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エピソード

290_01

激動する世界(1976年〜1977年、イスラエル・PLO)
 1976年は、社会主義への幻想が現実化した年でした。ポル=ポトの虐殺、中国の天安門事件などでした。
 1977年は、長年憎しみあってきたアラブ人とイスラエル人が和解するかと期待を持った年でした。人間が作ったものは、人間が作り直せるという夢を与えました。
 1976(昭和41)年1月3日、カンボジアのポル=ポト政権(クメール=ルージュ)は、国名を民主カンボジアと改称しました。
 1月6日、カンボジアで、シアヌーク殿下は、元首・大統領に復帰しました。
 1月8日、中国の周恩来首相が亡くなりました。
 1月19日、カンボジアで、大量住民強制移住が報道されました。
 3月1日、韓国のソウルでで、金大中ら12人は、朴正煕大統領を批判する民主救国宣言を発表しました。
 3月10日、金大中が逮捕されました。
 3月14日、エジプトは、ソ連との友好条約を破棄すると発表しました。
 4月5日、中国で、周恩来首相をしのび天安門広場に集まった群衆が当局と衝突しました。これを天安門事件といいます。
 4月7日、天安門事件の黒幕とされたケ小平が副主席を解任され、後任に華国鋒が就任しました。
 4月13日、カンボジアで、キュー・サンファンが元首となり、ポルポト政権が誕生しました。
 5月7日、タイ脱出のカンボジア人の大量虐殺が明らかになりました。
 5月28日、米・ソは、地下核実験制限条約に調印しました。
 6月1日、シリア軍は、レバノンに侵攻しました。
 6月29日、欧州共産党会議は、社会主義への多様な道を承認しました。
 7月2日、ベトナム社会主義共和国が誕生し、南北ベトナムが統一されました。
 7月17日、インドネシアは、東チモールを併合しました。
 8月16日、コロンボで、第5回非同盟諸国首脳会議が開催され、86カ国が参加し、新国際経済秩序を要求しました。
 9月9日、中国の毛沢東主席が亡くなりました。
 10月10日、中国で、国家主席に華国鋒が就任しました。
 10月12日、王洪文・江青ら四人組が逮捕されました。
 10月22日、中国で、王洪文・江青ら四人組のクーデター計画の摘発が公表されました。
 11月3日、アメリカ大統領選挙で、民主党のジミー=カーターが当選しました。
 11月20日、レバノン内戦が終結しました。
 1977(昭和42)年1月1日、ECは、200カイリ水域を宣言しました。
 1月7日、チェコスロバキアで、自由派知識人257人は、人権の抑圧を批判する憲章77を宣言し、西側各紙に掲載されました。
 1月20日、アメリカの第39代大統領に、民主党のカーターが就任しました。
 1月25日、ソ連検察当局は、ノーベル賞受賞者のサハロフ博士に対して、反国家的言動をやめよと厳重警告しました。
 2月22日、中国は、ケ小平の副主席復帰・江青など四人組の永久追放を発表しました。
 3月2日、伊・仏・スペイン共産党書記長が初会議を開きました。
 3月21日、インドで総選挙が行われ、、国民会議派が大敗しました。インディラ=ガンジー首相も落選し、新首相にジャナタ党のモラルジー=デサイ党首が就任しました。
 6月16日、ソ連で、最高会議幹部会議長にブレジネフ書記長が就任しました。
 7月5日、パキスタンで、軍事クーデタがありました。
 7月16日、中国共産党10期3中全会が開かれ、副主席にケ小平が復帰しました。
 7月25日、米韓安保協議会で、在韓米地上軍の撤退等を決定しました。
 8月12日、中国共産党11全大会は、文革終結を宣言し、4つの近代化の新党規約を決定しました。
 10月1日、米・ソは、中東和平共同声明を発表しました。
