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エピソード

096_01

蓮如と一向宗(加賀の一向一揆)
 1272(文久9)年、親鸞の末娘覚信尼は、六角の小堂をに父親鸞の遺骨を安置しました。これが本願寺のルーツです。
 1312(正和元)年、三世覚如は、親鸞聖人像と阿弥陀仏像を並べて安置した小さい御堂と住持の坊舎を建立し、本願寺と名づけました。しかし、本願寺には、ほとんど参詣の人が見あたらないという状態でした。
 他方、親鸞の弟子たちは、仏光寺派(京都)、錦織寺派(近江)、三門徒派(越前)、専修寺派(伊勢高田)に分かれ、現世利益的な教説を唱えて信徒を拡大していました。
 1415(応永22)年、親鸞の10世の孫として、蓮如が生まれました。父は、本願寺第7世存如です。母は、本願寺に仕えた下女と言われています。
 1420(応永27)年、蓮如が6歳の時、父存如は、正妻如円を迎えました。蓮如の母は、本願寺を去って、姿を消しました。
 やがて、如円に男子応玄が生まれました。蓮如は、存如の長子です、庶子の扱いになったのです。
 1429(永享元)年、蓮如(15歳)は、貧しい本願寺の部屋住みとして貧窮の中にありながら、親鸞の教えを徹底的に学びました。また、隆盛していた真宗他派と衰退している本願寺派を比較して、その理由を研究しました。そして、必ず、本願寺派を、真宗他派の上に君臨させることを決意しました。
 蓮如は、仏光寺派の隆盛の理由を分析しました。
 親鸞は、往生極楽を約束できるのは阿弥陀仏のみである。しかし、仏光寺派は、阿弥陀仏である坊主によって往生を約束された門徒も阿弥陀位となると説いています。
 親鸞は、信心を起こして念仏すれば、悪人でも往生できると説きました。仏光寺派は、名帳に自分の名を記すだけで、その場で往生できると約束しました。仏光寺派の坊主は、この名帳を利用して、布施による膨大な利益を上げていました。
 蓮如は、こうした異端に断固戦う決意を固めました。
 1441(嘉吉元)年、部屋住みながら、蓮如(27歳)は、最初の妻を迎えました。彼女との間に4男3女をもうけました。以後5人の妻に27人の子供を産せています。
 1457(長禄元)年、蓮如(43歳)の父存如(62歳)が亡くなりました。正妻如円の意向に反対する者は誰もいません。息子応玄(25歳)の8世は確実視されていた時、蓮如の叔父で存如の弟如乗(45歳)が蓮如を支持しました。こうして、蓮如は、第8世本願寺住持職に就任しました。
 蓮如は、当時の農村社会が惣村制で形成されていることに目を向け、宮座(講の組織)をつかめば、村ぐるみ門徒を獲得することを学びました(「三人まづ法義になしたきものがあると仰られ候。その三人とは坊主と年寄と長と、此三人さへ在所々々にして仏法に本付候はゞ、余のすえずえの人はみな法義になり、仏法繁昌であろうずるよ。」(『栄玄記』))。
 1461(寛正2)年、蓮如(47歳)は、錦織寺派の拠点である近江の堅田に御文(御文章)第一号を発しました。御文は、次々と書写され、小蓮如が、宮座(講)を利用して、村の末端にまで送られました。御文は、本願寺派の教説を簡単な漢字と、カタカナ交じりでのわかりやすい文章に認め、門徒衆や僧あてに送った手紙です。 
 1465(寛正6)年、蓮如(51歳)は、弥陀の本願以外の救いを認めませんでした。その結果、蓮如の本願寺は、比叡山衆徒に焼き討ちされました。
 このとき、仏光寺派は、比叡山にすがって難を免れました。専修寺派は、一歩進んで比叡山に本願寺派との違いを釈明し、山門の安堵状を得ています。このことが、本願寺派と専修寺派との確執の始まりとされています。
 1471(文明3)年、蓮如(57歳)は、越前国河口庄吉崎に吉崎御坊を設けて、北陸一帯に布教活動を行いました。河口荘は興福寺大乗院の荘園で、蓮如は、大乗院門跡の経覚大僧正と長年にわたって懇意であった関係で、この地を斡旋されたのでした。
 蓮如は、御文章(お文)と同時に重視したのが、布教態度でした。門徒が参詣に来ると、寒の頃には熱燗を出し、暑熱の折にはよく冷酒を出させました。蓮如自身も門徒を同朋・同行とみなして、門徒と接する時は、「平座」にて雑談をしながら、法義を懇切丁寧に語りました。そして、吉崎御坊には寺内町が誕生するまでに発展しました(「加賀・越中・越前ノ三ヶ国ノウチノカノ門徒ノ面々ヨリアヒテ、他屋ト号シテ、イラカヲナラベ、イヘヲツクリシホドニ、イマハハヤ、一二百間ノムネカズモアリヌラントゾオボヘケリ」)。
