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エピソード

297_05

大衆芸能の源流は節談説教
 私の大学時代の卒業論文は「世間体について」というテーマで、民俗学的手法を使って、真実に迫ることでした。
 そのため、全国各地のありとあらゆる対象を取材しました。
 その1つに報恩講における説教(法話)がありました。報恩講とは、信者(門徒)が浄土真宗の宗祖・親鸞の命日(1月16日)にその報恩に感謝する法要(1月9日〜1月16日)のことです。
 本堂には入りきらない人々が参集していました。たくさんの門徒を前に、全国を布教して回る説教師(導師)が説教を始めました。
 45年も前の話ですが、今もその状況や説教の内容をはっきりと記憶しています。
 お経は浪曲調であり、物語は講談調であり、笑いは落語調ありました。涙あり、笑いあり、「南無阿弥陀仏」の念仏を必死の唱えありで、現実を忘れるほどの雰囲気でした。
 参集していた人々に感想を求めると、「わずかな賽銭で1日楽しませてもらって有り難いことです」というのが公約数でした。
 話の内容は、説教師がある北陸の報恩講で法話をした時のことです。ある上品な老女が涙ながらに身の不幸を語りました。次の日、招かれて老女の家を訪れました。檜の塀に取り囲まれた豪邸に老女は住んでいました。
 まず最初に、仏壇に行きました。灯明も上がっていませんでした。仏前に供える「ご飯さん」もありません。「ご飯さん」は仏前に毎朝お供えする炊きたてのご飯を尖がった山のように一回盛りしたものです。兵庫県西部の方言です。高知県では「おぶっぱん」(お仏飯)、富山・石川県では「おぶくさん」「おぼくさま」(御仏供)といいます。
 老女は「子や孫に小づかいをたっぷり上げているのに、寄り付きもしない」と不平不満を述べたてました。それを聞いた説教師は、「どんなに忙しくても、小さい時から、子や孫に、仏さんにに灯明を上げたり、ご飯さんを供えたりする姿を見せる」「小さい子や孫を抱いて、手を合わせ、南無阿弥陀仏の念仏を唱えておれば、自ずから、感謝の気持ちが育つ。大きくなっても、感謝の念を持つようになる」
 「そんなこともしてこないで、金だけ与えて、感謝してもらおうという気持ちでは、罰が当たるぞ!!地獄に落ちるぞ!!」と腹の底から、絶叫しました。参詣に来ていた人々は思わず「南無阿弥陀仏!!南無阿弥陀仏!!」と唱和していました。
 その後、老女から、毎日仏壇にお参りして、灯明を上げ、ご飯さん(北陸ではおぼくさま)を供え、先祖に感謝の念を以って、「南無阿弥陀仏」を唱えるようにした。その結果、子や孫が訪ねてくるようになったという手紙が来たという話で締めくくりました。
 後にこれが節談説教だと分かりました。当時の世相を反映して、「罰があたる、地獄に落ちる」という用語を多用していました。
 以前、祖父江省念師のCD版・節談説教を入手していました。
 どうしてもDVD版・節談説教が欲しいと思っていました。
 最近、名古屋の住職の方からDVD版・節談説教が送られてきました。念願の動画で確認できました。時代の流れもあって、「罰があたる、地獄に落ちる」という表現は消え、非常に高度な内容になっていました。しかし、浪曲調・講談調・落語調は伝統を保守しているように感じました。
 以下は関山和夫著『説教の歴史━仏教と話芸━』(白水ブックス)などを中心に、節談説教の歴史を紹介したいと思います。
 御釈迦さん(紀元前5世紀の人)は、悟りを開いた後、瞑想にふけって衆生済度のための説教の順序を考えたと言われています。そして華厳・阿含・方等・般若から涅槃に至る釈尊一代の説教が「三輪説法」「十二部経」として日本にもたらされました。仏十大弟子の1人・富楼那(フルナ)尊者が弁舌第一と言われています。
 「三輪説法」の内で口業説法輪は「四弁八音」(「釈迦仏は・・十九の御年出家して勤め行ひ給いしかば三十の御年成道し御坐して・・法を説き給ふ御時は四弁八音の説法は祇園精舎に満ち三智五眼の徳は四海にしけり『主師親御書』)という説教技術をもってその教えを説いたされています。
 「十二部経」は、経典を叙述の形式や内容から十二種に分類したもので、その中の伽陀(諷頒)、尼陀那(因縁)、阿波陀那(誓喩)が表記されています。
 『維摩経』では、説教には六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)による感覚的要素が必要であるとされています。
