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エピソード

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雪どけの動きW(1965年〜1966年、ベトナム戦争T)
 1965年には、ベトナム戦争が世界の注目を集めました。アメリカでは、黒人暴動が頻発しました。中国では、文化大革命が始まりました。他方、人類は、地球から外への夢を競演しました。
 1966年には、ベトナム戦争が拡大化しました。文化大革命が荒れ狂いました。
 1965(昭和40)年1月6日、ファタハ(パレスチナ民族解放運動)のアシファ軍は、イスラエルに対する初の軍事コミュニケを発表しました。
 1月8日、韓国は、南ベトナム派兵を決定しました。
 1月21日、インドネシアは、国連を脱退しました。
 2月7日、米軍機は、北ベトナムのドンホイを爆撃しました。これを北爆の開始といいます。
 2月21日、アメリカの黒人運動家であるマルコム・リトル(マルコムX)は、演説中に、黒人に射殺されました。
 2月21日、南ベトナムで、グエン・カーン将軍が3軍司令官を解任され、後任にチャン・バンミンが就任しました。
 3月2日、アメリカは、ベトナム戦争に関して「ローリング・サンダー作戦」を実施し、北爆の継続と米兵の増強を行いました。
 3月8日、アメリカ軍は、ベトナムのダナンに上陸しました。
 3月18日、ソ連のウォスホート2号のレオーノフ飛行士は、人類初の宇宙遊泳を行いました。
 3月21日、アラバマ州で、マーティン・ルーサー・キング牧師ら黒人解放運動家は、南部で剥奪状態にある黒人投票権を要求して、非暴力デモ行進を開始しました。
 3月22日、アメリカ軍は、ベトナム戦争で毒ガスを使用しました。
 3月31日、日本の著名人300人は、ニューヨーク・タイムズ紙に、ジョンソン大統領に対して、ベトナム反戦の公開状を掲載しました。
 4月7日、オーストラリアとニュージーランドは、ベトナムに地上軍の派兵を決定しました。
 4月12日、中国は、アメリカの北爆に対応して戦争準備強化を指示しました。
 4月17日、ワシントンで、2万人が参加してベトナム反戦デモが行われました。
 4月24日、日本のベ平連は、初のデモ行進を行いました。
 4月24日、ドミニカで、改革派によるクーデターが起こりました。
 4月28日、米は、ドミニカに軍事介入しました。
 5月3日、カンボジアは、アメリカと国交断絶しました。
 5月9日、日本テレビは、ノンフィクション劇場で、「ベトナム海兵大隊戦記第1部」を放映しましたが、反響が大きく、第2部は放送を中止しました。
 6月3日、アメリカの宇宙船ジェミニ4号は、初の宇宙遊歩を行いました。
 6月4日、ソ連・北ベトナム援助協定が調印されました。
 6月11日、南ベトナムで、グエン=カオ=キとグエン=ヴァン=チューがクーデターを起こし、政権を掌握しました。
 6月19日、グエン=カオ=キは、南ベトナムの首相に就任しました。
 6月19日、アルジェリアでクーデターがあり、第2回A・A会議が延期されました。
 6月28日、アメリカは、南ベトナム派遣軍を12万5000人に増強しました。
 7月1日、アメリカは、ベトナムに対して、第1騎兵師団を編成しました。
 7月29日、沖縄の米軍嘉手納基地から、B52戦略爆撃機が飛び立ち、北ベトナムを爆撃しました。
 8月9日、シンガポールは、マレーシア連邦より分離独立しました。
 8月11日、ロサンゼルスの南東部黒人居住区で、大規模な黒人暴動が発生しました。これをワッツ暴動といいます。
 8月14日、韓国国会は、日韓条約を与党単独で批准しました。
 8月25日、韓国で、日韓条約批准案の強行採決に反対して学生1万人は、デモ行進を行い、軍隊と衝突しました。
 8月26日、ソウルに衛戎令が出されました。
 9月6日、インド軍は、パキスタン両軍と、カシミールで衝突しました。
 9月19日、アルジェリアで、クーデターが起こり、ベンベラが失脚しました。
