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エピソード

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国内問題W(1981年〜1983年、中曽根内閣)
 ここでは1981年から1983年を扱います。
 中曽根政権を検証します。
 1980(昭和55)年7月17日、@70鈴木善幸内閣が誕生しました。
 1981(昭和56)年1月6日、鈴木内閣は、2月7日を「北方領土の日」と決定しました。
 1月8日、鈴木首相は、ASEAN5カ国訪問に出発しました。フィリピンに420億円の円借款、インドネシアに189億円の追加資金供与等を約束しました。
 1月29日、民社党の佐々木良作委員長は、「自衛隊合憲確認のための国会決議」を提唱しました。
 1月、中国は、日本に対し、宝山製鉄所・南京石油化学コンビナートなどの工事中止を通告しました。
 2月5日、社会党の大出俊は、衆議院予算委員会で、堀田ハガネの対韓武器輸出問題につき政府を追及しました。
 2月7日、各地で、北方領土返還運動の集会が行われました。
 3月11日、国鉄経営再建特別措置法施行令が公布され、赤字ローカル線77を廃止しました。
 3月16日、会長の土光敏夫前経団連会長は、第2次臨時行政調査会の初会合を開きました。
 4月6日、日中石油開発は、渤海で試掘成功と発表しました。
 4月8日、防衛庁は、「防衛研究」を鈴木首相に提出しました。日本が武力攻撃を受けた場合、陸・海・空3自衛隊の対処行動の問題点を検討しました。
 5月1日、乗用車の対米輸出自主規制につき、168万台で合意しました。
 5月4日、鈴木首相は、アメリカを訪問しました。
 5月8日、ワシントンで、鈴木・レーガン会談が行われ、共同声明に「同盟関係」を明記しました。
 5月15日、鈴木首相は、閣議で日米共同声明の「同盟関係」の内容は軍事的側面を含まないとの判断を示し、外交当局者に不満を表明しました。伊東正義外相・高島益郎外務次官は、責任を取り辞任しました。
 5月17日、元駐日大使のライシャワーは、「核搭載の米艦船が日本に寄港している」と発言しました。鈴木内閣は、事前協議制度を理由に、核持込みの事実を否定しました。
 7月10日、会長の土光敏夫前経団連会長の第2次臨時行政調査会は、「小さな政府」をめざす第1次答申を発表しました。
 8月15日、鈴木内閣の全閣僚は、靖国神社に参拝しました。
 8月20日、東京で、日韓外相会談が行われ、韓国側は、総額60億ドルの政府借款を正式に要請しました。
 8月23日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、社会党自治体政策研究集会で、事実上の社・公合意の凍結を発言しました。
 9月10日、日韓定期閣僚会議で、日本側は、総額60億ドルの政府借款を拒否しました。
 9月21日、新自由クラブ・社会市民連合は、衆議院に新しい統一会派である新自由クラブ・民主連合を結成しました。
 10月29日、社会党中央執行委員会は、「1980年代の内外情勢の展望と社会党の路線」を採択し、「日本における社会主義への道」の見直しを始めました。
 11月3日、海上自衛隊の観艦式は、8年ぶりに実施され、艦艇45隻・航空機55機が参加しました。
 11月27日、行革関連特例法案が成立しました。
 11月30日、鈴木首相は、租税特別措置の見直しなど事実上の増税を指示しました。財界は、政府への反発を強めました。
 12月16日、中道4党の書記長・幹事長会談で、4党合同国会対策委員会設置などを検討しました。
 12月20日、社会党委員長選挙で、飛鳥田委員長を再選しました。
 1982(昭和57)年1月8日、日米安保協議委員会が開催され、極東有事研究の着手で、合意しました。
 1月26日、東京地裁は、ロッキード事件全日空ルートの若狭会長・渡辺元副社長ら6被告に執行猶予付き有罪判決を下しました。
 2月10日、第2次臨調答申がだされ、許認可の整理合理化等が盛り込まれました。
 3月31日、地域改善対策特別措置法が公布され、同和対策事業特別措置法を継承しました。
 4月13日、鈴木内閣は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と決定しました。
 5月14日、社会党主催の「反核・軍縮ー非核地帯設置のための東京国際会議」は、東京で開催されました。社会党を含め17カ国から14政党・3団体が参加しました。
 5月23日、反核・軍縮の「平和のための東京行動」に、40万6000人が参加しました。
 5月28日、鈴木内閣は、215品目の関税率引下げなどの市場開放措置を決定しました。
