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エピソード

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国内問題U(1975年〜1977年、田中金脈・ロッキード事件)
 ここでは、1975年から1977年を扱います。
 戦後最大の疑獄事件といえば、元総理が逮捕されたロッキード事件でしょう。「記憶にございません」という言い訳が学校でも流行りました。
 1974(昭和49)年12月9日、@66三木武夫内閣が誕生しました。
 1975(昭和50)年2月16日、東京都の美濃部亮吉知事は、同和問題をめぐる社共対立のため不出馬を表明しました。
 2月19日、民社党大会は、保革連合の可能性を主張しました。
 2月、完全失業者100万人を突破し、不況が深刻化しました。
 3月9日、自民党は、会費6万円の政経文化パーティを開催し、以後、新形式の資金集めのモデルとなりました。
 3月17日、東京都の美濃部亮吉知事は、社共合意により、立候補を声明しました。保守系候補として石原慎太郎が立候補しました。
 4月13日、第8回統一地方選挙が行われ、知事では、東京都の美濃部亮吉が三選、大阪府の黒田亮一が再選、神奈川県の長洲一二が当選し、いずれも革新知事が勝利しました。
 6月24日、独占禁止法改正案が衆議院で可決されましたが、参議院で廃案となりました。
 6月30日、日韓議員連盟が結成され、自民・民社議員180人が加盟しました。
 7月15日、文書配布などを大幅に制限する公職選挙法改正と企業・団体献金に最高1億円の限度を設定・政治資金収支の公開を義務化する政治資金規制法改正が公布されました。
 7月17日、自民党首脳は、経済4団体代表と会談し、政治献金再開で合意しました。
 7月23日、外相の宮沢喜一は、韓国を訪問し、金大中事件により中断していた日韓閣僚会議の早期開催に合意しました。
 7月24日、外相の宮沢喜一は、金大中事件は最終結着と表明しました。
 7月29日、政府・自民党は、独禁法改正の見送りを決定しました。その結果、総裁公選案など三木首相の改革プランも挫折することになりました。
 8月5日、三木・フォード日米首脳会談が行われました。
 8月6日、三木首相とフォード大統領は、「韓国の安全は東アジアの安全に緊要」との共同声明を出しました。。
 8月15日、三木首相は、現職首相として初めて終戦記念日に靖国神社を参拝しました。但し、私人の資格として参拝しことを強調しました。
 8月28日、興人は、会社法適用を申請しました。これは負債2000億という戦後最大の倒産でした。
 8月29日、防衛庁長官の坂田道太は、国務長官のシュレジンジャーと会談し、アメリカの防衛協力強化のために日米防衛首脳定期協議・日米作戦協力の協議機関設置で合意しました。これは日米軍事一体化進展の契機となりました。
 9月15日、第8回日韓定期閣僚会議が開催されました。
 9月17日、三木内閣は、第4次不況対策を決定しました。その内容は、東北・上越新幹線など公共事業費に8000億円を追加するというものでした。
 9月30日、昭和天皇・皇后は、初の訪米に出発しました。
 10月2日、昭和天皇・皇后は、フォード大統領と会見しました。
 10月31日、昭和天皇、初の公式記者会見で、「原爆投下は戦時中でやむをえぬと思う」と発言しました。
 11月2日、財界は、自民党の借金100億円の半分肩代りに同意しました。
 11月7日、一般会計補正予算が成立しました。歳入不足から赤字国債を計上しました。
 12月24日、財政特例法が成立し、赤字国債2兆2900億円が発行されることになりました。以後、赤字国債発行が恒常化することになります。
 12月1日、三木首相は、公共事業体労働者のスト権を否認し、スト権スト中止を要求しました。
 12月21日、本四連絡橋は、尾道〜今治ルートの大三島橋を起工しました。
 1976(昭和51)年1月23日、三木内閣は、1976年度予算案7兆2750億円を国会に提出しました。国債比率は29.9%、1960年以来の所得減税はなしという内容です。
 1月27日、民社党の春日一幸委員長は、衆議院本会議で、日本共産党の宮本顕治委員長のスパイリンチ事件究明を要求しました。日本共産党は、決着済みと反論しました。スパイリンチ事件とは、戦前の1933年にあったとされる事件です。
 2月4日、米上院多国籍企業小委員会は、ロッキード社の日本政府高官への贈賄を公表しました、これをロッキード事件の発端といいます。
 2月16日、衆議院予算委員会は、国際興業社主の小佐野賢治・全日空社長の若狭得治・副社長の渡辺尚次を証人喚問しました。
