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国内問題V(1978年〜1980年、福田内閣・大平内閣・鈴木内閣) | |
1 | ここでは、1978年から1980年を扱います。 福田内閣・大平内閣・鈴木内閣を検証します。 |
2 | 1976(昭和51)年12月24日、@67代福田赳夫内閣が誕生しました。 1978(昭和53)年1月4日、日本共産党は、党機関紙『赤旗』で、前副委員長袴田里見を統制委員会で除名処分にしたことを発表しました。 3月1日、社会党は、初の委員長公選で飛鳥田一雄を信任しました。飛鳥田一雄は横浜市長を辞任しました。 3月26日、社会民主連合が結成され、代表に田英夫が就任しました。 4月9日、京都府知事選で、自民推薦の林田悠紀夫は、社会・公明推薦の山田芳治副知事や民社推薦の滝川春雄大阪高裁判事を破って当選し、28年間続いた蟻川虎三革新府政が終了しました。 4月15日、京都府知事の蜷川虎三が引退しました。 4月28日、自民・公明・民社・新自クの4党は、衆議院に「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法案」を共同提出しました。これを成田立法といいます。 5月12日、成田立法が可決・成立しました。 5月23日、中道革新勢力結集をめざす超党派政策集団「21世紀クラブ」が発足しました。発起人は、神奈川県知事長洲一二・岐阜経済大教授佐藤昇らでした。 |
3 | 6月14日、元号法制化促進国会議員連盟が発足しました。 6月21日、日韓大陸棚関連法案が可決・成立しました。 7月18日、元号法制化実現国民会議が発足しました。 7月19日、自衛隊の栗栖弘臣統幕議長は、『週刊ポスト』誌での「超法規的発言」を認めました。 7月27福田首相、閣議で「有事立法研究の促進」を改めて指示。 7月28日、自衛隊の栗栖弘臣統幕議長が更迭されました。 8月12日、日中平和友好条約が調印されました。 8月15日、福田首相は、首相の肩書で、靖国神社に参拝しました。 8月16日、公明党は、有事立法の必要性を認める基本見解を発表しました。 9月5日、福田首相は、中東4カか国歴訪の旅に出発しました。 9月6日、公明党の矢野絢也書記長は、有事立法の必要性について、記者会見で軌道修正しました。 9月21日、防衛庁は、「防衛庁における有事法制の研究について」を発表しました。この結果、有事法制研究が本格化しました。 10月17日、福田内閣は、「昭和」後の元号問題につき、従来の内閣告示方式から、法制化での存続方針に変更しました。 10月22日、中国のケ小平副首相が来日し、「日米安保・自衛隊増強は当然」と発言しました。 10月24日、中国のケ小平副首相は、昭和天皇・田中角栄元首相を訪問しました。 10月31日、円高で、1ドル=175円50銭を記録しました。 |
4 | 11月1日、米の下院フレーザー委員会は、金大中事件は韓国中央情報部(KCIA)の犯行と断定しました。 11月26日、自民党総裁候補予備選挙で、1位が大平正芳幹事長、2位が福田赳夫首相で、予想を裏切りました。これは、田中派は大平派を支持した結果です。 11月27日、福田首相は、本選挙立候補辞退を表明しました。 11月27日、日米安全保障協議委員会は、「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を決定し、有事に備え、米軍と自衛隊の共同対処行動を決定しました。 12月1日、自民党臨時大会で、幹事長の大平正芳を新総裁に選出しました。 12月7日、@68代第一次大平内閣が誕生しました。外相に園田直、厚相に橋本龍太郎、農相に渡辺美智雄、通産相に江崎真澄、建設相に渡海元三郎、官房長官に田中六助、防衛庁長官に山下元利、経済企画庁長官に小坂徳三郎、幹事長に斎藤邦吉らが就任しました。 12月10日、沖縄県知事選で、自民・民社ら推薦の西銘順治が当選しました。 |