 日本における説教は、聖徳太子が初めてとされています。
 『日本書紀』によると、推古天皇14(606)年7月、聖徳太子が勝髪経講を行ったとあります。聖徳太子は高座を使い、巧妙な誓喩で説教を行いました。その影響は「諸王公主及臣連公民信受して嘉せざるはなし」とされています(『法隆寺伽藍縁起并資財帳』)。
 天武天皇14(686)年、「教化僧宝林」(『金剛場陀羅尼経』)という表現があり、この「教化僧」が説教師とされています。
 清少納言は、『枕草子』(996年頃)で次のように描いています。
 「説経師は顔よき。つとまもらへたるこそ、その説く事の尊さも覚ゆれ。外目しつればふと忘るるに、憎げなるは罪や得らんと覚ゆ。この詞はとどむべし。また、「尊きこと、道心おほかり」とて、説経すといふ所に、最初に行きぬる人こそ、猶この罪の心地には、さしもあらで見ゆれ」
 「さやうの所(説教所)に急ぎ行くを、一たび二たび聞き初めつれば、常にまうでまほしくなりて、・・をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあし褒めそしり、某にてその人のせし八講、経供養など言ひくらべゐたる」
 つまり、説教師は顔がいいこと、語りがたくみで、演技力のある八講(読経)の評判などで、一度聞くと常にまうでまほしく(何度でも行きたく)なるとあります。
 『法然上人行状絵図』(1306〜1308年頃)によると、法然が浄土宗を流布するのに大きな影響を与えた人として、安居院の澄憲(藤原信西の子)・聖覚(澄憲の子)が描かれています。
 安居院の澄憲については、虎関師錬の『元亨釈書』(1322年)によると、「澄憲のはなしは、まるで泉のように舌の端から湧き出る。ひとたび高座に登れば、大勢の聴衆がいっせいに耳をすまし、しかも澄憲の説教によって耳が清められてしまう」とあります。さらに、洞院公定編の『尊卑分脈』(1377〜1395年)によろうと、「澄憲の説教はまさに天下一であり、すばらしい名人だ。この澄憲の一流こそ正統の説教というべきである」とあります。
 つまり、安居院の澄憲は当時の説教師のスーパースターだったことが分かります。
 真宗の開祖親鸞は、法然から受けた浄土教を広める技術を安居院の聖覚から学んでいます。親鸞は『教行信証』などで、聞法の徹底のため、和讃に力を入れました。つまり、聴聞者の心の中に阿弥陀如来の
音声を再現して分かち与えることでした。聖覚は、そのことを正しく理解し、和讃に節を付けて実践しました。こうした経過を経て、真宗の節談説教が大きく発展していきました。
 「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」(『浄土和讃』)
 本願寺中興の祖・蓮如(1415〜1499年)は、エピソード日本史の蓮如と一向宗(加賀の一向一揆)←クリックで見たように、浄土真宗を流布・拡大するために既存のありとあらゆる方法を採用しました。
 当然、宗祖・親鸞以来の節談説教も取り入れています。そのために、『教行信証』を表紙が破れるほど精読したといいます。『実悟旧記』(1689年)によると、「堂に於て文を一人なりとも来らん人にもよませてきかせば、有縁の人は信をとるべし、此間おもしろき事を思案し出たる」とあります。関山氏はこの「おもしろき事」を説教における「御文」の効力をいうと解説しています。
 以下は、私が小さい時から慣れ親しんだ蓮如上人の白骨の御文章です。法事があると、お寺さんが黒塗の文箱から和綴じの本を取り出し、重々しく額に押し頂き、絶妙なる声で読み上げます。
 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、幻のごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず。遅れ先だつ人は本の雫末の露よりも繁しといへり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来りぬれば、すなはち二つのまなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼みまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 子ども心に印象に残っている個所があります。当時、意味は正しく分かりませんでした。しかし、亡くなった人を偲んで集まっていることは理解できます。さらに、私が直接会話をした祖父の場合は、なんとなく意味が分かります。人間はいずれ死ぬ。火葬場では、竹の箸と木の箸を使って、灰の中から骨を取り出すよう大人から言われ、壺に入れます。皆が見ている中で、緊張しながら、終わると褒められる。そうした体験から、そのことを「白骨の身」ということも分かりました。