 5月31日、国民運動推進連絡会議は、国連軍縮特別総会に提出する反核署名を2753万9116人と発表しました。
 6月8日、東京地裁は、ロッキード事件全日空ルートの元運輸相橋本登美三郎・元運輸政務次官佐藤孝行に有罪判決を下しました。
 6月9日、鈴木首相は、第2回国連軍縮特別総会で、核軍縮などの平和3原則を提言しました。
 6月10日、国民運動推進連絡会議は、反核署名を国連事務総長に提出しました。
 7月6日、中国政府は、日本の教科書の中国への「侵略」を「進出」とする記述など非難しました。
 7月30日、第3次臨調答申が出され、国鉄・電電・専売3公社の分割・民営化や省庁の統廃合などを提言しました。
 8月3日、韓国政府は、日本植民地支配の記述に抗議し、是正を要請しました。
 8月18日、公職選挙法改正案が可決・成立しました。この結果、全国区に拘束名簿式比例代表制度の導入を決定しました。
 8月26日、鈴木内閣は、中国・韓国などアジア諸国の教科書批判に対し、政府の責任での是正を決定しました。
 8月30日、日米安保事務レベル協議会が開会され、米は、3海峡封鎖とシーレーン防空の役割分担を要請しました。
 9月26日、鈴木首相は、来日中の中国の趙紫陽首相に対して、「教科書批判には政府の責任で是正する」と説明しました。
 11月24日、派閥間の調停が不成立による自民党総裁候補決定選挙が開票され、テレビ中継されました。その結果、1位中曽根康弘、2位河本敏夫、3位安倍晋太郎、4位中川一郎と発表されました。
 11月27日、@71第一次中曽根康弘内閣が誕生しました。法相に秦野章、外相に安倍晋太郎、蔵相に竹下登、通産相に山中貞則、官房長官に後藤田正晴らが就任しました。
 12月3日、中曽根首相は、所信表明演説で、行政改革・財政の対応力回復・日米信頼関係の強化等を声明しました。
 12月7日、中曽根内閣は、国鉄再建対策推進本部の設置を決定しました。
 12月20日、参議院で、無党派クラブが結成され、代表に美濃部亮吉・青島幸男・中山千夏らが就任しました。5 8月4分裂。
 12月22日、中曽根首相は、衆院予算委で非核3原則の厳守を明言しました。
 1983(昭和58)年1月11日、中曽根首相は、韓国を訪問し、全斗換大統領と会談しました。その結果、総額40億ドルの経済協力と教科書問題に決着をつけ、「日韓新時代」に入ったと声明しました。
 1月14日、中曽根内閣は、米の要請により武器技術の供与を決定しました。野党は、武器輸出3原則修正に抗議しました。
 1月18日、訪米した中曽根首相は、レーガン大統領に「日米は運命共同体」と表明しました。
 1月19日、中曽根首相は、「日本列島不沈空母化・4海峡封鎖」と発言して、問題となりました。
 1月24日、中曽根首相は、施政方針演説で「戦後史の大きな転換点」を強調しました。
 1月26日、ロッキード裁判丸紅ルートで、元首相田中角栄に対して受託収賄・外為法違反で懲役5年の求刑、秘書榎本敏夫に対して懲役1年の求刑がありました。
 2月9日、全野党一致で国会に田中角栄議員辞職勧告決議案を提出しました。
 3月12日、日米防衛協力小委員会は、シーレーン防衛に関する日米共同作戦研究の開始を確認しました。
 3月21日、米原子力空母エンタープライズは、15年ぶりに佐世保に寄港しました。
 4月10日、第10回統一地方選挙が行われ、北海道で横路孝弘、福岡で奥田八二ら革新知事が誕生しました。
 5月4日、サラリーマン新党が結成され、代表に青木茂が就任しました。
 5月16日、テクノポリス育成をめざす高度技術工業集積地域開発促進法が公布されました。
 5月19日、大蔵省は、中期国債の銀行窓口販売を認可しました。
 5月24日、中曽根内閣は、行革大綱を決定し、71特殊法人の整理と141件の許認可整理などを当面の課題にすることとしました。
 5月29日、中曽根首相は、米ウィリアムズバーグの先進国首脳会議で、英首相サッチャーに欧州へのパーシングV等配備の必要性を強調しました。
 6月8日、中曽根首相は、国有地の有効利用の検討を大蔵省に指示しました。これが地価騰貴の引金となりました。
 6月14日、中曽根首相の私的諮問機関として「文化と教育に関する懇談会」が発足し、座長にソニーの井深大が就任しました。
 6月26日、第13回参議院議員選挙が行われ、非改選を含め自民党137人、社会党44人、公明党26人、共産党14人、民社党11人、新自ク2人、二院ク2人、サラ新党2人、福祉党1人、無所属6人、その他4人が当選しました。
 9月7日、社会党大会は、委員長に石橋政嗣、書記長を田辺誠を選出しました。
10  10月1日、世界最大の米原子力空母カールビンソンは、佐世保に初寄港しました。