 10月7日、ソ連で、新憲法が採択されました。これをブレジネフ憲法といいます。
 11月19日、エジプトのサダト大統領は、イスラエルを訪問しました。
 11月20日、サダト大統領は、イスラエルの国会で、歴史的平和呼びかけの演説を行ました。
 11月22日、PLOのアラファト議長は、シリアのアサド大統領と会談し、「サダトの陰謀」粉砕を呼びかける共同声明を発表しました。
 11月24日、リビアは、エジプトと国交を断絶しました。
 11月25日、フィリピン軍事法廷は、アキノ元上院議員・ブスカイノ新人民軍司令官・コルプス新人民軍幹部に対して、国家転覆罪などで銃殺刑を宣告しました。
 12月2日、アラブ5カ国は、トリポリ会議を開催し、エジプトと国交を断絶しました。
 12月5日、エジプトは、アラブ5カ国と国交を断絶しました。
 12月25日、イスラエルのベギン首相は、エジプトを訪問しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『イスラエルの歴史HP版』などを参考にしました。
イスラエル共和国・パレスチナ解放機構の誕生
 1964年10月、第二次大戦の敗戦国日本で、東京=オリンピック大会がありました。私が22歳の時でした。
 1972年9月、第二次大戦の敗戦国ドイツで、ミュンヘン=オリンピック大会がありました。私が30歳と時でした。
 9月5日、突如、パレスチナ解放機構の武装した「黒い9月」の8人は、イスラエルの選手村を襲撃し、イスラエル選手とコーチの2人を殺害し、残り9人を人質にしました。そして、イスラエルに収監されているパレスチナの234人の解放を要求しました。これを拒否したドイツ当局と銃撃戦となり、「黒い9月」の5人は射殺され、3人は逃走しました。イスラエル人の人質9人は全員が死亡しました。オリンピック史上初の不祥事でした。これを黒い9月事件といいます。
 この事件の後、TVや新聞・雑誌が、様々な情報を提供しました。私が一番印象に残ったのは、砂漠のテントで授業している小学校の先生の言葉でした。彼女は、緑の茂った写真を見せながら子供たちに「私たちの先祖は、このような緑の豊かな所で、平和に暮らしています。そこへユダヤ人がやってきて、私たちを砂漠に追いやり、豊かな土地を奪ったのです。あなた方の使命は、ユダヤ人を地中海に追い落とし、再び豊かな土地を取り戻すことです」と語っていました。
 彼らにとっては、ゲリラになり、イスラエル人を追放することが神の使命だと信じていることです。憎しみが憎しみを生みます。
 イスラエル空軍は、パレスチナゲリラの基地を空爆し、数百人のパレスチナ人を殺害しました。イスラエル政府は、秘密組織のモサドを結成し、黒い9月メンバーの暗殺を命じました。ベイルートのPLO支部でアラファト議長のいとこや幹部3人を暗殺しました。1979年には、アリ=ハッサン=サラメを車ごと爆破するという荒業で暗殺しました。その数は20人のなったといいます。
 戦前までのイスラエルの歴史は、別項で扱っています。ここでは、戦後の歴史を扱います。
 1947年4月、イギリスは、パレスチナの委任統治問題を国際連合に提案しました。パレスチナには、パレスチナ人130万人、ユダヤ人60万人が住んでいました。アラブ人とユダヤ人が混住していました。
  11月、国連総会は、米国の強い圧力の下に、賛成33・反対13・棄権10で、パレスチナ分割勧告案を可決しました。イギリスは棄権しました。この結果、エルサレムは、国際管理下に置かれましたが、人口33%・土地所有6%のユダヤ人は、パレスチナの土地56.5%を獲得しました。
 12月5日、アラブ諸国は、国連決議に反発し、アラブ解放軍を組織して、戦争準備に入りました。