 単に文章を読み上げただけでは、何の思い出もなかったでしょう。この御文章の節廻しから、日本の大衆芸能の浪曲や演歌に通ずる日本人の心を感じました。
 蓮如は、聴聞者の心の底に永遠に残る方法を開発したのです。
 『円朝全集』によると、三遊亭円朝(1839〜1900年)は、「太閤殿下の御前にて、安楽庵策伝といふ人が、小さい桑の見台の上に、宇治拾遺物語やうなものを載せて、お話を仕たといふ」と書いています。
 安楽庵策伝(1554〜1642年)は、安居院流系統の浄土宗の説教師です。笑い話が得意で、オチのある笑いを説教に取り入れていました。京都所司代の板倉重宗から依頼があり、多年にわたって話し続けた説教話材のメモを集大成した『醒睡笑』(1039話)を完成させました(1628年)。こうしたことから、安楽庵策伝は落語家の祖と言われています。
10  経典の真意を詳しく解釈し、講義することを「講釈」といいます。
 『西山上人縁起』(1386年)には、「おほよそ黒谷の門弟其数多Lといヘビも、本疏の講釈に至りては間者はなはだすくなし」とあります。
 真宗では「説教」と「講釈」を区別していました。説教とは、演説を中心にした系列であり、講釈とは、経典講釈の系統です。講談の源流は、講釈の系列にあたります。説教は通俗的であり、講釈は宗教的でした。
 その後、戦記物語を声を出して読み聞かせる方法に講釈が取り入れられました。関山氏は、「『平家物語』は、諸行無常と浄土教信仰を説く末法思想下の説教には最もふさわしいものであった。これも説教文学の一つというべきであろう」と説いています。
 元禄10(1697)年頃、赤松青龍軒は、僧形をして『太平記』読みで好評を拍しました。赤松青龍軒は、播磨の赤松一族ち言われ、その祖に播磨国赤穂郡赤松村から出た赤松法印がいます。そのことから赤松法印が講釈師の祖と言われています。
 赤穂郡赤松は、現在、赤穂郡上郡町赤松で、私が生まれ育った家から、千種川にそって北へ車で15分の所にあります。
 赤松からは南北朝時代に活躍した悪党赤松円心則村や、嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺した赤松満祐などで有名です。
 「講釈講談ノチガヒハ猶談義卜説法トノ如シ、書生輩へ云聞ルニハ講釈モ宜シ其外ハ皆講談タルへシ」(『芸苑譜』)。学問するものを相手にして行うのが講釈、一般庶民を相手にして行うのが講談ということでしょうか。
11  次の浪曲の源流です。
 私は、節談説教その者に、浪曲のルーツを感じましたが、関山氏は祭文をルーツとしています。
 『歌舞妓年代記』によれば、宝暦9(1759)年、市川八百蔵が「女郎願立速口祭文」を演じて大当りをとったとあります。『江戸芝居年代記』には「夫より女郎の願立祭文ちょぼくれの大当り」とあります。「ちょんがれ」・「ちょぼくれ」とは、虚構を交えた面白いものという意味です。
 『教訓差出口』(1762年)には、「此一両年はしわがれ声で、ちょぼくれちょぼくれ、ちょんがれちょんがれと、抑何ンの事やら一円しれぬ仇口たゝき」とあります。「しわがれ声」(白声)がちょんがれ節の発声の特色、つまり、うなり節を説明しています。
 『嬉遊笑覧』(1830年)には、「チヨボクレと云ふもの・・文句を歌ふことは少く詞のみ多し、芝居咄をするが如し、これを難波ぶしと称するは彼地より始めたるにヤ」とあります。つまり、彼地とは難波(大阪)なので、ちょぼくれを「難波ぶし」(浪花節)と言うのです。
 西沢一鳳の『皇都午睡』(1850年)には、仏説阿呆陀羅経を「説教がかりとて今は節にのこりて、ちょぼくれ、ちょんがれに同じ」と述べています。仏説阿呆陀羅経とは、小さな木魚二つを持って打ち叩き、拍子をとりながら、阿弥陀経など経文まがいの文句と節調に、巷談や時事風刺を取り入れたものです。つまり、「歌祭文」・「ちょぼくれ」・「ちょんがれ」・「仏説阿呆陀羅経」などが浪花節の源流となったというのです。
