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エピソード

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雪どけの動きX(1967年〜1968年、ベトナム戦争U)
 1967年には第三次中東戦争がありました。ベトナム戦争も継続しています。
 1968年にはプラハの春やフランスの5月革命もありました。ベトナム戦争も継続しています。
 1967(昭和42)年1月3日、オズワルドを殺害したジャック=ルビーが病死しました。
 1月26日、劉少奇国家主席は、大衆の面前で、毛沢東語録を暗唱させられました。
 1月27日、ケープケネディ宇宙センターで、有人宇宙船「アポロ1号」は、打ち上げ訓練中に、爆発事故があり、3飛行士が亡くなりました。
 1月27日、米・英・ソは、宇宙平和利用条約に調印しました。
 2月6日、ベトナムで、アメリカ空軍は、枯葉作戦を開始しました。
 3月15日、駐南ベトナムのロッジ大使が更迭され、後任にバンカーが就任しました。
 4月4日、アメリカのキング牧師は、良心的兵役拒否を呼びかけました。
 4月15日、ニューヨーク・サンフランシスコで、50万人のベトナム反戦デモが行われました。
 4月28日、世界ヘビー級チャンピオンのカシアス・クレイは、徴兵宣誓を拒否しました。世界ボクシング協会は、カシアス・クレイのタイトルを剥奪しました。
 5月2日、ラッセル・サルトルらは、ストックホルムで、ベトナム戦犯国際裁判を開廷しました。
 5月10日、ラッセル・サルトルらのベトナム戦犯国際裁判は、米に有罪を判決しました。
 5月30日、ナイジェリアで、内戦が勃発しました。
 5月、エジプトのナセル大統領は、イスラエルのインド洋への航路をふさぐために、紅海とアカバ湾を結ぶチラン海峡封鎖を宣言した。
 6月5日、突如イスラエル空軍はエジプト各地の空軍基地を攻撃し、シナイ半島を制圧しました。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けました。アラブ側は、イスラエルに制空権を握られました。ここから第3次中東戦争が始まりました。
 6月6日、スエズ運河が封鎖されました。
 6月6日、国連安保理は、中東戦争の停戦を決議しました。
 6月7日、イスラエルは、エルサレム旧市を占領しました。
 6月8日、エジプト・ヨルダン・シリアは、停戦を受け入れました。
 6月11日、第3次中東戦争が停戦しました。これを6日戦争ともいいます。
 6月17日、中国は、初の水爆実験を行いました。
 6月28日、イスラエルは、東イェルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区を支配下に入れました。イスラエルは、統一されたイェルサレムを「首都」と宣言し、その結果、40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込みました。ヨルダンの人口200万人の内74万人がパレスチナ人となりました。
 236万人のユダヤ人は、パレスチナ全土を支配し、一方、パレスチナ難民は300万人に達しました。
 6月30日、ケネディ=ラウンドで、関税一括引下げ交渉が行われ、53カ国が最終議定書に調印しました。
 7月1日、ヨーロッパで、EEC・ECSC・EURATOMが統合され、EC(欧州共同体)が発足しました。
 7月14日、国連総会は、イスラエルによる東イェルサレム併合に対する撤回決議を採択しましたが、イスラエルはこれを拒否しました。
 7月23日、アメリカのデトロイトで、史上最大の黒人暴動がおこり、38人が死亡しました。
 8月3日、アメリカのジョンソン大統領は、増税10%とベトナム増派4万5000人を提案しました。
 8月8日、東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されました。
 8月5日、天安門前広場で、紅衛兵による反実権派100万人集会が開催されました。
