print home

エピソード

298_01

現代の世界T(1983年〜1991年、ソ連崩壊)
 ここでは1983年から1991年の現代の世界を扱います。
 ソ連が崩壊し、社会主義へのユートピアが大きく後退しました。
 1983(昭和58)年2月24日、米議会日系市民の戦時強制収容問題委は、収容は不当と結論しました。
 4月3日、米の中距離核ミサイル配備に反対して、西独・英・伊・オランダで、20万人集会が開かれました。
 5月28日、アメリカのウィリアムズバーグで第9回先進国首脳会議が開催され、共同軍備管理等に合意しました。
 8月21日、フィリピンで、有力野党議員のアキノが暗殺されました。これを契機に反マルコス運動が広がりました。
 9月1日、大韓航空機は、サハリン沖で領空侵犯して、ソ連軍機に撃墜され、乗客・乗員269人が行方不明となりました。
 10月9日、ビルマのラングーンで、爆弾テロがり、韓国閣僚4人を含む16人が死亡しました。
 10月25日、米軍は、グレナダに侵攻しました。
 11月2日、国連総会は、グレナダに関して、外国軍隊即時撤退決議を採択しました。
 11月20日、核戦争の恐怖を措いたテレビ映画『ザ=デイ=アフター』は、全米で40%の視聴率を獲得しました。
 1984(昭和59)年1月25日、米のレーガン大統領は、一般教書演説で「強いアメリカ」を強調しました。
 2月9日、ソ連で、アンドロポフ書記長が死去し、後任にチェルネンコが就任しました。
 2月27日、インド、パンジャブ州のシーク教徒の自治権拡大への抗議行動激化。
 3月、アフリカで、飢餓が深刻化し、世界各国で救援活動がおこりました。
 4月26日、米のレーガン大統領は、中国を訪問しました。米は4つの近代化を支持し、中国は米の軍事力増強支持しました。
 5月8日、ソ連は、ロサンゼルス五輪に不参加を発表し、東欧諸国も同調しました。
 10月31日、インドで、ガンディ一首相が暗殺されました。
 1985(昭和60)年1月8日、ジュネーブで、米ソ外相会談が行われ、包括軍縮交渉に合意しました。
 1月15日、ブラジルで、21年ぶりに民政に移管しました。
 1月18日、韓国の反体制政治家グループは、新韓民主党を結成しました。
 1月31日、ニュージーランドのロンギ首相は、核積載艦船の寄港拒否を声明しました。
 2月12日、韓国総選挙で、新韓民主党は、276議席中67議席を獲得し、野党第1党になりました。
 3月10日、ソ連で、共産党のチェルネンコ書記長が死去し、後任にゴルバチョフが就任しました。
 5月2日、ボンで、第11回先進国首脳会議が開かれ、、西側の連帯を確認しました。
 5月8日、西独のヴァイツゼッカー大統領は、敗戦記念日に「歴史を想い起こせ」と演説しました。
 9月19日、メキシコで、大地震がありました。
 10月2日、ソ連のゴルバチョフ書記長は、対米軍縮新提案を発表しました。
 11月13日、コロンビアのネバドデルルイス火山が噴火し、2万5000人が死亡して、アルメロの町が消滅しました。
 11月19日、ジュネーブで、レーガン・ゴルバチョフの米ソ首脳会談が開催されました。
 この年 AIDSの恐怖が、世界に拡大しました。
 1986(昭和61)年1月28日、米のスペースシャトルは、打上げ直後に爆発しました。
 2月14日、フィリピン大統領選で、マルコスが当選しました。
 2月22日、フィリピンの国軍は、反マルコス派を鮮明にしました。
 2月24日、韓国の全大統領、’89年に大統領直接選挙制への改憲実施を言明。
 2月25日、フィリピンで、マルコス大統領が亡命し、先に暗殺されたアキノの夫人が大統領就任を宣言しました。
 3月16日、スイスは、国民投票で国連加盟を否決しました。
 4月26日、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生しました。
 4月28日、ソ連は、チェルノブイリ原子力発電所の大事故を公表しましたが、放射能汚染が拡大しました。
 5月19日、台湾の亡命機につき、香港で、初の中台直接交渉が実現しました。
 6月8日、オーストリア大統領選で、決選投票が行われ、ナチ疑惑のワルトハイム前国連事務総長が当選しました。
 8月22日、カメルーン北西部のニオス湖周辺で、有毒ガスが噴出しました。
 9月17日、フィリピンのアキノ大統領は、アメリカで、レーガン大統領と会談しました。
 10月11日、アイスランドのレイキャビクで、レーガン大統領は、ゴルバチョフ書記長と会談しました。