 桃中軒雲右衛門は説経祭文の語りの子として生まれました。そうした経過から、桃中軒雲右衛門が浪曲師の祖と言われています。
丹羽文雄著『青麦』と浄土真宗の『正信偈』
 丹羽文雄氏は、明治37(1904)年、三重県四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で住職を務める父・教開の長男として生まれました。
 大学を卒業後、生家の住職に就きましたが、小説『朗かなある最初』が永井龍男に評価されたのをきっかけに、僧職を捨てて上京し、大学時代の同棲相手の家に移り住みました。
 破戒僧的な部分もありましたが、『親鸞』『蓮如』などの純文学にも優れた業績をあげました。
 そういう立場からは、節談説教はどのように映っていたのでしょうか。
 『青麦』の一部を紹介します。
 本堂では、説教がはじまっていた。勉強室まで、きこえた。声に抑揚をつけ、うたい文句のところでは十分にうたい、高座の説教師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が、聴衆をうっとりとさせた。鈴鹿もたびたび説教なるものをきいていたが、問題をだし、その解き方をしめして、答えまで説教師はだしてみせた。そのかぎりでは、理解にくるしむことはなかった。が、人生問題は数理とはちがっていた。方程式の解き方をいくらしめされても、抽象世界の問題では器用に納得がいかなかった。方程式の解き方は、自分が苦しんで納得しなければならないもののようであった。説教師は、これほど安易なありがたい教えが何故わからないかといった調子で、答えばかりをくりかえし、ありがたい節まわしで押しつけた。ひとのよい善男善女は、ありがたい答えをおしつけられて、自分でもわかったような錯覚におちてしまうのかも知れなかった。わかったような気もちになる。実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした。説教は、中途で休憩がはいった。説教師は高座を 下りて、奥座敷にかえった。すると、寄席の休憩時問にもの売りが客席をあるくように、世話方が粗末な、四角な盆を、あちらこちらにちらばらして歩いた。うけとった参詣者は、なにがしかの賽銭をいれて、となりのひとに渡した。それが順ぐりにまわされて、最後に世話方が盆をあつめてあるいた。
 説教師が、ふたたび登壇した。上手な説教師は自由自在に善男善女の感情、心理をあやつることができた。質問されることはなかった。「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」というところでは、唯一泣かせどころのように、浪曲かおまけの節まわしでうなった。さんざん翻弄され、いい気もちにされた参詣者ほ、ひとりのこらず仏にたすけられたような気もちになってしまうのである。説教が終ると、説教師は目の前の黒い箱から高田派の御書をとりだした。第一頁をあけて、事務的によみあげる。
 「……世間には王法をうやまひ、公方をあがめ、国主地頭の法度をまもり、公役所当つぶさに沙汰をいたし……」
 今日ではまったく通用をしなくなった名詞をならべて、おかしな教訓を垂れた。よみ手自身も、時代錯誤はすこしも感じていない風であり、たれも矛盾につまずきもしなかった。
 勉強室の鈴鹿は、説教師の浪曲調になやまされると、はらがたった。しみじみとした対話調子の方が、参詣者の胸のそこにもとどきやすいのではないか。しかし、大勢を相手のときには、統制する意味からも一つの調子が必要のようであった。それにしても、浪曲のまねはいやだった。
 丹羽文雄氏は、お寺に生まれ、大学を卒業し、小説家としても純文学の大家です。文壇の大御所的存在でもあります。
 1965年日本芸術院会員、1970年仏教伝道文化賞(仏教の普及・伝道に功績あった者に授与される賞)、1974年菊池寛賞、1977年文化勲章などインテリ層の最高の栄誉を担っています。
 私には、丹羽氏は、忙しすぎて新聞や書籍も読めない大衆の心理が理解できていないのではないかと推測します。西国33か所札所巡りをしていると、必死で、ロウソクを立て、線香を上げ、合掌・礼拝し、般若心経を読んだりしています。足の悪い人は、足にご利益があるという仏像の足を触っては、自分の足に手を当てる。それを何度も繰り返す。高みで見ている人は、その光景が滑稽に映るかもしれません。
