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エピソード

302_01

現代の日本Z(2006年、靖国神社とA級戦犯合祀)
 ここでは2006年を扱います。
 靖国神社とA級戦犯合祀を検証します。
 2006(平成18)年1月16日、東京地方検察庁特捜部・証券取引等監視委員会は、ライブドアなどを証券取引法違反の疑いで強制捜査しました。
 1月21日、大学入試センター試験で、今回から英語のリスニングテストが導入されました。
 1月23日、東京地検特捜部は、証券取引法違反の容疑などで、ライブドアの堀江貴文社長・宮内亮治取締役ら4名を逮捕しました。
 2月7日、宮内庁は、「秋篠宮文仁親王の紀子妃が第3子を懐妊された」と発表しました。これを受けて美智子皇后は親しい友人に「1人で悩んでいらっしゃる天皇陛下の苦しい胸の内を、2人が理解して決断してくれたのだと思います」と話されたということです(神戸新聞)。女系天皇を容認する皇室典範改正案が国会に提出される直前の出来事でした。小泉首相は、これを受けて改正案の「慎重審議」に態度を変更しました。
 2月10日、預金者保護法が施行され、キャッシュカードの偽造・盗難により発生した被害の補償は、原則として金融機関が行うことになりました。その結果、身元を証明する手続が厳しくなりました。
 2月11日、社会民主党大会は、自衛隊の合憲容認路線を撤回し、自衛隊は違憲状態であるとする社会民主党宣言を採択しました。
 2月16日、ポートアイランド沖に神戸空港が開港しました。
 2月16日、民主党の永田寿康は、衆議院予算委員会で、「ライブドアの堀江貴文前社長が武部勤自由民主党幹事長の次男へ3000万円の振り込みを指示したメールが存在する」と発言しました。
 2月23日、オリンピック=トリノ大会で、女子フィギュアスケートの荒川静香は、日本人として初の金メダルを獲得しました。
 3月6日、元部員の飲酒喫煙で、駒澤大学附属苫小牧高校は、選抜大会出場を辞退しました。
 3月20日、日本代表は、キューバ代表に10-6で勝利し、初代WBCの優勝国となりました。
 3月27日、参議院本会議で、平成18年度予算案が可決・成立しました。
 3月27日、メール問題で、民主党の前原誠司代表らは総退陣し、永田寿康は議員を辞職しました。
 4月7日、民主党新代表に小沢一郎が就任しました。
 4月10日、秋田県で、小学4年生の女児(9歳)が水死体で発見されました。秋田県能代署は、「誤って転落したとみられる」と発表しましたが、女児の母親は、捜査に不満を漏らし、女児の顔写真入りチラシを配って情報提供を呼びかけました。
 4月23日、衆議院議員千葉7区補欠選挙で、民主党公認の太田和美(26歳)が当選しました。
 4月23日、沖縄市市長選挙で、革新無所属の東門美津子(63歳)が当選しました。
 4月23日、岩国市市長選挙で、米空母艦載機の岩国移転白紙撤回を求める旧岩国市長の井原勝介(55歳)が当選しました。
 4月23日、東広島市市長選挙で、無所属の蔵田義雄(54歳)は、自民党の中川秀直政務調査会長の二男を破って、当選しました。
 4月24日、日本は、在沖縄米海兵隊のグアム移転費用の59%(7064億円)を負担すると発表しました。
 4月26日、警視庁らの合同捜査本部は、耐震強度偽装問題で、姉歯秀次元一級建築士、木村建設社の木村盛好長・篠塚明元東京支店長、イーホームズの藤田東吾社長ら8人を逮捕しました。
 4月28日、横田早紀江は、ブッシュ大統領に、拉致問題の解決のため米政府の支援を求めました。
追記1:2009年1月3日、メール問題で議員を辞職した永田氏が自殺するという衝撃的な出来事がありました。
 ご冥福をお祈りいたします。
