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エピソード

300_01

現代の日本V(1996年〜1998年、橋本内閣・小渕内閣)
 ここでは1996年から1998年を扱います。
 橋本内閣・小渕内閣を検証します。
 1996(平成8)年1月5日、村山富市首相は、臨時閣議で、退陣を表明しました。
 1月11日、@82橋本龍太郎内閣が誕生しました。副総理・蔵相に社会党の久保亘書記長、厚相に菅直人、建設相に中尾栄一、経済企画庁長官に田中秀征、官房長官に梶山静六らが就任しました。
 1月19日、社会党大会は、社会民主党と改称し、初代党首に村山富市、幹事長に佐藤観樹、政審会長に伊藤茂を選出しました。
 2月9日、橋本内閣は、住宅金融専門会社(住専)焦付き債券6850億円処理に税金投入を図る住専処理法案を国会に提出しました。
 3月21日、国土庁は、「1996年1月1日の公示地価は5年連続下落」と発表しました。
 3月29日、1996年度暫定予算が成立しました。
 4月1日、東京三菱銀行が発足し、資金量は53兆円で、世界一となりました。
 4月12日、橋本首相は、駐日米大使と会談し、沖縄の普天間基地等の整理・統合・縮小について合意しました。
 4月17日、橋本首相は、クリントン大統領と会談し、極東有事に対し日米安保体制の「広域化」の安保共同宣言を行いました。
 5月10日、参議院本会議で、1996年度予算案が成立しました。住専問題は、国会決議がないため保留となりました。
 6月18日、住専法等6法案が可決され、6850億円の財政支出を決定しました。
 6月25日、橋本内閣は、閣議で、「1997年4月1日から消費税を5%に引上げる」ことを決定しました。
 7月1日、沖縄県の大田昌秀知事は、米軍楚辺通信所の一部用地の「公告・縦覧」を拒否しました。
 7月29日、橋本首相は、誕生日を理由に、総理大臣として靖国神社に参拝しました。
 8月15日、橋本首相は、アジア諸国民への加害に言及し、「深い反省と哀悼の意」を表明しました。
 9月8日、沖縄の米軍基地整理・日米地位協定見直しの賛否を問う県民投票が行われ、投票率59.53%で、賛成は有効票の91.26%に達しました。
 9月10日、橋本内閣は、臨時閣議で、特別調整費50億円を決定しました。
 9月13日、沖縄の大田知事は、米軍用地強制使用のための公告・縦覧の代行に応諾しました。
 9月28日、新進・社民・さきがけ各党から57人参加し、民主党を結成しました。代表に菅直人・鳩山由紀夫が就任しました。
 9月28日、土井たか子衆議院議長は、社民党両院議員総会の要請で、党首に就任しました。
 10月1日、新王子製紙は、本州製紙と合併し、世界第3位の王子製紙が誕生しました。
 10月20日、@41衆議院議員総選挙が初の小選挙区比例代表並立制で行われ、自民党239人、新進党156人、民主党52人、共産党26人、社民党15人、さきがけ2人が当選しました。投票率は、59.7%でした。
 11月7日、@83第二次橋本龍太郎内閣が誕生しました。蔵相に三塚博、厚相に小泉純一郎、通産相に佐藤信二、運輸相に古賀誠、建設相に亀井静香、官房長官に梶山静六、経済企画庁長官に麻生太郎らが就任しました。この内閣は「行革」を掲げ、社・さ両党と「緩やかな連合」政権でした。
 11月19日、橋本内閣は、行政改革会議設置を決定しました。
 11月28日、行政改革会議の初会議が行われました。
 12月13日、衆議院は、新進党提出の据置き法案を否決して、消費税5%引上げを決定しました。
 12月22日、社会党の臨時党大会は、土井たか子衆議院議長の党首就任を追認しました。
 12月26日、新進党を離党した羽田孜元首相ら衆参両院13人は、非自民の太陽党を結成しました。
 12月30日、東京外為市場は、1ドル=116.08円で、今年最安値を記録しました。
 1997(平成9)年1月2日、ロシアのナホトカ号による重油流出事故が発生しました。
 1月29日、オレンジ共済組合事件で、参議院の友部達夫が逮捕されました。
 2月20日、中国のケ小平が死亡しました。
 2月、神戸連続児童殺傷事件が発生しました。これを酒鬼薔薇事件ともいいます。
 3月15日、岡山自動車道が全線開通しました。
 3月22日、秋田新幹線の盛岡駅〜秋田駅間が開業しました。
 3月30日、三井三池鉱山が閉山しました。
 4月1日、消費税が3%から5%に引き上げられました。
 4月22日、ペルー日本大使館公邸に特殊部隊が突入し、人質全員を解放しました。
 6月20日、デンバーサミットが開催されました。
 9月11日、橋本首相は、内閣を改造しました。
 10月1日、北陸新幹線の高崎駅〜長野駅間が開業しました。
 10月1日、磐越自動車道が全線開通しました。
 10月1日、三井石油化学は、三井東圧化学と合併し、三井化学と改称しました。
 10月12日、京都市営地下鉄東西線の醍醐駅〜二条駅間が開業しました。
 11月13日、北陸自動車道は、計画路線を延伸して、全線開通しました。
 11月16日、サッカー日本代表は、W杯フランス大会のアジア第3代表決定戦に勝利しました。これをジョホールバルの歓喜といいます。