 しかし、大衆はそのような信仰を受け入れて来たのです。現代は、科学の時代と言われます。しかし、全てが科学で解明できないことも事実です。科学と宗教の隙間に、大衆の民間信仰が存在しているのです。
 この大衆の民間信仰が大衆芸能の源流であることを忘れることはできません。
落語
節談説教 講談
浪曲 落語
 次に、私が小さい時に、仏前で、家族で読経した浄土真宗の「正信偈」です。
 歸命无量壽如來   無量寿如来に帰命し、
 南无不可思議光   不可思議光に南無したてまつる。
 法藏菩薩因位時   法蔵菩薩の因位の時、 
 在世自在王佛所   世自在王仏の所にましまして、
 覩見諸佛淨土因   諸仏の浄土の因、
 國土人天之善惡   国土人天の善悪を覩見して、
 建立无上殊勝願   無上殊勝の願を建立し、
 超發希有大弘誓   希有の大弘誓を超発せり。
 五劫思惟之懾受   五劫これを思惟して摂受す。
 重誓名聲聞十方   重ねて誓ふらくは、名声十方に聞こえんと。
 普放无量无邊光   あまねく無量・無辺光、
 无碍无對光炎王   無碍・無対・光炎王、
 清淨歡喜智慧光   清浄・歓喜・智慧光、
 不斷難思无稱光   不断・難思・無称光、
 超日月光照塵刹   超日月光を放ちて、塵刹を照らす。
 一切群生蒙光照   一切の群生、光照を蒙る。
 本願名號正定業   本願の名号は正定の業なり。
 至心信樂願爲因   至心信楽の願(第18願)を因とす。
 成等覺證大涅槃   等覚を成り大涅槃を証することは、
 必至滅度願成就   必至滅度の願(第11願)成就なり。
 如來所以興出世   如来、世に興出したまふゆゑは、
 唯説彌陀本願海   ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
 五濁惡時群生海   五濁悪時の群生海、
 應信如來如實言   如来如実の言を信ずべし。
 能發一念喜愛心   よく一念喜愛の心を発すれば、
 不斷煩惱得涅槃   煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
 凡聖逆謗齊廻入   凡聖・逆謗ひとしく回入すれば、
 如衆水入海一味   衆水海に入りて一味なるがごとし。
 攝取心光常照護   摂取の心光、常に照護したまふ。
 已能雖破无明闇   すでによく無明の闇を破すといえども、
 貪愛瞋憎之雲霧   貪愛・瞋憎の雲霧、
 常覆眞實信心天   常に真実信心の天に覆えり。
 譬如日光覆雲霧   たとえば日光の雲霧に覆わるれども、
 雲霧之下明无闇   雲霧の下明らかにして闇なきがごとし。
 獲信見敬大慶喜   信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、
 即横超截五惡趣   すなわち横に五悪趣を超截す。
 一切善惡凡夫人   一切善悪の凡夫人、
 聞信如來弘誓願   如来の弘誓願を聞信すれば、
 佛言廣大勝解者   仏、広大勝解の者と言えり。
 是人名分陀利華   この人を分陀利華と名づく。
 彌陀佛本願念佛   弥陀仏の本願念仏は、
 邪見驕慢惡衆生   邪見・驕慢の悪衆生、
 信樂受持甚以難   信楽受持すること、はなはだもって難し。
 難中之難无過斯   難の中の難これに過ぎたるはなし。
 印度西天之論家   印度西天の論家、
 中夏日域之高僧   中夏(中国)・日域(日本)の高僧、
 顯大聖興世正意   大聖(釈尊)興世の正意を顕し、
 明如來本誓應機   如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
 釋迦如來楞伽山   釈迦如来、楞伽山にして、
 爲衆告命南天竺   衆のために告命したまはく、
 龍樹大士出於世   南天竺(南インド)に龍樹大士世に出でて、
 悉能摧破有无見   ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
 宣説大乗无上法   大乗無上の法を宣説し、
 證歡喜地生安樂   歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
 顯示難行陸路苦   難行の陸路、苦しきことを顕示して、
 信樂易行水道樂   易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
 憶念彌陀佛本願    弥陀仏の本願を憶念すれば、
 自然即時入必定   自然に即の時、必定に入る。