 9月3日、南ベトナムで、グエン・バン・チューが大統領に就任しました。
 10月8日、佐藤栄作首相は、南ベトナムなど諸国訪問を発表しました。これを阻止しようとする反日共系全学連は、羽田空港に通じる橋の付近で、警官隊と衝突し、京大生1人が亡くなりました。これを第1次羽田事件といいます。
 10月16日、アメリカ30都市で、ベトナム戦争の終結を訴えてデモが起こりました。
 10月21日、アメリカのワシントンで、10万人のベトナム反戦集会がありました。
 10月21日、日本でも、ベトナム人民支援国際統一行動が行われ、国内44都道府県370カ所150万人が参加しました。
 10月21日、ロンドン・パリ・モスクワ・ベルリンなどでも、ベトナム反戦集会が開かれました。
 10月29日、ベトナム反戦をテーマにしたミュージカル「ヘアー」がブロードウェーで初演されました。
 11月18日、イギリスは、ポンドの14.3%引下げを発表しました。
 11月27日、アメリカのロバート・マクナマラ国防長官が辞任しました。
 11月、国連安保理は、安保理決議を賛成242で採択しました。この決議は、占領地からのイスラエル軍の即時撤退と、中東地域の全ての国の生存権を内容とするものでした。
 1968(昭和43)年1月1日、ジョンソン大統領は、ドル防衛に関する特別教書を発表しました。
 1月3日、ジョンソン大統領特使のロストウ国務次官は、佐藤栄作首相と会談し、ドル防衛に協力を要請しました。
 1月5日、チェコ共産党のノボトニー第1書記が解任され、後任にドプチェクが就任しました。
 1月9日、サウジアラビア・クウェート・リビアの石油産出国は、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成しました。
 1月19日、米原子力空母エンタープライズが北ベトナム攻撃のため同海域に向かう途中、佐世保港に寄港しました。しかし、反対運動が激化しました。
 1月23日、北朝鮮は、「米のスパイ船ブェブロ号を捕獲した」と発表しました。
 1月30日、南ベトナム全土で、解放勢力は、大攻撃を開始しました。これをテト攻勢といいます。
 1月31日、ベトナムのテト攻勢で、サイゴンのアメリカ大使館が爆破されました。
 2月1日、ジョンソン大統領は、「テト攻勢は完全に失敗に終わった」と勝利宣言しました。
 2月1日、米兵による解放戦線兵士の処刑の様子がTVで、全世界に放映され、世界に衝撃が走りました。
 2月4日、南ベトナム派遣の米兵が50万人に達しました。
 2月11日、南ベトナムの解放民族戦線は、ジョンソン大統領勝利宣言をあざ笑うように、サイゴンに猛攻をかけました。
 3月12日、ドル不安が起こり、ロンドン金市場で金買いラッシュが起こりました。
 3月16日、南ベトナムのソンミ村で、米軍による大虐殺事件が発生しました。
 3月29日、チェコ党中央総会は、自由化行動綱領を採択しました。
 3月31日、ジョンソン大統領は、北爆停止と自分の退陣を表明しました。
 4月1日、ベトナムのアメリカ軍は、第1騎兵師団を用いて、守勢から攻勢に転じる作戦にでました。
 4月4日、米で、黒人運動指導者キング牧師(39歳)は、メンフィスで暗殺されました。黒人抗議闘争が全米に広がりました。
 4月5日、チェコ共産党中央委総会は、複数政党制などを決議、自由化路線を採用しました。これをプラハの春といいます。
 4月5日、アメリカ軍・南ベトナム軍は、1月から包囲されていたケサン基地の包囲網を突破しました。
 5月3日、パリ大学ナンテール分校で、学生と大学当局が対立し、大学が閉鎖されました。こ
 5月4日、パリで、学生デモ隊は、警官隊と衝突しました。
 5月7日、パリの学生デモが凱旋門を占拠しました。
 5月13日、パリで、ウ・タント事務総長の提案で、ベトナム和平交渉が開始されました。
 5月15日、欧州国際金市場で、金価格が一斉に高騰しました。
 5月19日、全仏にゼネストが拡大しました。これを5月革命といいます。
 5月24日、ドゴールは、労働者・学生の参加を認める国民投票を提案しました。