 9月30日、インドネシアで、大統領親衛隊長のウントン中佐が率いる部隊は、中央放送局などを占拠し、6人の軍最高幹部を殺害しました。これを9・30事件といいます。
 10月1日、インドネシアで、スハルト陸軍少将率いる部隊は、軍部左派のクーデター(9・30事件)を鎮圧しました。
 10月3日、インドネシアで、軍部による共産党弾圧が始まりました。
 10月5日、ライシャワー米大使は、記者会見で、「日本の新聞のベトナム報道は偏向している」と発言しました。
 10月15日、全米の諸都市で、ベトナム反戦デモが行われました。
 10月16日、ロンドン・ブリュッセル・ローマなどで、ベトナム反戦デモが起こりました。
 11月10日、中国で、眺文元が呉暗「海瑞罷官」を批判し、文化大革命が始まりました。
 11月27日、ワシントンで、ベトナム反戦平和行進が行われました。
 12月9日、ソ連のミコヤン最高会議幹部会議長が辞任し、後任にポドゴルヌイが就任しました。
 12月15日、アメリカの宇宙船ジェミニ6号は、ジェミニ7号と初のランデブーに成功しました。
 12月19日、フランス大統領選挙の決選投票で、ド・ゴールがミッテランを破って再選されました。
 12月21日、国連総会は、人種差別撤廃条約を採択しました。
 1966(昭和41)年1月3日、キューバのハバナで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ3大陸人民連帯会議が開かれ、100カ国が参加しました。
 1月24日、インドで、ネルーの娘であるインディラ=ガンディ一内閣が誕生しました。
 2月1日、「人民日報」に、劇作家田漢を批判する論文が掲載され、これが文化大革命へに発展しました。
 2月2日、江青は、文芸界の「反党反社会主義路線」を批判しました。
 2月24日、ガーナで、軍事クーデターがあり、エンクルマ政権が倒壊しました。
 3月2日、ガーナ大統領を解任されたエンクルマをギニアが国家元首として受入れると発表しました。
 3月7日、フランス政府は、ドイツ連邦駐留NATO軍からフランス軍脱退を発表しました。
 3月11日、インドネシアで、スカルノ大統領は、政治権限をスハルト陸相に移譲しました。後に、政権委譲の命令書は、スカルノが脅されて署名したものであることが判明しました。
 3月12日、インドネシアで、共産党が非合法化されました。
 4月1日、南ベトナムで、反政府デモが激化しました。
 4月14日、郭沫若は、文化革命支持と自己批判を表明しました。
 4月18日、中国の解放軍報は、「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、社会主義文化大革命に積極的に参加しよう」という社説を掲載しました。
 4月26日、アメリカ国防総省は、「ベトナム戦争に聖域なし」を再確認しました。
 5月16日、中国共産党は、各級機関に文化革命小委設置を通達しました。
 5月29日、清華大学付属中に初の紅衛兵が組織されました。
 6月29日、米軍機は、ハノイ・ハイフォンを爆撃しました。
 6月30日、ソ連訪問中のドゴール大統領は、ソ連との共同宣言を発表しました。その内容は、(1)ヨーロッパからアメリカ軍勢力を排除する(2)外国軍隊のベトナム撤退などです。
 7月1日、フランスがNATO軍から脱退しました。
 7月17日、北ベトナムのホー・チ・ミン大統領は、ラジオを通して、アメリカの侵略に徹底抗戦を呼びかけました。
 8月6日、ワシントン・ニューヨークなどで、大規模なベトナム反戦デモが行われました。
 8月16日、アメリカ合衆国下院非米活動委員会は、ベトナム反戦運動聴聞会を実施しました。
 8月18日、中国の北京で、文化大革命勝利祝賀の紅衛兵100万人集会が開かれ、文化大革命運動は、中国全土に波及しました。毛沢東が紅衛兵を接見しました。
 8月19日、アメリカ合衆国下院非米活動委員会は、ベトナム反戦運動聴聞会が混乱の中に打ち切りとなりました。