 この段階での領土を見ると、エジプトのイスラエルと地中海に間にある地域がガザ地区で、アラブの領土です。イスラエルとヨルダンの間を流れている川がヨルダン川で、その西側をヨルダン川西岸地区で、アラブ人領土です。イエルサレムは国連管理地区です。
 イスラエルの北がレバノンで、イスラエルの東北がシリアです。つまり、南・東・北はアラブ人国家で、西が地中海ということになります。
 1948年2月、アラブ連盟加盟国は、カイロで、イスラエル国家樹立絶対阻止を決議しました。
 3月、英軍は、イギリスの委任統治を終え、パレスチナから撤退しました。ユダヤ人は、ユダヤ国民評議会を発足しました。
 5月14日、ユダヤ人は、テルアビブで、イスラエルの建国を宣言し、首相にデビッド=ベングリオンが就任しました。
 5月15日、エジプト・ヨルダン・シリア・レバノン・イラクのアラブ連盟5カ国連合軍は、パレスチナ奪還をめざして、イスラエルに宣戦布告しました。これを第一次中東戦争の勃発といいます。
 6月、国連の介入で、7月8日までの休戦協定が成立しました。
 7月9日、休戦明け、イスラエル軍の機甲部隊は、国境を越えて、エジプト軍を先制攻撃しました。
 7月18日、イスラエル軍は、イギリスの圧力を受けて、国境線まで撤退しました。
 10月、米・英の支援を受け、最新の武器を入手したイスラエル軍は、シナイ半島にあるネゲブ砂漠の戦闘で、優位となり、さらに、イスラエル軍は、ガラリア地方に進出しました。
 12月、国連総会は、パレスチナ難民の故郷帰還権を承認する決議194U号を採択しました。しかし、イスラエル、既にユダヤ難民40万人を受け入れているとして、受諾を拒否を拒否しました。
 1949年2月、停戦協定に調印しました。イスラエルは、旧パレスチナ地域のほとんどを確保しました。その結果、パレスチナ人の7割にあたる90万人が土地を追われ、難民化しました。
 5月、イスラエルは、国連に加盟しました。
 6月、トランスヨルダンは、ヨルダン川西岸地区とエルサレム旧市街(東エルサレム)を領有しました。
 7月、第一次中東戦争が終了しました。アラブ諸国は、政治・軍事の近代化に取り組み、エジプト軍部内に秘密結社自由将校団を結成しました。
 この段階でも領土を見ると、ガザ地区はエジプトが占領し、イエルサレム・ヨルダン川西岸地区はヨルダンが占領しました。
 1950年5月、イスラエルは、不在者財産没収法を制定し、戦争中に一度でも自分の居住地を離れたものの家屋や財産を没収することになりました。その結果、イスラエル占領地内の370カ村のうち300カ村・3500平方キロが没収法の対象となりました。
 1952年7月、エジプトのナセルら自由将校団は、クーデタでファルーク国王を退位させ、共和制を樹立ました。首相にナギブ中将、副首相にナセルが就任しました。
 1954年11月、ナセルは、エジプト国家元首に就任しました。
 1955年2月、イスラエル軍は、ガザを襲撃し、エジプト軍守備隊40人を殺害しました。
 11月、反共・反ソ連の軍事同盟として中東条約機構(METO)が発足しました。イギリス・トルコ・イラン・イラク・パキスタンが加盟し、アメリカがオブザーバーとなりました。
 1956年3月、ヨルダン王は、バグダッド条約加入推進派でアラブ軍団司令官のグラップ将軍を解任しました。
 7月、ナセルが、スエズ運河の国有化を宣言しました。
 8月03 イギリス・フランス・イスラエルは、スエズ運河地帯の占領を目的とした対エジプト作戦計画を策決定しました。
 10月29日、イスラエル軍は、カシム村で、外出禁止令に違反したとして、パレスチナ住民47人を射殺しました。これは第二次中東戦争を引き起こすための挑発行動と言われています。
 10月29日、イスラエル軍、エジプトの設定したティラン海峡封鎖線を突破し、シナイ半島に進撃しました。これを第二次中東戦争の勃発といいます。
