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エピソード

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国内問題X(1984年〜1986年、中曽根首相と竹下派)
 ここでは1984年から1986年を扱います。
 中曽根首相と竹下派の動きを検証します。
 1983(昭和58)年11月27日、@71第一次中曽根康弘内閣が誕生しました。
 1984(昭和59)年2月12日、社会党は、自衛隊の「違憲合法論」を1984年度運動方針に盛り込むことを決定しました。これに対して、党内左派などが反発しました。
 2月27日、石橋委員長は、自衛隊の違憲合法問題は「適法性なし」の見解で論争に決着しました。
 2月26日、社民連の田英夫代表は、従来の非核3原則に「核攻撃をさせない」を加えた非核4原則を提言しました。
 3月23日、中曽根首相は、中国を訪問し、共産党の胡権邦総書記・ケ小平顧問委主任ら中国首脳と会談し、日本の対中国経済協力拡大等を討議しました。
 3月26日、民社党は、「防衛費のGNP比1%枠突破はやむをえない」との見解を表明しました。
 4月1日、国鉄の赤字ローカル線に代る初の第3セクター「三陸鉄道」が開業しました。
 4月13日、自民党総務会は、靖国神社の公式参拝を合憲とする党見解を決定しました。
 5月15日、自民党安全保障調査会は、防衛費のGNP比1%枠の見直し作業に着手しました。
 5月18日、中曽根首相は、衆議院外務委員会で、公海上での核搭載米艦船との共同訓練の可能性を事実上承認しました。
 7月24日、総評大会は、春闘再構築と反行革会議設置などを決定しました。
 8月6日、自民党安全保障調査会の法令整備小委員会(委員長箕輪登)は、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」を発表しました。これをスパイ防止法案第3次案といいます。
 8月10日、国鉄再建監理委員会は、第2次緊急提言で、初めて分割・民営化の方向を明示しました。
 8月21日、臨時教育審議会が設置され、会長に岡本道雄前京大総長が就任しました。
 9月6日、韓国の全斗換大統領が来日しました。宮中晩餐会で、昭和天皇は、「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾です」と声明しました。
 9月8日、中曽根首相・全斗換大統領は、「日韓両国の関係に新しい章を開くものである」とする共同声明を発表しました。
 10月27日、自民党の二階堂進副総裁は、党実力者会談で党改革を要求しました。中曽根首相批判から、公・民両党を含む「二階堂政権構想」が浮上して、政界に衝撃を与えました。
 11月1日、中曽根首相は、内閣を改造し、新自由クラブとの連立内閣としました。外相・蔵相は留任、労相に新自由クラブの山口敏夫、防衛庁長官に加藤紘一、沖縄開発庁長官に河本敏夫らが就任しました。
 11月3日、中曽根首相は、インドのガンディ一首相の国葬に参列しました。
 11月4日、中曽根首相は、ソ連のチーホノフ首相と11年ぶりの日ソ首脳会談を行いました。
 11月11日、神奈川県逗子市長選で、米軍住宅建設に反対する市民グループの富野暉一郎が当選しました。
 11月21日、中曽根首相は、「日米共同作戦計画案」を了承し、その内容は非公開としました。
 12月6日、自民党の金丸信幹事長と黒川武総評議長が会談しました。これは自民・総評両首脳初の会談でした。
 12月15日、社会党は、原発政策で既設施設の容認を決定しました。
 12月、1985年度政府予算案で防衛費は前年度比6..9%増となり、防衛費の伸び率が一層顕著となりました。
 1985(昭和60)年1月2日、ロサンゼルスで、日米首脳会談が行われ、中曽根首相は、「アメリカのSDI構想に理解」と発言しました。
 1月17日、社会党定期大会で、石橋政嗣委員長は、ニュー社会党路線の強化・発展を強調しました。
 1月27日、竹下登は、創政会の発足を表面化させました。
 2月6日、法務省は、「在日外国人の指紋押捺制度を見直し」を公表しました。
 2月7日、竹下登を中心にした創政会に40人が初会合しました。
 2月11日、首相の中曽根は、「建国記念日を祝う会」主催の式典に、首相として戦後初めて出席しました。
 2月20日、公明党の竹入義勝委員長と民社党の佐々木良作委員長が会談し、連合政権協議の再開を確認しました。
 2月26日、経団連は、関税撤廃の拡大・残存輸入制限27品目の自由化などを提言しました。