 と、同時に、永田氏ほどの超エリートが「どうして自殺したのか」という問題とも厳しく対面したいと思います。というのは、以前、「永田寿康インタビュー━東大生へのメッセージ」という記事を読んでいたからです。そこには、「失敗した人が責任をとるということが当たり前の国にしたい」として、次のようなことが書かれていました。
 「失敗した人が責任をとらないって言う社会と、失敗した人が、一回責任をとるんだけれども、再チャレンジできる社会ってのは、これは、本質的に異なる」。つまり失敗した人が自力することに援助し、今度は、その人が他者に援助する。そういう制度を作りたいという立派な発言です。
 その立派な発言と現実的な自分が失敗・自殺する現実との差がありすぎる。
追記2:死者に鞭打つようになりますが、以上の矛盾を検証するために、永田氏の経歴を調べました。
 慶應義塾志木高等学校から東京大学工学部物理工学科に入学し、大蔵省に入省し、さらにカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でMBA(経営学博士)を取得しています。まさに理系・文系の最高峰を極めた超エリートです。
 2000年、30歳で衆議院議員になり、以後3期連続当選です。父は、九州の医療法人を経営する国内有数の資産家で、月一度の新聞の折り込み広告等の選挙支援を行ったと言われています。
 2004年、千葉マリンスタジアムを借り切って結婚し、2005年に長女が誕生しています。
 2006年、絶頂期に、メール問題で議員を退職します。その後、親族の経営する会社に入社したり、親族の経営する公認会計事務所に入所していますが、すぐ退社・所しています。その後、離婚問題が浮上しています。
 2008年11月、父が関係する保養所で手首を切って抜け出し、徘徊していて保護されています。
 2009年1月3日、北九州市のマンション駐車場で死亡している永田氏が発見されました。警察はマンションからの飛び降り自殺と断定しました。
 失敗を経験したことのない超エリートの永田氏の頭には「救う失敗」はあっても、「救われる失敗」はなかったのでしょうか。「頭の中で作られた建前の発言」が世に氾濫しています。今こそ「体験を踏まえた発言」の復活が必要な時期です。
 5月8日、ガソリン全国平均店頭価格が1リットル=134.9円で、1991年2月以来の高値となりました。
 5月15日、外務省は、海外在住の日本人の総数が戦後初めて100万人を突破したと発表しました。
 5月16日、与謝野馨経済財政担当大臣は、月例経済報告を提出し、「景気拡大がバブル景気を超え戦後2番目になる」と発表しました。
 5月17日、在日本大韓民国民団は、朝鮮総連との和解声明文を発表しました。
 5月18日、秋田県能代市で、行方不明の小学1年生男児の絞殺遺体が発見されました。
 5月24日、日本経団連は、奥田碩初代会長(トヨタ自動車会長)の後任に御手洗冨士夫副会長(キヤノン会長)を選出しました。
 5月26日、行政改革推進法など行革関連5法は、参議院本会議で成立しました。
 5月29日、社会保険庁は、「国民年金保険料の納付を本人の申請なしに無断で免除または猶予する不正が全国26都府県で11万3975件に上っている」と発表しました。
 5月30日、東京地方裁判所は、東京都立板橋高等学校の卒業式で、保護者に対し国歌斉唱の際に起立しないよう呼びかけ、威力業務妨害に問われた元同校教諭に対して、罰金20万円の有罪判決を下しました。
 6月1日、改正道路交通法が施行され、駐車違反の取り締まりが民間委託となりました。
 6月1日、厚生労働省は、「2005年の統計によると、出生率は1.25と過去最低」と発表しました。
 6月2日、2005年10月1日現在で、65歳以上の高齢者人口が20%を超えた事が判明しました。
