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エピソード

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激動する世界U(1978年〜1982年、オリンピック=モスクワ大会ボイコット)
 ここでは、1978年から1982年までを扱います。
 文化やスポーツが華やかであっても、政治には勝てないという経験をしました。
 最近(2006年7月)、北海道の夕張市が1990年から主催していた「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」を中止しました。財政再建団体への移行を決定したというのが主な理由です。この映画祭には緒方拳・吉永小百合さんらが出席している有名な祭りだけに惜しまれています。
 1980年、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、西側陣営はその報復として、オリンピック=モスクワ大会をボイコットしました。絶好調だったマラソンの瀬古選手らがボイコットによって、不運の選手となりました。
 1978(昭和53)年1月3日、ベトナム・カンボジア国境紛争がこりました。
 1月7日、イランのコムで、反政府デモがあり、イスラム革命が始まりました。
 3月12日、フランス総選挙で、左翼連合が敗北しました。
 3月16日、イタリアで、モロ前首相が誘拐されました。
 4月7日、米大統領カーターは、中性子爆弾製造開始延期を発表しました。
 4月27日、アフガニスタンで、軍事クーデターがあり、人民民主党政権が誕生しました。
 5月9日、モロ前首相が遺体で発見されました。
 5月23日、国連軍縮特別総会が始まりました。
 6月、ベトナムがカンボジアに侵攻しました。
 7月16日、西ドイツのボンで、先進国首脳会議があり、日本は、7%の経済成長を公約しました。
 9月5日、米・エジプト・イスラエル首脳は、キャンプデービッドで会談しました。
 9月8日、イランのテヘランで、王制打倒のデモがあり、イラン政府は、戒厳令を布告しました。
 9月22日、ニカラグアで、サンディニスタ民族解放戦線が結成されました。
 10月16日、ローマ法王にポーランド人のヨハネ=パウロ2世が就任しました。
 12月3日、カンボジア救国民族統一戦線が結成されました。
 12月15日、米・中は、国交正常化を発表しました。
 1979(昭和54)年1月1日、アメリカは、中国と国交を回復し、台湾と国交を断絶しました。
 1月7日、カンボジアで、ポルポト政権が崩壊しました。
 1月11日、ベトナム支援のへン=サムリン政権が誕生しました。
 1月16日、イランで、パーレビ王制が崩壊しました。
 2月11日、ホメイニ師指導のもとイラン革命が成立しました。
 2月17日、中国軍は、ベトナムに侵攻しました。
 3月26日、イスラエル・エジプトは、平和条約に調印しました。
 3月28日、アメリカで、スリーマイル島原発放射能漏れ事故が発生しました。
 5月4日、イギリスの総選挙で、保守党が圧勝し、首相にサッチャー女史が就任しました。
 6月18日、米・ソは、SALTU(第2次戦略兵器制限条約)に調印しました。
 7月2日、西ドイツは、ナチスを含む殺人罪の時効廃止を議決しました。
 7月19日、ニカラグアで、ソモサ独裁政権が崩壊し、解放戦線が臨時政府を樹立しました。
 10月16日、韓国のプサンで、反政府暴動がおこりました。
 10月26日、韓国の朴正熙大統領が暗殺されました。
 11月4日、イランの学生は、米大使館を占拠して、米のスパイ行動を非難しました。
 12月12日、韓国で、粛軍クーデターが起こりました。
 12月27日、ソ連軍は、アフガニスタンへ侵攻しました。
 1980(昭和55)年1月4日、米のカーター大統領は、ソ連のアフガニスタン介入の報復措置として、穀物輸出の削減などを発表しました。
 1月20日、カーター大統領は、モスクワ五輪のボイコットを提唱しました。
 1月26日、イスラエル・エジプトは、国交を樹立しました。
 2月29日、中国共産党総書記に胡躍邦が就任し、劉少奇の名誉を回復しました。
 4月17日、中国は、IMFに加盟しました。
 4月25日、米は、駐イラン大使館人質救出作戦に失敗しました。
 5月4日、ユーゴスラビアで、チトー大統領が死亡しました。
 5月18日、韓国全土に非常戒厳令が布告されました。
 5月21日、韓国光州市のデモ隊が、全市を制圧しました。これを光州事件といいます。
 5月27日、韓国で、戒厳軍は、光州事件を鎮圧しました。
 6月22日、ベネチアで、先進国首脳会議が開かれ、アフガニスタンの中立化構想が提起されました。
 7月19日、第22回オリンピック=モスクワ大会が開幕しましたが、日・米・西独・中国などは不参加でした。
 8月14日、ポーランドのグダニスタで、造船労働者がストを行いました。
 9月22日、ポーランドで、自主労組「連帯」が結成されました。
 8月27日、韓国で、大統領に全斗換が就任しました。
 9月9日、イラン・イラク戦争が勃発しました。
 11月4日、米大統領にレーガンが当選しました。
 1981(昭和56)年1月10日、エルサルバドルで、内戦が激化しました。
 1月20日、イランで、米大使館の人質が444日ぶりに解放されました。