 10月31日、英・仏両軍は、イスラエル軍を支援して、エジプト空軍基地を爆撃しました。英仏軍のスエズ運河上陸を怖れたナセルは、シナイ防衛部隊に運河正面への撤退を命じました。
 11月2日、国連緊急総会は、停戦決議を採択しました。アメリカは、イギリスの国連憲章違反を非難して、イギリス軍の撤退を要求しました。
 11月5日、イギリス軍空挺部隊は、スエズ運河防衛のためを口実に、ポートサイドに降下しました。
 11月5日、イギリス陸軍部隊もポートサイド上陸しました。イスラエル軍は、電撃的にガザとシナイ半島を占領しました。
 11月6日、エジプトと英・仏両国は、停戦決議を受諾し、第二次中東戦争が終了しました。エジプトは戦争には負けましたが、スエズ運河の国有化に成功しました。
 12月、英・仏軍が撤退を完了しました。
 1957年1月5日、アイゼンハワー大統領は、中東特別教書を提出して、国際共産主義の危険阻止のため、軍隊出動の権限・経済援助を要請しました。これをアイゼンハワー・ドクトリンといいます。
 1月9日、イギリスのイーデン首相は、スエズ運河作戦失敗の責任をとり辞職しました。
 1月22日、イスラエルは、シナイ半島から撤退しました。
 3月、イスラエルは、ガザからも撤退しました。
 1958年2月、エジプトはシリアと合併し、アラブ連合共和国が誕生しました。イラク王国・ヨルダン王国は、これに対抗して、アラブ連合を樹立しました。
 1959年10月、クエートで、パレスチナ人のゲリラ組織であるアル=ファタハが結成されました。指導者は、エルサレムの名門フセイン家の出身であるヤセル・アラファトです。後のPLOの議長です。
 1960年7月、イランは、イスラエルを承認しました。これに対して、アラブ連合は、イランと国交を断絶しました。
 1963年6月、イスラエルのベングリオン首相が辞任しました。
 1964年6月、ナセルの提案で、第一回パレスチナ国民会議が開催されました。そこで、パレスチナ民族解放機構(PLO)結成とパレスチナ憲法に準じるパレスチナ民族憲章が採択されました。パレスチナ民族憲章は、次のような内容です。
(1)パレスチナ全土を対象として、パレスチナ民主国家を創設する。
(2)アラブ人もユダヤ人も同等の権利をもって、パレスチナに住むことが許される。
(3)ただし住むことを許されるユダヤ人は、バルフォア宣言以前からパレスチナに住んでいた者に限られる。
*その結果、イスラエル共和国は完全に否定されます。
 1965年1月、アルファタハは。武装闘争を開始しました。この年のゲリラ活動は39回でした。
 5月、第一回パレスチナ国民会議の決議により、第一期パレスチナ民族解放機構(PLO)が創設されました。初代議長にアフマド=シュケイリ弁護士が就任しました。
 1966年2月、シリアで、バース党左派将校は、軍事クーデタをおこし、ソ連寄りの左派政権が誕生しました。
 11月、エジプトは、シリアと軍事協定に調印しました。
 1967年4月11日、ソ連で、ソ連国防相にグレチコ元帥が就任し、中東重視の外交戦略を表明しました。
 4月27日、ナセル大統領は、アンワル=サダトをソ連に派遣し、対イスラエル戦争への支援を要請しました。
 5月18日、アラブ連合軍は、シナイ半島に進駐しました。
 5月22日、アラブ連合は、チラン海峡のイスラエル海路を封鎖しました。この海路は、イスラエルのアカバ湾への出口エイラート港と紅海をつなぐもので、スエズ戦争の停戦時にイスラエルが獲得していたものです。
 5月23日、イスラエルで、予備役の動員令が出され、先制攻撃を決定しました。
 6月1日、イスラエルで、挙国一致内閣が成立し、国防相にダヤン、無任所相に右派のベギンが就任しました。
 6月1日、アメリカのマクナマラ国防長官は、ソ連との対抗上、イスラエルの先制攻撃を容認し、積極支援を表明しました。
