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エピソード

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雪どけの動きV(1963年〜1964年、ケネディ暗殺)
 1963年は大変な年でした。
 仏教徒の国である南ベトナムで、高僧が焼身自殺しました。TVは、動画映像で、その状況を世界に報道しました。信じられない光景でした。それを南ベトナム大統領の弟夫人であるゴ・ジン・ヌー夫人は「人間バーベキュー」と表現し、日本に日野富子の発言を思い出しました。
 ケネディ大統領が暗殺されました。
 1963(昭和38)年1月14日、ド・ゴール大統領は、「イギリスのEECへの加盟・NATOも核保有」に反対を表明しました。
 1月29日、イギリスは、EEC加盟が拒否されました。
 2月5日、ド・ゴールは、「アメリカが欧州の経済を支配することを排撃する」という声明を発しました。
 2月28日、ケネディ大統領は、公民権特別教書を提出しました。
 4月2日、アメリカのアラバマ州で、人種差別反対の黒人デモが始まりました。
 4月11日、米の原潜スレッシヤー号がボストン沖で沈没し、乗組員129人全員が死亡しました。
 5月2日、アメリカのバーミンガム州で、黒人暴動が勃発しました。
 5月3日、南ベトナムのフエで、仏教徒と市民2万人は、ジエム政権の仏教徒弾圧に抗議しました。
 5月8日、南ベトナムのユエで、仏教徒の反政府デモがおこりました。
 5月13日、バーミンガムの暴動に連邦軍が出動しました。
 5月22日、アフリカ独立諸国首脳会議が開かれ、アフリカ統一機構(OAU)憲章に調印しました。
 6月4日、イギリスの保守党のジョーン・プロヒューモ陸相は、軍事機密漏洩問題となったクリスチン・キーラーとのスキャンダル事件で辞任しました。
 6月5日、イランのシーア派の指導者であるホメイニは、国王の政策を非難して逮捕されました。
 6月11日、ベトナムで、老僧のティック・クァン・ドゥック師は、サイゴンの繁華街の交差点で泣き叫ぶ群衆に囲まれて焼身自殺しました。ゴ=ジンジェム大統領の弟であるゴ・ジン・ヌーの妻(ゴ・ジン・ヌー夫人)は、これを「人間バーベキュー」と発言して、世界の非難の的になりました。
 6月14日、アメリカのメリーランド州で、黒人デモが白人と衝突し、連邦軍隊が出動しました。
 6月16日、ソ連は、初の女性宇宙飛行士テレシコワを乗せたボストーク6号を打ち上げました。
 6月19日、ケネディ大統領は、最も徹底した公民権法案を議会に提出しました。
 6月20日、米・ソは、ホットライン協定に調印しました。
 7月20日、モスクワの中・ソ共産党会談が決裂し、中・ソ対立が激化しました。
 8月5日、米・英・ソは、部分的核実験停止条約に調印しましたが、仏・中は参加しませんでした。
 8月5日、第9回原水禁世界大会は、社会党・総評系のボイコットのまま、開催されました。
 8月6日、社会党・総評は、原水禁を守る国民大会を開き、原水禁運動が分裂しました。
 8月28日、米で、人種差別撤廃のワシントン大行進に20万人が参加しました。
 10月11日、西ドイツのアデナウアー首相が辞任し、後任にエアハルトが就任しました。
 11月1日、南ベトナムで、ズオン=バンミン指揮の軍部クーデターがおこり、ゴ=ジンジェム大統領と弟のゴ・ジン・ヌーが暗殺されました。
 11月2日、南ベトナムで、ズオン=バンミンの革命将官評議会が結成されました。
 11月6日、アメリカで、オズワルドは、望遠照準器付きのライフルを購入しました。
 11月7日、アメリカは、南ベトナムの軍部新政権を承認しました。
 11月21日、ケネディ大統領は、とジャクリーンと共に、テキサスでの遊説のため、ホワイトハウスの南広場からヘリコプターでアンドリュース空軍基地に向かいました。
 11月22日、ケネディ大統領(46歳)は、遊説先のテキサス州ダラスで、頭を撃たれまもなく死亡しました。後任にジョンソン副大統領が昇格しました。オズワルドが犯人として逮捕されました。
 11月23日、初の日米間テレビ宇宙中継実験が成功しました。最初の映像は、ケネディ大統領暗殺を伝えるニュースでした。
 11月24日、ケネディ前大統領の葬儀が行われました。
 11月24日、オズワルド(24歳)は、護送中に、ジャック・ルビーに撃たれて死亡しました。
 11月28日、ジョンソン大統領の命令で、ケネディ前大統領暗殺の調査をするウォーレン委員会が設置されました。