 10月12日、東京地裁は、ロッキード裁判の田中角栄被告に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を下しました。
 10月28日、中曽根首相は、田中元首相の「自発的辞職」を勧告しました。
 11月9日、米大統領レーガンが来日し、円安・ドル高是正をめぐる協議委員会設置・新たな多角的貿易交渉の実現など討議しました。また、レーガン大統領は、日本の市場開放と一層の防衛努力を要請しました。
 12月18日、@37衆議院議員総選挙が行われ、自民党250人、社会党112人、公明党58人、民社党38人、共産党26人、新自ク8人、社民連3人、無所属16人が当選しました。自民党は、過半数を確保しましたが、予算委員会で、委員長を除く与党で過半数を占めるためには、新自由クラブの8人を必要としました。そこで、新自由クラブの田川誠一代表を国家公安委員長にする条件で、中曽根内閣は、新自由クラブと連立内閣を組むことになりました。
 12月27日、@72第二次中曽根内閣が誕生しました。外相に安倍晋太郎、蔵相に竹下登、文相に森喜郎、厚相に渡辺恒三、国家公安委員長に田川誠一、官房長官に藤波孝生、行政管理庁長官後藤田正治、経済企画庁長官に河本敏夫、防衛庁長官に栗原祐幸らが就任しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。
中曽根内閣の誕生
 新聞は、2006年4月6日に小泉内閣の在任期間1807日となり、中曽根内閣を抜いて歴代3位になったことを伝えていました。そこで、長期政権を調べると、1位は佐藤内閣の2789日、吉田内閣の2616日、中曽根内閣の1806日、池田内閣の1575日、岸内閣の1241日でした。
 私のは、3歳の孫2人と1歳の孫2人がいます。小さくても、自分を持っています。我が家は、妻と2人暮らしです。共通の趣味もありますが、それぞれの趣味を尊重しており、2人で「熟年離婚は考えなくてもいいから、よかったね」とお互いを慰めています。小さな社会でも、それぞれ自己主張があります。まして、「俺が俺が」の政治の世界です。長期政権は、強烈な個性の人間を、マキャベリズム的に調整しないと達成できません。
 風見鶏と言われた中曽根康弘氏を取り上げました。
 1918年、中曽根康弘は、群馬県の高崎市で、中曽根松五郎の次男として、生まれました。
 1941年、東京帝大を卒業して、内務省に就職しました。
 1945年、海軍主計少佐で終戦を迎えました。
 1947年、29歳の時に、衆議院議員に当選しました。
 1959年、41歳の時に、第2次岸改造内閣の科学技術庁長官となりました。
 1966年、48歳の時に、河野一郎派が分裂し、中曽根派を結成しました。
 1967年、49歳の時に、第2次佐藤改造内閣の運輸大臣となりました。
 1970年、52歳の時に、第3次佐藤内閣の防衛庁長官となりました。
 1972年、54歳の時に、第1次田中内閣の通商産業大臣となりました。
 1973年、55歳の時に、ロッキード事件で、自分は逃げ切り、側近の佐藤孝行が逮捕されました。
 1974年、56歳の時に、三木内閣の時の自民党幹事長となりました。
 1977年、59歳の時に、福田内閣の時の自民党総務会長となりました。
 1979年、61歳の時に、四十日抗争で大平首相に退陣を要求しました。
 1980年、62歳の時に、鈴木内閣の行政管理庁長官となりました。
 1982年、64歳の時に、総理大臣になりました。外相に安倍晋太郎を任命しました。
 1983年、第2次中曽根内閣の時に、文部大臣に森喜朗を任命しました。
 1984年、第2次中曽根改造内閣の時に、内閣官房副長官に山崎拓を任命しました。
 1985年、第2次中曽根再改造内閣の時に、農林水産大臣に羽田孜、自治大臣に小沢一郎を任命しました。
 1986年、第3次中曽根内閣の時に、大蔵大臣に宮澤喜一、運輸大臣に橋本龍太郎を任命しました。
 1987年、69歳の時に、退陣を表明し、後任に竹下登を指名しました。
 1990年、72歳の時に、中曽根派の後継者として渡辺美智雄を指名しました。
 1996年、76歳の時に、比例区の終身一位となりました。
 2003年、83歳の時に、小泉首相から73歳の定年制による引退を要請され、引退に追い込まれました。
 中曽根康弘氏の年譜を作成して、あらゆる政権を巧みに泳いだ政治家の姿が浮かんできました。
 1982年10月22日、田中派に支持された中曽根康弘は、「総理に中曽根、総裁に福田」という総理総裁分理案を拒否したので、話し合いによる総裁選出はご破算となり、中曽根・河本敏夫・安倍安倍晋太郎・中川一郎の間で予備選が行われることになりました。