 2月17日、衆議院予算委員会は、丸紅会長の桧山広らを証人喚問しました。
 3月4日、東京地検は、児玉誉士夫を臨床取調べしました。
 3月13日、東京地検は、児玉誉士夫を脱税容疑で起訴しました。
 4月14日、最高裁は、1972年の総選挙における千葉1区の定数不均衡は違憲であるが、選挙は有効と判決しました。
 6月13日、衆議院議員の河野洋平・田川誠一・西岡武夫・山口敏夫・小林正巳と参議院議員の有田一寿の6人は、自民党を離党しました。
 6月25日、河野洋平ら6人は、「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成しました。
 7月8日、日米安保協議委員会は、日米防衛協力小委員会の設置を決定しました。その結果、日米制服組の提携が強化されました。
 7月10日、社会党の江田三郎副委員長・公明党の矢野絢也書記長・民社党の長佐々木良作副委員らは、新しい日本を考える会を結成し、会長に松前重義が就任しました。
 7月27日、東京地検は、ロッキード事件で、田中角栄前首相を逮捕しました。
 8月16日、東京地検は、田中角栄前首相を受託収賄罪と外為法違反で起訴しました。その内容は、5億円受領の疑いです。
 8月17日、田中角栄前首相は、保釈金2億円で保釈されました。
 8月20日、元運運政務次官の佐藤孝行は、受託収賄容疑で逮捕されました。
 8月21日、元運輸相の橋本登美三郎は、受託収賄容疑で逮捕されました。
 8月日、京都地裁の鬼頭史郎判事補は、布施健検事総長の名をかたり、三木首相にロッキード事件で指揮権発動を促すニセ電話をしました。
 8月19日、福田・大平・田中派ら反主流派は、挙党体制確立協議会を結成し、座長に船田中が就任しました。そして、ロッキード事件究明に積極的な三木首相の退陣を要求しました。
 10月12日、自民党の宇都宮徳馬は、ロッキード事件と金大中事件に抗議して、自民党を離党しました。
 10月21日、挙党体制確立協議会は、三木武夫の後継に福田赳夫を推薦しました。
 10月22日、京都地裁の鬼頭史郎判事補のニセ電話事件が表面化しました。
 11月5日、福田赳夫副総理が辞任しました。
 10月29日、三木内閣は、防衛計画の大綱を決定しました。その内容は、(1)平和時の防衛力の限界を明示(2)防衛力の質に重点というものでした。
 11月2日、法務省は、衆議院特別委員会で、田中角栄・二階堂進ら灰色高官5人を公表しました。
 11月5日、三木内閣は、「防衛費はGNPの1%以内とする」と決定しました。
 11月10日、天皇在位50年式典が日本武道館で開催されました。
 12月5日、@第34回衆議院議員総選挙が行われ、自民党249人、社会党123人、公明党55人、民社党29人、共産党17人7、新自クラブ17人が当選しました。自民党が敗北し、衆議院各委員長の与党独占が、18年ぶりに崩れました。自民党の票が、革新に流れず、新自由クラブが食い止める役割を果たしました。
 12月10日、ソ連は、200カイリ漁業専管水域設定を布告しました。
 12月17日、三木首相は、総選挙敗北のため退陣を表明しました。
 12月23日、自民党両院議員総会は、総裁に福田赳夫を選出しました。
 12月24日、三木内閣が総辞職しました。
 12月24日、@67代福田赳夫内閣が誕生しました。外相に鳩山威一郎、文相に海部俊樹、厚相に渡辺美智雄、農相に鈴木善幸、運輸相に田村元、労相に石田博英、官房長官に園田直、環境庁長官に石原慎太郎らが就任しました。
 1977(昭和52)年1月21日、野党の5党は、1兆円減税を一致して主張しました。
 1月23日、党内左派の結集と党の右傾化阻止を目標として、社会党の社会主義協会を中心に三月会を結成しました。
 1月27日、東京地裁で、ロッキード事件丸紅ルート初公判が行われました。
 1月、社会党内の新しい流れの会は、「社会党の任務と課題」を発表し、連合時代への党体質の改善の提言しました。
 1月31日、東京地裁で、ロッキード事件全日空ルート初公判が行われました。
 3月26日、社会党の江田三郎前副委員長は、社会主義協会と対立し離党し、社会市民連合結成の意向を表明しました。
 4月2日、革新新自由連合が発足し、代表に中山千夏が就任しました。
 4月29日、ソ連は、日ソ漁業条約の廃棄を通告しました。
 5月2日、福田内閣は、領海を3カイリから12カイリに拡大する領海法案・200カイリ漁業水域法案の制定を決定しました。これを海洋2法といいます。
 5月7日、福田首相は、ロンドンの先進国首脳会議で、日本の1977年度実質経済成長率6.7%達成を約束しました。
