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エピソード

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国内問題T(1972年〜1974年、金大中事件)
 ここでは、1972年から1974年までを扱います。
 この時代は、私の結婚、長男の誕生など、個人としても起伏のある時代でした。ロッキード事件やオイルショックは別な項で扱うとして、ここでは、金大中事件を扱います。
 1970(昭和45)年1月14日、@63第三次佐藤栄作内閣が誕生しました。
 1972(昭和47)年1月3日、日米繊維協定が調印され、対米輸出が制限されました。
 1月7日、日米首脳会談で、「沖縄返還を5月15日とする」と発表されました。
 3月21日、自衛隊航空部隊は、宇都宮から東京立川基地に抜打ち的に移駐しました。
 3月8日、東京都知事・立川市長は、自衛隊航空部隊の立川移駐の中止を要求しました。
 3月27日、通産省は、PCBの生産・使用の禁止を通達しました。
 3月27日、社会党の横路孝弘は、衆議院で、沖縄返還協定の秘密文書を暴露し、軍用地補償費を日本が肩代りする密約を発表しました。
 4月4日、警視庁は、公電漏洩容疑で、外務省事務官と毎日新聞記者を逮捕しました。その結果、国民の知る権利が争われ、両者とも有罪判決をうけました。
 4月24日、過激派対策対策として、火炎びん使用等処罰法が公布されました。
 5月15日、沖縄の施政権が返還され、沖縄県が発足しました。恩赦で、すべての罰金刑650万人が復権しました。その内、選挙違反者は3万8000人がその恩恵を受けました。他に、特別恩赦2174人が復権しました。
 6月11日、田中角栄通産相の、『日本列島改造論』を発表し、それがベストセラーとなって、地価暴騰の引金となりました。
 6月17日、佐藤栄作首相が引退を表明しました。田中角栄・福田槌夫・大平正芳・三木武夫が自民党総裁選に出馬を表明しました。これを三角大福戦争といいます。
 6月25日、沖縄県知事・議員選挙が行われ、、県知事に革新の屋良朝市、県議に反自民が過半数当選しました。
 7月5日、自民党大会は、決戦投票で、福田赳夫を破った田中角栄が当選し、総裁に就任しました。
 7月7日、@64第一次田中角栄内閣が誕生しました。外相に大平正芳、蔵相に植木庚子郎、文相に稲葉修、通産相に中曽根康弘、労相に田村元、建設相に木村武雄、経済企画庁長官に有田喜一、防衛庁長官増原恵吉、国務大臣に三木武夫、官房長官に二階堂進らが就任しました。
 8月5日、社会党・労働組合などは、神奈川県相模補給廠のベトナム向け戦車輸送を座り込みで阻止しました。
 8月7日、田中角栄首相の私的諮問機関である日本列島改造問題懇談会が初会合をもちました。
 8月31日、ハワイで、田中首相は、ニクソン大統領と日米首脳会談を行い、ニクソンは、トライスター導入を希望しました。これがロッキード事件の複線となりました。
 9月14日、田中内閣は、青森県むつ小川原開発計画を了承しました。これを日本列島改造の最初の計画といいます。
 9月25日、田中首相は、突如、中国を訪問しました。
 9月29日、田中首相・大平外相と周恩来首相・姫鵬飛外交部長は、日中共同声明に調印し、日中国交を樹立しました。大平外相は、「1952年に締結した日台条約は失効する」と表明しました。
 10月3日、中央公害対策審議会は、米国マスキー法に準じた自動車排ガス規制を答申しました。
 10月5日、自動車排ガス規制が告示されました。
 10月9日、田中内閣は、総額4兆6300億円の第4次防衛力整備計画を決定しました。野党は、専守防衛を逸脱していると批判しました。
 10月11日、本田技研は、規制値達成のCVCCエンジンを公開しました。
 11月16日、田中内閣は、横須賀の米空母ミッドウェーの母港化を承認しました。