 2月27日、元首相の田中角栄が入院し、政界に動揺が走りました。
 3月27日、佐々木良作委員長は、「世代交代を図る」との理由で辞任、党長老の春日一幸常任顧問も辞任しました。
 4月9日、中曽根内閣は、経済摩擦等の対策の包括的な対外政策を決定しました。
 4月23日、民社党大会は、委員長に塚本三郎を選出しました。
 5月31日、自民党は、定数是正問題で「6増・6減案」を内容とする公職選挙法改正案を衆議院に提出しました。
 6月6日、自民党は、国家秘密法(スパイ防止法)案を議員立法として衆議院に提出しました。
 6月10日、加藤紘一防衛庁長官は、ワインバーガー米国防長官との会談で、防衛大綱達成の決意を表明しました。
 6月17日、臨時行政改革推進審議会の内閣機能分科会は、内閣中枢の強化を目標とした外政調査会新設・国防会議の安全保障会議への改組などの報告書を作成しました。
 6月25日、スパイ防止法は、記名投票の結果、継続審議となりました。
 7月7日、最高裁は、現行定数配分規定を違憲と判決しました。
 7月22日、臨時行政改革推進審議会の内閣機能分科会は、首相に報告書を提出しました。
 8月7日、中曽根首相は、国防会議で、防衛庁の1984年の中期業務見積りの政府計画への格上げ検討を指示しました。つまり、防衛費のGNP比1%枠撤廃検討の具体化という内容です。
 8月13日、三光汽船は、5000億円の負債で戦後最大の倒産となりました。オーナーの河本敏夫は、沖縄開発庁長官を辞任しました。
 8月15日、中曽根首相は、戦後初めて、首相として靖国神社に公式参拝しました。閣僚18人も公式参拝し、野党等の批判が高まりました。
 9月22日、日・米・英・仏・西独の蔵相・中央銀行総裁は、ドル高修正のため為替市場への協調介入で同意しました。
 9月24日、中曽根内閣は、「当面の行政改革の具体化方策」(行革大綱)を決定しました。
 10月11政府、国鉄の6分割・民営化を骨子とする「国鉄改革のための基本方針」を決定。
 11月12日、自民党両院議員総会は、憲法改正の検討推進の新政綱を了承しました。
 12月18日、社会党大会は、ニュー社会党の「新宣言」案に左派が反対し、採択を保留しました。
 12月21日、スパイ防止法が廃案となりました。
 12月23日、首相官邸で、内閣制度100周年記念式典が行われました。
 12月28日、中曽根首相は、内閣を改造しました。文相に海部俊樹、農相に羽田孜、通産相に渡辺美智雄、運輸相に三塚博、国家公安委員長に小沢一郎、官房長官に後藤田正治、総務長官に江崎真澄、科学技術庁長官に元新自由クラブの河野洋平代表らが就任しました。
 1986(昭和61)年1月22日、社会党は、「新宣言」で、社会民主主義路線に転換しました。
 2月11日、「建国記念の日を祝う会」主催の国民式典に、中曽根首相はじめ17閣僚が出席し、国家行事色が強まりました。
 3月19日、中国外務省は、天皇訪中に期待を表明しました。
 4月29日、天皇在位60年記念式典が両国国技館で開催されました。
 5月1日、東京地検は、民社党の横手文雄を200万円の受託収賄容疑、自民党中曽根派の稲村左近四郎元国土庁長官を500万円の収賄容疑で在宅起訴しました。稲村が横手に日本撚糸工業組合連合会に有利な答弁をするよう通産省幹部に迫ったというものです。これを撚糸工連事件といいます。
 5月4日、東京サミットはリビア名指しのテロ反対・チェルノブイリ事故の情報要求声明を採択しました。
 5月21日、8増7減の衆議院定数是正法案が衆議院を通過しました。
 5月22日、衆議院定数是正法案が参議院を通過しました。自民党内に、衆院解散による衆参同日選挙論が高まりました。
 6月7日、中国政府は、「日本を守る国民会議」の日本史教科書の是正を要求しました。韓国内でも批判がおこりました。
 6月17日、中曽根内閣は、「日本を守る国民会議」の日本史教科書の修正を要請しました。
 7月6日、@38衆議院議員総選挙と第14回参議院議員選挙が行われました。これを衆参両院同日選挙といいます。衆議院は、自民党300人、社会党85人、公明党56人、共産党26人、民社党26人、新自ク6人、社民連4人、無所属9人が当選しました。参議院は、自民党72人、社会党20人、公明党10人、共産党9人、民社党5人、新自ク1人、二院ク1人、サラ新1人、税金1人、無所属6人が当選しました。衆参同日選挙を導入した自民党の圧勝でした。
 7月7日、「日本を守る国民会議」の日本史教科書は、修正の上で、検定に合格しました。