10  6月5日、大統領候補のロバート=ケネディ(42歳)は、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで銃撃され、次に日に亡くなりました。
 6月19日、ワシントンで、暗殺されたキング牧師の遺志を受け継ぐ非暴力運動「貧者の運動」の大集会が開かれました。
 6月23日、フランスで総選挙が行われ、決選投票の結果、ド・ゴールが勝利しました。
 6月27日、アメリカ軍は、ケサン基地から撤退を発表しました。
 7月1日、ワシントン・モスクワ・ロンドンで、核拡散防止条約が調印されました。
 7月22日、ソ連の科学者であるサハロフは、ニューヨーク・タイムズに、ソ連の体制を強く批判し、チェコスロバキアの民主化を評価する論文を発表しました。
11  8月20日、ソ連など東欧5か国軍は、チェコに侵攻しました。これをプラハの春の圧殺といいます。
 8月21日、ソ連は、チェコのドプチェク第1書記・チェルニク首相らを、自国に連行しました。
 8月24日、仏は、南太平洋で核実験を実施しました。
 8月27日、チェコのドプチェク第1書記らは、ソ連から帰国し、自由化一時制限の演説を行いました。
 10月13日、中国共産党は、劉少奇を追放しました。
 10月20日、ケネディ前大統領の未亡人ジャクリーンは、ギリシアの富豪オナシスと結婚しました。
 10月31日、米のジョンソン大統領は、北爆停止を演説しました。
 11月5日、アメリカ大統領選挙で、共和党のニクソンは、民主党のハンフリーを破り、当選しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ベトナム戦争U(テト攻勢、ケサン攻防戦、ソンミ村虐殺事件)
 ここでも、1967年から1968年のベトナム戦争を扱います。
 私が25・6歳の時ですから、はっきり、同時代進行で記憶しています。
 1967(昭和42)年1月6日、米の海兵隊は、南ベトナムのメコンデルタに初めて侵攻しました。
 1月8日、米軍は、解放戦線の聖域とされていたサイゴン北方の鉄の三角地帯を攻撃しました。これはシーダーフォール作戦と言って、解放戦線の中心部を攻撃するというものでした。
 1月9日、アメリカ国防省は、ベトナム参戦の米軍は47万3000人と発表しました。
 1月10日、アメリカのジョンソン大統領は、予算教書でベトナム戦争の継続と増税を提案しました。
 1月10日、米軍は、延べ10万機を動員して、工場・発電所・貯水池・航空基地などの北爆を行いました。投下トン数は30万トン言われ、第二次世界大戦で日本に投下された爆弾の2倍になります。
 1月25日、アメリカ統合参謀本部は、ハノイの中心から8キロ以内の爆撃を禁止しました。
 2月6日、ベトナムで、アメリカ空軍は、枯葉作戦を開始しました。
 2月22日、米軍・南ベトナム軍10万人は、ベトナム戦で最大のジャンクション・シティ作戦を実施しました。これは解放戦線の拠点18カ所を同時に、一斉に攻撃するというものでした。シーダーフォール作戦・ジャンクション・シティ作戦によって、米軍・南ベトナム軍の死者は5000人、解放戦線の死者は2万人に達しました。
 2月24日、米軍は、非武装地帯越しに北ベトナムを砲撃しました。
 3月15日、駐南ベトナムのロッジ大使が更迭され、後任にバンカーが就任しました。
 4月15日、ニューヨーク・サンフランシスコで、50万人のベトナム反戦デモが行われました。
 5月8日、北ベトナム軍は、非武装地帯南部で一斉攻撃を開始しました。
 5月10日、ラッセル・サルトルらのベトナム戦犯国際裁判は、米に有罪を判決しました。
 5月15日、解放戦線は、ビエンホア空港を140ミリ砲で攻撃しました。
 5月18日、米軍・南ベトナム軍は、非武装地帯に侵攻し、掃討作戦を展開しました。
 6月2日、米軍機は、カムファ港に碇泊中のソ連船トルキスタン号を爆撃しました。
 8月13日、米軍機は、北ベトナムのランソンを爆撃しました。
 8月27日、解放戦線は、南ベトナムの4省部を同時に攻撃しました。