 11月24日、大蔵省は、渡航外貨の持出し限度を撤廃しました。
 12月10日、@第33回衆議院議員総選挙が行われ、自民党271人、社会党118人、共産党38人、公明党29人、民社党19人、無所属・諸派16人が当選しました。共産党が躍進、社会党が復調、自・公・民が議席数を減らしました。
 12月22日、@65第二次田中角栄内閣が誕生しました。法相に田中伊三次、外相に大平正芳、蔵相に愛知揆一、文相に奥野誠亮、厚相に斎藤邦吉、農相に桜内義雄、通産相に中曽根康弘、建設相に金丸信、自治相に江崎真澄、官房長官に二階堂進、経済企画庁長官に小坂善太郎、行政管理庁長官に福田赳夫、防衛庁長官に増原恵吉、環境庁長官に三木武夫らが就任しました。
 1973(昭和48)年2月10日、東京外国為替市場は、ドル売り殺到で閉鎖されました。
 2月14日、日本は、変動相場制に移行しました。
 3月27日、田中内閣は、新国土総合開発法案を決定しましたが、審議未了となりました。
 4月2日、建設省は、1月1日現在の地価を、「前年比30.9%の急騰」と発表しました。
 4月10日、田中首相は、小選挙区制採用を表明しました。
 4月24日、全野党は、小選挙区制反対の院内共闘を決定しました。
 5月11日、野党は、国会審議全面拒否しました。
 5月16日、田中内閣は、小選挙区制法案の国会提出を断念しました。
 5月29日、防衛庁長官の増原意吉は、内奏の際の防衛問題に関する天皇の発言を公表し、責任を問われて、辞任しました。後任に山中貞則が就任しました。
 6月22日、自民党は、衆議院委員会で、筑波大学法・防衛庁設置法・自衛隊法改正を強行採決しました。自衛隊法改正は、自衛隊の沖縄配備する内容でした。
 7月17日、中川一郎・石原慎太郎ら自民党若手タカ派議員31人は、青嵐会を結成し、代表に渡辺美智雄が就任しました。参加した全員は、趣意書に血判を押すという物々しさでした。
 8月8日、韓国新民党の元大統領候補で、韓国民主化運動のリーダーである金大中は、東京のホテルグランドパレスから、韓国秘密警察(KCIA)に拉致されました。これえを金大中事件といいます。
 8月13日、金大中は、ソウル市内の自宅に戻っていることが確認されました。
 9月5日、田中内閣は、金大中誘拐の容疑で、韓国大使館の金東雲1等書記官に対して、出頭を要請しました
 9月6日、韓国政府は、金東雲1等書記官の出頭を要請を拒否しました。その結果、日本国内で、韓国政府への批判高まりました。
 9月7日、札幌地裁は、長沼ナイキ基地訴訟で、自衛隊を違憲と判決しました。これを長沼訴訟といいます。
 10月5日、アメリカ海軍の空母ミッドゥェー号は、横須賀に入港しました。
 10月23日、エクソン・シェル両社は、原油価格の30%引上げを通告しました。
 10月24日、他のメジャーも値上げに追随しました。
 10月25日、エクノンなど石油供給5社は、10%の供給削減を通告しました。これを石油ショックとかオイルショックといいます。
 10月28日、神戸市長選挙で、宮崎辰雄革新市長が当選し、6大都市すべてが革新市長にとなりました。
 11月1日、日韓両政府は、「金大中の原状回復はせず」自宅に軟禁状態とする」という金大中事件の政治的決着が図られました。
 11月16日、田中内閣は、石油大口需要産業への10%供給削減など石油緊急対策要綱を決定しました。
 11月25日、田中改造内閣が発足しました。蔵相に福田赳夫、厚相に福永健司、農相に倉石忠雄、郵政相に原田憲、自治相に町村金五、総理府総務長官に小坂徳太郎、行政管理庁長官に保利茂らが就任しました。蔵相の福田剋夫は、積極財政から引締めへの転換を表明しました。
 11月27日、公正取引委員会は、石油連盟と日石など13社を独禁法違反容疑で強制捜査しました。
 12月10日、副総理の三木武夫は、石油危機打開の政府特使として中東8か国を訪問しました。