 5月9日、社会党の成田知巳委員長は、反自民の全野党政権構想を提言しました。
 5月22日、社会党の成田知巳委員長が急死し、後任に江田五月が就任しました。
 5月26日、共産党の宮本顕治委員長は、「革新統一戦線」を提唱し、社会党に対して、共産党との共闘を迫りました。
 5月27日、領土問題を棚上げにして、日ソ漁業暫定協定が調印されました。
 6月3日、衆議院本会議で、独占禁止法改正案が可決・成立しました。
 7月10日、第11回参議院議員選挙が行われて、自民党63人、社会党27人、公明党14人、民社党6人、共産党5人、新自由クラブ3人、社会市民連合1人、革新自由連合1人、諸派1人、無所属5人が当選しました。保守逆転が叫ばれましたが、自民党の相対的安定時代に入りました。宮本顕治・八代英太が初当選しました。宮城地方区で、社会党・共産党の初の参院共闘が成立しました。
 7月10日、公明党・民社党は、連合政府樹立を目的とした合意書に調印しました。
10  8月6日、福田首相は、東南アジア6カ国歴訪の旅に出発しました。
 9月26日、航空自衛隊は、国産支援戦闘機F1を三沢に配備しました。
 9月27日、社会党大会で、新しい流れの会の楢崎弥之助・田英夫・秦豊が離党しました。
 9月28日、飛鳥田一雄横浜市長は、委員長不出馬を声明しました。
 11月1日、大蔵省は、10月末現在の外貨準備高を史上最高の195億7700万ドルと発表しました。
 11月28日、民社党大会で、委員長に佐々木良作、書記長に塚本三郎を選出しました。
 11月28日、福田首相は、内閣を改造しました。外相に園田直、農相に中川一郎、通産相に河本敏夫、建設相に桜内義雄、官房長官に安倍晋太郎、経済企画庁長官に宮沢喜一、行政管理庁長官荒船清十郎、新設の対外経済担当相に牛場信彦元駐米大使らが就任しました。
 12月13日、社会党大会で、委員長に飛鳥田一雄、書記長に多賀谷貞稔を選出しました。
 12月21日、防衛庁設置法・自衛隊法の改正案が成立しました。これを防衛2法といい、この結果、自衛官1807人の定数増などが決定しました。
 12月28日、国防会議は、次期主力戦闘機にF15イーグル、対潜哨戒機にP3Cオライオン採用を決定しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
田中金脈事件とロッキード事件
 田中角栄さんは、今でも「今太閤」とか「角さん」「コンピュータ付きブルドーザー」と呼んで、親しんでいる人がいます。豊臣秀吉の場合もそうですが、田中角栄さんも実像と虚像の差の大きい人です。
 1918年、新潟県の農家の次男として生まれました。
 1936年、住み込みで働きながら、東京の中央工学校土木課を卒業しました。
 1942年、田中設計事務所の家主の娘である坂本はなと結婚しました。
 1946年、28歳の時、政治資金を献金した大麻唯男の勧めで、第22回衆議院総選挙で進歩党公認で出馬しましたが、落選しました。
 1947年、29歳の時、第23回総選挙で、新潟3区から民主党公認で出馬し、当選しました。
 1948年10月、30歳の時、第2次吉田茂内閣の法務政務次官に就任しました。
 12月、坑国家管理疑惑により逮捕されましたが、衆議院の解散により獄中から立候補しました。
 1949年、第24回総選挙で再選されました。
 1950年、長岡鉄道(今の越後交通)社長に就任しました。
 1957年、39歳の時、第1次岸信介内閣の郵政大臣に就任しました。これは、30代の大臣は戦前の尾崎行雄以来です。
 1961年、43歳の時、第2次池田勇人内閣の大蔵大臣に主任しました。大学卒でない蔵相が誕生しました。
 1965年、自民党幹事長に就任しました。
 1971年、第3次佐藤栄作内閣の通商産業大臣に就任しました。
 1972年5月、54歳の時、佐藤派から分離独立しました。
 6月、「日本列島改造論」を発表しました。
 7月、佐藤栄作が支持した福田赳夫を破って、自由民主党総裁になり、ついに総理大臣になりました。
 9月、日中国交正常化を実現し、日華平和条約を終了させました。
 1973年、第四次中東戦争から第一次オイルショックを経験しました。
 1974年7月、参議院選で大敗し、与野党が伯仲となり、三木武夫や福田赳夫が反田中を鮮明にしました。
 10月、文藝春秋11月号は、立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」・児玉隆也の「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」掲載しました。立花隆は、(1)田中首相の資産(2)実業家としての経歴(3)田中首相が設立したユウレイ会社の実態(4)田中首相の政治資金の流れなどを具体的に証明しており、児玉隆也は、田中系政治団体の金庫番である佐藤昭の素顔を明らかにしました。