 8月19日、毛沢東夫人の江青は、党の序列で24位ですが、天安門の上に立って挨拶を受けました。
 8月24日、北京出身の作家で劇作家である老舎(67歳)は、紅衛兵の攻撃を受けて自殺しました。
 8月31日、中国の北京で、紅衛兵50万人の集会が開かれ、周恩来首相らが演説しました。林彪国防相は、「武闘」より「文闘」で権力派を打倒しようと演説しました。各地区の紅衛兵代表は、毛沢東万歳を繰り返しました。
10  10月22日、中国共産党中央委工作会議で、劉少奇・ケ小平が自己批判しました。
 11月27日、ソ連の機関紙であるプラウダは、毛沢東主席を反レーニン主義と名指しで批判しました。
 12月1日、西独で、キージンガ一大連立内閣が誕生しました。
 12月14日、米軍機は、ハノイを爆撃しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ベトナム戦争T
 私のベトナム戦争の体験です。
(1)当初、日本の新聞が報じたベトナム戦争は、「ベトコン」報道でした。ベトコンのベトとは、ベトナムのことです。コンはコンミュニスト(共産主義者)です。つまり、南ベトナムが自由主義と民主主義をを守るために、共産主義国の北ベトナムに支援された南ベトナムの共産主義者と戦っているという立場での報道でした。
 しかし、事実は違うのではないかという日本のジャーナリストらは、アメリカからの情報でなく、自らの目と耳で取材を開始しました。岡村昭彦であったり、石川文洋らでした。やがて、真実が見えてきました。
(2)ベトナム反戦を歌ったアメリカ人歌手のジョン=バエズが日本公演しました。「We shall overcome」などがあります。TV中継の時、ジョン=バエズがベトナムに関するコメントを出すと、司会者は「この公演はTV中継されています」と通訳しているのです。その後、誰かが指摘したのか、正しく通訳する人に交代したようですが、歌の世界にも、アメリカの圧力があることに、びっくりしたものでした。
 ここでは、ベトナム戦争の1966年までを概括します。
 1945年8月、日本が敗戦し、第二次世界大戦が終了しました。
 9月、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国は、独立を宣言しました。
 1946年6月、旧植民地領主国のフランス軍は、南部サイゴンを占領しました。
 7月、フランスは、南ベトナムに、「フランス連合に留まって自治を目指す」という親仏政権のコーチシナ自治共和国を樹立しました。国家主席には、旧皇帝バオ=ダイが就任しました
 11月、ベトナム駐留フランス軍100万人は、ハイフォンのベトナム人地区を砲撃しました。
 12月、フランスは、ホー=チ=ミンにフランス連合内自治国を強要し、それに反対する北ベトナムのハノイを攻撃しました。これを第一次ベトナム戦争の開始といいます。ベトナム民主共和国を支援するのがソ連、フランス駐留軍を支援するのがフランス本国・アメリカという構図になりました。
 1947年10月、北ベトナム軍は当初ベトミン軍(北ベトナムのコミンニュスト)と呼ばれ、フランス駐留軍1万5000人の攻撃を撃退しました。
 1949年6月、フランスに支援されたベトナム共和国が、サイゴンに樹立されました。これをバオ=ダイ政権といいます。
 1950年1月、中国・ソ連が北ベトナムを承認しました。
 2月、米・英が南ベトナムを承認しました。
 5月、アメリカは、ベトナム戦争で、フランスに2100万ドルの援助を行いました。これをアメリカの介入といいます。
 1951年1月、北ベトナム軍4個師団3万2000人は、フランス軍最大の拠点であるハノイを総攻撃しましたが、フランスの空軍機・機甲部隊に撃退され、1万人の損害を出しました。
 1952年、北ベトナム軍は、中国からの武器供給を受けて、ベトナム北西部を奪回しました。
 1953年3月、北ベトナム軍は、フエ・ダナン・クイニョンなどの都市を奪回しました。
