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エピソード

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高度経済成長と四大公害裁判
 国内総生産のことをGDP(Gross Domestic Product)のことです。企業が工場を作ったり機械を買ったり材料を買ったりした額、日本人が商品を買ったり、家を建てたりした額、つまり国内で使われたお金の総額のことです。ある年のGDPを前年のGDP比較し、その増減を%で表したものを経済成長率といいます。
 以前は、国民総生産つまりGNP(Gross National Product)で表示されていました。
経済成長率(国内総生産。単位:%)
1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964
  6.4 7.5 7.3 11.2 12.2 11.7 7.5 10.4 9.5
1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974
6.2 11.0 11.0 12.4 12.0 8.2 5.0 9.1 5.1 -0.5
1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984
4.0 3.8 4.5 5.4 5.1 2.6 3.0 3.1 2.5 4.1
1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994
4.1 3.1 4.8 6.0 4.4 5.5 2.9 0.4 0.5 0.6
1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003  
3.0 4.4 -0.1 -1.9 0.5 2.5 -1.1 0.8 1.9  
戦後インフレ期 【1】戦後の民主化
(1)財閥解体・農地解体
(2)労働組合の育成
【2】インフレの激化
1945年、財閥解体
1946年、農地改革・金融緊急措置令
1947年、傾斜生産方式・独占禁止法
1947年、復興金融金庫・労働基準法
復興期 【1】日本経済自立化促進
(1)インフレ収束
(2)不況(安定恐慌)
1948年、経済安定九原則
1949年、ドッジ=ライン・シャウプ税制
成長期 【1】朝鮮特需
(1)景気回復
(2)資本蓄積・技術革新
(3)重化学工業化
【2】米の経済圏に編入
1950年、朝鮮戦争
1951年、対日講和・日米安保
1952年、IMF・世界銀行に加盟
1953年、国際収支悪化→金融引締
特需
景気
1954年、MSA協定 不況
高度成長期 【1】第一次高度成長期
(民間設備投資主導型)
(1)技術革新
(2)需要の拡大ー消費革命
1955年、GATTに加盟
1956年、設備投資・造船世界一
1957年、国際収支悪化→金融引締
神武
景気
31カ月
1958年、戦後初の公定歩合引下 鍋底不況
【2】豊富な資金と政策
(1)高い貯蓄力
(2)政府の財政投融資
(3)安価で質のよい労働力
【3】開放経済体制へ移行
(1)貿易の自由化
1959年、最低賃金法・三井三池争議
1960年、新安保・国民所得倍増計画
1960年、高度成長経済政策
1961年、農業基本法・国際収支悪化
岩戸
景気
42カ月
1962年、新産都市法・自由化率88% 不況
1964年、IMF・OECD加盟
1964年、貿易自由化率93%
オリンピック
景気
24カ月
【4】第二次高度成長期
(1)輸出主導型→貿易黒字
(2)財政支出に依存→
  財政赤字
1966年、第一回赤字国債発行 不況
1967年、資本取引自由化
1968年、GNP世界第二位
いざなぎ
景気
57カ月
1970年、減反政策 不況
安定成長期 【1】スタグフレーション 1971年、ドル=ショック、株価大暴落
1971年、1ドル=308年
1973年、変動相場制へ、石油危機
 
1974年、狂乱物価、マイナス成長 不況
1976年、国際収支黒字→貿易摩擦
1979年、第二次石油危機
1980年、自動車生産世界一
 
【1】国際収支の大幅黒字
【2】円高・貿易摩擦
(1)設備投資の停滞
(2)個人消費の停滞
【3】低成長→緊縮財政
1982年、貿易摩擦による対日批判  
1985年、プラザ合意→円高 円高不況
低成長期 1987年、円急騰1ドル=120円台
1989年、消費税3%実施
1991年、バブル崩壊
バブル
景気
1993年、米市場の部分開放
1995年、1ドル=79円75銭
1997年、消費税5%に引上げ
平成不況
月間現金給与額(従業員30人以上。単位:千円)
1951 1955 1960 1965 1970          
