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エピソード

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雪どけの動きY(1969年〜1970年、ベトナム戦争V)
 1969年には、アポロ11号が人類として初めて月面着陸を果たしました。その第一声が「この一歩は小さいが人類にとって偉大な飛躍だ」という感動的なものでした。
 1970年には、大阪万博があり、私は生徒を引率して、見学に行きました。月の石を展示しているパビリオンには、十重二十重の人ごみで、日帰りの者には見学は不可能だったので、奇妙な岡本太郎の太陽の塔を何時間も見ていたものです。縄文土器がヒントだったのいうのが何となく分かりました。
 1969(昭和44)年1月16日、ソ連の有人宇宙船ソユーズ4号と5号は、宇宙空間でドッキングして、宇宙飛行士の乗り移りに成功しました。
 1月18日、ベトナム和平拡大パリ会談の初会合が開かれました。
 1月20日、ニクソンは、第37代米大統領に就任しました。
 2月1日、パレスチナ国民会議第5回大会が開かれ、ファタハ代表のアラファト(40歳)は、PLO執行委員会議長に就任しました。その結果、ファタハは、PLOの最大勢力となりました。
 2月23日、南ベトナム民族解放戦線は、過去最大のテト明け攻勢を開始しました。米軍・南ベトナム軍の拠点や都市・空港など115カ所が一斉に攻撃されました。
 3月2日、中・ソ国境警備隊は、ウスリー江の珍宝島で武力衝突を起こしました。
 3月2日、英・仏共同開発超音速旅客機コンコルドが初飛行に成功しました。
 3月6日、アメリカは、南ベトナム駐留軍は54万4500人と発表しました。
 4月14日、中国共産党は、林彪を毛沢東主席の後継者と決定しました。
 4月28日、仏のドゴール大統領は、国民投票で敗北し、退陣を表明しました。
 5月1日、ニクソン大統領は、全ての外国軍隊を相互に段階的に撤退させるなど8項目のベトナム和平提案を行いました。
 6月8日、ニクソン大統領は、ミッドウェーで、南ベトナムのグエン=ヴァン=チュー大統領と会談し、アメリカ軍2万5000人の南ベトナムからの撤退を発表しました。
 6月10日、南ベトナム民族解放戦線は、南ベトナム臨時革命政府の樹立を宣言しました。
 6月15日、フランスのボンピドー元首相は、大統領に当選しました。
 6月末、解放戦線は、第二次攻撃をおこない、102カ所を襲撃しました。
 7月8日、南ベトナム派遣米軍第1陣が撤退しました。
 7月16日、エドワード・ケネディ上院議員は、女性秘書のコペクニを助手席に乗せてドライブ中、川に転落して女性を溺死させました。これをチャパケディック事件といいます。
 7月20日、米のアポロ11号は、人間をのせ初の月面着陸に成功しました。月着陸船のイーグル号のアームストロング船長は、月より「この一歩は小さいが人類にとって偉大な飛躍だ」という第一声を伝えました。
 7月21日、NHKテレビは、「月に立つ宇宙飛行士」を衛星中継しました。
 7月22日、スペインのフランコ国家主席は、ファン=カルロスを後継者に指名しました。
 7月25日、ニクソン大統領は、グアムで、アジア諸国の自主防衛努力強化と米の負担軽減の方針を発表しました。これをグアム・ドクトリンといいます。
 8月8日、フランスで、フランが11.1%切り下げられました。
 9月1日、リビアで、クーデターがあり、カダフィーらの自由将校団は、王制を打倒しました。これを9月革命といいます。
 9月3日、ホー=チ=ミン(77歳)が亡くなりました
 10月15日、全米で、べトナム反戦デモが繰り広げられ、100万人以上が参加しました。
 10月24日、西ドイツで、マルクが9.29%切り上げられました。
 10月21日、西ドイツで、社会民主党のプラント政権が誕生しました。
 11月3日、ニクソン大統領は、南ベトナムからの即時撤退を否定しました。
 11月16日、ニューヨーク・タイムズは、ベトナムのソンミ村虐殺事件を報道しました。