 5月、フランス本国は、ナヴァール将軍をベトナムに派遣しました。ナヴァール将軍は、戦局を一気に挽回しようとして、ディエン・ビエン・フー確保作戦を採用しました。ディエン・ビエン・フーは、ハノイの西450キロのラオス国境にあり、ここを確保して、(1)敵の補給路を遮断(2)敵兵力の撃滅を考えました。
 7月、アメリカは、ベトナム戦争で、フランスに4億ドルの援助を行いました。
 11月、フランス軍は、第一陣の降下部隊3個大隊3000人をディエン・ビエン・フーに派遣しました。
 12月、フランス軍は、第二陣9000人をディエン・ビエン・フーに派遣し、1200メートル級の滑走路も整備しました。輸送機100機、対地攻撃機150機を備えました。
 1954年1月、フランス軍は、第三陣4000人をディエン・ビエン・フーに派遣し、合計で1万6000人に達しました。
 2月、フランス軍の3倍以上の北ベトナム軍は、ゲリラ戦で、ハノイ〜ディエン・ビエン・フーの間の地上ルートを遮断しました。フランス軍は、これを予想し、空輸で、食料や武器・弾薬を補給しました。
 3月初、北ベトナム軍は、ゲリラ的に、トンネルを掘ったりしながら、包囲網を狭めていきました。
 3月13日、北ベトナム軍は、ディエン・ビエン・フーを総攻撃しました。北ベトナム軍は、105ミリ砲48門、75ミリ砲80門でした。フランス軍は105ミリ砲28門、75ミリ砲40門で、圧倒的に人的にも砲的にも北ベトナム軍が優勢でした。フランスの攻撃機・爆撃機も62機が撃墜されました。
 4月26日、ジュネーブ休戦会議が開かれました。
 5月1日、北ベトナム軍は、滑走路を使用不能にすることに成功しました。
 5月7日、フランス軍のカストリ将軍は、将兵1万人と共に降伏しました。
ディエン・ビエン・フーの戦いの被害 第一次ベトナム戦争の被害
  死者 負傷者 捕虜 死者
フランス軍 2300人 5000人 1万人 17万3000人(含むベトナム軍)
北ベトナム軍 8000人 1万5000人   60万人
 6月20日、完全休戦を主張したマンデス・フランス内閣が誕生しました。
 7月5日、サイゴンに、@ゴ=ジン=ジェム内閣が誕生しました。
 7月21日、インドシナ休戦のジュネーブ協定が調印されました。その内容は、(1)北緯17度線の軍事境界線でベトナムを南北に分け、北ベトナムはベトナム民主共和国が、南ベトナムはベトナム国が支配する(2)2年後の1956年には、南北統一選挙を実施するというものでした。
 この段階でのアメリカのフランス軍への軍事援助は、航空機130機・戦車800台・車輌1万5000台・船舶舟艇300隻・援助総額10億ドル軍事顧問団400人でした。フランスは去っても、アメリカは去ることが出来なかったのです。
 10月9日、北ベトナム軍は、ハノイを奪回し、ハノイを首都としました。
 1955年6月、北ベトナムのホー=チ=ミンは、南ベトナムに南北統一のための予備会談を申し入れました。ジュネーブ協定により選挙を行い、南北を統一しようというものでした。
 7月、南ベトナムのゴ=ジン=ジェムは、これを拒否しました。北ベトナムの人口は1780万人で、南ベトナムの1532万人でした。選挙すれば、人口の多い北ベトナムが有利だと判断したためと言われています。自由主義・民主主義を主張しても勝てないのは、別な理由があったということでしょうか。
 10月23日、ゴ=ジン=ジェムは、バオ=ダイ帝を追放し、国民投票の信任を得て国家主席となりました。
 10月26日、ゴ=ジン=ジェム主席は、南ベトナム共和国の樹立を宣言し、大統領に就任しました。アメリカは、ゴ政権に、毎年2億ドルを支援してきましたが、南ベトナムの人心を掌握できませんでした。
 1956年10月、ゴ=ジン=ジェム大統領は、憲法を公布しました。
 1957年8月、ゴ=ジン=ジェム大統領は、徴兵制を施行しました。
 1958年3月、ホー=チ=ミンは、ゴ=ジン=ジェム大統領に軍縮と通商関係樹立を提案しましたが、ゴ政権は、これを拒否しました。
 1959年2月、北ベトナムは、中国経済技術援助協定に調印しました。
 1960年1月、ホー=チ=ミンは、北ベトナム新憲法を公布しました。
