月、キューバのカストロ首相は、アメリカを訪問しました。
 5月、カストロ首相は、キューバ土地改革法を公布しました。
 6月、カストロ首相は、アメリカ資本の砂糖キビ農園の国有化を宣言しました。
 1960(昭和35)年1月、アメリカは、アメリカ資本の砂糖キビ農園の国有化に抗議しました。
 7月、カストロ首相は、キューバにあるテキサス・スタンダード・シェルの各石油会社の製油所を摂取しました。
 7月6日、カストロ首相は、アメリカ資産国有化法を制定しました。
 7月6日、アメリカは、キューバからの砂糖の輸入割当を削減しました。
 7月23日、カストロ首相は、中国と、貿易・科学技術・文化諸協定に調印しました。
 9月2日、カストロ首相は、キューバ人民大会で、ハバナ宣言を採択し、中国との国交回復・国府との断交・アメリカとの軍事条約破棄を決定しました。
 10月14日、カストロ首相は、基幹産業国有化法を制定し、382の大企業・銀行の国有化を開始しました。その中には、アメリカの銀行の在キューバ支店も含まれていました。
 10月19日、アメリカは、対キューバ輸出を禁止しました。
 10月20日、アメリカは、キューバ駐在アメリカ大使を帰国させました。
 10月29日、アメリカの海兵隊は、キューバのグアンタナモ基地に上陸しましたが、翌日撤退しました。
 11月8日、米の大統領選挙で、民主党のケネディは、共和党のニクソンを破りました。
 1961(昭和36)年1月4日、アメリカは、キューバと国交を断絶しました。
 1月17日、アイゼンハワー大統領は、離任演説で、「軍産複合体」が民主政治に与える危険性を訴えました。
 1月20日、ケネディは、アメリカ合衆国第35代大統領に就任しました。
 4月17日、米のCIAが支援した亡命キューバ人部隊の反革命軍は、キューバに侵攻しましたが、失敗しました。これをピッグズ湾事件といいます。
 5月1日、カストロ首相は、キューバ社会主義共和国を宣言しました。
 1962(昭和37)年1月9日、キューバは、ソ連と通商条約を締結しました。
 1月30日、米州機構外相会議は、キューバの除名を決議しましたが、6カ国が棄権しました。
 2月3日、ケネディ大統領は、キューバに対して、輸出入を全面禁止することを発表しました。
 2月4日、キューバは、ケネディの輸出入全面禁止措置に対抗して、第二次ハバナ宣言を出しました。
 2月14日、キューバが米州機構を脱退しました。
 7月26日、キューバのカストロは、サンチャゴ市で「アメリカの再度の軍事侵攻に備え、まもなくソ連船がロケット兵器を運び込むだろう」と演説しました。これをアナディル作戦といいます。
 8月10日、ラスク国務長官の執務室で会合を開き、マクナマラは、カストロの暗殺計画を示しました。
 9月2日、ソ連は、キューバへの武器供与と軍事指導要員派遣協定を結んだことを発表しました。
 9月22日、ソ連からキューバのマリエル港へ向けた核弾頭(ソ連製のミサイル)を乗せた船がイギリスの西を通り大西洋へ出ました。
 10月14日、アメリカの偵察機であるU2型機は、キューバの森の中に、建設中の核ミサイル基地を発見しました。準中距離弾道ミサイル(MRBM)と中距離弾道ミサイル(IRBM)が確認されました。
 10月16日、キューバでのU2型機の偵察結果がケネディに報告されました。
 10月17日、マクナマラは、ケネディに対して、キューバ危機に関して海上封鎖を強く主張しました。
 10月20日、ケネディ大統領は、エクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第一段階として海上封鎖でソ連船の入港を阻止する方針を採用しました。国連という外交の場でも、ケネディ路線の支持を訴えることにしました。映画『13デイズ』でも描かれています。
 10月22日、ケネディ大統領は、TVを通して、直接に、国民に「キューバにソ連製の核ミサイルが持ち込まれた」ことを発表し、キューバ海上封鎖を声明しました。
 10月22日、ケネディ大統領は、準戦時体制を発令して、ソ連との全面戦争に備え、アトラス・タイタン、など弾道ミサイルの発射準備させました。他方、ソ連も、キューバに配置しているR12の発射準備させました。その結果、核戦争への危機高まりました。これをキューバ危機といいます。
 10月23日、カストロ首相は、アメリカの海上封鎖を非難しました。
 10月24日、ケネディは、キューバへの核ミサイル運搬に備えて海上封鎖を始めました。
 10月25日、国連緊急国連安全保障会議で、アメリカの国連大使スティーブンソンは、ソ連の国連大使ゾーリンに対して、キューバのミサイル基地の写真を示し、キューバへのミサイルの配備の事実の有無を問い質しました。映画『13デイズ』でも描かれています。
 10月26日、キューバで、核弾頭のミサイル発射基地への輸送が始まりました。
 10月26日、ケネディは、フルシチョフからの電文書簡を受け取りました。
 10月27日、アメリカ人飛行士のアンダーソンが操縦するU2型偵察機は、キューバ上空を飛行中、配備のミサイルによって撃墜されました。これを暗黒の土曜日といいます。
 10月28日、ケネディの提案を受け入れたフルシチョフは、モスクワ放送のラジオを通して「キューバに建設中のミサイル基地やミサイルを解体し、撤去する」と放送しました。他方、ケネディも「キューバへの武力侵攻はしない」と約束しました。これを黄金の日曜日といいます。
 11月20日、米は、海上封鎖を解除しました。
 12月12日、ソ連のフルシチョフ首相は、演説で「平和共存」を強調しました。
 12月12日、ケネディ大統領は、ホワイトハウスとクレムリンを結ぶホットラインの設置を提案しました。
 1963(昭和38)年4月、アメリカは、トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了しました。
 11月、ケネディ大統領が暗殺されました。
 1964(昭和38)年10月、フルシチョフが解任されました。

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