 7月22日、@73第三次中曽根内閣が誕生しました。外相に倉成正、蔵相に宮沢喜一、文相に藤尾正行、農相に加藤六月、通産相に田村元、運輸相に橋本龍太郎、副総理に金丸信、官房長官に後藤田正晴、国土庁長官に綿貫民輔らが就任しました。
 8月15日、首相・外相ら4閣僚は、近隣諸国への配慮から靖国神社公式参拝を見送りしましたが、16閣僚は、参拝しました。
 8月15日、新自由クラブは、総選挙の敗北から解党し、代表の田川誠一を除いて自民党に復党しました。
 8月、金融機関が第3土曜日も休業を実施しました。
10  9月5日、藤尾正行文相の『文春』での「日韓併合は韓国にも責任」の発言が表面化しました。
 9月6日、社会党委員長選で、土井たか子が上田哲を大差で破り当選し、日本初の女性党首が誕生しました。
 9月8日、韓国は、日韓外相会談の延期を申し入れました。中曽根首相は、藤尾文相を罷免しました。
 9月9日、後任の文相に塩川正十郎が就任しました。
 9月11日、自民党両院議員総会は、党則を改正し、中曽根首相の任期を1987年10月30日まで1年間の延長を決定しました。
 9月20日、韓国を訪問した中曽根首相は、全斗煥大統領に陳謝しました。
 9月22日、中曽根首相は、自民党研修会で、「黒人などのいるアメリカは知識水準が低い」と発言し、米国内で激しい批判を浴びました。
 9月27日、中曽根首相は、「黒人などのいるアメリカは知識水準が低い」発言で、米国民に陳謝しました。
11  10月1住友銀行、平和相互銀行を吸収合併、預金高国内2位となる。
 10月3日、中曽根首相は、「黒人などのいるアメリカは知識水準が低い」発言で、衆議院予算委員会で、日本国民にも陳謝しました。
 10月27日、北海道で、初の日米共同統合実動演習が実施されました。
 11月10日、中曽根首相は、「北海道旧土人保護法」の見直しを国会で言明しました。
 11月27日、NTTの調査で、神奈川県警による共産党幹部の電話盗聴の疑惑が発覚しました。
 11月28日、国鉄分割・民営化関連8法案が成立しました。
 12月30日、政府予算案が決定し、防衛費がGNP1%枠を突破しました。また、整備新幹線の凍結が解除されました。
 12月、大型景気が始まりました。
 この項は、『近代日本総合年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。
中曽根康弘、金丸信・竹下登と創政会
 1985年は、私の43歳の時ですから、全くの同時代史になります。
 田中角栄さんが脳梗塞で倒れ、その後、TVに写る角栄さんをみても、手を振るだけで、特徴のあるダミ声を聞くことがなくなりました。
 その原因が子飼の寵愛している竹下登氏が自分を裏切って創政会を結成したと言われています。
 その見舞いに来た竹下登氏を、追い返したのが、角栄さんの娘真紀子さんだったという噂も聞いたことがあります。政治の世界の骨肉の争いでした。義理人情の世界でもありました。
 今回は、中曽根政権と創政会をめぐる動きを追ってみました。
 1958年5月、衆議院議員選挙で、金丸信(1914年生れ)・竹下登・安倍晋太郎らが当選し、親交を深めました。金丸は、自分の長男に竹下の長女を嫁に迎えるほどの間柄でした。この結婚は、佐藤栄作の妻である寛子が進めたといいます。
 1972年、金丸信は、自民党総裁選では、福田赳夫を支持していたボスの保利茂の意に反して、田中角栄の派閥結成に参加しました。
 1984年、高度情報社会に関する懇談会・経済政策に関する懇談会・臨時教育審議会・閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会など多数の公私の諮問機関を作り、その委員には、自分のブレーンである伊藤忠の瀬島龍三相談役・東大の佐藤誠三郎教授・学習院大の香山健一教授らを任命しました。この方法は、従来の官僚の作文を政策立案として成立させるのではなく、トップダウン型のやり方でした。自民党内から政党政治の基礎を揺るがすと批判が出ましたが、中曽根は「審議会は国民の声を聞くために必要である」として押し通しました。これを審議会政治といいます。
 1984年9月6日、韓国の全斗煥は、大統領として初めて来日しました。その夜の宮中晩餐会で、昭和天皇は「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と挨拶しました。これは植民地支配の過去についての最初の正式な反省の弁でした。
 8月3日、中曽根内閣は、専売公社を日本たばこ産業会社(JT)化しました。 