 11月24日、予備選の結果、中曽根は60万票(57.6%)を得て、河本26.5万票・安倍8万票・中川6万票を圧倒し、首相に就任しました。しかし、中曽根は、官房長官に田中派の後藤田正晴、幹事長に田中派の灰色高官である二階堂進、蔵相に竹下登・厚相に林義郎・建設相に内海英男・自治相に山本幸雄・環境相に梶木又三らの田中派を任命しました。その結果、田中曽根内閣とか直角内閣などと言われました。また、田中角栄は、無所属議員であるのに、大平・鈴木・中曽根3代を首相にしたことから、キングメーカーとか闇将軍と言われました。
 1983年10月12日、東京地裁は、ロッキード事件に関し、田中角栄を受託収賄罪で、懲役4年。追徴金5億円の実刑判決を下しました。
 12月18日、総選挙で、自民党は当選250人で、三木内閣の時と同じ過半数割れでした。
 12月24日、中曽根首相は、「田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明を発表しました。
 新聞(2006年7月14日付け朝日新聞)によると、全国霊感商法対策弁護士連絡会は、「福岡市で5月に開かれた世界基督教統一神霊協会(統一教会)の関連団体の会合に、安倍晋三官房長官ら多数の政治家が祝電を送ったとされる問題で、安倍長官らに公開質問状を送った」と公表しました。
 統一教会というと、桜田淳子・山崎浩子・音無美紀子などの入信で話題となり、合同結婚式で有名になり、「親泣かせの原理運動」とか霊感商法で非難を浴びた集団です。教組は韓国人の文鮮明です。今話題の摂理の教祖である鄭明析は、統一教会に所属していました。
 教義は、悪魔・サタンと性的関係をもったエバが堕落し、そのエバがアダムと性的関係を持つことによって、人間は悪魔・サタンの子となりました。その結果、地上に地獄が誕生したというのです。この世も家族もサタンが支配しています。それを完全に救うのがイエスの再臨したメシヤです。再臨のメシアが文鮮明というのです。文鮮明の指示に従い、サタンの誘惑を断ち切った時、に地上の天国が回復されるのです。オウム真理教や摂理に共通するカルトです。
 2006年3月21日、中曽根康弘は、千葉・幕張メッセで開催された天宙平和連合日本大会で、「文鮮明総裁の指導のもと、理想を実現することを望む」という祝電を送っています。
 政治家は、他人が家族が破壊され、悩んでいても、金・票になれば、何にでも手を出すということがよく理解できます。こういう人ほど、愛国心を説くというのも皮肉なものです。
 田中角栄は勿論、中曽根康弘を知ることも、人間の裏表を知る上で、貴重です。
 次は、中曽根氏のあだ名を調べてみました。
(1)一番有名なのが「風見鶏」です。風見鶏とは風の向きに逆らわずに風向きを知る役目を持った装置のことです。大きな流れに沿って、自然体に流されるともいいます。時代の先を読んで、自在変化(じざいへんげ)に身を処すやり方です。西郷隆盛タイプでなく、大久保利通タイプと言えます。
(2)次に「藪枯らし」です。いくつもの汚職に関与しながら、側近の逮捕で逃げ切っています。
(3)次に「遠目の富士山」です。田中角栄は、中曽根を遠目の富士山と呼んだそうです。遠くで眺めていると富士山は姿はいいが、近寄ってみると富士山はゴミの山です。つまり表面的に付き合っている分にはいい人物に見えるが、長く付き合うと鼻持ちがならない人物だということです。
(4)その外は、「緋縅の鎧を着けた若武者」・「平成の妖怪」というのがあります。また、「塀の上を歩いていて中に落ちたのが角栄、外に落ちて勲章まで貰ったのが中曽根」というのも聞いたことがあります。法律にギリギリのことをしていて、刑務所に落ちたのが田中角栄で、落ちずに大勲位までもらったのが中曽根康弘ということです。
 終戦時、海軍主計少佐であった中曽根康弘は、やはり戦前の精神構造を深く宿しています。と同時に戦前では理解できない日米同盟の信奉者でもあります。
 戦後の日本の歴史を考える時、重要なキーワードが連続性と非連続性です。戦前の戦争指導者が続々と政治・経済・軍事に復帰してきました。A級戦犯の岸信介が総理大臣になったことが連続性の最大の証明です。
 鬼畜米英と叫んで戦争に突入したA級戦犯や軍人は、戦後、日米同盟に命を懸けます。岸信介であったり中曽根康弘がその代表で、これを戦前との非連続性といいます。中曽根氏は、アメリカの大統領レーガンと「ロン=ヤス」と呼ばれる間柄だと自慢しています。滑稽な自慢です。最近では、小泉さんがブッシュ大統領の前で「ラブ=ミー=テンダー」と歌ってみました。 
中曽根首相在任期間中の靖国参拝(公式参拝)
1983年   4月21日 8月15日 10月18日
1984年 1月05日 4月21日 8月15日 10月18日
1985年 1月21日 4月22日 8月15日  

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