10  1474(文明6)年、蓮如(60歳)の反対にも関わらず、加賀の一向一揆は、富樫政親に味方したので、富樫政親は、加賀の守護に就任しました。史料はこれを「百姓が持ちたる国」と表現しています。蓮如も下剋上にあったことになります。
 語源的は、一向とは「心を一つのことに向けること。ひたすら」ということです。だから、一向宗とは「ひたすらに阿弥陀如来にすがることを宗旨とする宗派」ということになります。
 本願寺派の信者を門徒といいます。門徒は「この世で救われるには、念仏以外必要ない」と公言してはばからず、必然的に諸神諸仏を排除し、守護・地頭の権力をも否定します。こうした団体を一向一揆といいます。有力な土豪・国人は、農民支配を強化するため、自ら門徒になっていきました。彼らのことを加賀の一向一揆といいます。
11  1478(文明10)年、蓮如(64歳)は、加賀の守護富樫政親の圧迫により、山城国宇治郡山科郷に移り、ここに山科本願寺を建立します。この頃、仏光寺派、錦織寺派などの諸本山が蓮如の前に屈服しています。
 1489(延徳元)年、蓮如(75歳)は、第五子実如(32歳)に公職一切を譲っています。実如は、蓮如が43歳の時の子供です。
 1496(明応5)年、蓮如(82歳)は、「南無阿弥陀仏」の名号を書き与えて得た資金で、大坂御坊(石山本願寺)を建立しました。
 1498(明応7)年、蓮如に、末の子が誕生しました。蓮如が、何と84歳の時の子です。
 1499(明応8)年、蓮如が亡くなりました。時に85歳でした。
現在の浄土真宗は、親鸞にあらず、蓮如にあり
 ある時期が来ると、お寺の掲示板に「報恩講」のお知らせが張ってあります。祖師の恩に報いるため、その忌日に行う法会ですが、真宗では「講」という字を使います。これは、蓮如が、布教に利用した宮座(講組織)の名残です。
 法事に出席すると、僧侶の読経の後で、全員が「正信念仏偈(正信偈)」を合唱します。いわゆる「帰命無量寿如来、南無不可思議光」で始まるお経です。これも、蓮如がまとめたものです。
 すべての読経が終わると、僧侶が黒塗りの文箱から分厚い糸綴じの本を取り出し、おもむろに読み出します。参加者は全員が頭を下げて聞きます。これが、御文書といわれるもので、蓮如が布教の手段とした平易や内容の教えです。
 僧侶でありながら、勢力絶倫、本能の人と言えます。一休宗純との交流もあったとされていますが、ここらあたりが共通点でしょうか。迷信と戦ったという点も評価できます。しかし、似て非だと思います。
 蓮如は、一休が忌み嫌った「権威」(「南無阿弥陀仏」の名号)を切り売りして、金儲けをしています。
 蓮如は、講組織を利用して、上からの布教活動を行っています。当時、庶民は、指導者に反抗できない性格を利用しています。無知な庶民を上から組織的に一網打尽に教化しています。
 この時点で、宗教のもつ精神性・革新性は、失われていたことになります。 
 江戸時代、徳川幕府の支配体制を補完する立場に宗教が利用されました。
 明治以降、保護制度がなくなり、葬式仏教として、存在しています。
 私は、親戚・卒業生などの結婚式に招待されることがあります。どうしても、出席できない時は、新婚旅行後の落ち着いたときに、お祝いとお詫びを兼ねて新居を訪問することにしています。
 しかし、葬式は、次がありません。人の死は1回きりで、だから厳粛なのです。庶民からすると、「死」を人質にとられては、言いたいことが言えません。一休さんが言うように、権威の外に出てきて、一緒に語り合いたいものです。
 「出家」とは、世俗の「家」を出るということです。以前は、肉食妻帯を捨てることを意味しました。「出家」はとてつもなく重要な意味を持っていました。
 しかし、今は、そんな俗世間と「出家」との垣根はありません。私の同僚には、頭が下がる、本当の「出家」もいました。彼は、権威から解放されていて、研ぎ澄まされた感性で、常に、私達に衝撃を与えてくれました。感謝しています。
如了
@親鸞 ━善鸞━ A如信 ‖━ 蓮誓
覚信尼 存覚 慈観 慈達 ‖━ G蓮如
‖━ A覚恵 B覚如 従覚 C善如 D棹如 E巧如 F在如 ‖━ H実如 I証如 J光佐
日野広網 蓮祐
‖━ 大乗院門跡経覚大僧正
関白九条経教

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