 11月、南ベトナムで、陸軍がクーデタを計画し、失敗しました。
 12月20日、南ベトナム民族解放戦線が結成されました。当初、日本では、アメリカの情報により、彼らをベトコン(北ベトナムの共産主義者の傀儡)と蔑称していました。
 12月23日、北ベトナムは、ソ連と経済技術援助協定に調印しました。
 1961年4月3日、南ベトナムは、アメリカと経済協力協定に調印しました。
 4月9日、南ベトナムで、ゴ=ジン=ジェムは、大統領に再選されました。
 9月、解放戦線は、フォクビン市を攻撃しました。解放戦線の戦力は100人程度と報告されていましたが、この時参加したのは1100人に激増していました。
 10月、ゴ=ジン=ジェム大統領は、非常事態を宣言しました。
 11月11日、南ベトナムで、陸軍の精鋭落下傘部隊500人がクーデタを起こし、大統領官邸などを襲撃しました。ゴ=ジン=ジェム大統領は、このクーデターの関係者として、3万人を逮捕しました。
 11月21日、アメリカは、軍事顧問団1500人に加え、H21大型ヘリコプター部隊を派遣しました。
 12月、アメリカのステーリー教授と大統領特使のテーラーが提案した戦略村が実施され、3235村432万人(農民の30%)が入村しました。これをステーリー・テーラー計画といいます。この頃のアメリカ兵の死者は11人、南ベトナム軍の死者は5000人、解放戦線は7000人でした、
 1962年1月、南ベトナム人民革命党が樹立されました。
 2月8日、南ベトナムの空軍将校は、戦闘爆撃機の2機を使って、大統領官邸を爆撃しましたが、クーデタは失敗しました。
 2月8日、アメリカは、南ベトナムのサイゴンに、軍事援助司令部を設置しました。
 2月16日、南ベトナム民族解放戦線(以後、解放戦線)は、第一回大会を開きました。兵員は1万人を突破しました。他方、南ベトナム軍も17万人の増員されました。
 2月27日、反乱軍は、南ベトナム大統領官邸を爆撃しました。
 10月、ゴ=ジン=ジェム大統領は、戦略村完成記念式典を挙行しましたが、数時間後には敵方に寝返ったりし、1964年には、戦略村計画は中止されました。
 1963年2月、アメリカ統合参謀本部は、顧問団(Advisory Group)を顧問軍(Advisory Force)に名称を変更しました。この結果、アメリカ軍は、武器を持って敵と交戦することが可能になりました。
 5月、ゴ=ジン=ジェム大統領は、統一仏教協会の解散を命令しました。ユエの仏教徒は、反政府運動を開始しました。ゴ政権の閣僚のすべては、カトリック教徒であり、民衆の動きに対応して仏教指導者が反政府的な動きをすると、徹底的に弾圧する状態にありました。
 6月、仏教の高僧は、サイゴンの街頭で、抗議の焼身自殺をしました。これに意見を求められた大統領の実弟であるゴ=ジン=ヌーの夫人は「あれは単なる坊主のバーベキュー料理である」と放言し、それがTVを通じて全世界に放映されました。
 8月18日、サイゴンで、仏教徒の反政府デモがありました。
 8月21日、ゴ=ジン=ジェム大統領は、全国に戒厳令を公布して、仏教徒を弾圧しました。
 8月24日、ゴ政権に反対の学生がデモをしました。軍部は、全学校を閉鎖して対抗しました。
 9月、アメリカは、ゴ=ジン=ジェム大統領に対して、退陣を勧告しました。しかし、大統領はこの申し入れを拒否しました。そこで、アメリカは、クーデタを計画しました。
 10月、南ベトナム情報省は、「戦略村計画が成功裡、かつ完全に終了した」と発表しました。
 11月1日、南ベトナムで、クーデタがあり、軍事革命委員会議長にAドン=バン=ミン将軍が就任しました。
 11月2日、ゴ=ジン=ジェム大統領兄弟が殺害されました。
 11月22日、ケネディ大統領が暗殺されました。ジョンソンが昇格して、大統領に就任しました。
 12月、この年の戦死者は米軍78人、南ベトナム軍8100人、解放戦線2万600人でした。米軍の軍事顧問軍1万人、アメリカの軍属・民間人10万人に達しました。