 12月17日、韓国で、朴正熙が大統領に就任しました。
 1964(昭和39)年1月8日、アルバニア・中国の共同声明が発表され、現代修正主義・教条主義を批判しました。
 1月10日、パナマは、アメリカに対し、運河条約の改定を要求しました。
 1月17日、アメリカは、パナマとの国交を断絶しました。
 1月27日、フランスは、中国と国交を樹立しました。
 1月30日、南ベトナムで、クーデターがおこり、グエン=カーン将軍が軍事革命委員会議長となりました。
 2月10日、台湾の国民政府は、フランスと国交を断絶しました。
 3月14日、オズワルドを射殺したジャック・ルビーは、死刑を宣告されました。
 3月23日、ジュネーブで、国連貿易開発会議(UNCTAD)が開催されました。
 3月25日、カシアス・クレイは、マイアミ・ビーチのプロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチで、チャンピオンのソニー・リストンに勝ち、世界王者となりました。
 5月22日、アメリカのジョンソン大統領は、「偉大な社会」建設の政策構想を発表しました。
 5月27日、インドのネル一首相が亡くなりました。
 5月28日、パレスチナ解放機構(PLO)が結成されました。
 6月3日、韓国で、日韓会談反対のデモがおこり、ソウルに非常戒厳令が布かれました。
 6月21日、ミシシッピ州に黒人迫害の調査にでかけた3人の公民権運動家が行方不明になりました。
 7月2日、ジョンソン大統領は、新公民権法に署名し、人種差別を禁止した法律が成立しました。
 7月18日、ニューヨークのハーレムで、黒人暴動が発生しました。
 8月2日、米国務省は、「トンキン湾で、北ベトナムの魚雷艇が米駆逐艦を攻撃を受けて交戦した」と発表しました。これをトンキン湾事件といいます。
 8月4日、黒人迫害の調査にでかけた3人の公民権運動家が死体で発見されました。
 8月4日、米軍機は報復として、北ベトナムの海軍基地4カ所を爆撃しました。これを北爆といいます。
 8月5日、トンキン湾事件で、国連安保理が開催されました。
 8月7日、アメリカの上下両院は、大統領に戦争遂行権限を付与しました。
 8月10日、社会党・共産党・総評など137団体は、ベトナム戦争反対集会を開きました。
 8月11日、池田勇人首相は、閣議で、南ベトナムに対する第1次緊急援助を決定しました。
 8月16日、南ベトナム軍事革命委員会は、暫定憲法を採択し、大統領にグェン・カーン首相が就任しました。
 8月24日、南ベトナムで、反グェン・カーンのデモが全国に広がりました。
 8月25日、南ベトナムで、グェン・カーン大統領が辞任し、暫定憲法が撤回されました。
 9月26日、ケネディ前大統領の暗殺に関する調査委員会の報告書「ウォーレン報告」が発表されました。
 10月10日、第18回オリンピック東京大会の開会式が行われ、94カ国5541人が参加しました。
 10月14日、黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師は、ノーベル平和賞を受賞しました。
 10月15日、ソ連は、フルシチョフ第1書記兼首相を解任しました。後任の第1書記にブレジネフ、首相にコスイギンが就任しました。
 10月16日、中国は、初の原爆実験に成功しました。
 10月17日、イギリスで、ウィルソン労働党内閣が誕生しました。
 11月3日、アメリカ大統領選挙で、民主党のジョンソンは、共和党ゴールドウォーターを破って、当選しました。
 11月3日、ケネディ前大統領の弟であるロバート=ケネディは、ニューヨーク州上院議員に当選しました。
 11月4日、南ベトナムのグエン・カーンは、3軍総司令官に就任しました。
 12月5日、ジョーン・バエズは、カリフォルニア大学の学生の逮捕に抗議するフォーク集会を開きました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ケネディ暗殺
 1963(昭和38)年11月23日の体験ですから、私が大学生の時です。通信衛星テルスターの打ち上げにより、日米で同時TV中継の実験をするというので、下宿のおばさんに無理をいってTVを見せてもらっていた時のことです。TVのアナウンサーが「パレードの途中ですが、何かアクシデントのようです。人々がエルム通り沿いの丘に駆け上がっていきます。大統領の車が今、我々の前にさしかかるところです。誰か撃たれたのでしょうか。明らかに緊急事態です」と絶叫していました。その後、ケネディ大統領が暗殺されたことを知らされました。アメリカの自由主義・民主主義のシンボルあったケネディの死を衝撃をもって受けとめたものでした。