 6月5日7時45分、イスラエル空軍のミラージュ戦闘機は、超低空でエジプト領内に侵入し、エジプトの戦闘機300機を爆破しました。イスラエル空軍は、シリア・ヨルダンの空軍基地を爆撃しました。これを第三次中東戦争の勃発といいます。
10  6月5日、アラブ諸国は、イスラエルに宣戦を布告しました。
 6月6日、イスラエル軍は、ガザを占領しました。アラブ連合は、スエズ運河を封鎖しました。
 6月6日、国連緊急安保理は、即時停戦を決議しました。アラブ諸国は、米・英と国交を断絶しました。
 6月7日、制空権を確保したイスラエル機甲部隊は、シナイ半島を制圧しました。
 6月7日、イスラエル軍は、東エルサレムの全域を確保しました。ヨルダンは、停戦を受諾しました。
 6月8日、アラブ連合は、停戦を受諾しました。
 6月8日、イスラエル軍は、ヨルダン川西岸全域を占領し、さらに、シリア領ゴラン高原に進出しました。
 6月9日、ナセル大統領は、敗戦の責任をとり辞意を表明しましたが、その後、撤回しました。
 6月10日、シリアは、イスラエルと停戦しました。第三次中東戦争は5日に始まって11日に終了したので、6日間戦争ともいいます。全パレスチナ人327万人の内の158万人がパレスチナ難民となりました。
 6月19日、アメリカのジョンソン大統領は、中東問題5原則を発表しました。(1)イスラエル国家生存権の承認(2)パレスチナ難民問題の解決(3)中東諸国の政治的独立と領土保全などでした。
 6月24日、ソ連のポドゴルヌイ議長は、アラブ連合を訪問し、軍事援助の増強と軍事顧問団の派遣で合意しました。
 6月28日、イスラエル軍は、エルサレム全市を占領しました。
 この段階でも領土を見ると、ガザ地区もイエルサレムもヨルダン川西岸地区も、イスラエルの占領地となっています。
11  7月、国連緊急総会は、イスラエルによるエルサレム併合を撤回する決議案を採択しました。
 10月、アラブ連合の艦隊は、ミサイルでイスラエル駆逐艦を撃沈しました。
 11月、国連安保理は、イギリスが提案した中東問題に関する決議第242号を採択しました。その内容は、(1)占領地からのイスラエルの撤退(2)イスラエルの生存権承認するというものです。しかし、アラブ側はこの決議を拒否しました。
 12月、マルクス・レーニン主義者のジョルジュ・ハバシュ議長は、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)を設立しました。
12  1968年3月21日、イスラエル国内で、子供を乗せたバスが、アルファタハの仕掛けた地雷に触れ大破しました。イスラエル軍は、ヨルダン川東岸にあるアルファタハ基地を襲撃しました。アルファタハのコマンド部隊は、ヨルダン正規軍と協力しイスラエル軍の攻撃を撃退しました。これをカラメの戦いといいます。こ
 7月、パレスチナ人民解放戦線は、ローマからテルアビブに向かうボーイング707型機がハイジャックし、アルジェリアに強制着陸させました。その後、パレスチナ人民解放戦線は、13機をハイジャックしています。
 9月、スエズ運河をはさんで、エジプトとイスラエルが砲撃戦を開始しました。エジプトは、ソ連製のミグ19を発射させ、イスラエルはアメリカ製のF4ファントムを発射させました。
 12月26日、アテネ空港で、イスラエル国営のエル・アル機が攻撃されました。
 12月27日、イスラエルは、報復として、ベイルートの国際空港を奇襲し、レバノン国営の中東航空機13機を爆破しました。
13  1969年2月4日、カイロで、第5回パレスチナ国民会議が開催され、アルファタハ・パレスチナ人民解放戦線などのゲリラ諸組織は、改組されたパレスチナ解放機構(PLO)に結集することで合意しました。最大組織であるアルファタハは、サイカ(シリア系パレスチナ解放組織)と連立して、多数派を形成しました。PLO議長にヤセル・アラファトが就任しました。アラファト議長の誕生です。