 9月1日、解放戦線は、8月の臨時大会で決定した新政治綱領を発表しました。
 9月3日、南ベトナム大統領選挙で、大統領にグエン=バン=チュー、副大統領にグエン=カオ=キが当選しました。
 9月9日、南ベトナムで、学生・仏教徒は、大統領選挙の不正に抗議しました。
 9月30日、南ベトナムの反政府デモが深刻化しました。
 10月16日、米国内で、反戦運動が拡大しました。
 10月26日、南ベトナムで、徴兵年齢が18歳に引き下げられました。
 10月31日、南ベトナムで、F大統領にグエン=バン=チュー、副大統領にグエン=カオ=キ、首相にグエン=バン=ロクが就任しました。
 10月、佐藤栄作首相は、サイゴンを訪問し、南ベトナムへの経済援助を約束しました。
 10月、解放戦線は、戦局の挽回をはかり、コン・チェン市への大攻撃を開始しました。
 11月19日、米軍のウエストモーランド司令官は、「2年以内に米軍の一部撤退は可能である」と明るい展望を表明しました。
 11月29日、アメリカのマクナマラ国防長官が辞任しました。
 12月29日、南ベトナムは権の米軍は、47万8000人に達しました。南ベトナム軍・西側援助軍を加えると100万人の大軍となりました。他方、解放戦線は、北ベトナム援助軍を入れて32万人でした。
 12月、南全土は、戦闘が沈静化していました。グエン=バン=チュー大統領らは、「南ベトナムとしての不敗体制が確立された」と語り、ジョンソン大統領も楽観論を発表しました。この年の死者は、米軍9500人、南ベトナム軍1万800人、解放戦線・北ベトナム軍8万7500人でした。
 12月、北ベトナム軍は、ケサン基地への作戦を立てました。第325師団は、防備の強固な北方を圧迫する。同時に、第304師団は、ラオス領内を迂回して、西と南から基地を包囲する。第320師団は、主力部隊を支援するため、ケサン基地を長距離砲で援護する米軍のキャンプ=キャロルを北から攻めて砲撃を妨害する、というものでした。
在ベトナムのアメリカ軍兵員数
1965年 1966年 1967年 1968年
18万2000人 39万1100人 47万8200人 52万5000人
 1968(昭和43)年1月初、ジョンソン大統領は、TVを通して、「ベトナムの情勢が有利に働いている」と国民に語りかけました。
 1月3日、新年休戦の後、米軍機は、ハノイへの北爆を開始しました。
 1月19日、アメリカの国防長官の後任にクリフォードを任命しました。
 1月20日、北ベトナム軍3万人は、米軍の猛攻撃に耐えながら、ケサン基地の包囲を狭め、米軍の前哨基地である881北高地を襲撃しました。
 1月21日、北ベトナム軍は、海兵隊の前哨である861高地頂上を攻撃しました。
 1月21日、北ベトナムは、アメリカのサンアントニア方式を拒否し、無条件北爆停止を要求しました。
 1月22日、南ベトナム派遣軍司令官のウエストモーランド将軍は、B52爆撃機と空軍・海軍・海兵隊の戦略・戦術航空機と政府軍のプロペラAT機など2000機以上を投入して、爆弾を滝のように落とす大爆弾作戦を命じました。これをナイアガラ作戦といいます。
 1月30日、解放戦線・北ベトナム軍6万人は、テト攻撃を開始しました。テトとはベトナムの旧正月のことです。これをテト攻勢といいます。
 1月31日、解放戦線の決死隊は、サイゴンのアメリカ大使館・軍放送局・市内庁舎を一時的に占拠しました。グエン=バン=チュー大統領は、南ベトナム全土に戒厳令を施行しました。TVは、南ベトナム警察庁のグエン=ゴク=ロアン長官がゲリラ容疑者をピストルで射殺する場面を放映しました。これを見た政界中の人々は、「アメリカの正義」を肌で感じました。
 1月31日、解放戦線・北ベトナム軍は、44カ所ある省都のうち36カ所、41カ所ある基地のうち23カ所を同時に襲撃しました。非武装地帯南部の古い都ユエを占拠しました。サイゴン東北のビエンホア空軍基地が24時間の猛爆撃を受けました。このテト攻勢で、アメリカ・南ベトナム・西側援助軍は死者3150人・負傷者1万3000人、解放戦線・北ベトナム軍は死者3万人・捕虜6000人となりました。