 1970(昭和45)年1月1日、人民日報・紅旗・解放軍報は、ソ連社会帝国主義を非難した共同社説を掲載しました。
 1月14日、アメリカ連邦最高裁は、フロリダ・アラバマ・ルイジアナ・ジョージアなどの諸州に、「公立学校の人種隔離廃止実施の最終期限を2月1日とする」ことを通告しました。
 1月26日、西ドイツで、サリドマイド裁判の被告の製薬会社グリューネンタール社は、1億マルクの補償金を条件に裁判の中止を申し入れました。
 1月28日、米軍は、ベトナムからの第3次撤兵を開始しました。
 2月18日、ニクソン大統領は、アジアへの介入を抑制するという「ニクソン・ドクトリン」を発表しました。
 3月6日、ニクソン大統領は、ラオス爆撃と軍事顧問派遣を認めました。
 3月18日、カンボジアでクーデターがあり、シアヌーク元首が解任され、ロン=ノル将軍が実権を掌握しました。
 4月10日、ポール・マッカートニー(28歳)は、ビートルズから脱退し、10年にわたるザ・ビートルズが解散しました。
 4月14日、アメリカの月探索船アポロ13号は、酸素タンクが爆発したため、月着陸を断念し、着陸船を使って帰還しました。映画『アポロ13号』のモデルです。
 4月16日、米・ソは、ウィーンで、SALT本会議を開始しました。
 4月22日、アメリカのニクソン大統領は、「1971年春までに15万人のベトナム撤兵する」と言明しました。
 4月23日、北京に亡命したカンボジアのシアヌーク元首は、共産勢力のクメール・ルージュとカンプチア民族統一戦線を結成し、ロン・ノル政権との対立が始まりました。
 4月24日、中国は、人工衛星「中国1号」の打ち上げに初めて成功しました。
 4月30日、米軍・南ベトナム軍9000人は、カンボジアに侵攻しました。
 5月1日、米軍は、1968年11月以来の北爆を再開しました。
 5月3日、カンボジアのシアヌーク元相は、北京でペン・ヌートを首班とするカンボジア王国民族連合政府の成立を発表しました。
 5月4日、アメリカで、反戦デモが激化し、オハイオ州で学生4人が州兵に射殺されました。
 6月24日、米上院は、1964年8月のトンキン湾決議の無効を決議しました。
 7月21日、アラブ連合のアスワンハイダムが完成しました。
 8月12日、ソ連・西独は、武力不行使条約に調印しました。
 9月28日、アラブ連合のナセル大統領が急死しました。
 10月17日、アラブ連合で、後任の大統領にサダトが就任しました。
 10月25日、チリで、社会党のアジエンデ党首が大統領に当選しました。
 11月3日、チリで、アジエンデの人民連合政権が誕生しました。
 11月9日、フランスのドゴール前大統領が亡くなりました。
 12月7日、西独・ポーランドは、国交正常化条約に調印しました。
 12月14日、ポーランドのグダニスタで、食糧値上げ抗議暴動が発生しました。
 12月20日、ポーランドで、ゴムルカ第1書記が失脚し、後任にギエレクが就任しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ベトナム戦争とモハメド=アリ
 1942年1月17日、カシアス=クレイが生まれました。私が生まれたのも1942年3月ですから、同級生ということになります。
 1960年9月、カシアス=クレイは、ローマオリンピックで、ヘビー級のチャンピオンになりました。有名人になったクレイは、金メダルを付けたまま友人たちといっしょにレストランに入ろうとした時、そのレストランが入店を拒否しました。クレイは「金メダルなんて全く無価値だ」といって、金メダルを川に投げ捨てたと言われています。これをクレイのフィクションだという人がいます。
 私は、カシアス=クレイを白人が点けた黒人奴隷の名であるとして、モハメド=アリと改名したことから、そういう無念さはあったと考えています。
 1960年10月、そこで、カシアス=クレイは、金メダルをお土産にプロに転向しました。