 唯能常稱如來號   ただよく、常に如来の号を称して、
 應報大悲弘誓恩   大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。
 天親菩薩造論説   天親菩薩、『論』(浄土論)を造りて説かく、
 歸命无碍光如來   無碍光如来に帰命したてまつる。
 依修多羅顯眞實   修多羅に依りて真実を顕して、
 光闡横超大誓願   横超の大誓願を光闡す。
 廣由本願力廻向   広く本願力の回向に由りて、
 爲度群生彰一心   群生を度せんがために一心を彰す。
 歸入功徳大寶海   功徳大宝海に帰入すれば、
 必獲入大會衆數   必ず大会衆の数に入ることを獲。
 得至蓮華藏世界   蓮華蔵世界に至ることを得れば、
 即證眞如法性身   すなわち真如法性の身を証せしむと。
 遊煩惱林現神通   煩悩の林に遊びて神通を現じ、
 入生死薗示應化   生死の園に入りて応化を示すといへり。
 本師曇鸞梁天子   本師曇鸞は、梁の天子、
 常向鸞處菩薩禮   常に鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる。
 三藏流支授淨教   三蔵流支、浄教を授けしかば、
 梵燒仙經歸樂邦   仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき。
 天親菩薩論註解   天親菩薩の『論』を註解して、
 報土因果顯誓願   報土の因果誓願に顕す。
 往還廻向由他力   往還の回向は他力に由る。
 正定之因唯信心   正定の因はただ信心なり。
 惑染凡夫信心發   惑染の凡夫、信心発すれば、
 證知生死即涅槃   生死即ち涅槃なりと証知せしむ。
 必至无量光明土   必ず無量光明土に至れば、
 諸有衆生皆普化   諸有の衆生、みなあまねく化すといへり。
 道綽決聖道難證   道綽、聖道の証しがきたことを決して、
 唯明淨土可通入   ただ浄土の通入すべきことを明かす。
 萬善自力貶勤修   万善の自力、勤修を貶す。
 圓滿徳號勸專稱   円満の徳号、専称を勧む。
 三不三信誨慇懃   三不三信の誨、慇懃にして、
 像末法滅同悲引   像末法滅同じく悲引す。
 一生造惡値弘誓   一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、
 至安養界證妙果   安養界に至りて妙果を証せしむといへり。
 善導獨明佛正意   善導独り仏の正意を明らかにせり。
 矜哀定散與逆惡   定散と逆悪とをこう愛して、
 光明名號顯因縁   光明・名号因縁を顕す。
 開入本願大智海   本願の大智海に開入すれば、
 行者正受金剛心   行者正しく金剛心を受けしめ、
 慶喜一念相應後   慶喜の一念相応して後、
 與韋提等獲三忍   韋提と等しく三忍を獲、
 即證法性之常樂   即ち法性の常楽を証せしむといへり。
 源信廣開一代教   源信広く一代の教を開きて、
 偏歸安養勸一切   偏に安養に帰して一切を勧む。
 專雜執心判淺深   専雑の執心、浅深を判じて、
 報化二土正辨立   報化二土正しく弁立せり。
 極重惡人唯稱佛   極重の悪人はただ仏を称すべし。
 我亦在彼攝取中   我また彼の摂取の中にあれども、
 煩惱障眼雖不見   煩悩、眼を障へて見たてまつらずといえども、
 大悲无倦常照我   大悲、倦きこと無くして常に我を照らしたまふといへり。
 本師源空明佛教   本師源空は、仏教に明らかにして、
 憐愍善惡凡夫人   善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
 眞宗教證興片州   真宗の教証、片州に興す。
 選擇本願弘惡世   選択本願、悪世に弘む。
 還來生死輪轉家   生死輪転の家に還来ることは、
 決以疑情爲所止   決するに疑情をもって所止とす。
 速入寂静无爲樂   速やかに寂静無為の楽に入ることは、
 必以信心爲能入   必ず信心をもって能入とすといへり。
 弘經大士宗師等   弘経の大士・宗師等、
 拯濟无邊極濁惡   無辺の極濁悪を拯済したまふ。
 道俗時衆共同心   道俗時衆共に同心に、
 唯可信斯高僧説   唯この高僧の説を信ず可しと。

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