5 | 1979(昭和54)年1月17日、国際石油資本(メジャー)は、対日原油供給の削減を通告しました。これを第2次石油ショックといいます。 1月29日、防衛庁は、国後・択捉両島にソ連軍地上部隊の存在と基地建設の事実を公表しました。 2月14日、衆議院予算委員会は、ダグラス・グラマン航空機不正取引疑惑で、日商岩井の植田三男社長・海部八郎副社長らを証人喚問しました。 4月8日、第9回統一地方選挙がおこなわれ、各党は、「地方の時代」の政策理念を掲げました。 4月30日、大平首相は、アメリカを訪問しました。 5月2日、大平首相は、カーター大統領と経済摩擦について協議しました。 5月15日、衆議院航空機輸入調査特別委員会は、元防衛庁長官の松野頼三を証人喚問しました。東京地検は、ダグラス・グラマン疑惑の捜査終結宣言しました。 6月6日、元号法案が参議院で可決され、元号が法制化きれましたる。 6月28日、東京で、第5回先進国首脳会議が開催されました。これを東京サミットといいます。大平・カーター(米)・シュミット(西ドイツ)・ジスカールデスタン(仏)・サッチャー(英)・アンドレオッチ(伊)・クラーク(加)・ジュンキンズ(EC)が出席し、各国別の石油輸入抑制目標を決定した「東京宣言」を採択しました。 |
6 | 7月16日、幹事長の西岡武夫は、新自由クラブを離党しました。河野洋平代表は、中道四党で選挙協力をしながら自民党を追い詰めようとする立場、西岡武夫幹事長は、新自クの目的は保守を刷新する立場でした。 7月17日、防衛庁は、中期業務見積りを決定しました。これは1980年度から1984年度までの5カ年の防衛力整備計画の見積もりです。 7月25日、元防衛庁長官の松野頼三は、国会議員を辞任しました。 7月26日、防衛庁長官の山下元利は、現職長官として初めて韓国を訪問しました。これを機に、防衛分野での日韓関係の親密化が進み、以後日韓軍事交流が一段と活発化しました。 8月6日、社会党内の自主管理研究会議は、党の綱領的文書「日本における社会主義への道」を批判しました。これを「道」論争といいます。 10月2日、防衛庁は、国後・択捉両島にソ連軍がミサイル配備をしていると発表しました。 10月7日、@第35回衆議院議員総選挙が行われ、自民党248人、社会党107人、公明党57人、共産党39人、民社党35人、新自ク4人、社民連2人、無所属19人が当選しました。自民党は、衆議院での安定多数確保に失敗しました。新自由クラブは4人と惨敗しました。 10月15日、共産党の宮本顕治委員長は、社会党の右傾化を批判し、社会党の公明党への接近姿勢を牽制しました。 10月15日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、全野党共闘の原則を維持しつつ、「社公中軸」志向を表明しました。 |
7 | 11月6日、自民党の総裁選挙の結果、大平正芳は福田赳夫に10票差で勝利しました。河野洋平代表は、自民党との連立を模索して、新自由クラブの4票を大平正芳に投票しました。しかし、支持者やメディアから批判を受けて河野代表は辞任し、後任に田川誠一が就任しました。 11月9日、@69第二次大平内閣が誕生しました。蔵相に竹下登、労相に藤波孝生、国家公安委員長に後藤田正治、官房長官に伊東正義、総理府総務長官に小渕恵三、行政管理庁長官に宇野宗佑らが就任しました。 11月13日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、社会党の現職委員長として初の訪米に出発しました。帰国後、日米安保の「合意廃棄」論を表明しました。 11月13日、公明党の竹入義勝委員長・民社党の佐々木良作委員長は、会談で「中道政権構想協議会」の発足を決定しました。この結果、「公民は一体」の既成事実により、公民主導型の社公民路線の定着化をねらいましたう。 12月21日、衆議参院本会議で、一般消費税反対という財政再建に関する決議案を採択しました。 |