12.2 18.3 24.4 39.4 75.7          
1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984
177.2 200.2 219.6 235.4 247.9 263.4 279.1 288.7 297.3 310.5
1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994
317.1 327.0 335.9 341.2 357.1 370.2 384.8 392.6 393.2 401.1
1995 1996 1997 1998 1999       2003 2004
408.9 413.1 421.4 415.7 396.3       369.2 377.0
 私が土地を買い、家を建てたのが、33歳の時ですから、1975年になります。就職した1967年の頃の給与は1万3800円でした。8年後の1975年には、月給が4倍以上になっています。年々、目覚しい増加です。今、大きな借金をしていても、直ぐ返せると思ったものです。
 私たちの高校時代、電話や車がある家は、大金持ちの家でした。同じクラスの女生徒の家は、学校からの帰途にあります。彼女の前を自転車で通ると、軽やかなピアノの音が聞こえてきました。彼女の家は造り酒屋で、電話・車・ピアノなどが揃っていました。
 我が家に電話がついたのは結婚の年です。車は、親戚の人からもらったトヨタの真っ赤なパブリカで、一見ポルシェに似ており、子供たちに囲まれ、「この車、ポルシェ?」と聞かれたものです。
 この豊かさの裏で、失われたものもたくさんあります。
 私の高校時代の政経の教科書には、四日市のコンビナート工場からモクモクとあがる煙の写真の説明に、「発展する日本の工場地帯」とありました。その結果が、排出ガスによる公害、つまり四日市ゼンソクでした。
 四大公害といわれる経済成長の負の遺産があります。
(1)熊本県水俣湾の水俣病は、原因が水銀中毒です。
(2)富山県神通川流域のイタイイタイ病は、原因がカドミウム汚染です。
(3)新潟県阿賀野川流域の新潟水俣病は、原因が水銀中毒です。
(4)三重県四日市の四日市ゼンソクは、原因は亜硫酸ガスです。
 豊かな生活を享受しつつ、自然への冒涜という現象、深く考えさせられます。しかし考えるだけでなく、自分に出来る自然保護を実行するしかありません。
 この項は、『近代日本総合年表』・『数字でみる日本の100年』などを参考にしました。
水俣病と日本病
 私は、退職を機に、全ての教材を廃棄してしまいました。その後、卒業生からプリント日本史が手に入らないかと言われて、幸い、プリントはパソコンに残っていたので、直ぐアップできました。すると、授業に合間に入れるエピソードも読みたいという希望もあり、請け負ったものの、39年間に貯めておいた教材を廃棄したため、資料もない、喋った説明もない、という状況で、苦心しながら、エピソード日本史をここまでやってきました。
 水俣病に関しても、凄い新聞記事をスクラップしていたのに、手元にありません。今思い出しても、どこまで正確かは自信がありません。ともかく、頑張ってみます。
 水俣に住んでいる、あるお母さんの証言です。小学生の子供が、朝、お汁の具をすくうのに、箸をお椀の中に入れず、その周囲にやって遊んでいました。お母さんは、学校が嫌なので、グズグズしていると思い、「ちゃんと食べなさい」と怒りました。すると、子供は、「お母ちゃん、お箸がお椀の中に入れへん」と泣いて答えました。お母さんは、家が貧しいので、魚や肉やあまり食べさせていないので、栄養不足と勘違いして、その日から、地元の海で取れる魚や貝をせっせと買い与えたといいます。しかし、それも空しく、小学生の子供は亡くなってしまいました。後に、水俣病が報道されると、そのお母さんは「私が殺したようなもんです」と語りました。
 今、思い出しても、ジーンときます。授業中で、生徒たちはこの話を聞いて、涙ぐむ子もいました。私も涙を必死に抑えていたので、「先生も泣いていたやろー」と言われたことがあります。
 化学の先生に、メチル水銀のことを聞きました。水銀は、常温・常圧なので、体温計に使われており、どんな物かわよく分かります。液体である唯一の金属元素で、銀のように白いので水銀というそうです。
 水銀には、有機と無機があり、有機水銀の毒性はかなり高く、排泄物と一緒に体外に出ない蓄積性があるそうです。生物の時間、食物連鎖を学びましたが、水銀を食べた小魚を大きな魚がたべ、その大きな魚を人間が食べると、人間の体内に水銀がどんどん蓄積されるそうです。
 メチル水銀は、水銀がメチル化された有機水銀化合物で、非常に毒性が高いのだそうです。体内に蓄積されたメチル水銀は、人間の中枢神経を侵し、手足がしびれる、言語障害に陥り、耳・目・手足の機能が失われて歩行が困難となる、痙攣・精神錯乱、最後には死亡するということです。