 11月10日、アキノ大統領が来日し、中曽根首相は、対比援助拡大を約束しました。
 11月13日、レーガン大統領は、対イラン秘密交渉の事実を認めました。
 12月5日、中国安徽省合肥の学生は、民主・自由を要求してデモを行いました。以後、学生デモは、上海・北京・天津に波及しました。
 12月19日、ソ連は、反体制派物理学者であるサハロフ夫妻の流刑を解除しました。
 1987(昭和62)年1月16日、中国共産党の胡耀邦総書記は、自由化の行き過ぎで、辞任しました。
 4月17日、米は、日本が日米半導体協定に違反したという理由で、パソコン等3品目の100%関税実施を発表しました。
 5月28日、西独のルスト(19歳)は、セスナ機でモスクワ赤の広場に着陸しました。
 6月12日、英国総選挙で、保守党が大勝し、サッチャー首相の3選が決定しました。
 6月23日、米は、1986年末の対外債務2636億ドルで、世界一の不名誉国となりました。
 9月7日、東独のホーネッカー議長は、初めて西独を訪問しました。
 9月27日、チベットのラサで、ラマ僧らは、独立要求のデモを行いました。
 10月19日、ニューヨーク株式市場で、下落率22.6%を記録し、史上最大となりました。
 11月2日、中国共産党大会は、総書記に趙紫陽首相を選出しました。
 11月28日、南アフリカ航空のジャンボ機は、南ア近くのモーリシャス沖に墜落し、日本人乗客47人が死亡しました。
 11月29日、115人を乗せた大韓航空機は、ビルマ付近上空で行方不明となりました。
 12月9日、米ソ首脳は、INF(中距離核戦力)全廃条約に調印し、弾頭4100発を廃棄しました。
 12月9日、ソ連の電子偵察機は、沖縄本島で日本領空を侵犯しました。
 12月16日、16年ぶりに韓国大統領選が行われ、与党民正党の盧泰愚総裁が第13代大統領に当選しました。
 1988(昭和63)年1月13日、台湾の蒋経国総統が死亡しました。
 1月15日、韓国は、大韓航空機爆破事件を北側の「爆弾テロ」と断定しました。
 4月14日、アフガニスタンで、ソ連との和平協定が成立しました。
 5月15日、ソ連軍は、アフガニスタンからの撤兵を開始しました。
 7月3日、米のイージス艦は、ペルシャ湾で、イラン旅客機を誤認して撃墜し、290人が死亡しました。
 8月20日、7年余り続いたイラン・イラク戦争で、停戦協定が成立しました。
 9月17日、第24回オリンピック=ソウル大会が開かれ、過去最高の160カ国・地域から1万3626人が参加しました。
 9月27日、世界記録を樹立したベン=ジョンソンは、薬物使用でメダルを剥奪されました。
 11月8日、米国大統領選挙で、共和党のブッシュが当選しました。
 11月23日、韓国の全斗換前大統領は、光州事件と一族の不正で、国民に謝罪し、落郷しました。
 12月2日、パキスタンのブット女史は、初の女性首相として就任しました。
 1989(平成元)年2月11日、ハンガリー社会主義労働者党中央委総会は、複数政党制復活を決議しました。
 2月15日、ソ連軍のアフガニスタン撤退が完了しました。
 3月26日、ソ連は、複数候補制による初の人民代議員選挙を行い、各地で改革派が当選しました。
 4月5日、ベトナムは、カンポジヤ駐留軍の9月末までの完全撤退を発表しました。
 4月15日、中国共産党の胡耀邦前総書記が急死しました。学生は、天安門広場で追悼集会を開きました。
 5月13日、北京の学生がハンストを開始しました。
 5月19日、中国政府は、戒厳令を発令しました。
 6月3日、イランの最高指導者ホメイニ師が死亡しました。
 6月4日、中国政府は、天安前広場で、ハンストを決行中の学生を戦車等で制圧しました。これを天安門事件といいます。
 6月4日、ポーランドの上下院選挙で「連帯」が圧勝しました。
 8月19日、東独の市民1000人は、オーストリアに脱走しました。これを東欧民主化運動の発端といいます。
 10月23日、ハンガリー政府は、人民共和国を共和国と改称しました。
 11月9日、東独は、ベルリンの壁を実質的に撤去しました。
 11月24日、チェコ共産党は、指導部を全面改選しました。
 12月3日、米ソ首脳は、マルタで会談し、新時代の到来を宣言しました。これをマルタ会談といいます。
 12月20日、米軍は、ノリエガ将軍を拘束するために、パナマに侵攻しましたが、失敗しました。
 12月22日、ルーマニアのチャウシェスク独裁政権が崩壊しました。
 12月25日、ルーマニアで、チャウシェスク大統領夫妻が処刑されました。