 10月26日、鈴木善幸前首相は、田中角栄元を訪問し、田中派の二階堂進副総裁を総裁に擁立することを打診しました。中曽根は「鈴木時代は、経済も日米関係も最悪だった」と周囲に語るのを知り、鈴木は感情を害していました。鈴木の提案に田中曽根内閣に不満の三木武夫・福田赳夫、公明党の竹入義勝委員長・矢野絢也書記長、民社党の佐々木良作委員長らも同調しました。これを二階堂擁立劇といいます。
 しかし、田中角栄の反対と、野党との野合に抵抗感が出ました。この結果、二階堂擁立劇の失敗は、中曽根再選となりましたが、これは長老政治の終焉と、田中角栄の最大の忠臣である二階堂の反乱は、田中派分裂の兆しとなりました。
 12月18日、中曽根首相の私的諮問機関である平和問題研究会は、防衛費のGNP1%枠の撤廃を促す最終報告書を提出しました。
 12月20日、中曽根内閣は、電電公社を日本電信電話会社(NTT)化しました。
 12月25日、田中派の竹下登を中心とする勉強会(創政会)の旗揚げ準備会が極秘裡に開かれた。竹下の後見人である金丸信が中心となり、竹下登・小渕恵三・梶山静六が参加しました。
 1985年1月初旬、小沢一郎は、二階俊博に対して、勉強会への参加を呼びかけました。二階は、田中派の会長代理である江崎真澄系に属していました。二階は「田中先生の祝福を浴びて出発すべきではないか」と反論されました。
 1月28日、毎日新聞は「竹下氏が政策集団を旗揚げ」というスクープ記事を発表しました。
 1月29日、これを知った田中角栄は激怒しました。田中の腹心である木曜クラブの二階堂進会長・江ア真澄会長代理・小沢辰男事務総長・秘書の早坂茂三・佐藤昭らは、創政会の参加議員の調査・切り崩しを開始しました。
 2月7日、創政会の設立総会を開きました。最初、金丸信の息子の義父である竹下登を盟主とする創政会には、田中派120人の内85人が入会を申し込みました。しかし、田中角栄らの切り崩しで、40人が参加しました。そこには、橋本龍太郎・小沢一郎・羽田孜・梶山静六・小渕恵三・奥田敬和・渡部恒三ら田中の子飼いが参加し、竹下派七奉行といわれました。その他には、野中広務・綿貫民輔・村岡兼造・鳩山由紀夫・岡田克也ら、小泉内閣で煮え湯を飲まされる人々もいました。
 田中角栄の支配の特徴は、田中派からは総裁・首相を出さず、自民党国会議員の3分の1を握る数を力として他派の領袖に貸して、全体を支配するというものでした。この支配が続く限り、田中派から首相を出せないことに金丸・二階堂・竹下らが不満を持ったということが背景にありました。
 2月27日、田中角栄は、自宅で脳梗塞で倒れ、入院しました。その後退院した田中は、言語障害が残り、政治的影響力を無くしました。
 7月17日、最高裁は、「1983年の総選挙で1票の価値が最大で3倍以上に開いているのは憲法に違反する」と判決しました。
 1986年5月8日、衆議院の坂田道太議長は、「8増7減」の是正で格差3倍未満にすることと、公布から30日間の周知期間を置くことを内容とする調停案を提示しました。
 5月22日、与野党は、通常国会最終日に、議長の調停案を成立させました。周知期間を置くためには、公示は6月21日になります。官房長官の藤波孝生は、「同日選の道が断たれて、首相は打ちひしがれている」と語りました。
 6月2日、中曽根首相は、閣議で、衆議院解散を決定しました。本会議を開かずに、議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を坂田道太衆議院議長が朗読して、異例の衆議院解散となりました。7月6日の参議院選と同時に、衆議院選も行うことにし、衆参同日選挙としました。これを死んだふり選挙といいます。
 7月6日、衆議院選では、自民党は300人を当選させ、圧勝しました。
 8月15日、中曽根は、中国への配慮から靖国神社に参拝しませんでした。
 9月初旬、藤尾正行文相は、『文藝春秋』10月号に、「相手に合わせることを外交というのは錯覚」として、1910年の日韓併合も「韓国側にもいくらかの責任がある」などと掲載しました。
 9月8日、藤尾発言に韓国が強く抗議したので、中曽根は、藤尾文相を罷免しました。
 9月11日、両院議員総会で、党則を改正して、中曽根首相は1987年10月30日まで1年間総裁を延期されました。
 10月28日、中曽根内閣は、37兆3000億円の長期債務と9万3000人の余剰を抱えて、政府の最大にお荷物である国鉄を民営化させました。
 12月30日、政府予算案が決定し、防衛費がGNP1%枠を突破し、1.004%となりました。

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