 水俣では、猫にその症状が現れ、発病した猫は逆立ちして歩いたり、狂ったようにクルクル回って壁にぶつかったり、海に飛び込んで死んだりしました。地元に人は、ハカイラ病・ヨイヨイ病・ツッコケ病と呼んでいたそうです。ツッコケるとは「つまずく」という意味です。
 水俣の小学生の子供は、手足のしびれている状態だったのでしょうか。薬と思って食べさせた魚の中にメチル水銀という猛毒があったのです。
 では、どうして、水俣地方にだけ、このような症状が出たのでしょうか。
 1908年、鮎川義介は、新興財閥として日本窒素肥料を設立して、石灰窒素の製造を開始しました。
 1927年、鮎川義介は、国策会社の朝鮮窒素肥料を設立し、世界最大規模の化学コンビナート興南工場を経営しました。
 1932年、日本窒素肥料は、*アセトアルデヒドの製造を開始しました。アセトアルデヒドを製造する時の触媒によって、副産物であるメチル水銀が生成されます。汚染処理をしないまま、メチル水銀を含んだ廃液を水俣湾の八代海(不知火海)に放流しました。印がメチル水銀と関係があります。
 1941年、日本窒素肥料株式会社は、*塩化ビニールの製造を開始しました。
 1944年、水俣湾で牡蠣が、多数、腐死しました。
 1945年、日本窒素肥料は、全国のトップを切ってアンモニア肥料(硫安)の製造を再開しました。
 1946年、日本窒素肥料水俣工場には、5200人の従業員がいました。これは市の人口の14%に当たり、水俣市はいわゆる企業城下町として発展します。下請け・関連会社を含めると、半数の市民は水俣工場と関係があり、市税の半分も水俣工場とその関連が占めていました。
 1949年、水俣湾での漁獲高は激減して、ネコの「おどり病Jが発生しました。ニワトリ・犬・豚が狂死したり、カラスの乱舞墜落が報告されました。
 1950年、新日本窒素肥料株式会社として再出発し、塩化ビニールの可塑剤原料であるオクタノールは、戦後のヒット商品となりました。しかし、オクタノールの原材料がアセトアルデヒドでした。
 1951年、水俣病を引き起こした有機水銀を含んだ廃液が、工場外に流出することを予見したチッソ水俣工場の社内報告書を朝日新聞が入手した。同社の汚染責任は73年の1次訴訟判決で確定したが、「使ったのは無機水銀で、工場内での有機水銀の発生は予見できなかった」と主張していた。
 1952年、新日本窒素肥料は、*オクタノール・DOP・アセテートステープルの製造を開始しました
 1953年、水俣湾周辺で、原因不明の患者が見られるようになりました。風土病とされました。
 1954年、茂通地区のネコは、「おどり病Jにより全滅しました。
 1955年、水俣湾の猫が、多数、原因不明で死亡しました。
 1956年、水俣湾の漁師に、猫と同様の症状が出てきました。風土病とされました。
 1956年4月、新日本窒素肥料付属病院の細川一院長は、歩行障害や言語障害などを訴える5歳と2歳の姉妹を診察しました。また、細川院長は、同様の症状を訴える患者を多数診察しました。
 5月1日、細川院長は、熊本県水俣保健所に「原因不明の中枢神経症患者が多発している」と報告しました。この報告は、厚生省にも伝えられました。この5月1日が水俣病確認の日とされています。2006年は水俣病確認から50年ということになります。
 1957年、水俣漁協は、新日本窒素肥料に対して、廃水の放流中止を申し入れました。議会でも漁獲禁止措置が審議されましたが、認められませんでした。
 1957年、熊本大学医学部水俣病研究班は、英国の農薬工場で発生したメチル水銀中毒の報告論文である「ハンター・ラッセル症候群」に着目し、手足のしびれ・感覚障害・視野狭窄・運動失調などが水俣病と症状が酷似していることを突き止めました。
 1957年、水俣保険所の伊藤蓮雄所長は、水俣産魚介類をネコに投与する実験を行い、その結果、7匹中5匹が発症しました。そこで、伊藤所長は、熊本県に対して、「水俣病は水俣湾で何らかの毒物に汚染された魚が原因である。魚を食べさせない措置をとってほしい」と報告しました。熊本県から打診を受けた厚生省は、「すべての魚が有毒化しているという明らかな証拠がない限り食品衛生法は適用すべきではない」と回答し、予防策は立ち消えとなりました。
 1958年、新日本窒素肥料は、排水口を変えました。これは、会社と水俣病の因果関係を把握していたことの証拠ですが、姑息な方法で、隠密裏に行われたため、被害が拡大しました。
 1959年7月、熊本大学医学部水俣病研究班は、「水俣湾の魚介類に含まれる神経親和性の高い毒物による中毒である」として、原因は新日本窒素肥料水俣工場から排出される有機水銀中毒であることを突き止めました。 