 ケネディの暗殺については、多くの人によって、本やTVで語られています。その二の舞・三の舞をしてもよくないので、私の独断と偏見で、この事件に対する「何故?何故?」感想を述べたいとおもいます。
(1)何故、ケネディ大統領は、テキサス州のダラスで、オープンカーによる行進をしたのでしょうか。テキサス州は保守の地盤であり、ケネディは、大統領選挙では、テキサス州で辛勝したものの、ダラスでは敗北していました。敵地に乗り込んだということでしょうか。
(2)何故、ケネディが乗ったリムジンのオープンパレードは、最も危険な、「┓」型コースを通ったのでしょうか。ダラスのラヴ・フィールド空港から昼食会場のトレード・センター・ビルまで、ヒューストン通りを横断して、そのままメイン通りを直進するはずでした。それが、直進せず、ヒューストン通りに右折しました。そしてディーレイ・プラザの教科書ビルの前を左折して、運命のエルム通りにやって来ました。この時の速度は時速は9マイルだっといいわてれています。
@ヤーバロー上院議員は「なぜこの道をまっすぐ行かないんだね?間違ったところで曲がってしまっているぞ」と証言しています。
Aケネディ大統領を護衛するシークレットサービスの車は、この時、20メートルもかけ離れていたことが証言されています。
B第一次世界大戦の引き金になったオーストリア皇太子暗殺(サラエボ事件)も、病院へ見舞いに行くために、「┗」型コースを通った時におこりました。
(3)何故、撃たれた瞬間の映像では、ケネディの頭が進行方向とは逆の方にガクッとなっているのでしょうか。
@現場にいたウイリスという婦人は、「銃弾は進行方向の右前方から発射された」「弾は大統領の頭に命中し、頭は後ろに倒れて脳味噌が後頭部から飛び出しました」と証言しています。
Aウォーレン委員会は、「ディーレイ・プラザのテキサス教科書倉庫従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行である」とする結論を報告しました
Bウォーレン委員会は、「1発目の銃弾は外れ、1発目の銃弾はケネディに命中した後、さらに、コナリーを傷つけ、3発目の銃弾はケネディの頭部に致命傷を与えた」とする結論を報告しました。
Cウォーレン委員会は、撃たれた瞬間の映像と目撃者の証言とは違う結論を出しています。つまり、オズワルドは、ケネディの後方から射撃したことになります。しかし、映像では、頭が進行方向とは逆の方に吹っ飛んでいることから、前方から射撃されていることは、確実です。
10か月の調査後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれる。
委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した。
委員会の決定:
一発は車列から外れたと考えられる。(三発の内の何射目かは特定できない。)
ケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くに貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。
最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。
委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目した。また、ライフル銃は近くに隠されたことが判明した。委員会はケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸は形状を保ったままコナリーの左腿から発見された。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。いくつかの弾道の証拠は弾丸がそのような軌道を描くことが可能であると示唆したが、多くの主張がこの点で一致しない。
委員会はさらにセキュリティ面の不備を指摘した。指摘は大統領が旅行するの際のセキュリティ増加に帰着した。ウォーレン委員会の報告書は2017年に開示される。
(4)何故、大統領の頭が吹っ飛んだ後、ジャクリーヌ夫人は、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛に引き戻されたのでしょうか。