 11月、国会での追及を受け、総辞職を表明しました。
 12月、内閣総辞職し、三木武夫が内閣を組織しました。
 1976年2月、アメリカ上院の外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上しました。
 7月、ロッキード事件における5億円の収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫共に逮捕されました。これを総理の犯罪といいます。
 1980年、第36回総選挙でトップ当選しました。
 1983年10月、東京地裁判は、ロッキード事件で、懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を申し渡しました。
 12月、第37回総選挙で、22万票の圧倒的支持を受けて当選しました。
 1985年2月7日、田中派の中堅・若手を中心に、竹下登らが創政会を発足させました。
 2月27日、可愛がっていた竹下登らの創政会誕生の話を聞いて、脳梗塞で倒れ入院しました。言
 1986年、第38回総選挙では、選挙運動が出来ませんでしたが、トップ当選しました。
 1987年7月、竹下登は、経世会を旗揚げしたので、田中派は分裂しました。
 7月、東京高裁は、ロッキード事件で、一審判決を支持し、控訴を棄却しました。
 10月、竹下登は、突然田中邸を訪問しましたが、娘の田中真紀子に門前払いされました。
 11月、竹下登内閣が誕生しました。
 1990年、衆議院解散により政界を引退し、各地の越山会も解散しました。
 1993年12月16日、75歳で死亡しました。墓は、新潟県柏崎市(旧西山町)の田中邸にあります。
 1995年、最高裁は、ロッキード事件上告審で、5億円収受を認定しました。
 田中派は、自民党内最大の派閥であり、130人の国会議員を擁していました。二階堂進・金丸信・竹下登などの党幹部がおり、中堅には羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三という竹下派七奉行や綿貫民輔などがいました。七奉行の内、羽田・小沢・奥田・渡部の4人は今の民主党を形成しています。
 田中派の流れをくむ勢力の中から、竹下・細川・羽田・橋本・小渕と5人の総理大臣が誕生しました。さらに鳩山由紀夫・野中広務らも田中角栄の影響を受けています。
 その他の人脈では、刎頸の友といわれた国際興業の小佐野賢治や右翼の大物である児玉誉士夫などがいました。
 田中のエピソードです。
(1)39歳で郵政大臣になった田中角栄は、田中番記者9人に「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビ)だってできるし、弾圧だってできる」と豪語したといいます。
(2)田中角栄は、テレビ局はNHKと民放5社に許可されていましたが、34社に拡大しました。この時、田中はそのことを質問すると、荘電波監理局次長は「結論はノーです」と言われました。そこで、浅野文書課長を呼んで「事務方はノーだが、私は許可する。手続はどうなっているか」と問うと、浅野課長は「大臣の決定が手続です」と答えました。そこで、小野郵政事務次官を呼んで、意見を聞くと、小野次官は「それは大臣のご決心次第です」で答えたといいます。そこで、事務方の書類の表紙に赤で「×」と書いて、「本件許可しかるべし」という表紙と張り替えさせました。
(3)ある人から100万円の借金を依頼された時、田中角栄は、黙って300万円を渡して、「100万円で借金を返し、100万円で家族や従業員にうまいものを食わし、100万円は将来のために貯金しておけ」と言って、「返済は一切無用」というメモを黙って渡したといいます。
(4)田中角栄は、1日に300人の陳情を聞いたといいます。「聞くだけ聞く。そして、必ず返事を出す。希望通りいかなくても、聞いてくれたんだーという気持ちが大切ななんだ」。
(5)「赤坂・柳橋・新橋で、料亭の女将として店を大きくするのは、仲居あがりや女中頭あがりだ。ダメなのは芸者あがりだ。鍛え上げているから、客を喜ばすツボを知っている」と話し、苦労知らずの官僚や世襲議員を皮肉ることもありました。
(6)私の先輩先生から聞いた話です。日教組が賃金交渉しているとき、田中角栄は「いくら上げて欲しいんだ」というので、「1万円です」と答えると、田中角栄は「それは駄目だ」という。文部省の担当者も「駄目だと返事をしているのです」と応じる。すると、「違う違う、1万円では駄目で、3万円でなくては駄目だ」と言って、皆の度肝を抜いたということです。