 2月1日、ジョンソン大統領は、「ケサン防衛のため。戦術核兵器の使用も考慮する」という内容をウエストモーランド将軍に打電しています。
 2月2日、南ベトナム民族民主平和勢力連合は、サイゴン・ユエに姿を現しました。
 2月5日、解放戦線は、サイゴンに攻撃しました。
 2月5日、北ベトナム軍2万人は、アメリカの海兵隊5000人・南ベトナムのレンジャー部隊1000人が防衛するケサン基地に大攻勢をかけ、861高地の一部を奪取しました。ケサン基地は、非武装地帯の南25キロにあり、最西方のアンカーという位置づけであり、敵地に築いた北ベトナムから南ベトナムへの浸透・兵站補給線のホーチミン=ルートに接近する重要拠点でした。1200メートルの滑走路をつくり、周囲は、塹壕・有刺鉄線・地雷などで要塞化していました。多くの人は、第二のディエン=ビエン=フーを想像しました。
 2月5日、アメリカ空軍は、B52を大量に投入して、ケサンを支援する最大規模の爆撃を行いました。これをナイアガラ作戦といいます。
 2月7日、南方から侵攻した北ベトナムの第304師団は、ソ連製戦車PT76を率いて、ケサン南西部4キロの南ベトナム軍が守備するランベイ=キャンプを砲撃しました。
 2月15日、アメリカのジョンソン大統領は、「ベトナムでは核兵器を使わない」と言明しました。
 2月18日、解放戦線は、全土47カ所を一斉砲撃しました。
 2月23日、ケサン最大の攻防戦が行われ、北ベトナム軍2万4000人は1307回の砲撃を加えました。米軍は、戦闘爆撃機を延べ2万5000機・B52を延べ2700機出撃させ、延べ11万4000トンの爆弾を投下しました。また、地上米軍は2045回の砲撃を行いました。米軍は、空輸回数は1120回で、1回当たりの物資は10トンでした。輸送機4機・ヘリコプター17機が撃墜され、35機が損壊しました。
 2月24日、アメリカ軍・南ベトナム軍は、ユエを奪回しました。その結果、軍事的には米軍・南ベトナム軍が処理しましたが、アメリカ国民には「もはやベトナム戦争には勝てない」という気持ちを植えつけたことで、戦略的には、解放戦線・北ベトナム軍が成功したといえます。
 2月24日、国連のウ=タント事務総長は、アメリカ・北ベトナムと接触し、和平工作の結論を声明しました。
 3月4日、解放戦線は、米軍基地12カ所、省都4カ所をロケット砲で攻撃しました。
10  3月16日、アメリカ陸軍のウィリアム=カリー中尉率いる第234歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊14人は、南ベトナムのクアンガイ省にあるソンミ村を襲撃し、女性や子供など村民504人を虐殺しました。これをソンミ村虐殺事件といいます。
 事件に参加していた兵士の複数が軍上層部に報告しましたが、結果を恐れた上層部はこの事件を握りつぶしました。しかし、1969年12月に記者のハーシュが雑誌『ニューヨーカー』に掲載したことから、この事件が知られるようになり、世界に衝撃を与えました。
 私はゲリラを相手にしては、戦争は勝てないと信じています。フセイン国王が率いるイラク帝国は、アメリカなどの攻撃によって簡単に崩壊しました。国民に支持されていなかったからです。イラク帝国を武力で倒したアメリカ軍が苦戦しているのも、国民に支持されていないからです。
 日本が、中国に敗退したのも、中国国民に支持されていなかったからです。ベトナム戦争は、ゲリラの恐怖を学習しなかったアメリカの失敗例です。トンキン湾事件をでっち上げて北爆したのもアメリカです。核兵器があるといってイラクを攻撃したのもアメリカです。怖い国です。
 しかし、その事実をベトナム戦争の最中に公表した記者も立派なら、それを許可した雑誌社の上層部の立派です。これもアメリカ人です。