@テキサス州のコナリー知事は、「もう一発の銃声が響き、次の瞬間車の後部に血があふれ、脳味噌が散らばっているのが目に入りました。大統領が暗殺されたと分かったのは夫人が”どうしたらいいの?脳が飛び出しているのよ!”と叫んだ時でした」と証言しています。
Aジャクリーヌ夫人は、「後方に吹き飛んだ大統領の脳断片を拾うために後方部分に這い出ました」と証言しています。
B私は、映像を見た瞬間、大統領を残して逃げようとしているジャクリーヌ夫人に失望したものでした。理想のファーストレディとされていただけに、ショックでした。しかし、ジャクリーヌ夫人の証言を聞いて内心ほっとしたことを覚えています。しかし、冷静に考えると、一番気にするのは、大統領本人で、その側に横たわっている夫を抱きかかえるのが筋ではないかということです。残念ながら、とっさの時に、本能が出てしまったのではないでしょうか。
Cジャクリーヌ夫人は、暗殺された悲劇の大統領の弔いもそこそこに、5年後の1968年10月にギリシアの富豪オナシスと再婚した時、私の彼女への幻想は現実のものとなりました。同時に、アメリカ社会の合理性にもびっくりしたものです。ジャクリーヌ夫人は、オナシスの前妻の娘クリスティーナ=オナシスとは対立したので、オナシス氏は離婚も考えましたが、1975年に、亡くなりました。その遺産をめぐって、ジャクリーヌ夫人は、オナシスの前妻の娘クリスティーナ=オナシスと激しく争い、クリスティーナは「金輪際オナシス家と関わりを持たない」という条件で、遺産の一部をジャクリーヌ夫人に渡したということです。
 その後、ジャクリーヌ夫人は、ユダヤ系ダイヤモンド商のテンペルスマンと三度目の結婚をし、1994年に亡くなりました。
D悲劇の大統領を裏切ったジャクリーヌ夫人は、アーリントン国立墓地にある最初の夫ケネディの隣に埋葬されました。これもアメリカらしいやり方だと感心しました。日本ではとうてい許されなかったでしょう。ほっと、救われたような気もします。
(5)何故、TVカメラの前で、ケネディ暗殺容疑者のオズワルドは、ジャック=ルビーによって射殺されたのでしょうか。ケネディ暗殺の2日後の1963年11月24日でした。
@TVカメラは、警察署から移送されるオズワルドを映していました。次の瞬間、人ごみに紛れて、重要人物を射殺した人間を映し出していました。警察の大失態です。しかし、その場面を見た時、何かやらせを感じました。
Aオズワルドを射殺したジャック・ルビーは、マフィアやCIAとも関係があり、1964年3月14日に死刑を宣告され、1967年1月に病死しました。自殺したという説もあります。
B映画『JFK』で、ギャルソン検事(ケビン=コスナーが扮する)は、暗殺した直後のオズワルドの落ち着いている様子に「大事を働いた後の人間とは思えない」ということから、オズワルド犯行説に疑いを持ちます。元上院の調査官であるワイズバーグは、「司法長官だったニコラス・カッシンバッグは、オズワルドが裁判にかけられないことを知っていた。裁判に持ち込む必要がなかったのだ」と証言しています。
Cオズワルドが死んだことで、真相は闇に葬られることになりました。また、ジャック=ルビーが死んだことで、なぜ、「オズワルドを射殺出来た」のかも不明となりました。
(6)何故、ケネディ大統領は、暗殺されたのでしょうか。
@ケネディが死んで、誰が得したかを調べるのが常套でしょう。一番得したのは、副大統領のジョンソンです。ケネディが死んだことで、大統領になれたのですから。そこで、暗殺にジョンソンが関与しているという説が出てきます。
A1961(昭和36)年1月、アイゼンハワー大統領は、離任演説で、「軍産複合体」が民主政治に与える危険性を訴えました。軍人出身の大統領ですら、軍部と産業界の癒着の危険性を感じるほど、アメリカ社会はのっぴきならない状態にあることを証言しました。キューバ危機の時、産業界を代弁する軍部はキューバを武力で、即座に、奇襲攻撃することを主張しましたが、ケネディは、海上封鎖で核戦争の危機を克服しました。軍部には根深い不信感が残りました。
Bジョンソン大統領になって、何が変わったかも、重要なポイントとなります。1964年8月にトンキン湾事件がおこりました。そこで、米軍機は、北爆を開始しました。アメリカの議会は、大統領に戦争権限を与えました。国連も動員されました。日本の池田内閣も、アメリカのポチとして、協力を決定しました。
 しかし、後に、トンキン湾事件は、アメリカの自作自演だっとことが分かりました。アメリカは、ドル危機に陥り、世界を巻き込みましたが、アメリカの軍産複合体だけは肥え太りました。

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