8 | 1980(昭和55)年1月10日、社会・公明両党は、連合政権構想で正式に合意しました。 1月11日、公明・民社両党は、政権構想協議会を開催し、民社党は、社・公合意を了承しました。 1月22日、共産党の不破哲三書記局長は、『赤旗』で社・公合意を批判しました。 2月6日、共産党系の統一戦線促進労組懇談会は、総評大会で、社・公合意を盛り込んだ春闘方針案に異議を唱え、社・共対決ムード高まりました。 2月27日、海上自衛隊の「ひえい」・「あまつかぜ」などは、環太平洋合同演習(リムパック)に初参加のため出発しました。リムパック参加問題をめぐり、国会で論議となりました。 3月6日、自民党の浜田幸一のラスベガス賭博事件が発覚しました。 4月1日、社会党の多賀谷真稔書記長は、『社会新報』で、共産党への反論を開始しました。 4月11日、自民党の浜田幸一は、ラスベガス賭博事件で、議員を辞職しました。 4月25日、大平内閣は、日本オリンピック委員会にモスクワ大会不参加の最終見解を発表しました。 5月16日、社会党提出の内閣不信任案は、自民党非主流派の欠席で可決されました。 5月19日、衆議院が解散されました。 5月24日、共産党の官本顕治委員長は、「民主連合政府の当面の中心政策」を発表しました。 |
9 | 6月4日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、神戸市で「国民共同の緊急・民主主義政府」の樹立を提唱しました。 6月5日、公明党の竹入義勝委員長は、福岡市で連合政権の「政治原則と基本的政策の大綱試案」を発表しました。 6月12日、大平首相が急死し、内閣は総辞職しました。首相代理に官房長官の伊東正義が就任しました。 6月16日、民社党の佐々木良作委員長は、福井市で、事実上の自・社・公・民の大連合を提唱しました。 6月22日、衆・参両院同時選挙が行われ、衆議院では、自民党284人、社会党107人、公明党33人、民社党32人、共産党29人、新自ク12人、社民連3人、無所属7人が当選しました。参議院では、非改選を含め自民党135人、社会党47人、公明党26人、共産党12人、民社党11人、新自ク2人、社民連3人、諸派2、無所属13人が当選しました。衆参両院とも、自民党の圧勝でした。 7月17日、@70鈴木善幸内閣が誕生しました。法相に奥野誠亮、外相に伊藤正義、蔵相に渡辺美智雄、厚相に斎藤邦吉、官房長官に宮沢喜一、経済企画庁長官に河本敏夫、行政管理庁長官に中曽根康弘、科学技術庁長官に中川一郎らが就任しました。 |
10 | 8月15日、鈴木内閣の閣僚18人は、一斉に靖国神社に参拝しました。 8月15日、鈴木内閣は、「徴兵制は憲法違反」とする答弁書を決定しました。 8月27日、法相の奥野誠亮は、衆院法務委で「自主憲法制定への議論が国民の間から出るのは望ましい」と発言し、改憲論議に弾みをつけました。 10月13日、公明・民社・社民連・新白クの中道4党は、首脳会議を開き、野党の混迷状況からの脱却を模索しました。 10月23日、自民党田中角栄派の木曜クラブが発足し、会長に二階堂進が就任しました。 10月28日、鈴木内閣は、「閣僚の靖国神社公式参拝は第20条との関係で問題がある」との答弁書作成しましたが、閣内で反発が強まりました。 11月17日、外相の伊東正義は、ECとの貿易摩擦問題について「豪雨型輸出」回避に努めると声明しました。 12月12日、日米防衛首脳定期協議が開かれ、アメリカは、日本の防衛力増強を強く要請しました。 12月、新自由クラブを離党した西岡武夫は、自民党に復党しました。 |
* | この項は、『近代日本総合年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。 |
自民党総裁の戦国史(佐藤内閣、田中内閣、三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣) | |
1 | 1964(昭和39年)年、佐藤栄作は、池田勇人前首相の病気退陣の後、自民党総裁に就任しました。 1966(昭和41年)年、佐藤栄作は、藤山愛一郎を破って、再選しました。 1968(昭和43年)年、佐藤栄作は、三木武夫・前尾繁三郎を破って三選しました。三木武夫は、この時、少数派閥で勝ち目がないにもかかわらず、「男は一度勝負する」と言って立候補しました。 1970(昭和45年)年、佐藤栄作は、4選に出馬するかどうか、迷いました。佐藤は、実兄岸信介の後継者である福田赳夫蔵相への禅譲を考えていました。佐藤派大番頭の保利茂官房長官もそれを望んでいました。しかし、佐藤4選に動いたのが佐藤派の代貸し1人である田中角栄幹事長でした。田中の目的は、佐藤4選で時間を稼ぎ、その後、自分が総裁になることでした。田中は、反福田の川島正次郎副総裁と連携して、中間派を佐藤支持に一本化してもらうことでした。次に田中は、総裁選に立候補の意思を示していた前尾繁三郎に閣僚ポストをエサに佐藤4選の協力を得ました。 その結果、佐藤は353票を得て、三木の111票を大差で破って、四選を果たしました。 1971年6月、参議院議長の重宗雄三は、野党と組んだ河野謙三に破れ、議長の座を交代しました。福田赳夫は、有力な後ろ盾を失いました。 |
2 | 1972(昭和47年)年6月、佐藤首相は、引退を表明しましたが、後継を指名しませんでした。 7月、自民党の総裁選には、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫が立候補しました。これを参議院の重宗雄三議長は、郷土の銘菓である三角大福餅になぞらえて三角大福と称しました。 田中は、資金力を動員して、佐藤派の大部分を味方につけました。佐藤派は田中派82人と、福田支持の保利茂系の22人に分裂しました。前尾繁三郎から旧池田派を引き継いだ大平正芳は池田内閣当時から田中の盟友でした。三木武夫は、ニクソン=ショック以来急務となった日中国交回復のために、佐藤亜流の福田より田中に接近しました。中曽根康弘は上州出身の福田とは対立していました。 その結果、第一回の投票で田中角栄は156票、福田は150票、大平は101票、三木は69票を獲得しました。決選投票では、三・四グループの大半がが田中に投票し、田中は282票、福田は190票を獲得し、戦後最年少の54歳で自民党総裁になりました。クラウン=プリンスといわれた福田赳夫は、金権政治家の田中角栄に敗れたのです。 8月、田中角栄内閣の支持率は62%で戦後最高を記録しました。 |
3 | 1973(昭和48年)年、物価上昇率は、前年の6%から11.7%になり、地価は42.5%になり、マイホームの夢を打ち砕きました。田中内閣の支持率は22%、不支持率は60%となりました。 1974(昭和49)年には24.5%になり、生鮮食料品は30%を超えるようになり、主婦を直撃しました。卸売物価は前年の15.9%から31.3%となり、福田蔵相は「狂乱物価」と表現しました。 7月、田中角栄は、参院選挙で大勝して退勢を挽回しようとしました。そのため、タレント候補を立候補させ、200億円を投入する金権選挙を行い、企業ぐるみ選挙を推進しました。しかし、自民党は6議席減らし、金権・ぐるみ選挙を批判した三木副総理・福田蔵相が辞任し、福田を辞任させた保利茂までもが辞任しました。 10月、立花隆は、『文芸春秋』10月号の「田中角栄研究−その金脈と人脈」で、新潟の信濃川河川敷や東京の虎ノ門国有地払い下げ・転売などを暴露しました。 11月、田中角栄は、退陣を表明しました。田中は、この背景が福田赳夫をいると信じて、「財界がいくら推しても福田には絶対、政権は取らせない。”これだけやってもダメか”と福田が秋雨の中で呆然と立ち、男泣きになく、その姿を俺は見たい」と周囲に語ったといいます。 |
4 | 1974(昭和49)年11月、田中退陣後の総裁選をめぐって、大平正芳は、田中派の支援を得ているので公選を主張し、福田赳夫・三木武夫は話し合いを主張しました。3人は、自分の意見が通らない場合は、脱党して新党結成をぶち上げました。現実に、三木は民社党から社公民政権を模索していました。 11月29日、副総裁の椎名悦三郎は、福田・大平・三木・中曽根康弘と個別に会談しました。大平は、暫定総裁反対と公選による本格総裁選出、派閥劣勢の福田・三木は、田中が金脈問題で倒れた以上、金が乱れ飛ぶ公選を避けて話し合いで総裁を決定する事を主張しました。 11月30日、椎名は、再び5者会談を行いました。