 6月4日、秋田県警能代署は、小学1年生男児殺害事件で、男児宅の2軒隣に住む33歳の無職女を死体遺棄容疑で逮捕しました。容疑者の9小学4年生の女児も、4月に近くの川で水死体で発見されており、警察では関連性を捜査しています。
 6月5日、村上ファンド代表の村上世彰は、証券取引法違反容疑で逮捕されました。
 6月5日、画家の和田義彦の作品は、イタリア人画家の作品に酷似しており、文化庁は調査の結果、芸術選奨授賞を取り消しました
 6月9日、FIFAワールドカップドイツ大会が開幕しました。
 6月20日、奈良県田原本町で、医師宅が全焼し義母・姉妹の3人が焼死しました。その後、行方不明になっていた高校1年生の長男を京都市内で発見し、放火容疑で逮捕しました。
 6月21日、金融庁は、保険金未払い問題に関して、三井住友海上火災保険に対し、全店舗での商品販売2週間停止・新商品の認可の1年間停止など、これまでで最も重い処分を科しました。
 6月23日、最高裁判所は、小泉純一郎総理大臣の靖国神社参拝により精神的苦痛を受けたとして、戦没者遺族が国・総理・靖国神社を訴えた裁判で、訴えを棄却しました。
 6月23日、財務省は、「国の債務の総額が3月現在で827兆4805億円に達した」と発表しました。
 6月24日、第一生命保険は、「配当金の未払いが47352件1億1557万円に上る」と発表しました。既に2年前の2月に事実が判明していたが、公表しませんでした。
 6月25日、陸上自衛隊は、イラクからの撤収を開始しました。
 6月26日、東京都渋谷区の路上で、女子大生が3人組の男により誘拐され、犯人は被害者の母親の美容整形外科医に対し3億円の身代金を要求しました。
 6月26日、損害保険ジャパンは、業務停止に至る原因となった保険金未払い問題や違法営業に関して、584人を社内処分しました。
 6月27日、前日誘拐された女子大生を川崎市内で無事保護し、犯人3人を逮捕しました。
 7月2日、滋賀県知事選挙で、京都精華大学の嘉田由紀子教授は、「もったいない」を公約に、新幹線新駅を推進する現職の国松善次知事を破り、全国で5番目の女性知事が誕生しました。
 7月5日、北朝鮮は、日本海に向け7発のミサイルを発射しました。
 7月5日、国連安全保障理事会は、北朝鮮のミサイル発射に関して緊急協議を開催しました
 7月6日、在日本大韓民国民団(民団)は、北朝鮮によるミサイル発射実験で、5月に朝鮮総連と合意した和解の共同声明を白紙撤回することを発表しました。
 7月7日、北朝鮮の宋日昊日朝国交正常化交渉担当大使は、日本による経済制裁を言語道断と非難し、「ミサイル発射は日朝平壌宣言に違反しない」と発言しました。安倍晋三官房長官は、「残念であり、憤りを覚える。誰がこのような関係になる原因を作ったかよく考えてもらいたい」と批判しました。
 7月7日、日本政府は、国連安全保障理事会に、米英仏各政府と共同で、北朝鮮制裁決議案提出しました。
 7月11日、トヨタ自動車は、ハイラックスサーフのかじ取り装置「リレーロッド」に不具合がある事を知りながら、8年間にわたりいわゆるリコール隠しを行っていたとして、熊本県警は品質保証担当責任者3人を書類送検しました。
 7月11日、マイクロソフトは、Windows 98およびWindows Meのサポートを終了しました。
 7月14日、日本銀行は、2000年8月以来約6年ぶりとなるゼロ金利政策の解除を決定しました。
 7月14日、国連安全保障理事会は、日米などが共同提案した北朝鮮のミサイル発射に対する決議案を全会一致で採決しました。中国・ロシアに配慮し、当初案にあった国連憲章第7章に関する記載は削除しました。