 2月28日、パレスチナ人民解放戦線は、チューリヒ空港で、イスラエル国営のエル・アル航空機を銃撃し、乗客8人を負傷させました。
 2月、パレスチナ人民解放戦線から、テロリズムを否定したパレスチナ解放民主戦線(PDFLP)が分離・独立しました。
 3月、スエズ運河戦線を視察中のアラブ合同軍のアブデル=マニム=リアド司令官は、イスラエルの襲撃を受け死亡しました。
 5月、スーダンで、クーデタがあり、大統領にナセル派のニメイリが就任しました。
 7月、国連緊急安保理は、イスラエル非難決議案を採択しました。イスラエルはこれを拒否しました。
 9月1日、カイロで、エジプト・シリア・ヨルダン・イラク・スーダン・アルジェリらは、「18カ月以内に戦争を始める」ことで合意しました。
 9月1日、リビアで、ナセル派若手将校がクーデタをおこし、イドリス国王を追放しました。そして、革命委員会議長にムアマル=カダフィ中尉が就任しました。
 9月9日、イスラエル軍は、紅海沿岸のエジプト領ザファラナに上陸しました。
 10月、パレスチナ=ゲリラは、レバノン政府軍と最初の武力衝突をしました。
 11月、カイロで、パレスチナ解放機構は、レバノン左派会談し、レバノン内部におけるPLOの自治・イスラエルに対する武装闘争などを合意しました。
 12月、アラブ14カ国首脳会議が開かれ、対イスラエル闘争援助をめぐり意見が対立し、共同声明を出せずに閉会しました。
14  1970年1月13日、イスラエル軍は、エジプト本土への爆撃を開始しました。
 1月22日、ナセル大統領は、ソ連を訪問しました。ソ連は、ミグ25戦闘機・SAM3対空ミサイルの配備と軍事要員の派遣を承諾しました。
 8月、アメリカのロジャーズ国務長官の調停を受け入れ、この戦いが終了しました。
 9月12日、パレスチナ人民解放戦線は、スイス航空・トランスワールド航空(TWA)・イギリス海外航空(BOAC)の旅客機3機を乗っ取り、ヨルダンの空港に強制着陸させて、機体を爆破しました。ヨルダンのフセイン国王は、この事件をきっかけに、パレスチナ・ゲリラの追放を決断しました。
 9月16日、ヨルダン正規軍は、パレスチナ解放機構(PLO)への攻撃を開始しました。
 9月27日、ヨルダン内戦は、カイロ協定により停戦が成立しました。ゲリラは、死者5000人を出して、アンマンから撤退し、PLO本拠は、レバノンへ移動しました。
 9月28日、ナセルは、大動脈瘤破裂で、急死しました。後継大統領にサダトが就任しました。
 11月、シリアで、クーデタがあり、ヤジット政権が崩壊しました。後任に親西欧保守派のアサドが就任しました。
15  1971年1月、エジプト・シリア・リビアは、アラブ連邦共和国を樹立し、イランとの国交を回復しました。
 3月、シリアのアサド首相は、大統領に就任して、権力を集中しました。
 4月、エジプト・シリア・リビアは、統合条約に調印しましたが、スーダンは参加を保留しました。エジプトのサダトは、統合条約に反対するアリ=サブリ副大統領を排除しました。
 5月、サダト大統領は、政府部内のソ連派幹部を一斉に逮捕しました。
 7月18日、ヨルダンのフセイン王は、アンマン協定・カイロ協定を破棄し、パレスチナ・ゲリラの国外退去を要求しました。
 7月19日、スーダンで、革命評議会左派によるクーデタが失敗し、ニメイリ大統領は、政権に復帰しました。
16  1972年5月8日、パレスチナ・ゲリラは、ブリュッセル発イスラエル行きのベルギー旅客機をハイジャックし、服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求しました。イスラエル特殊部隊のサエレトが機内に突入して、男性ゲリラ2人を射殺し、女性ゲリラ2人を逮捕しました。これ以降、ハイジャックへの対応が硬化しました。