 11月、厚生大臣の諮問機関である食品衛生調査会は、「原因はある種の有機水銀」と報告しました。
 1959年、しかし、新日本窒素肥料は、これを否定し、立ち入り検査も拒絶しました。その反論として、次の説を紹介しました。
(1)日本化学工業協会理事の大島竹治「爆薬説」
(2)東京工業大学教授の清浦晋作「アミン中毒説」
(3)東邦大学教授の木田菊次「腐敗アミン説」
 1959年、新日窒付属病院の細川一院長は、実験により、水俣湾の廃液を投与された猫が発症しました。これで水俣病と廃液との因果関係が実証されました。
 しかし、会社は、細川一院長に今後の実験を禁止し、「工場排水には無機水銀しか含まれていない」として有機水銀とは無関係であると視聴し、細川一院長の実験結果は、1968年まで秘匿しました。
 1960年、新日窒付属病院の細川一院長は、禁じられた実験を再開し、ネコ7匹が水俣病を発症しました。
 1960年、患者家族互助会と新日窒「見舞金契約」締結。内容は死者30万円葬祭料2万円、生存患者年金10万円など、「今後原因が工場排水とわかっても追加保障しない」という内容を含み、後の判決で「公序良俗に反する」と指摘されたもの。
 1961年、新日本窒素肥料の工場技術部は、アセトアルデヒド溝留塔ドレーンから塩化メチル水銀(有機水銀)を検出しましたが、会社側は、これも隠蔽しました。
 1962年、熊本大学医学部水俣病研究班は、水俣工場のアセトアルデヒド製造工程スラッジ(排出汚泥)を入手し、工場内で、無機水銀が有機水銀に変化することを確認しました。
 1963年、阿賀野川流域で、第二水俣病が発生しました。これを新潟水俣病といいます。
 1966年、新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場からの排水による有機水銀中毒説であることを新潟大学教授椿忠雄らが確認しました。
 1968年5月、新日本窒素肥料は、アセトアルデヒドの生産を終了しました。
 1968年9月、政府は、全国のアセトアルデヒドの生産終了とともに水俣病を公害として認定しました。厚生省も、公害病として認定しました。
 1987年、熊本地裁の相良甲子彦裁判長は、原告の勝訴・国と県の責任認める判決を下しました。
 1990年、東京・熊本・福岡・京都の各裁判所は、和解勧告を行いました。しかし、国に和解を拒否しました。
 1995年、閣議は、政府解決策を決定しました。
 2004年、最高裁は、熊本水俣病について、政府の責任を認める判決を下しました。
10  どうして、新日本窒素肥料水俣工場と日本政府は、水俣病と会社の流す廃液の因果関係を把握していたにもかかわらず、対策を立てなかったのでしょうか。
 結論から先に言えば、窒素工場の創立者である鮎川義介は、国策会社として日産を創設し、戦争用ジープで財を成した死の商人です。窒素工場も朝鮮で国策会社として軍部に協力しました。
 国策会社とは、国策上必要な公共性の高い事業を会社形態で行う会社です。足尾銅山鉱毒事件も、会社が流す廃液が原因と分かっていても、そこの産銅により鉄砲の弾を生産するほうが、国策に沿っていたので、農民の犠牲は切って捨てられたのです。
 水俣病の場合も同じです。高度経済成長下における重化学工業化という国策により、石油の大量消費を促し、自然環境の浄化能力を無視した結果、大気汚染と水質汚濁を招いたのです。
11  産経新聞は、水俣病認定50年にあたって、次のような記事を書いています。
 「胎児性水俣病患者」=半裸の父親に抱きかかえられた2歳くらいの女の子の写真もそのひとつ。小さな手指を太い腕にからませて、父の愛情にこたえようとしているようだが、その目はうつろだ。1960(昭和35)年に熊本県の漁村で撮影された。モデルは、母親の胎内で有機水銀に侵された胎児性水俣病患者である。当時は「原因不明の奇病」だった。国が水俣病を公害病に認定するまでに12年もかかった。その間、チッソ水俣工場から排出された水銀によって不知火海の汚染は進み、魚を食べた住民の発病は続いた。手足の震え、目や耳の障害、全身のけいれん。患者が強いられたのは肉体的な苦痛だけではない。魚が売れなくなった漁師は仕事を失い、いわれない差別や偏見もあった。政府は被害の拡大に手をこまねいたばかりか、わずか2千人余りしか患者として認めなかった。補償金を受け取れず、十分な治療を受けられない人たちの絶望は深まるばかりだ。写真の少女は、どうしているのだろう。胎児性患者は現在40代から50代になり、看病にあたってきた親の高齢化も進む。「二度とこの悲劇は繰り返しません」。水俣湾の水銀のヘドロを封じ込めた埋め立て地に立つ「水俣病慰霊 の碑」にはこう刻まれているそうだ。とんでもない。悲劇は今も進行中だ」(2006年5月2日付)。

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