 1月25日、中国の四人組裁判で、故毛沢東夫人の江青らに死刑判決が下されました。
 2月10日、ポーランドで、首相にヤルゼルスキ国防相が就任しました。
 2月19日、米下院で、日本製自動車の輸入制限法案が提出されました。
 3月23日、EC首脳会議は、対日貿易摩擦を討議しました。
 5月10日、フランスの大統領選挙で、社会党のミッテランが当選しました。
 6月22日、イランのバニサドル大統領が解任されました。
 6月27日、中国共産党は、文化大革命を批判的に総括しました。
 7月20日、オタワで、先進国首脳会が議開催され、ソ連の脅威をめぐって論議しました。
 8月8日、米のレーガン大統領は、中性子爆弾の製造再開を許可。
 9月30日、IOC総会は、52対27票で、「1988年オリンピック開催地をソウルとする」と決定しました。立候補の名古屋市は落選しました。
 10月6日、エジプトのサダト大統領が暗殺され、後任にムバラクが就任しました。
 10月22日、メキシコのカンタンで、南北サミットが開催されました。
 12月13日、ポーランドで、戒厳令が施行され、「連帯」が弾圧、ワレサが軟禁されました。
 1982(昭和57)年1月11日、NATO外相会議は、ポーランド問題で対ソ制裁を宣言しました。
 2月5日、フランスで、主要企業・銀行国有化法が成立しました。
 4月9日、西ドイツは、反核大行進を行い、欧米諸都市で反核運動が盛上がりました。
 4月25日、イスラエルは、シナイ半島をエジプトに返還しました。
 5月2日、アルゼンチン軍は、フォークランド(マルビナス)諸島を占領しました。
 5月20日、英軍は、フォークランドに上陸していたアルゼンチン占領軍を攻撃しました。
 6月7日、第2回国連軍縮特別総会が開催され、反核運動は頂点に達っしました。
 6月14日、アルゼンチン軍が降伏して、イギリスは、フォークランドを奪回しました。
 6月16日、イスラエルは、ベイルートを包囲しました。PLOが西ベイルートを退去するということで、合意が成立しました。
 9月1日、イスラエルは、ベイルートから退去しました。
 9月16日、イスラエル軍は、パレスチナ難民キャンプを襲撃しました。
 11月10日、ソ連のブレジネフ書記長が死亡し、後任にアンドロポフ元KGB長官が就任しました。
 11月12日、ポーランドで、ワレサが釈放されました。
 12月14日、アメリカの上院外交委員会は、日本に対する防衛力増強決議案を可決しました。
 12月23日、金大中が米国へ出国しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
参加することに意義のあるオリンピック精神
 近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で、1896年にギリシアのアテネで始まりました。五輪のマークは、世界の5大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ)と自然の5現象(火に赤・水の青・木の緑・土の黒・砂の黄)などを象徴しています。
 オリンピック精神とは「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することである」。戦争中であっても、紛争中であっても、オリンピックに参加することで、平和のうちに戦うことの意味を知ってもらおうという崇高な気持ちです。
 日本は、アメリカに同調して、モスクワ大会のボイコットを政治的に決定しました。オリンピック精神を踏みにじる決定でした。レスリングの高田裕司選手が泣きながら、参加を訴えているのが印象に残っています。
 高田選手は、1954年生まれですから、モスクワ大会は、26歳で最も油の乗った時だということが分ります。22歳の時のモントリオール大会で金メダルをとり、4年後のモスクワ大会に照準を合わせて練習をしてきました。私も選手として出場したり、指導者として参加したローカル大会でも、ピークに自分や選手を持っていくことは大変でした。ましては、日本代表になるには、並大抵の努力ではありません。そのことが高田選手の涙でした。
 ボイコットは覆らず、30歳の時のロサンゼルス大会では、銅メダルに終わりました。しかし、ソ連・東欧勢が不参加のメダルには特に感慨がないようでした。今は、山梨学院大学の法学部教授として活躍されています。
 次に瀬古利彦選手です。瀬古選手は、1956年生まれですから、モスクワ大会は24歳で、絶好調で迎える予定でした。集団の中で好位置を保ちながら、決してトップに出ず、ライバルが疲れるのを確認して、優勝のテープを切る作戦から、「セコいなー」といわれましたが、私は、勝ことに徹したその根性に敬服していました。
 マラソンに偉大な足跡を残した瀬古選手のオリンピックは、モスクワ大会と28歳で迎えたロサンゼルス大会、32歳のソウル大会でした。モスクワ大会はボイコットで参加できませんでした。しかし、1980年7月のモスクワ大会で優勝した東ドイツのチェルピンスキーを12月の福岡国際マラソンで破っていますから、その実力は大したものでした。
 瀬古選手は、モスクワ大会までに2回優勝し、ロサンゼルス大会までに4回優勝しましたが、ソ連・東欧勢が不参加にもかかわらず、本番では14位と不本意な結果に終わりました。ソウル大会までに4回優勝しましたが、本番では9位でした。