 11月17日、北海道拓殖銀行が破綻しました。
 11月22日、山一證券が破綻しました。
 12月1日、地球温暖化防止京都会議で、京都議定書が採択されました。
 12月7日、介護保険法が公布されました。
 12月10日、山陽自動車道の神戸〜山口間が全線開通ししました。
 1998(平成10)年1月23日、太陽党(羽田孜)は、国民の声(鹿野道彦)・フロム=ファイブ(細川護煕)の2党と合流して、民政党を結成しました。代表に羽田孜、副代表に石井一・広中和歌子が就任しました。
 1月14日、参議院で、押しボタン式投票機を初めて採択しました。
 2月2日、郵便番号が5桁から7桁になりました。
 2月7日、オリンピック長野大会が開幕しました。
 3月10日、自由民主党は、10兆円規模の追加景気対策を表明しました。
 4月1日、日本版金融ビッグバンがスタートしました。
 4月5日、明石海峡大橋が開通しました。
 4月27日、 民主党は、民政党・新党友愛・民主改革連合と合流し、新民主党を結成しました。
 5月26日、経団連の第9代会長に新日本製鉄の今井敬元社長が就任しました。
 5月30日、社会党は、橋本内閣への閣外協力解消を表明しました。
 6月10日、FIFAワールドカップフランス大会が開幕しました。
 6月13日、北海道室蘭市の室蘭港に架かる白鳥大橋が開通しました。
 6月22日、金融監督庁が発足しました。
 7月12日、第18回参議院議員選挙が行われ、改選議席は126で、自民党44人、民主党27人、日本共産党15人、公明党9人、自由党6人、社民党3人、新党さきがけ0人、自由連合0人、無所属20人が当選しました。
 7月25日、和歌山毒物カレー事件が発生しました。
 7月30日、@84小渕恵三内閣が誕生しました。外相に高村正彦、蔵相に宮澤喜一、文相に有馬朗人、通産相に与謝野馨、郵政相に野田聖子、内閣官房長官に野中広務、防衛庁長官に額賀福志郎、
経済企画庁長官に堺屋太一、内閣官房副長官に鈴木宗男らが就任しました。
 8月31日、北朝鮮は、テポドンを発射し、その一部が三陸沖に着弾しました。
 10月1日、秩父小野田は、日本セメントと合併し、太平洋セメントと改称しました。
 10月8日、韓国の金大中大統領は、日本を訪問しました。
 11月15日、沖縄県知事選挙で、自民党推薦の稲嶺恵一が当選しました。
 11月18日、京急空港線羽田空港駅が開業し、羽田空港駅〜都営地下鉄浅草線〜京成本線成田空港駅間に日本初の2空港間連絡列車「エアポート快特」と「エアポート特急」が運転を開始しました。
 11月25日、中国の江沢民国家主席は、日本を訪問しました。
 12月1日、NPO法が施行されました。
 この項は、『昭和・平成現代史年表』・石川真澄『戦後政治史』などを参考にしました。
橋本内閣・小渕内閣
 ここでは、ポマード大王の橋本内閣と冷めたピザの小渕内閣の誕生を扱います。
 1994年9月9日、新党協議会の第2回世話人会で、小沢一郎新生党代表幹事を世話人会座長に選任しました。   
 9月22日、公明党拡大中央執行委員会は、新・新党に参加することを正式に決定しました。
 10月30日、日本新党は、党大会で、解党・新党参加を正式に決定しました。
 11月24日、第2回新党準備会議員総会で、新党名を「新進党」に決定しました。
 12月5日、公明党は、新進党に参加する「公明新党」と地方組織「公明」の結党大会を開催しました。
 12月8日、第3回議員総会で、初代党首に海部俊樹、幹事長に小沢一郎を選出しました。
 12月9日、民社党は、民社党の解党・新進党への参加を決定しました。
 12月10日、新進党結党大会が開催されました。
 1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生時、政府の対応が遅いと批判され、内閣支持率が急落しました。防衛庁は、8時10分に兵庫県の貝原俊民知事に出動要請をしていますが、貝原知事が登庁して出動要請を出したのが10時10分で、道路事情で自衛隊が現地に着いたのが10時14分だったと言われています。全てを村山首相に被せるのは酷だと言われています。それ以降危機管理が話題となりました。
 2月5日、前新進党の木村守男が青森県知事選挙で当選しました。
 3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こりました。
 5月10日、自民党の森喜朗幹事長は、「村山首相は自ら、『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言していると個人的会談をリークしました。読売新聞社は、「村山首相は、退陣意向洩らす」と報道し、自社さ連立政権全体から森幹事長は猛反発を受ける事態となりました。
 6月21日、羽田発函館行の全日本空輸機365人がハイジャックされ、犯人は、オウム真理教の麻原彰晃の釈放を要求しました。これを全日空857便ハイジャック事件といいます。村山首相は、国家公安委員会の野中広務委員長・亀井静香運輸大臣と協議し、SAP(特殊急襲部隊)に突入を指示しました。死傷者を出すことなく、人質を救出しました。この時、村山首相は、「もしも死者が出たら白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ」といい、野中も「私も同行する」と言ったといいます。