 5月30日、ロッド空港で、日本赤軍兵士3人は、無差別銃撃を行い、26人を殺害しました。
 6月日、PLOは、レバノン政府・南部レバノンのアルクブ地区を訓連基地として使用することで合意しました。
 7月、サダト大統領は、ソ連軍事顧問団2万人の任務を凍結し、引き揚げを要求しました。
 9月5日、アルファタハとパレスチナ人民解放戦線(PFLP)の合同チームである黒い9月は、ミュンヘン・オリンピック大会に参加したイスラエルの選手11人を人質にとり立てこもり、服役中のゲリラの釈放を要求しました。西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり、ゲリラ5人、人質9人が死亡しました。
 9月、イスラエル軍3000人は、その報復に、レバノン南部に侵入し、パレスチナ難民キャンプを襲撃して数百人を殺害しました。
 10月、黒い九月は、ダマスカス行きのルフトハンザ機をハイジャックしました。西ドイツ政府は、人質と引き換えにミュンヘン虐殺事件で逮捕された3人のテロリストを釈放しました。
17  1973年2月、イスラエル軍空軍機は、リビア航空機を撃墜し、乗客・乗員104人が死亡しました。
 4月、イスラエル特殊部隊は、ベイルートのPLO本部を奇襲し、黒い9月事件に関与していたPLO幹部3人を殺害しました。
 7月、イスラエルの秘密組織であるモサドは、ノルウエーで、PLO幹部「赤い王子」の暗殺に失敗し、国際的な非難を浴びました。
 10月6日、失地回復を狙うエジプトは、戦車1000台・兵力10万人を動員して、スエズ運河を渡河し、イスラエル側の防衛線バーレブ=ラインを突破しました。
 10月6日、エジプトの攻撃に合わせて、シリアの歩兵部隊は、ソ連製対戦車ミサイルを動員して、イスラエル戦車550台を破壊しました。地対空ミサイルは、イスラエル機50機を撃墜しました。これを第四次中東戦争の勃発といいます。10月に始まったので10月戦争ともいいます。アラブでは、10月がイスラムで断食月ラマダンにあたることから、ラマダン戦争ともいいます。イスラエルでは、ユダヤ教の安息日ヨム=キップルに奇襲攻撃が開始されたことからヨム=キップル戦争ともいいます。
 10月11日、イスラエル軍は、国境を越えシリア領内深く侵入し、ダマスカスまで30キロの地点まで進出しました。
 10月16日、シャロン将軍率いるイスラエル軍は、スエズ運河を越えてエジプト領内に侵入し、エジプト第3軍はシナイ半島に取り残されました。
 10月17日、アラブ石油輸出国機構10カ国の石油相は、緊急会議で、石油戦略を可決しました。その内容は、「国際社会が占領地域の放棄をイスラエルに強いるまでの間、石油生産の5%以上を毎月削減する」とというものです。これをオイルショックといいます。
 10月22日、国連安保理は、イスラエルに有利な米ソ共同停戦案を採択しました。
 10月23日、イスラエル軍は、国連安保理決議を無視し、エジプト軍への攻撃を続行しました。それに対して、ソ連は直接介入の構えを見せ、アメリカはイスラエルに対して休戦を要求しました。
 10月25日、第四次中東戦争の停戦が成立しました。この戦争でイスラエルの戦死2688人・負傷8800人・捕虜314人、アラブの捕虜8738人でした。
18  1974年2月、アルファタハとパレスチナ解放民主戦線(PDFLP)は、西ヨルダン地区とガザにミニ国家を作る計画を発表しました。パレスチナ人民解放戦線(PFLP)は。この計画に反対して、イラク派バース党と拒否戦線を結成しました。元PLO幹部のアブ・ニダルは、PLO幹部に対する暗殺を企図しました。