 レスリングの太田章選手は、1957年の生まれですから、モスクワ大会で23歳でした。大田選手は、自らのHPで「卒業論文をわざと提出せず、“オリンピック留年”を選択して。そこまで懸けて、自分の手にいれたモスクワ五輪の代表が結局パッと泡と消えてしまったわけですから。ショックでしたね」と書いています。
 27歳の時のロサンゼルス大会で銀メダル、31歳の時のソウル大会でも銀メダルを獲得しています。
 柔道の山下泰裕選手も1957年生まれですから、モスクワ大会で23歳を迎えました。1977年から1985年に引退するまで203連勝したり、日本柔道選手権大会では9連覇の偉業を達成しています。TVで見ていても天下無敵の史上最強の柔道選手でした。
 モスクワ大会はボイコットで参加できませんでした。27歳の時のロサンゼルス大会では、準決勝で右足を傷めた山下選手は、決勝でエジプトのモハメド=ラシュワン選手と対戦しました。ラシュワン選手は山下選手の右足を攻撃せず、フェアプレーに徹しました。その結果、山下選手は、優勝して涙を流しました。この涙にはスポーツ選手の全てを感じました。
 スピードスケートの橋本聖子選手は、1964年生まれです。24歳の時の1988年にカルガリー冬季オリンピックにスピードスケート選手として出場し、同じ年のソウルオリンピックに自転車競技の選手として出場しました。同じ年の冬・夏のオリンピックに出場した選手は日本人初ということで話題になりました。
 橋本選手は、自転車一筋でオリンピックを目指していた選手を押しのけて、代表枠を獲得した時「申し訳ありません」とお詫びの会見をしました。その後、橋本選手の特集がTVでありました。普段の練習風景でした。長くて急な階段を何回も何回も限界を極める練習をしていました。プロ野球の選手が挑戦しましたが、2〜3回でダウンしました。瞬発力を必要とするスピードスケートと自転車競技の類似性を知りました。
 いつだったか、どの種目だったかは記憶にありませんが、素人と変わらないリポーターが「凄い天分を発揮されて金メダルをおとりになりましたね」と問うと、「いえいえ努力が9割で、天分は1割です」と言い返していました。オリンピックに優勝する選手は、精神力の限界を極めた人々しか分らないので、有森裕子選手の「自分をほめてやりたい」という気持ちなのでしょう。
 そんな選手を泣かせ、激怒させたのがモスクワ大会のボイコットでした。次の表はモスクワ大会に出席した資本主義国です。かなりいます。オリンピック精神にのっとり行動した国々と言えます。
モスクワ大会に参加した資本主義国とメダル合計数(金メダルの多い順に配列)
イタリア フランス イギリス スウェーデン フィンランド オーストラリア デンマーク スイス
15 14 21 12 13
スペイン オーストリア ギリシャ ベルギー インド オランダ アイルランド レバノン
 ではどうして、日本はイギリス・フランスと同じような行動が取れなかったのでしょうか。
 1979年12月27日、ソ連軍は、アフガニスタンへ侵攻しました。
 1980年1月20日、カーター大統領は、モスクワ五輪のボイコットを提唱しました。
 4月25日、大平正芳内閣は、最終方針として、「モスクワ大会に選手団派遣することは望ましくない」との見解を、日本オリンピック委員会(JOC)に通告しました。選手の中でも意見が分かれました。高田選手・山下選手・瀬古選手らは涙で参加を訴えました。ある柔道の選手は「自分も五輪に出たい、けど政府がだめと言っていることに国民は従わなければだめなんです」と言ったりしています。
 5月6日、大平内閣は、「選手団派遣の国庫補助金6100万円カット・日本自転車振興会補助金9600万円カット・自衛隊員など国家公務員の派遣中止」を発表しました。
 5月24日、JOC本部では、不参加30票・参加13票で、日本のボイコットが正式に決定しました。この時、不参加に投票したのは次の人々です。競技団体委員から安田誠克(陸上競技)・長沼健(サッカー)・伊黒正二(スキー)・広瀬喜久男(漕艇)・上田宗良(ホッケー)・永松英吉(ボクシング)・古口良治(体操)・松井聰(バスケットボール)・山田正彦(スケート)・荒川清美(ハンドボール)・高杉耕治(馬術)・松本芳三(柔道)・佐野雅之(フェンシング)・安斉実(ライフル射撃)・藤井舜次(近代五種)・藤木宏清(カヌー)・伴七三雄(アーチェリー)・谷口庄太郎(ボブスレー)の18人と、学識経験委員から青木半治・日体協専務理事の飯沢重一・岩田幸彰・牛場信彦・日本体育協会会長の河野謙三・近藤天・田島直人・帖佐寛章・西田修平・廣堅太郎・古橋廣之進・山口久太の12人で、合計30人になります。 
 参加に投票した人は、バレーボールの松平康隆氏、レスリングの福田富昭氏、IOC副会長清川正二氏らでした。松平氏は、後に、政府の圧力は「本当に凄まじかった」と語っています。
 JOCから認定された225人の選手・役員の気持ちはどんなものだったのでしょうか。
 この結果、ローマ大会から4連覇していた男子体操の連覇がなくなりました。
 日本体育協会会長に就任した森喜朗前首相は、「政治が圧力をかけたのではなく、競技団体が自ら判断したものと理解している」と記者会見で語りました。

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