 7月14日、パロマ工業社製のガス瞬間湯沸かし器が原因の一酸化炭素中毒事故により、1985年以降15人が死亡しました。警視庁は業務上過失致死容疑で捜査に着手しましたが、パロマの小林弘明社長は記者会見で、「製品には全く問題ない」と強弁しました。
 7月18日、秋田県警は、秋田県藤里町の小学4年生女児水死事件で、既に別の小学1年生男児殺害容疑で逮捕していた女児の母親を、女児殺害容疑で再逮捕しました。
 7月18日、パロマ工業の社長・会長は、一連の一酸化炭素中毒事故問題に関し、謝罪の記者会見を行い、会長が引責辞任の意向を表明しました。
 7月20日、日本経済新聞は、靖国問題に関して、元宮内庁長官富田朝彦の昭和天皇メモを公表しました。それには、昭和天皇が、A級戦犯やA級戦犯の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の靖国神社への合祀に不快感を示していた事が記されていました。
 9月6日、秋篠宮家に男子が誕生しました。天皇家としては、41年ぶりの男子誕生です。現皇室典範によると、皇太子・秋篠宮に次いで第3位の皇位継承者になります。女子の誕生の場合は、皇室典範改正論議が活発化することになります。既存の皇室会議を有効に活用して、時間をかけ、慎重に対応した制度を考えたいものです。
 9月20日、安倍晋三が自民党の新総裁に選出されました。
各候補者の得票
  議員票 地方票 得票率
安倍晋三 267 197 464 66%
麻生太郎 69 67 136 19%
谷垣禎一 66 36 102 15%
 9月26日、安倍晋三が新内閣総理大臣に選出されました。
首相指名投票の結果
衆院 参院 合計
安倍晋三 339 136 475
小沢一郎 115 85 200
志位和夫 18
福島瑞穂 13
綿貫民輔
 10月1日、第61回国民体育大会兵庫大会が開幕しました。
 この項は、『近代日本総合年表』・『Wikipedia2006』などを参考にしました。
富田朝彦氏の昭和天皇メモと言論界
 今流行しているWikipediaによると、歴史修正主義については、「一般的には客観的・論理的・科学的・学問的に構築された歴史モデルから逸脱し、特定のイデオロギーに沿って独自の修正を加える思想・歴史観のことを指す」とあります。
 私は、歴史修正主義を、自分のイデオロギーに沿って、都合のいい史料をのみ使用し、都合のいい部分のみをつまみ食いし、都合の悪い史料を切り捨てるか、都合のいいように解釈する歴史観だと理解しています。
 小泉首相が靖国に毎年参拝するようになって、歴史修正主義者のマスメディアへの突出が目立ってきました。その代表が新しい歴史教科書をつくる会だったり、自由主義史観研究だったりします。ともに共通しているのが産経新聞をスポンサーにしている所で、産経新聞御用学者ということです。江戸時代の狩野派は、幕府の御用絵師になってから、独創性が消え、衰退していきました。
 私のように学者でなくても、彼らの主張には無理があります。彼らの意図が分りません。
 東京裁判を受け入れことを条件に、日本は世界に復帰しました。これは条約、つまり世界との公約です。歴史修正主義者は、(1)「ソ連が日ソ中立条約を破棄して、満州に侵略してきた」と批判します。私も同意見です。歴史修正主義者は、(2)「東京裁判を受け入れたのではなく、判決を受け入れたのであって、A戦犯はアメリカなどが押し付けたものであり、認められない」と主張します。(1)の物差しを(2)では見事に、放棄しています。彼らは国益のために主張しているといいますが、世界から信用を失う発言であることに気がついていません。
 2006年7月20日に新聞に、宮内庁の富田朝彦元長官の昭和天皇のメモが報道されました。それは次の通りです。
 「私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」