 1964年1月、南ベトナムで、クーデタがあり、軍事革命委員会議長にBグエン=カーン少将が就任しました。
 2月、南ベトナムで、グエン=カーン内閣が誕生しました。
 6g、アメリカは、ベトナムに、ウエストモーランド将軍を派遣し、南政府軍とアメリカ軍の強化をはかりました。
 8月2日、アメリカは、第一次トンキン湾事件を発表しました。これは、公海上のトンキン湾で、北ベトナムの魚雷艇がアメリカ海軍の駆逐艦2隻を攻撃したというものでした。
 8月4日、激昂した世論を背景に、ジョンソン大統領は、報復と称して、北ベトナム海軍基地を爆撃させました。
 8月7日、グエン=カーン首相は、非常事態を宣言しました。
 8月16日、南ベトナム革命委員会は、暫定憲法を採択して、大統領にグエン=カーン首相が就任しました。
 8月24日、反グエン=カーンのデモが全国に拡大しました。
 8月25日、グエン=カーンは、大統領を辞任し、暫定憲法も撤回しました。
 9月、南ベトナム国家評議会が発足しました。
 10月24日、南ベトナム国家元首にファン=カク=スーが就任しました。
 10月31日、南ベトナム首相にCファン=バン=フォンが就任し、民政が実施されました。
 11月、解放戦線は、南ベトナムにおけるアメリカ空軍最大の基地ビエンホワを襲撃しました。これは、初めてアメリカ軍の大規模基地が襲撃されたこと、死者・負傷者すべてがアメリカ人でした。
 11月、「強いアメリカ」を訴えたジョンソンは、大統領に再選されました。
 12月24日、解放戦線1500人は、サイゴン南東60キロのビンザー村の南ベトナム政府軍2個連隊を攻撃しました。この戦闘で、アメリカ軍5人・南ベトナム政府軍160人、解放戦線480人が戦死しました。
 12月、この年の米軍2万5000人・南ベトナム政府軍30万人に達しました。解放戦線は、正規軍3万4000人・ゲリラ部隊(又は地方軍)8万人・解放戦線支援・テロ部隊15万人に増大しています。
 死者は、アメリカ軍147人・南ベトナム政府軍8500人、解放戦線1万6300人です。
 1965年1月、南ベトナム軍部は、無血クーデタでファン=バン=フォン内閣を打倒しました。Dファン=フイ=クアト民政内閣が誕生しました。
 2月7日、解放戦線は、中部高原にあるアメリカ特殊部隊基地ブレークを攻撃しました。
 2月7日、アメリカの海軍機は、北ベトナムのドンホイを爆撃しました。これを北爆の開始といいます。
 2月21日、南ベトナム軍評議会は、グエン=カーン司令官を解任しました。
 3月2日、アメリカ空軍は、最大規模のローリング・サンダーという爆撃作戦で、北爆を行いました。1カ月の動員数は5000機に及びました。
 3月30日、サイゴンのアメリカ大使館が爆破されました。解放戦線のテロ攻撃で、アメリカ人・ベトナム人は1000人以上が犠牲になりました。
 3月、アメリカは、海兵隊3500人をダナンの航空基地に派遣しました。アメリカの地上部隊は1万3500人に達しました。
 4月、北ベトナムの国会は、ベトナム問題解決4条件を決議しました。
 6月11日、南ベトナムのファン=フイ=クアト首相は、軍部に政権を移譲し、民政が崩壊しました。
 6月14日、南ベトナム国家指導委員会が成立し、議長にグエン=バン=チュー将軍が就任しました。
 6月19日、Eグエン=カオ=キ軍事政権が誕生しました。
 6月19日、アメリカ海兵隊は、解放戦線と交戦しました。グアム島から出撃したB52が参戦しました。これをアメリカの戦争といいます。
 7月、駐南ベトナムのテーラー大使が辞任し、後任にロッジが就任しました。
 10月、解放戦線は、ブレーク基地で、アメリカの第一騎兵師団と交戦しました。
 11月、北ベトナム軍は、アメリカの第一騎兵師団1万5000人・ヘリコプター400機と激戦しました。
 12月2日、アメリカの原子力空母エンタープライズは、ベトナム戦争に参加しました。
 12月24日、30時間のクリスマス休戦が実現しました。
