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エピソード

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雪どけの動きZ(1971年〜1975年、ドル=ショック、オイルショック)
 ここでは、1971年〜1975年までを扱います。
 ベトナム戦争によるツケをドル=ショックで支払わされました。
 中東戦争によるツケをオイルショックで支払わされました。
 「日本は、日本だけ」という時代でないことを体感しました。
 1971(昭和46)年3月25日、バングラデシュが独立を宣言しました。
 4月27日、韓国で、朴正熙は、、金大中を破って、第7代大統領に当選しました。
 5月3日、全米で、ベトナム即時停戦を要求するデモが繰り広げられました。
 5月27日ソ連は、エジプトと友好協力条約に調印しました。
 7月9日、ニクソン大統領のキッシンジャー補佐官は、秘かに北京を訪問しました。
 7月15日、ニクソン大統領は、訪中計画を発表しました。
 8月9日、ソ連は、インドと平和友好協力条約に調印しました。
 8月15日、ニクソン大統領は、金・ドル交換停止などドル防衛策を発表しました。これをドル=ショックといいます。
 9月13日、中国の林彪は、クーデターに失敗して、逃亡中に亡くなりました。
 10月25日、国連総会は、アメリカが提案した中国招請・台湾追放を可決しました。
 12月3日、インドは、パキスタンと全面戦争に突入しました。
 12月18日、10カ国蔵相会議は、金1オンス=38ドルを決定しました。これをスミソニアン体制の発足といいます。
 1972(昭和47)年2月21日、ニクソン大統領は、中国を訪問しました。
 2月27日、米中共同声明が発表されました。
 3月30日、南ベトナム全土で、解放戦線は、テト攻勢以来の大攻勢をしかけました。
 4月6日、米軍は、北爆を再開しました。
 5月9日、米軍は、北ベトナム全港を機雷で封鎖しました。
 4月10日、生物兵器禁止条約が調印されました。
 5月17日、西ドイツは、ソ連・ポーランドとの武力不行使条約を批准しました。
 5月22日、ニクソン大統領は、ソ連を訪問しました。
 5月26日、戦略兵器制限条約(SALT)が調印されました。
 6月17日、アメリカで、ウォーターゲート事件が発覚しました。
 7月8日、アメリカは、ソ連と穀物協定に調印しました。
 9月5日、ミュンへンオリンピック村で、パレスチナ=ゲリラは、イスラエル選手を殺害しました。
 9月23日、フィリピンで、戒厳令が施行されました。
 11月17日、アルゼンチンで、ペロン元大統領は、亡命先から17年ぶりに帰国しました。
 11月19日、西ドイツで、総選挙が行われ、社民党が大勝しました。
 12月21日、東・西ドイツは、関係正常化の基本条約に調印しました。
 1973(昭和48)年1月1日、イギリス英・デンマーク・アイルランドは、ECに加盟しました。
 1月27日、アメリカ・南ベトナム・北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府は、ベトナム和平協定に調印しました。
 6月16日、ソ連共産党のブレジネフ書記長は、アメリカを訪問し、核戦争防止協定に調印しました。
 7月17日、アフガニスタンで、クーデタがあり、王制が廃止されました。
 8月24日、中国共産党10全大会は、旧幹部の復活・批孔批林運動の強化を決定しました。
 9月11日、チリで、クーデタがあり、アジエンデ大統領が亡くなりました。
 10月6日、エジプト・シリア軍は、イスラエル攻撃を開始しました。これを第4次中東戦争の勃発とか10月戦争とかいいます。
 10月11日、タイで、学生運動によりタノム軍事政権が崩壊しました。
 10月16日、タイで、サヤン文民内閣が誕生しました。
 10月16日、湾岸6カ国は、石油戦略を発表しました。その内容は、アラブ支持、イスラエルの占領反対国以外に対し、石油禁輸や原油価格を70%値上げするというものでした。これを石油ショックといいます。アラブの石油に頼っていた日本では、この石油ショックは、トイレットペーパーなどが店頭からなくなるというパニックを引き起こしました。