(7)ある派閥の陣笠議員が入院しました。田中角栄は、真っ先に駆けつけ「大丈夫か?少ないかもしれないが」と封筒をベッドの中に入れて帰りました。次の日、派閥のボスがやってきて、見舞金を手渡しました。その額は田中角栄の渡した金額にはるかに少なかったといいます。田中角栄は「金は早く広く多く出せ」という哲学を実践したということです。
(8)田中角栄は、現金を料亭などで手渡すのでなく、立ち話をしながら、ポケットに現金の入った封筒を押し込みました。江戸時代の袖の下という方法です。映画のように面と向って札束を見せられると、「札束で頬叩く」という形容があるように、相手を不機嫌にさせてしまいます。
(9)田中角栄は、「きるだけたくさんの人間に渡せ。やった金の半分はどこかへ消えてしまう。誰かがポケットに入れてしまう。無駄になる。それでもいい。残った金は生きた金になる」と言いました。ハマコーこと浜田幸一は、これを裏付けるように、「私が口を割れば、日頃偉そうに言っている雑魚どもはギャフンだ」と豪語します。
(10)選挙では、派閥のボスは、軍資金として300万円を出します。しかし、田中角栄は、相場の300万円を渡した後、選挙区情勢を聞いて、「そりゃ大変だ」と言っては、殆どの議員に200万円を追加で渡しました。これを「1本のバラでなく、100本のバラを渡す」というそうです。
(11)蔵相時代の田中角栄のエピソードです。予算編成で残業が続く大蔵省の事務方に「ソバでも食べなさい」とポンと5000円を渡したそうです。今の5万です。これを「物量作戦」というそうです。
(12)小千谷市塩谷は、60戸ですが、総工費10億円で、塩谷トンネルが完成しました。塩谷は田中角栄の地盤でした。その結果、小千谷・長岡に通勤・通学が出来るようになり、出稼ぎや学寮生活をしなくてもよくなりました。
(13)昭和天皇は、田中角栄がきらいで、テレビに彼が出てくるとすぐに消したといいます。
 角福戦争で、田中角栄が使った金は80億円だったと言われています。田中角栄の一番古い公設秘書の山田泰司「田中先生には学閥も門閥もなかった。何もない人が裸一貫から総能力を傾注してのしあがり、総理になった。その間に人と対抗していくために、あるていどの金も必要だ。金がなければそう急にも伸びられない。金権政治は過程としては現実にあった」と述べています。つまり、金で総理大臣の座を買ったというのです。
 日頃から、田中角栄は「数は力、力は金」と言っていました。彼の体験では、金で全てが解決したのです。江戸時代の田沼意次と同じです。派閥を養い、官僚に権力を振るえたのも金の力でした。逮捕後も「自分の派閥からは決して総裁を出さず、他派閥で自分より力量の低い者を総裁にし、いつしか自分が再び首相になるまでのつなぎとする。そのためには金を使って選挙に勝って自分の派閥を拡大し、その数の力で自民党を支配する」を哲学にしていました。
 次のその金はどこから手に入れたのでしょうか。
(1)信濃川河川敷があります。信濃川は、河川の氾濫に悩んでいました。そこの河川敷を田中角栄の室町産業が1坪500円・1反15万円、74ヘクタールを1億円で購入しました。その後この河川敷に新たに堤防や橋が造られ、それまでの危険な土地は、市中心部から2キロという立地条件の良い土地に様変わりしました。坪500円での買収価は数百倍に値上がりし、時価700億円になりました。
 誰よりも早く情報を知り、誰も知らない時に安く買い、高くなったときに売り抜ける錬金術です。最近のホリエモンや村上ファンドのお師匠さんといえます。
(2)ロッキード事件があります。全日空は、次期大型旅客機にダグラス社のDC-10を決定していました。しかし、政府の働きかけで、全日空は、ロッキード社のL-1011トライスターに変更しました。
 その後、ロッキード社のコーチャン副会長とクラッター東京駐在事務所代表は、ロッキード社の日本側代理人である児玉誉士夫にコンサルタント料として21億円を渡していることが判明しました。児玉誉士夫は、国際興業社主の小佐野賢治を通じて、総理大臣の田中角栄に5億円を渡して、工作したことが分りました。
 気前よく振舞うお金も、所詮は他人の金だったということです。油にまみれ、汗水流して稼いだ金は、大切に使い、泡のようなバブル金は湯水のように使うという例です。
 今、バブルのような金使いが蔓延しています。田中角栄さんの亡霊でしょうか。

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