 1986年のアメリカ映画『プラトーン』(Platoon) を見ました。監督はオリバー・ストーン、主人公はテーラーに扮したチャーリー・シーンです。かれは志願兵で、士気高く描かれています。徴兵制によりやむなくやってきた兵士は、ゲリラとの戦いの緊張感をほぐすため、麻薬や酒に逃げ込んでいる様子を描いています。特に有名なのが、バーンズ役トム・ベレンジャーの命令で、村民を虐殺する場面です。主人公テーラーは上司のバーンズを射殺します。作品賞・監督賞・編集賞・音響賞の4部門をアカデミーを受賞しました。アメリカ人が戦ったベトナム戦争を、アメリカ人が批判する映画を作ることが出来るのもアメリカです。日本では、国賊扱いでしょう。復元力のあるアメリカに乾杯です。
11  3月22日、ウエストモーランド司令官は、陸軍参謀総長に転出しました。
 3月31日、ジョンソン大統領は、北爆部分的停止を発表しました。
 4月1日、米軍は、地上からケサンを解放する作戦を実行しました。これをペガサス作戦といいます。ペガサス作戦で、北ベトナム軍の猛攻を反撃しました。
 4月3日、北ベトナムは、和平会談を行う用意ありと声明しました。
 4月10日、アメリカの援助軍司令官にエイブラムス大将が就任しました。
 4月14日、北ベトナムは、ケサンから撤退しました。77日間のケサン攻防戦で、米軍の死者は1500人、北ベトナム軍の死者は8000人でした。米軍は、アメリカの空軍によっても、北ベトナムの地上軍を壊滅させることの不可能を知りました。北ベトナムは、アメリカ空軍が支援する中でも、アメリカ地上軍の攻撃は多大な損害を与えることを学びました。
 4月17日、解放戦線は、再度大攻勢をかけ、アメリカ国民を反戦ムードを呼び起こしました。
12  5月3日、北ベトナムは、和平会談にパリを提案し、アメリカが受諾しました。
 5月4日、解放戦線は、南ベトナムの122カ所を一斉に砲撃しました。
 5月6日、ベトナム和平予備会談は、パリの国際会議センターに決定しました。
 5月10日、アメリカと北ベトナムの和平予備会談が始まりました。
 5月13日、アメリカと北ベトナムの和平本会談が始まりました。
 5月18日、南ベトナムのグエン=バン=ロク内閣が総辞職し、チャン=バン=フォン内閣が誕生しました。
13  6月11日、解放戦線は、サイゴン中心部を砲撃しました。
 6月15日、南ベトナム国会は、上下両院合同会議で、総動員法を可決しました。
 6月27日、米軍司令部は、ケサン基地撤退を発表しました。大軍を派遣しての撤退は、派遣米軍に大きな衝撃を与えました。
 7月4日、アメリカの南ベトナム派遣軍は、53万7000人となりました。
 8月18日、解放戦線・北ベトナム軍は、南ベトナムの18カ所を攻撃しました。
 9月5日、アメリカは、「ベトナム戦争の米軍損害は8月末で戦死2万7509人、負傷・行方不明20万515人」と発表しました。行方不明が増えた理由は、1966年までのアメリカ軍の地上部隊は、ほとんどが士気の高い志願兵でした。1967年からは士気の弱い徴兵による兵士が前線に送られてくるようになりました。そして、1968年には、40%が徴兵による兵士が占めるようになりました。
 9月30日、アメリカの戦艦ニュージャージは、ベトナム戦争に参加し、非武装地帯の軍事目標を砲撃しました。
14  10月5日、タイに亡命中のドン=バン=ミン将軍は、サイゴンに帰りました。
 10月16日、アメリカのバンカー大使は、グエン=バン=チュー大統領と、異例の緊急会議を開きました。その結果、北爆停止の観測が広まりました。
 10月31日、ジョンソン大統領は、北爆の全面停止を発表しました。
 11月2日、北ベトナム・解放戦線は、拡大パリ会談に参加を受諾すると発表しました。しかし、南ベトナムは不参加を言明しました。
 11月3日、解放戦線は、平和5原則を発表し、代表団主席にグエン=チ=ビン女史を任命しました。
 11月27日、南ベトナムは、拡大パリ会談に参加を表明しました。
 12月10日、アメリカは、「ベトナム戦争での米軍の戦死者は合計3万人を越す」と発表しました。
 12月、この年の死者は、アメリカ軍1万4546人・南ベトナム軍1万7486人・西側援助軍3400人、解放戦線・北ベトナム軍19万1387人です。

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