 7月15日、村山首相は、財団法人女性のためのアジア平和国民基金(通称はアジア女性基金)を発足させました。
 7月23日、参議院選挙があり、与党は過半数を維持しましたが、新進党が躍進し、社会党は敗北しました。その結果、村山首相は、辞意を漏らし、与党側が慰留しする事態となりました。
 8月15日、村山首相は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題して、次のような談話を発表しました。これを村山談話」といいます。
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。・・・。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
 9月22日、自民党総裁選で、第17代総裁に橋本龍太郎が選出されました。
 9月29日、新進党の海部俊樹党首は、旧公明党はずしを画策し、公明党の市川雄一政調会長が退任しました。
 12月11日、海部は、出馬を断念しました
 12月12日、小沢一郎派、正式に出馬を表明しました。
 12月13日、小沢陣営の選対本部長に米沢隆が就任しました。。細川は、羽田を支持して、選対の最高顧問に就任しました。
 12月28日、新党首に小沢一郎幹事長が当選しました。新進幹事長に米沢隆が就任しました。
 1996年1月5日、村山首相は、辞任しました。
 1月11日、橋本龍太郎自社さ連立内閣が誕生しました。
 1月19日、社会党は党名を社会民主党変更し、村山富市が初代党首に就任しました。
 2月1日、羽田グループは、勉強会の興志会66人を正式に設立しました。
 2月16日、厚相の菅直人は、薬害エイズ問題に関して、患者側に謝罪しました。
 3月19日、新進党の小沢一郎は、住専問題を巡り、橋本首相と会談しました。住専問題は、バブル期に土地投機の資金を供給していた住宅金融専門会社(住専)各社が地価の下落によって経営破綻し、その損失をどのように負担するかが大きな政治課題となっていました。住専処理のために、6850億円の公的資金が投入されました。
 6月20日、小沢一郎は、細川護煕・羽田孜と会談し、挙党一致で合意しました。
 6月25日、橋本内閣は、閣議で、「1997年4月から消費税を5%引き上げる」ことを決定しました。
 8月1日、小沢一郎は、「首相の地位は望んでない」と発言しました。
 9月28日、社民党30人と新党さきがけの一部議員は、民主党を結成し、菅直人と鳩山由紀夫が共同代表に就任しました。
 10月20日、小選挙区・比例代表並立制による最初の総選挙が行われ、自民党は単独過半数には及びませんでしたが、239議席を獲得し、第一党の座を確保しました。新進党は小選挙区96議席・比例代表60議席の計156議席にとどまりました。民主党はブームを起こせず、解散前と同じ52議席でした。しかし、社民党とさきがけは、分裂によって大幅に議席を減らし、閣外協力に転じました。
 新進党からは、政権奪取をあきらめ、自民党に復党するものが相次ぎました。高市早苗・今津寛・杉山憲夫・井奥貞雄・高橋一郎・藤波孝生・谷畑孝らです。1997年に自民党に復党したのは船田元・実川幸夫・石破茂・笹川尭・岩永峰一・米田建三・望月義夫・遠藤武彦・新井将敬・愛知和男・北村直人・仲村正治・増田敏男・今井宏・鴨下一郎・6矢上雅義・萩野浩基・宮本一三・山本幸三無・村井仁・古賀正浩らでした。
 1997年113日、三洋証券が倒産しました。
 11月17日、北海道拓殖銀行が経営破綻しました。
 11月22日、山一證券が自主廃業を発表しました。野澤正平社長が泣きながら、「社員は悪くありませんから、悪いのは我々なんですから。お願いします。再就職できるようお願いします」と詫びました。
 12月27日、両院議員総会で、新進党の解党を正式に決定しました。
 1998年7月12日、第18回参議院議員選挙が行われ、自民党は17減の44人、民主党は27人が当選しました。
 7月13日、橋本首相は、退陣を表明しました。
 7月24日、小渕恵三は、橋本龍太郎から禅譲を期待していましたが、梶山静六・小泉純一郎が総裁選に出馬し、激しい選挙戦を展開しました。田中真紀子は、「梶山は士官学校卒業だから軍人、小泉は変な人だから変人、そして小渕は凡人」と酷評しました。その自民党総裁選で、凡人の小渕恵三は、小泉純一郎を総裁にしたくなかった森喜朗らの工作で225票を得て、軍人の梶山静六102票・変人の小泉純一郎84票を破り、総裁に当選しました。
 7月30日、参議院では菅直人が指名を受けましたが、規定どおり、衆議院で指名を受けた小渕恵三内閣が誕生しました。
 小渕恵三は、知名度や経験も少なく、アメリカの雑誌では「冷めたピザ」(不味くて食えない)と評されていました。中曽根康弘元総理は「真空総理」と評しました。その他、ボキャ貧・暗愚の帝王・がけっぷち内閣・平成おじさんなどと言われました。

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