 1962年11月、クレイは、元世界ライトヘビー級王者のアーチ=ムーアと対戦することになりました。クレイは、試合前に「ムーアを4回でKOする」と予告し、その通り4回でKO勝ちしました。このことから、彼を「ほら吹き(big mouth)クレイ」と言われるようになりました。
 1964年2月25日、クレイは、ソニー・リストンを7回でTKO勝ちし、世界ヘビー級チャンピオンになりました。予想はリストンの勝利7、クレイの勝利は1でした。
 この頃から、「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Floats like a Butterfly and Stings like a Bee)」と言われるようになりました。
 2月26日、カシアス=クレイは、ブラック・ムスリムのマルコムXと親交を深め、白人から与えられた奴隷の名であるカシアス=クレイ捨て、モハメド=アリと改名しました。ソニー=リストンはさじずめ、白人に飼い馴らされたアンクル=トムということになります。しかし、この反政府的な言動が、その後、大変なことになります。
 1967年4月、アリは、ベトナム戦争に召集されましたが、「罪もないベトナムの人たちを自分は殺したくない」と良心的兵役拒否を宣言したために、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルとボクシングのライセンスを剥奪され、しかも、5年の禁固刑と1万ドルの罰金を申し渡されました。その他の有名ボクシング選手を見ても、徴兵された人を知りません。
 1970年6月、最高裁は、アリの良心的徴兵拒否を妥当なものであると判断して、無罪を言い渡しました。これを受けて、ボクシング協会は、モハメド=アリに対して、ボクシングのライセンスのみが返されました。
 10月、ベトナム反戦の世論を受けて、モハメド=アリは、3年半のブランクを経て、世界ヘビー級1位のジェリー=クォーリーと戦い、3回でTKO勝ちしました。
 1971年3月、モハメド=アリは、世界ヘビー級チャンピオンのジョー=フレージャーと戦い、15回で判定負けしました。一番油の乗っていた時の3年間の空白は、取り返しのつかないものかと、アメリカ政府に怒り、アリに同情したものでした。
 1973年3月、アリは、世界ヘビー級1位のケン=ノートンと戦い、15回で判定負けしました。試合後の検診で、アリは顎の骨を折っていることが判明しました。
 9月、モハメド=アリは、ノートンと雪辱戦を行い、15回で判定勝ちしました。
 1974年10月、モハメド=アリは、アフリカのキンシャサで、世界ヘビー級チャンピオンで、世界最強の男といわれたジョージ=フォアマンと戦い、8回でKO勝ちし、7年ぶりに世界ヘビー級チャンピオンに返り咲きました。これをキンシャサの奇跡とかジャングルの決闘いいます。世界の多くの人々に夢と希望を与えました。
 1976年、モハメド=アリは、日本で、アントニオ猪木と「ボクシング対プロレス」という余興の試合も行いました。
 1996年、モハメド=アリは、オリンピックのアトランタ大会の開会式のおける最終聖火ランナーとして全世界の人の前に姿を現しました。パーキンソン病にも拘わらず、出てきたことに多くの人が感動しました。普通なら、蝶のように舞い、蜂のように刺す華麗な勇姿を裏切る行為です。
 モハメド=アリも、ベトナム戦争が産んだ英雄といえます。
 1969(昭和44)年1月10日、スウェーデンは、北ベトナムを承認しました。これは西側でははじめての国にです。
 1月18日、ベトナム和平拡大パリ会談の初会合が開かれました。
 1月20日、ニクソンは、第37代米大統領に就任しました。
 1月25日、第一回拡大パリ会談が行われました。
 2月23日、南ベトナム民族解放戦線は、過去最大のテト明け攻勢を開始しました。米軍・南ベトナム軍の拠点や都市・空港など115カ所が一斉に攻撃されました。
 3月6日、アメリカは、南ベトナム駐留軍は54万4500人と発表しました。
 5月8日、第16回パリ会談で、解放戦線は、和平解決10項目案を提示しました。
 5月14日、ニクソン大統領は、全ての外国軍隊を相互に段階的に撤退させるなど8項目のベトナム和平提案を行いました。