この席で、椎名は、清廉と党の近代化を新総裁の資格と提案し、合意に持って行きました。 12月1日、椎名は、「神に祈る気持ちで考え抜きました」と言って、分裂を避けるには最長老の三木を選ぶのが最善だという裁定案を示しました。幹事長を約束されていた中曽根は賛成し、話し合いを主張していた福田も納得せざるを得ず、大平も田中角栄の助言で了承しました。これが椎名裁定です。 12月9日、三木武夫首相は、副総理に福田、蔵相に大平、幹事長に中曽根を起用して、自民党員による予備選挙・企業献金をなくす政治資金規正法改正・独占企業に分割を求める独占禁止法改正などに着手しましたが、骨抜きにされました。 |
5 | 1975(昭和50)年8月15日、三木は、自民党内の保守派にも配慮して、私人という資格で、首相として初めて靖国神社に参拝しました。 1976(昭和51)年2月4日、ロッキード事件が発覚しました。 2月16日、衆院予算委員会で、国際興行の小佐野賢治社主、全日空の若狭得二社長、丸紅の桧山広会長・大久保利春専務らが証人喚問されました。証人の「記憶にございません」が流行しました。三木内閣は支持率を上げましたが、自民の支持率は下がり、椎名副総裁は「三木ははしゃぎ過ぎだ。側隠の情がない」と発言し、三木おろしがはじまりました。これを第一次三木おろしといいます。 5月14日、ロッキード事件調査特別委員会が発足し、委員長の田中伊佐次元法相は、自民党の反対にもかかわらず、田中角栄・二階堂進・佐々木秀世・加藤六月・福永一臣という灰色高官の名を公表しました。 6月12日、ロッキード事件で、丸紅専務の大久保利春と全日空幹部が逮捕されました。稲葉修法相は「これまで逮捕した連中は相撲にたとえれば十両か前頭十三、四枚目。これからどんどん好取組がみられますよ」と発言しました。 7月27日、ピーナッツ100個などの証拠資料により、田中角栄前首相が逮捕されました。「暗号領収書、ピーナッツ1個は100万円で、100個は1億円」というロッキード社不法献金の証拠資料が公表されました。 |
6 | 8月17日、田中角栄は、保釈金2億円で釈放されました。田中派の怨念は、三木武夫に向けられ、次期政権を視野に入れる福田赳夫・大平正芳も同調しました。 8月19日、三木派と幹事長の中曽根派を除く反主流派(田中・福田・大平・椎名・船田・水田)は、党内の3分の2以上の多数を擁して「挙党体制確立協議会」(挙党協)を結成し、会長に衆議院の船田中元議長が就任しました。自民党議員403人のうち277人の衆参両院議員は、署名して党大会の開催を求めました。三木内閣の閣僚14人も参加していました。これを第二次三木おろしといいます。 三木は、世論を味方につけて、挙党協と交渉し、三木の衆議院議員の任期が終わる12月までの間は解散しないと条件で、9月の臨時国家の召集認めさせました。 10月21日、挙党協は、後継総裁に福田赳夫を推薦しました。この時、大平は、福田を推薦する代わりに、「福田は再選を求めず一期限りで引退して、大平に禅譲する」という大福密約が交わされたといいます。 11月5日、福田は、副総理を辞任しました。 12月5日、任期満了総選挙で、自民党は分裂選挙になり、過半数割れの249議席(定数511人)という惨敗でした。自民党を離党した新自由クラブは5人から18人を当選させました。 12月17日、三木は、総裁を辞任する「私の所信」を発表しました。 12月24日、福田赳夫は、過半数を1つ上回る256票で首相に就任しました。 |
7 | 1978年11月1日、自民党初の総裁選予備選挙が告示されました。大平正芳・中曽根康弘・河本敏夫のほかに、以外にも福田首相も立候補しました。 11月26日、予備選挙では、予想を覆して、748点の大平正芳が638点の福田を破りました。これは田中派の実力を誇示するに十分でした。福田は「天の声にも変な声もある」と言って、議員による本選挙をまたずに辞任しました。 1949年10月7日、総選挙があり、選挙前に大平首相が唱えた一般消費税導入や鉄建公団・KDD汚職事件・グラマン疑惑の影響により、自民党は、248議席の惨敗でした。