 12月22日、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法が公布されました。
 12月25日、OAPECは、日本を友好国として、必要量の石油供給を決定しました。
 1974(昭和49)年1月7日、田中首相は、東南アジアを歴訪しました
 1月9日、バンコクで、反日デモに遭遇しました。
 1月15日、ジャカルタで、反日暴動に遭遇しました。これらは、日本の利己的な経済進出への反感が爆発したといわれています。これをエコノミック=アニマルと評されました。
 2月25日、衆議院予算委員会は、物価集中審議で、石油便乗値上げ・商社の悪徳商法を追及しました。
 3月30日、企業のインフレ便乗利益を吸収するため、会社臨時特別税法を公布して、特別税612億円を課しました。
 4月、春闘の賃上げ平均は2万8981円で、32.9%増でした。
 5月24日、経団連会長に土光敏夫が就任しました。
 5月25日、自民党は、衆議院で、靖国神社法案を単独可決しましたが、参議院で廃案となりました。
 6月26日、国土庁が設置され、初代長官に西村英一が就任しました。
 7月7日、第10回参議院選挙が行われ、自民党62人、社会党28人、公明党14人、共産党13人、民社党5人、無所属・諸派8人が当選しました。7議席差で与野党が伯仲しました。市川房枝が復活当選したり、企業ぐるみ選挙が問題化しました。
 7月12日、副総理で環境庁長官の三木武夫は、田中首相の政治姿勢を批判して、辞任しました。
 7月16日、蔵相の福田剋夫・行政管理庁長官の保利茂も辞任しました。
 7月16日、外相に木村俊夫、蔵相に大平正芳、行政管理庁長官に細田吉蔵、環境庁長官に毛利 松平が就任しました。
 7月29日、糸山英太郎の選対事務長が逮捕され、その結果、検挙1287人・逮捕142人という空前の選挙違反となりました。
 8月12日、経団連は、政治資金の企業割当てを廃止しました。
 9月10日、アメリカのラロック退役海軍少将は、米議会で、日本への核持ち込みを証言しました。
 9月13日、産業構造審議会は、「わが国の産業構造を知識集約型産業とする」ことを提唱しました。
 10月7日、野党は、米艦の寄港拒否を要求しました。
 10月8日、前首相の佐藤栄作は、ノーベル平和賞受賞が決定しました。
 10月、繊維不況が深刻化して、東洋紡・鐘紡・ユニチカなどが合理化・工場閉鎖を強いられました。
 10月、立花隆は、『田中角栄研究−その金脈と人脈』』を「文藝春秋」11月号に掲載しました。その結果、田中金権への批判広まり、参議院大蔵委員会でも紛糾しました。
10  11月11日、田中角栄首相は、内閣を改造しました。厚相に福永健司、建設相に小沢辰男、自治相に福田一、官房長官に竹下登、経済企画庁長官に倉成正、防衛庁長官に宇野宗佑らが就任しました。これは、田中・大平・中曽根の主流3派体制内閣ともいえます。
 11月5日、日経連は、春闘賃上げ率抑制のガイドラインを発表しました。
 11月18日、米のフォーード大統領が来日しました。これはアメリカ大統領としては初来日です。
 11月26日、田中角栄首相は、辞意表明しました。その結果、福田赳夫・大平正芳の後継争いとなりました。
 12月4日、自民党両院議員総会は、副総裁の椎名悦三郎の裁定により三木武夫を総裁に選出しました。
 12月9日、田中内閣が総辞職しました。
 12月9日、@66代三木武夫内閣が誕生しました。法相に稲葉修、外相に宮沢喜一、蔵相に大平正芳、文相に永井道雄、農相に安倍晋太郎、通産相に河本敏夫、官房長官に井出一太郎、経済企画庁長官に福田赳夫、防衛庁長官に坂田道太、国土庁長官に金丸信らが就任しました。
 12月26日、三木首相は、資産を公開し、「クリーン三木」を打出しました。