 12月、南政府軍30万人・アメリカ軍は20万人で、それ以外の軍隊は、韓国軍が最大時で5万人・タイ軍1万8000人・オーストラリア軍7700人・フィリピン軍2600人・ニュージーランド軍500人となっています。この年の死者は、アメリカ軍1369人・南ベトナム軍1万1000人、解放戦線・北ベトナム軍3万5436人でした。
10  1966年1月3日、アメリカのホワイトハウスは、和平14項目を発表しました。
 1月31日、アメリカは、北爆を再開しました。
 2月、グエン=カオ=キ首相は、アメリカ首脳と、ホノルルで会談を行いました。
 3月、南ベトナムで、グエン=チャン=チ支持のデモが各地で起こりました。
 4月1日、解放戦線の爆弾テロ班は、軍人専用のサイゴン=ビクトリア=ホテルを完全に破壊し、アメリカ軍人155人が死傷しました。米軍の厳重な警備のなかの事件でした。人心から見放されている証拠です。
 4月2日、南ベトナム各地で、反グエン=カオ=キのデモが激化しました。
 4月14日、ロケット砲に支援された解放戦線の地上部隊は、日中に、堂々と、南ベトナム唯一の国際空港であるタンソニェット飛行場を襲撃しました。その結果、南ベトナム軍・アメリカ軍警備隊200人が死傷し、大型航空機28機が破壊されました。米軍の厳重な警備のなかの事件でした。人心から見放されている証拠です。
 5月19日、ダナンで、反政府軍は、政府軍と衝突しました。
 5月29日、サイゴンで、仏教徒2万人が反米デモを行いました。
 5月、米軍は、解放戦線との戦いに、前面に立つようになりました。そして、サーチ・アンド・デストロイ作戦を実施しました。これは、少数のパトロール隊を多数出動させるという陽動作戦で、それに引っかかった部隊があると、本体がすかさず出動して破壊するというものです。この作戦は、直接対決を強行するため、効果もあるが、多数の死者が出る危険性もありました。
 6月7日、ユエで、反政府・反米デモがあり、1万5000人が参加しました。
 6月29日、米軍機B52は、北ベトナムのハノイ・ハイフォンを爆撃しました。
 7月、北ベトナムのホー=チ=ミン大統領は、徹底抗戦を宣言しました。
 8月、米軍の死者は、サーチ・アンド・デストロイ作戦の結果、5000人に達しました。他方、直接対決を避けた解放戦線は、2000メートル級の山岳に隠れたり、サイゴンの真西のカンボジア国境がオウムの嘴のようにベトナムに突出している地域に逃げ込んだり、徹底したゲリラ戦を活用しました。
 9月、南ベトナムで、制憲議会選挙が行われました。
 9月、米軍のB52は、5万トン以上の爆弾で、北ベトナムの鉄道・道路・橋・武器の集積所・石油の貯蔵所などを猛爆しました。しかし、北ベトナムを支持する中国からの食料支援は100万トンに達しました。
 11月、解放戦線は、サイゴンを初めて砲撃しました。
 12月、南ベトナム派遣の米軍は、37万2000人に達しました。韓国軍は4万5000人でした。
11
アメリカ軍 南ベトナム軍 西側援助軍 北ベトナム軍・解放戦線
兵員数 37万2000人 73万5900人 5万9000人
戦死者 5000人 1万1277人 1700人 5万7000人
12  1954年〜1965年までの間に、クーデタなどで政権が6度も変更しています。小乗仏教の国ベトナムでは、僧侶は実践活動を重視して、国民の生活に深くかかわっていました。カトリック教徒の多い支配層は、僧侶を軽視し、弾圧してきました。
 南ベトナムでは、解放戦線や北ベトナムと戦う前に、カトリック教徒と仏教徒、支配層と貧困層の国内対立が激化していました。
 アメリカは、自由主義と民主主義を守るという一点で、南ベトナム支配層を支援してきました。冷静に見ると、「自由主義と民主主義を守る」と唱えれば、いくらでも支援を受けられるのですから、これほど安易に金儲けできる方法は他にありません。腐敗するはずです。
 やげて、この事実がアメリカでも報道されると、アメリカでは、「このような国のために、アメリカ人が血を流す必然性はない」というアメリカ人が増えてきました。

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