 1990(平成2)年1月11日、中国政府は、北京の戒厳令を解除しました。
 2月11日、南ア政府は、終身刑の黒人解放指導者であるマンデラを釈放しました。
 2月12日、ソ連最高会議幹部会は、大統領制導入を決定しました。
 2月15日、ラトビア共和国は、ソ連からの独立を決議しました。
 3月10日、イタリア共産党は、70年来の共産主義と訣別しました。
 3月11日、リトアニアは、ソ連からの独立を決議しました。
 3月15日、ソ連最高会議幹部会は、大統領にゴルバチョフを選出しました。
 3月21日、アフリカ最後の植民地ナムビアが南アから独立しました。
 3月30日、エストニアは、ソ連からの独立を決議しました。
 5月20日、台湾の李登輝総統は、中国との敵対関係の終息を表明しました。
 6月10日、ペルー大統領選で、日系のフジモリが当選しました。
 6月25日、南アのマンデラは、国連で演説しました。
 7月9日、米ヒューストンで、「ポスト冷戦後」初のサミットが開かれました。
 8月2日、イラク軍は、クウェートを制圧しました。
 8月6日、国連安保理は、イラクへの経済制裁を決議しました。
 8月7日、ブッシュ大統領は、サウジアラビアへの派兵を決定しました。
 8月25日、国連安保理は、限定的武力行使を決議しました。
 11月15日、ソ連大統領のゴルバチョフは、ノーベル平和賞を受賞しました。
 11月29日、国連安保理は、イラクが199年1月15日までに撤退しない場合の武力行使容認を決議しました。
10  1991(平成3)年1月17日、ぺルシャ湾岸の多国籍軍は、対イラク「砂漠の嵐作戦」を開始しました。 1月18日、イラク側は、ミサイル攻撃を行い、湾岸戦争が勃発しました。
 2月24日、多国籍軍は、対イラクの地上戦を開始しました。
 2月27日、多国籍軍は、イラクを制圧しました。
 2月28日、湾岸戦争が終結しました。
 4月6日、国連安保理は、イラクの停戦決議受諾を確認し、湾岸戦争が正式に終結しました。
 5月21日、インドのガンジー元首相は、遊説先で爆弾テロにあい暗殺されました。
 6月9日、フィリピンのピナツボ火山が今世紀最大の大噴火を起こしました。
 6月12日、エリツィンは、ロシア共和国初の大統領に当選しました。
 7月1日、ワルシャワ条約機構が解体しました。
 8月19日、ソ連保守派は、クーデタを決行し、ゴルバチョフ大統領を軟禁しました。
 8月21日、ソ連保守派のクーデタは失敗しました。
 8月24日、ゴルバチョフは、共産党中央委員会の解体を勧告して、自ら書記長のを辞任を表明しました。
 9月6日、ソ連国家評議会は、バルト3国の独立を承認しました。
 9月12日、北朝鮮は、核査察協定調印を拒否しました。
 10月10日、ハ−グの和平会議で、ユーゴ紛争に関する包括的和平が合意に達しました。
 10月14日、ミャンマーのスー=チーは、ノーベル平和賞を受賞しました。
 10月23日、カンポジヤ4派は、パリ国際会議で和平文書に調印しました。
 12月24日、金正日は、北朝鮮最高軍司令官に就任しました。
 12月25日、ゴルバチョフは、大統領を辞任しました。
 12月30日、旧ソ連11共和国は、独立国家共同体(CIS)会議を開催しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『昭和・平成現代史年表』などを参考にしました。
千里馬運動と社会主義幻想
 今から何年前か分りませんが、北朝鮮の物産展に行ったことがあります。その時聞いた言葉が千里馬運動でした。千里馬とは、1日千里を走り伝説上の動物です。金日成が千里馬伝説と、自分の主義を結合した運動でした。そこで聞いた話は、「いずれ南北が統一します。その時、わが国のレベルに南朝鮮がなれるように、1つはわが国のために、もう1つは南朝鮮のために頑張っています」というものでした。
 自分の金儲けのことしか考えない日本人が多い中で、労働の半分を他人のためにつくすという発想はとても新鮮でした。
 計画経済は、必要な数(需要)だけ作る(供給)ので、資本主義のような恐慌がなく、恐慌がないため、失業者がいないと喧伝されました。
 資本家のような一部の大金持ちがいないので、全ての人は平等に与えられると教えられました。「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」というのです。