その結果、非主流が議席減に対し、大平派・田中派は大量立候補による議席増となりました。三木派・福田派・中曽根派の非主流3派は、自民党をよくする会を結成して、会長に井手一太郎が就任しました。 10月9日、大平は、退陣を拒否し、非主流派は、総理・総裁分離で大平の敗北責任の明確化を要求しました。しかし、田中派の全面支援を受けた大平は、これも拒否しました。 10月30日、特別国会が召集されましたが、首相の指名は出来ませんでした。 11月6日、衆議院本会議の首班指名選挙には、主流派から自民党の大平、非主流派から自民党の福田が立候補するという異常事態となりました。野党は棄権し、大平は新自由クラブの4票を得て135票、福田は125票でした。決選投票でも、野党が棄権したので、大平は138票、福田は121票で、かろうじて大平は首相に再選されました。しかし、新自由クラブからの入閣を非主流派が反対しました。 11月20日、大平は、新自由クラブからの入閣を断念し、やっと第二次大平内閣が誕生しました。これを四十日抗争といいます。 |
8 | 1980年3月、田中派の浜田幸一によるラスベガス賭博事件が発覚しました。 5月16日、非主流派は自民党刷新連盟(座長・赤城宗徳)を結成して、大平内閣に綱紀粛正・党改革を要求しました。これに対する執行部の回答が不十分だとして、三木・福田・中川一郎らは、その対応を検討していました。主流派は、本会議開会を強行しました。 5月16日、参議院選挙を前に、社会・公明・民社3党は、大平内閣不信任決議案を提出しました。刷新連盟の赤城座長らは、本会議を欠席しました。中曽根康弘は、非主流派に同調せず本会議に出席しました。この時、執行部の一員として本会議に出席していた安倍晋太郎政調会長は、福田派若手の森喜朗らによって引き出されたといいます。その結果、大平内閣不信任案採決は福田派35人、三木派25人票、中川派7人、中曽根派の稲葉修・中尾栄一らの69人が欠席して、賛成243票・反対187票で可決されました。 5月19日、大平首相は、ただちに衆議院を解散しました。参議院選挙用のパフォーマンスで不信任案を提出したに野党にとっては、不信任可決は予想外の出来事でした。そこで、この解散をハプニング解散といいます。 6月12日、大平首相が急死しました。官房長官の伊東正義は、内閣法の規定により首相臨時代理に就任しました。選挙は、総務会長の鈴木善幸が取り仕切ることになりました。 6月22日、史上初の衆参同日選挙となりました。これを同日選挙とか、ダブル選挙といいます。大平の急死による同情票という現象がおこり、その結果、自民党は前回より36人増加して、284人が当選しました。総保守では305人、得票数は初めて3000万を超えました。 |
9 | 1980年7月15日、選挙対策・財界交渉の責任者である鈴木善幸が首相に就任しました。派閥の理論からすると、宮沢喜一が本命でした。しかし、宮沢は大平とはしっくりいっていなかったことが致命傷となりました。自民党は派閥抗争に疲れきっており、首相としての指導力・識見などは考慮外でした。田中派も鈴木を支持しました。鈴木は、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」とその立場を代弁しました。アメリカでは「Zenko
who?」と言われたそうです。 1981年5月7日、鈴木は、訪米して、レーガン大統領と会見し、日米が同盟関係にあることを初めて明記し、一歩軍事協力を前進させる共同声明となりました。 5月8日、鈴木は、帰国後、共同声明について、「会談内容を反映していない」と発言し、日米同盟関係を否定しました。 5月16日、外相の伊東正義は、引責辞任しました。その結果、日米関係も悪化し、親米派の岸信介らの倒閣運動がありました。 1982年10月12日、鈴木は、総裁選に不出馬を表明しました。福田は「鈴木には国民の信頼がない」と発言していました。大野伴睦の流れを汲む石原慎太郎らタカ派も立候補の準備をしていました。三木派の流れを汲み資金力もある河本敏夫も立つ意思を示していました。鈴木は「和」を捨ててまで首相を続ける気持ちがありませんでした。 |