 6月6日、解放戦線は、南ベトナムの解放区で、人民代表大会を開き、「南ベトナム共和国臨時革命政府」を樹立しました。首班にフィン=タン=ファトが就任しました。
 6月8日、ニクソン大統領は、ミッドウェーで、南ベトナムのグエン=ヴァン=チュー大統領と会談し、アメリカ軍2万5000人の南ベトナムからの撤退を発表しました。
 6月10日、南ベトナム民族解放戦線は、南ベトナム臨時革命政府の樹立を宣言しました。
 6月末、解放戦線は、第二次攻撃をおこない、102カ所を襲撃しました。
 7月8日、アメリカの第一歩兵師団の一部が本土に帰還しました。
 7月、ニクソン大統領は、南ベトナムのベトナム化政策を表明しました。これをグァム・ドクトリンといいます。その内容は、南ベトナム政府軍を強化し、南ベトナムは南ベトナムで自衛させ、アメリカ軍は後方支援を担当するというものでした。別な表現をすると、100万人の南ベトナム軍にアメリカ製の最新の武器を持たせ、アメリカ軍は撤退するということになります。
 8月末、解放戦線は、第三次攻撃を行い、89カ所を襲撃しました。
 8月末、米軍2万5000人の第一陣が本国に帰還しました。同盟軍より先に撤退したことで、米軍に対する不信感が芽生えたといいます。
 9月1日、南ベトナムで、チャン=チェン=キェム首相の新内閣が誕生しました。
 9月3日、ホー=チ=ミン大統領が亡くなりました。
 9月23日、北ベトナムで、大統領にトン=ドク=タンが就任しました。
 11月15日、アメリカの反戦デモで、モラトリアム(職場一斉放棄)があり、全米で150万人が参加しました。
 11月16日、ニューヨークタイムス紙は、南ベトナムのソンミ村での村民虐殺事件の調査を開始と報道しました。
 12月、米軍3万5000人の第二人が本国に帰還しました。
 12月15日、ニクソン大統領は、「来年4月15日までに南ベトナムへの米軍派遣の限度をさらに5万人引き下げる」と発表しました。
 1970(昭和45)年1月1日、アメリカのアグニュー副大統領は、サイゴンを訪問しました。
 1月11日、ニクソン大統領は、5万人の第三次撤兵を発表しました。
 3月6日、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官は、「ニクソン大統領は第1期の任期を終了する前にベトナム和平を達成する」と言明しました。
 3月18日、親米派のロン=ノル将軍は、中立左派のシアヌーク元首を追放して、共和制を宣言しました。これをカンボジアの政変といいます。シアヌーク元首は、失脚して、北京に亡命しました。シアヌーク殿下は、カンボジア共産党の書記であったポル=ポトと提携しました。
 3月23日、シアヌーク殿下は、北ベトナムのファン=バン=ドン首相と会談しました。
 3月27日、米軍と南ベトナム軍は、ロン=ノルの許可を得て、カンボジア領内の解放戦線の根拠地を襲撃しました。これをカンボジア侵攻作成といいます。
10  5月1日、米軍・南ベトナム軍は、解放戦線の根拠地としてカンボジアに侵攻しました。
 5月4日、北京で、カンボジア民族統一戦線と王国民族連合政府が樹立しました。
 5月28日、南ベトナムは、カンボジアと共同声明を発表し、国交を回復しました。
 6月29日、米軍は、カンボジアから撤退しました。
 9月3日、拡大パリ会談が再開されました。
 9月17日、南ベトナム臨時革命政府は、8項目の和平提案をしました。
11  10月7日、ニクソン大統領は、5項目の和平提案をしました。
 10月9日、カンボジアは、共和政への移行を表明し、国名をクメール共和国と変更しました。
 11月21日、米軍機は、19度線以南の北爆を再開しました。
 12月10日、北ベトナムは、党・政府・全軍民に対して、米軍の侵攻に備えるべしとの声明を発表しました。
 12月、この年のベトナム派遣米軍は33万5300人となりました。

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