 12月27日、三木武夫首相は、総裁選に全党員参加の予備選挙実施など党近代化の試案を提示しました。
 12月28日、共産党・創価学会は、松本清張の仲介で、相互不干渉など10年間の合意協定を取り交わしました。
 この年、経済実質成長率マイナス0.5%となり、戦後初のマイナス成長でした。消費者物価は、24.5%の上昇で、これを狂乱物価といいます。スタグフレーション化が初めて表面化しました。スタグフレーションとは、不況下のインフレーションのことです。普通、好況のときはインフレ現象で、不況のときはデフレ現象となります。不況でインフレとは最悪の経済状態です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
日本の主権を侵した金大中事件
 金大中と呼ばせてもらいます。詳しく金大中を知ったのは、1973年の金大中事件です。金大中は1925年生まれですから、金大中事件の渦中の人になった時は48歳の時です。死の淵から生き返り、韓国の大統領に就任したのが1988年ですから、63歳の時です。不死鳥を想像させる政治家です。2002年には、ノーベル平和賞を受賞しました。
 金大中事件を調べるために、その背景を見てみましょう。
 1948年7月24日、@李承晩は、大統領に就任しました。
 1954年、金大中は、民主党から国会議員に当選しました。
 1960年3月、李承晩大統領が3選しました。しかし、大統領選に不正があったとして、学生を中心にデモが全国に拡大しました。
 4月19日、李承晩大統領は、戒厳令を出して、弾圧を開始しました。
 4月27日、李承晩大統領は、辞任して、ハワイに亡命しました。
 8月13日、A尹■善大統領・張勉首相による政権が成立しました。
 1961年5月、金大中は、国会議員として再選を果たしましたが、朴正煕少将らの軍事クーデターにより、無効とされました。
 1963年7月3日、B朴正熙は、新憲法を制定して、大統領に就任しました。慶尚道出身です。
 1970年、金大中は、民主党の大統領候補に指名されました。
 1971年、韓国の大統領選挙で、金大中は540万票(46%)を獲得し、朴正熙大統領の634万票に94万票と迫りました。そのことが原因で、金大中は、不自然な交通事故に会います。これを暗殺工作と感じた金大中は、身の危険を感じて、日本やアメリカを拠点に反政府運動を行いました。
 1972年10月、朴正熙は、非常戒厳令を出して、国会を解散するなど独裁を強化し、金大中を敵視しました。これを10月維新といいます。
 1973年7月10日、金大中は、日本の法務大臣の上陸特別許可で日本に入国しました。
 1973年8月8日昼ごろ、所謂金大中事件が発生しました。金大中は、訪日中の韓国民主統一党の梁一東党首に招かれ、東京のホテル=グランドパレスの2212号室で会談しました。
 8月8日13時19分、会談後、部屋を出た金大中氏を工作員が2210号室に拉致しました。工作員はエレベーター内で、金大中にクロロホルムをしみこませたハンカチを鼻にあて、意識が朦朧とした所で、ホテルの地下駐車場に待機していた車に運び込みました。
 一行は、金大中を後部座席の床に押しつけたまま、高速道路を通って大阪に向い、いったん大阪の韓国総領事館の宿舎に運び込みました。工作員は、金大中をロープできつく縛り直し、鼻をのぞく顔全体にテープを貼りました。そして大阪港に運んで、黒いビニール袋に入れて一般の貨物船竜金号に積み込みました。この時、金大中は「これは海に放り込まれる。覚悟をした」と証言しています。
 8月9日8時45分、金大中を乗せた黄金号は、大阪港を出港しました。
 8月10日9時54分、黄金号は、関門海峡を通過して、韓国に向いしました。予定では、朝鮮海峡に入った段階で、黒いビニール袋が投下されることになっていました。そこで、金大中の足にオモリを付け、甲板まで引き出しました。しかし、この時、アメリカのCIAの情報により、日本の自衛隊機が黄金号を追跡し、照明弾を投下して、威嚇しました。解放後の金大中は、「甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下した」と証言しています。