 10月17日、アラブ石油輸出国機構)(OAPEC)は、原油生産の削減を決定しました。
 10月18日、イタリア共産党は、保守勢力との歴史的妥協を提唱しました。
 12月21日、ジュネーブで、中東和平会議が開催されました。
 1974(昭和49)年2月11日、ワシントンで、石油消費国会議が開催されました。
 3月5日、イギリスで、ウィルソン労働党内閣が誕生しました。
 4月3日、韓国のソウルで、反政府デモがあり、朴大統領は、民青学連を弾圧しました。
 4月25日、ポルトガルで、軍部クーデタがあり、独裁政権が崩壊しました。
 5月1日、国連資源特別総会は、新国際経済秩序の樹立を宣言しました。
 6月27日、ニクソン大統領は、ソ連を訪問しました。
 7月13日、韓国の詩人である金芝河は、死刑の判決を受けました。
 8月8日、ニクソン大統領は、ウォーターゲート事件で辞任しました。
 8月9日、副大統領のフォードは、大統領に昇格しました。
 8月15日、ソウルで、朴正熙大統領が狙撃されて、朴正熙夫人が亡くなりました。在日韓国人の文世光が犯人として逮捕されました。
 11月5日、ローマで、世界食糧会議が開かれました。
 11月22日、国連総会は、PLOにオブザーバー資格を付与しました。
 11月23日、フォード大統領は、ソ連を訪問し、SALTU促進で合意しました。
 1975(昭和50)年3月25日、サウジアラビアで、ファイサル国王が暗殺されました。
 4月17日、カンボジアで、解放勢力クメール・ルージュは、プノンペンを制圧しました。政府軍が降伏して、ロン・ノル政権が崩壊しました。この後誕生したポル・ポト政権が数百万人のカンボシア人を虐殺することになります。
 4月30日、南ベトナムで、サイゴン政府が降伏し、ベトナム戦争が終結しました。
 6月5日、スエズ運河が8年ぶり再開されました。
 6月19日、メキシコシティで、国際婦人年世界会議が開かれました。
 7月30日、ヘルシンキで、全欧安保協力会議が開催されました。
 8月11日、東チモールで内乱が発生しました。
 8月15日、バングラデシュで、軍事クーデタがあり、ラーマン大統領が暗殺されました。
 10月9日、ソ連のサハロフは、ノーベル平和賞を受賞しました。
 11月11日、アンゴラが独立を宣言して、内戦が激化しました。
 11月15日、フランスののランブイエで、第1回先進国首脳会議が開催され、世界経済秩序再建を討議しました。
 11月20日、スペインで、フランコ総統が亡くなりました。
 12月2日、イスラエル軍機は、レバノンのパレスチナ難民キャンフを爆撃しました。
 12月7日、フォード大統領は、日米協調の新太平洋ドクトリンを発表しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ニクソン=ショック(ドル=ショック)
 ニクソン=ショック(ドル=ショック)を理解するためには、世界の通貨体制を理解する必要があります。
 経済の問題は、なかなか授業でも、難しいとされています。英雄が出てくるわけでもなく、明快で楽しいエピソードもありません。茶髪の弁護士なんぞは、何にでも口を出すが、こと経済問題になると、自分の体験を喋って、お茶を濁しています。それなら出演しないか、喋るなと言いたいとこですが、本人は至って真面目ですから、始末が悪いです。
 経済、つまりお金は、1円出すのも惜しいのに、経済の構造を知る人は少ない。ニクソン=ショックは私に経済の損得を教えてくれた数少ない教材です。
 1944年7月、連合国44カ国は、アメリカのニューハンプシャー州にあるブレトンウッズに集まり、戦後の国際通貨体制に関する会議を開きました。その結果、ドルと金との交換比率を固定し、各国通貨はドルと交換比率を固定することで、自由貿易を促進しようというブレトン=ウッズ(IMF)体制が発足しました。