 6月、第12回パレスチナ国民評議会は、西ヨルダン地区とガザに、民族的権威の設立などを含む10項目を採択しました。
 8月、ニクソン大統領はは、ウォータゲート事件で辞任し、副大統領のフォードが大統領になりました。
 10月、ラバトで、アラブ首脳会議が開かれ、PLOをパレスチナの唯一の代表として承認しました。PLOは、世界各地に100カ所以上の代表部や事務所を開設することになりました。
 11月、国連は、パレスチナ人の民族自決権・パレスチナ国家の樹立の権利を承認し、オブザーバーとして国連に招請しました。アラファト議長は、がオリーブの枝をかざして、国連総会議場で演説しました。
19  1975年2月、レバノン南部のサイダ市で、マロン派のシャムーン元大統領は、漁民の権利を取り上げましや。反対デモに参加していたサイダ市長は、射殺されました。
 4月13日、レバノンで、マロン派のキリスト教徒であるファランヘ党4人が射殺されました。
 4月13日、ファランヘ党は、これをPLOの仕業として、パレスチナ人の乗せたバスを襲撃し、女性や子供ら27人全員を射殺しました。これをレバノン内戦の勃発といいます。
 9月、アメリカのキッシンジャーの調停により、シナイ協定が締結され、イスラエル軍は、スエズ運河から15キロ東に撤退しました。
20  1976年1月、マロン派でシャムーン元大統領派の民兵タイガーは、パレスチナ難民キャンプタルザータル3万人を包囲しました。
 1月20日、PLOの伸張を恐れるシリアは、レバノン内戦に介入しました。
 3月11日、シリアの介入を嫌うレバノン国軍のアハダブ准将は、クーデタをおこしました。
 5月、レバノンで、停戦が成立しました。
 6月、PLOは、シリアに対して、レバノンへの介入停止を要求しました。逆に、シリア軍は、パレスチナ難民キャンプを攻撃しました。
 7月、モサドの特殊部隊は、大型輸送機3機をエンテベ空港に着陸させ、警備にあたっていたウガンダ兵45人・ハイジャック犯七人射殺しました。
 8月12日、タルザータルのPLOキャンプが襲撃され、4000人が殺害されました。
 8月30 レバノンのファランヘ党は、キリスト教民兵組織と合同し、レバノン=フォースを設立し、司令官にファランヘ党のジェマイエルが就任しました。シリア軍は、反PLOの立場から、レバノン=フォースと提携しました。
 9月、イスラエル軍は、レバノンのファランヘ党と連携しました。
 10月12日、アメリカの意を受けたシリアのアサド政権は、レバノン進駐し、崩壊寸前のファランヘ党を支援しました。シリア軍は、ベイルート郊外のタールザータル難民キャンプを襲撃し、パレスチナ人500人が生き埋めにしました。
 10月21日、シリア軍は、ベイルートを制圧して、レバノン停戦協定が締結されました。
21  1977年3月11日、アルファタハの決死隊は、イスラエルの海岸に上陸し、ゲリラ活動により100人を殺害しました。これをディル=カシン作戦といいます。
 3月16日、国連安保理は、イスラエルに撤兵を要求し、暫定国連軍の派遣を決定しました。
 6月、イスラエルで総選挙があり、右派連合のリクード党が政権を獲得しました。首相にベギンが就任しました。ベギン首相は、ガザ・レバノン西岸地区を領土とする大イスラエル主義を主張しました。また(1)67年の国境線には戻らない(2)PLOは認めない(3)パレスチナ国家は許さないという「3つのノー」の立場を表明し、パレスチナとの対応は武力主義を採用しました。
 11月、エジプトのサダト大統領は、エルサレムを電撃的に訪問し、クセネトで、アラブとの和解をよびかけました。
 12月、アルジェリア・リビア・シリア・南イエメン・イラクは、イスラエルとの和解に反対して、トリポリで、会談しました。

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