 *解説(1)A級とはA級戦犯のこと(2)松岡とは日独伊三国同盟を推進した松岡洋右元外相のこと
(3)白取とは日独伊三国同盟を推進した白鳥敏夫元駐伊大使のこと(4)筑波とは靖国神社宮司の筑波藤麿のこと(5)松平とは終戦直後当時の宮内大臣であった松平慶民のこと(6)松平の子の今の宮司とは靖国神社宮司で松平慶民の長男である松平永芳のこと
 多くの新聞やTV、学者や評論家は、このメモから「昭和天皇はA級戦犯合祀に不快感を抱いて、靖国に参拝しなかった」と解釈しています。
 ノンフィクション作家の上坂冬子氏は、自民党の加藤紘一元幹事長と対談しています(『文藝春秋』2006年8月号)。
 加藤氏「日本政府は、1951年にサンフランシスコ講和条約11条で東京裁判を受け入れていますよね。A飯戦犯として訴追された25名、あるいは絞首刑となった東条さんはじめ7名が、あの戦争を主導した責任者だということを、政府として認めた」
 上坂氏「東京裁判の何を受け入れたのかについては議論があります。平和条約の条文では、英文のjugdementsを裁判と訳していますが、これは誤訳で判決と訳すべきだという考え方が最近では通説になっています」
 加藤氏「いえいえ、誤訳ではありません。その青山学院大の佐藤和男教授の説はあまりにも馬鹿げていて国際的にも相手にされていませんし、正直この議論はうんざりです。国際社会では、東京で行われた極東軍事裁判と、フィリピン、シンガポールで行われた軍事裁判などを合わせて裁判の複数形としてとらえています」
 上坂氏「平和条約が発効した二日後に戦傷病者戦没者遺族等援援護法を公布し、翌年には同法の一部改正を行って、戦犯の遺族を戦死者と同じに扱うよう全会一致で決めましたよ。つまりこの時点で、国として戦犯による刑死者も公務死とみなされ、戦死者同様に戦争の犠牲者として扱うことになったんです。首相の靖国参拝は、何の問題もありません」
 加藤氏「ただ彼らの名誉回復はなされていませんよね。公務死としたのは、そうしなければ国内法的に遺族に恩給を給付できなかったからです。それに、国際社会では処刑は終わった、戦犯たちは亡くなったのだから、もうあの戦争に関する責任問題も終わりというわけにはいかないのです」
 *解説(上坂氏は、すっかり論破されている説を繰り返し、主張しています。これがノンフィクション作家かと疑いたくなります。逆に、自民党の中にも、国際感覚を弁えた政治家がいたのか、自民党のバランス感覚を見直しました)
 加藤氏は、富田メモが公表される前に、上坂氏との対談で、次の様に語っています。
 加藤氏「昭和天皇は、A級戦犯が合祀されて以降は参拝されていませんよね。五代目宮司だった皇族出身の筑波藤麿さんは、BC級戦犯が合祀された後も、「宮内庁の関係もあるから」とA級戦犯の合祀を保留していました。昭和天皇ご自身は合祀にご納得されていなかったのではないでしょうか」
 上坂氏「天皇のお気持は、庶民には正しく伝わってこないと考えた方がよいのではないでしょうか」
 *解説(加藤氏は、国際的にも国内的にもA級戦犯の扱いを冷静に分析しています。そして、ずばり昭和天皇ご自身は合祀にご納得されていなかったと予言しています。他方、ノンフィクション作家の上坂氏は、天皇の靖国に参拝されない気持ちは、私には伝わってこないと降参です。勝負ありです)
 上記にみるように、勝負ありの人物を登場させているのが産経新聞です(2006年7月21日付け)。
 上坂氏は、タイトルに慎みたい「富田メモ」の過大評価、サブタイトルに合祀・分祀問題と直接の関係なしと題して、次のような文章を書いています。