 1949年4月、日本は、1ドル=360円で世界経済と交流することになりました。金1オンス=35ドルに設定されました。つまり、360円×35ドル=1万2600円=金1オンスとなったのです。世界は、何時でも金と交換できるアメリカの経済力を信じ、ドルを金と同じ価値があると認めたのです。
 1952年8月、日本は、国際通貨基金(IMF)・国際復興開発銀行(IBRD)に加盟しました。IMFは、短期的な資金を援助する機関で為替レートの安定に寄与する制度です。IBRDは、長期的な資金を援助する機関です。
 1960年代になると、アメリカは、ベトナム戦争の費用をまかなったり、軍事力増強を行った結果、双子の赤字国になってしまったのです。つまり、国内的には大幅な財政赤字、国際的には大幅な国際収支の赤字となり、大量のドルが流出しました。そこで、金の準備量を超えた大量のドル紙幣を発行し続け、金との交換が出来なくなったのです。
 1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、金とドルの交換を停止すると発表しました。これをニクソン=ショック(ドル=ショック)といいます。なぜこれがショックなのかといいますと、円を16.88%切り上げて1ドル=308円となりました。308円×35ドル=1万780円=金1オンスとなり、安くで金を買えることになったように思えます。しかし、日本は、アメリカと貿易した決済としてドルを保有しています。以前なら1ドルは360円の価値を持っていましたが、ここでは、1ドルは308円の価値しかありません。つまり、1ドルにつき52円の損害になります。
 フランスは、ドルの価値が下がる前に、35ドルを金1オンスに交換してしまいました。日本は、同盟国アメリカが困っている時には、そんなことは出来ないと、「不動」を貫きました。こんな所で武士道精神はいりません。エコノミックアニマルになってほしかったです。その結果、日本人が流した汗が、ボロ屑になってしまったのです。フランスの交換した額と日本が損失した額を資料として保存していたのですが、退職と共に処分してしまいました。残念です。
 1971年12月18日、10カ国蔵相会議は、ワシントン州にあるスミソニアン博物館で、ドルを7.89%切り下げて金1オンス=38ドルを決定しました。これをスミソニアン体制の発足といいます。
 日本にあてはめると、308円×38ドル=1万1704円=金1オンスとなります。ブレトンウッズ体制の時は、金1オンス買うのに35ドル必要でしたが、今回は、38ドル必要になります。正直にドルを保有していた国が馬鹿を見たわけですが、自由主義を守る美名のもとに、フランスなど一部を除いて、多くの国が馬鹿を選択しました。おせっかいなアメリカのベトナム戦争のツケを払わされたのです。
 1973年2月、アメリカの国際収支は悪化の一途を辿り、主要先進国は変動相場制に移行しました。この結果、この年の金1オンス=100ドルとなってしまいました。ドルは、信用が無くなったのも拘わらず、世界経済はアメリカを中心に動いています。自由主義を守ることとは別で、ドルを早急に金に交換すべきです。この時、輸出船の建造契約がドル建てだった造船業界では、2400億円の為替差損をこうむっています。
金価格の変動(単位:金1オンスに対してのドル)
1972 1973 1974-1977 1978 1979 1980 1981 1982-1985 1987 1997
46-64 64-100 130-180 244 500 110-850 599 300 486 300
 日本の貿易相手国の最大はどこかご存知でしょうか新たな経済の枠組みを考える必要があります。実は中国なのです。北朝鮮のテポドン2騒ぎでも、アメリカ一辺倒の弊害が出てきています。中国を動かさないと、北朝鮮への制裁は、どうにもならないのです。体制の違いは、水と油ですが、中国も日本抜きでは経済発展は望めません。日中は、共存共栄の間からになっています。信頼関係を深めていけば、北朝鮮への対応も、変化するでしょう(この記事は2006年7月10日に書きました)

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