 私は、社会主義国で生活したことがありません。体験した人の話も、社会主義に批判的な人は悪口を言うし、いずれ歴史は社会主義に方向に進んでいると考えている人は、途中の過程なので、色々な問題があるが、明るい展望を語ります。
 1981年に、日中教育交流ということで、旅行が許されていない中国を訪問しました。これが社会主義の体験の最初です。そこで感じたことは、別な項で書きましたが、「正直である」「嘘を言わない」という日本が昔持っていた道徳が残っていたことです。もう一つは、中国人通訳が「結婚を考えているが、希望するアパートになかなか入れない」ということでした。
 マルチナ=ナブラチロアという女子プロテニス選手がいました。生国はチェコスロバキアですが、1975年にアメリカに亡命しました。アメリカのクリス=エバート選手の助言があったと言われています。
 ナブラチロア選手は、手・腕を見ても、筋肉の塊です。これは並外れた練習の賜物です。1975年の全仏オープンで、優勝はアメリカのクリス=エバート選手で、準優勝はチェコスロバキアのマルチナ=ナブラチロア選手でした。この時、エバート選手はナブラチロワ選手に社会主義国での報酬を聞きました。ナブラチロワ選手は「私を生み育ててくれた祖国に恩返しするのが当然です」と答えました。するとエバート選手は「努力して、その結果、与えられるのが報酬であって、アメリカでは全て個人に与えられます」と言ったそうです。個人主義・自由主義の国では、努力すればその果実は与えられ、サボればその果実は少なくなるのは当然という考えです。
 そこで、ナブラチロワ選手はアメリカに亡命し、その後、輝かしい成果をあげました。
1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987
全豪              
全仏                
全英    
全米            
 千里馬運動といい、アパートの入居問題といい、ナブラチロア選手の報酬といい、官僚制の問題が浮かび上がってきます。
 また、アパートの入居問題やナブラチロア選手の報酬の問題は、個人の自由をどう捉えるのかということです。国のために、庶民は、我慢し、疾走する姿は、戦前の日本を想像させます。現に、北朝鮮の国状が物語っています。
 「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」は、その通りです。しかし、力が同じでも、努力する者とそうでない者が必ず存在します。その矛盾をどう解決するのかと考えました。
 自分をその場において見ると、やはり、自分の好きなことに耐え、そして努力したことが報われる社会の方が健全ではないかと思うようになりました。
 しかし、社会主義の平等主義や社会福祉という観念を忘れることは出着ません。
 次に、どうして、理想とされた社会主義国ソ連が崩壊したのかを検証します。
 1991年12月21日、ソヴィエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics、USSR)はソヴィエト連邦の消滅・独立国家共同体の設立を決定しました。この結果、1917年以来続いた社会主義国ソ連が崩壊したのです。国民が支持すれば存続し、国民が支持しなければ、いずれ崩壊するのが歴史の鉄則です。
 専門的は話は、学者に任せて、私の体験・知識で考えられることを書いてみました。
 社会主義の場合は、需要(計画)があって供給(生産)があります。これを計画経済といいます。実際に働くのは人間です。一生懸命働いたから、国のため、皆のため、家族のため、自分のためになったという実感がなかれば、徒労に感じます。つまり、労働生産性を上げるには、労働意欲がなければなりません。
 計画経済の場合、需要を国家目標の達成におくのか、国民生活の充実におくのかによって、労働意欲に差が出てきます。ソ連の場合も、消費物資の不足で、国民の長蛇の列でした。北朝鮮の場合も、テポドンを打ち上げて国威を高揚させても、食糧不足で飢えています。戦前の日本と同じです。いずれ崩壊する運命です。
 資本主義が全ていいとは思いません。しかし、好きな職業につくため、一生懸命に頑張ることが出来ます。好きな時に、好きな人と結婚し、住みたい土地に家を建てることも出来ます。
 昔は、祭りの時は、無礼講といって、網元は搾取した資金を、1カ月もの間、タダで酒食ももてなしをしました。これを富の分配といいます。格差社会に必要なのは、富の分配という社会主義的な救済方法です。これをケチった網元は、米騒動などで、打ちこわしにあっています。

index