 8月11日深夜、黄金号は釜山港に入港しました。
 8月12日7時、黄金号は釜山港に接岸し、救急車でソウルのアジトに連行されました。
滞在中に、韓国中央情報部によって拉致されました。
 8月13日夜、工作員は、金大中を自宅付近のガソリンスタンドに置き去りにして、逃走しました。解放された金大中は、自宅前で記者会見を行いました。この時、彼は「犯人たちは非常に訓練されて規律正しい組織だった」と流暢な日本語で証言しました。
 9月、ホテルの現場には、駐日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が残されていたことから、事件はKCIA(韓国中央情報部)によるものと思われましたが、韓国政府はこれは韓国国内の問題であるとして日本の捜査当局からの調査依頼を一切拒否しました。警視庁は、金東雲の出頭を求めましたが、韓国は外交特権により、出頭を拒否して、金東雲を帰国させました。
 9月5日、田中内閣の二階堂進官房長官は、「れで韓国政府機関が事件に関与していたことを事実として認めざるを得ない」と発表しました。
 9月7日、田中内閣の大平正芳外相は、「今回の事件が主権侵害となるかどうか、現在直に断を下せない」と二階堂発言を否定しました。
 10月26日、金大中は、自宅軟禁を解かれました。
 11月1日、金溶植外務部長官は、記者会見し、(1)金東雲1等書記官を免職する(2)金大中事件の発生前に金大中が日本・米国滞在中にとった言動については責任を問わない(3)金鍾泌首相が訪日すると発表しました。
 11月1日、二階堂進官房長官は、記者会見し、(1)金東雲書記官の容疑が濃厚と認めたことは、わが国の捜査結果とも合致するものと評価する(2)金大中が自由を回復したことは喜ばしい(3)金鍾泌首相の訪日を歓迎するとの談話を発表しました。
 11月2日、韓国の金鍾泌首相は、来日して、田中角栄首相と会談しました。その結果、日本と韓国の政府間で、金大中氏の今後の身の安全を韓国政府が保証することを条件に、これ以上の事件究明は行わないという政治決着が行われました。これを第一次政治決着といいます。
 12月2日、李厚洛は、中央情報部長職を解任されました。
 1974年8月15日、光復記念日(独立記念日)の式典で、在日韓国人の文世光は、演壇の朴正熙大統領を狙撃しました。流れ弾で、大統領夫人の陸英修が死亡しました。狙撃した拳銃が大阪の交番から盗まれたことから、反日運動が激化しました。
 9月、韓国もデモ隊は、日本大使館に掲揚している日の丸を引きおろしたり、大使館に乱入しました。
 1975年7月23日、三木武夫内閣の宮沢喜一外相は、韓国を訪問して、金東祚外相と会談しました。
 7月24日、帰国した宮沢外相は、「韓国は、田中・金鍾泌会談の了解事項を守ると判断した。金大中氏に関しては、これで完結した」と発表しました。これを第二次政治決着といいます。
 1975年12月、ソウル地裁は、金大中に禁固1年の刑を申し渡しました。
 1976年3月、金大中らは、救国宣言を出して、朴大統領の退陣を要求しました。
 3月、金大中氏らが連行されて取調べを受けました。これを民主救国宣言問題といいます。
 3月、韓国の崔圭夏首相は、「民主救国宣言は、緊急措置9号に違反しており、金大中氏の処罰もありうる」と表明しました。
 8月、ソウル地裁は、民主救国宣言に関し、金大中に懲役8年の刑を申し渡しました。
 12月、控訴審は、民主救国宣言に関し、金大中に懲役7年の刑を申し渡しました。
 1977年3月、大法院は、民主救国宣言に関し、上告を棄却し、金大中の実刑が確定しました。
 1978年3月、金大中は、懲役1年で釈放されました。
 1979年10月、夕食会の席で、側近の金載圭KCIA部長は、大統領を射殺しました。崔圭夏首相は、大統領代行に就任しました。
 12月16日、全斗煥少将らは、戒厳司令官らを拘束して、粛軍クーデターを実行し、C崔圭夏は、正式に大統領に就任しました。これをソウルの春といいます。
 1980年3月、学生デモ全国化しました。
 5月、金大中は、公民権を回復し、政治活動を開始しました。全斗煥少将らは、金大中・金鍾泌らを再度逮捕し、大学を休校としました。この結果、金大中の地盤である光州では、民主化要求のデモが激化し、これを軍部が徹底的に弾圧する事件が発生しました。これを光州事件といいます。
 7月4日、韓国の戒厳司令部は、金大中元大統領候捕を、光州事件の背後操縦首謀者として軍法会議に送ることを発表した。
 7月31日、起訴されました。
 8月27日、D全斗煥は、大統領に就任しました。慶尚道出身です。軍部による統制のもとでの民主化を実行しました。
 1981年1月23日、最終審で、金大中は、光州事件で内乱陰謀罪に問われ、死刑判決が確定しました。「金大中氏を救え」とする国際世論が高まるなかで、全斗煥政権は大法院の死刑判決後、金大中氏を無期懲役に減刑した。
 1982年12月、金大中の刑の執行を停止し、米国への出国が許可されました。
 1983年、金大中は、アメリカに渡りました。
 1985年2月、金大中は、韓国に帰国しました。
 1987年12月25日、金大中は、公民権を回復し、大統領選挙に立候補しましたが、金泳三と票を分け合って、E盧泰愚が大統領に就任しました。慶尚道出身です。
 1992年、金大中は、大統領選挙で、盟友の金泳三に敗れ、政界を引退しました。
 1993年2月25日、F金泳三が大統領に就任しました。慶尚道出身です。
 1995年、金大中は、政界に復帰しました。
 1997年、金大中は、朴正煕の片腕で、仇敵だった金鍾泌と同盟を結んで、大統領選挙で当選しました。
 1998年2月19日、韓国の有力紙である東亜日報は、「金大中事件に関する韓国中央情報部の内部文書であるKT工作要員・実態調査報告を入手した」と伝えました。KTとは金大中のイニシアルです。
 それによると、李厚洛KCIA部長を責任者として、李哲煕次長補・河泰俊海外情報局長が拉致事件の首脳部でした。尹鎮遠海外工作団長が現場の総指揮者で、金基完駐日大使館公使・尹英老参事官が日本における活動責任者となりました。また、金大中を東京からソウルまでら致した25人のKCIA要員、金大中を大阪港から釜山まで運んだKCIAの工作船である竜金号船員21人の名簿と彼らの役割などすべて明らかになりました。しかし、「朴正熙大統領の関与は不明」と結論しています。
 1998年2月25日、G金大中が大統領に就任しました。全羅道出身です。金大中は、自らの事件に対して、「過ぎ去ったことなので関係者の処罰は求めないが、事件の真相究明はやらなければならない」と発言しました。
 1999年、金大中は、国家安全企画部(中央情報部)を廃止しました。
 200年、金大中は、太陽政策を掲げて、平壌で、北朝鮮の金正日と南北首脳会談を行いました。
 2003年2月、H盧泰愚が大統領に就任しました。
 2006年7月、韓国政府の真実究明委員会は、「金大中事件を当時の中央情報部(KCIA)による組織ぐるみの犯行と断定する」という報告書をまとめました。韓国政府は、過去、一貫して事件への関与を否定してきましたが、今回、初めて、韓国政府の関与を認めました。詳細は後日に発表とのことですが、「李厚洛KCIA部長が直接犯行を指示し、20人余が役割を分担した。朴正熙大統領自身の指示については明確な証拠は見つからず、否定する根拠もない」と結論しました。

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