 「(1)昭和天皇が一部のA級戦犯に好感をもっておられないらしい、といううわさはかねて聞いていた。正直なところ私はこのスクープを見て、あっと息をのんだ。松岡元外相、白鳥元大使は文官である。2人とも日独伊三国同盟のために活躍した人物だから、天皇がこの同盟によほど反対しておられたと判断する根拠にはなろうが、それ以上の意味づけは軽々にすべきではなかろう。
 (2)もし、このメモを過大評価して靖国神社からA級戦犯を分祀せよということになれば、新たな論争が起きるだろう。すなわち天皇は東条元首相の天皇擁護論を知っていたのか、知らなかったのか、ということになり、そのことに端を発して天皇の戦争責任論が蒸し返されることも考えられる。
 (3)たしかに天皇は昭和50年を最後として参拝されていないから、合祀にこだわられたという見方も分かるが、昭和44年から49年まで靖国神社の国家護持論が国会で紛糾した。この論議の過程を見て、国民のコンセンサスが得られていないところへの参拝を思いとどまられたことも考えられる。
 (4)考えられるのは、天皇には正確な情報を網羅して直ちに伝えられていたわけではないらしいということだ。少ない判断材料に基づいてのご発言だとしたら、必要以上の拡大解釈は慎みたい」
 *解説(1)につていは、原文の「A級が合祀され その上」を意図的に廃除して、日独伊三国同盟推進者に不快感の焦点を合わせようとしています。仮にそうであっても、A級戦犯には変わりありません。
(2)昭和天皇は自ら戦争責任を取ろうとしていました。東条英機も戦争責任を取ろうとしています。それは事実です。昭和天皇も東条英機も、戦争指導者として、靖国神社に合祀されることを忌避していました。広田弘毅のお孫さんも東郷重徳のお孫さんも、合祀に反対を表明しています。ここで問題にしているのは、戦争責任を取ろうとした者を合祀した靖国神社側に不快感を抱いたのであって、A級戦犯にではありません。読解力が足りませんよ。
(3)確かに、1969(昭和44)年に、自民党は、国家護持をめざして靖国神社法案を提出しました。しかし、靖国神社は、非宗教化による国家管理を拒否したこともあって、1974(昭和49)年に廃案になりました。上坂氏が言うようにコンセンサスを得ることを考えるなら、1969年から参拝を見合すことの方が里に叶っています。ナンセンスの言いがかりです。
(4)最後に持ち出してきたのが、君側の奸です。天皇自らに情報収集能力がなかったと言えば、不忠者であり、国賊です。天皇に正しい情報を君側(侍従や宮内庁長官)が伝えなかったから、このような間違った「お言葉」が出たのだ。悪いのは君側の奸だという論法です。無茶苦茶です。これでは、ご飯も食べられません。
 上坂氏と同じような発言で知られるのが、櫻井よしこ氏です。論破された学説?を今も吹聴する姿は憐れでもあります。本人は至って真面目ですから、哀れさを感じます。
 先日(2006年7月23日の朝日TV)のサンデー=モーニングでは、櫻井氏は「天皇は個人名をお出しにならない方だ。個人名が出ているのはおかしい」とメモそのものにいちゃもんをつけます。日本が受け入れたのは判決であって東京裁判ではないと、吟味もしないで主張するのと好対照です。
 『週刊新潮』(2006年8月3日号)には、櫻井氏は「メモの書かれた88年4月28日当時、陛下のご体調が万全でなかったのは周知のとおりだ。体調が優れないとき、人間は考えてもみなかった思い違いもする。だからこそ、私たちは、当時の陛下のお言葉をとりわけ慎重に吟味しなければならない」と書いています。多くの人は慮って、君側の奸に責任を負わすが、櫻井よしこ氏は、ずばり天皇の責任に言及したのである。端正な容貌に似合わぬ残酷な表現力です。「自分に不利な史料が出ると、ここまでやるか」といういい見本です。
 上坂氏と櫻井氏に共通する意見の出所を調べました。『週刊新潮』では外交評論家として登場した田久保忠衛氏でした。彼は、「昭和天皇にきちんとした情報が伝わっていなかったのか、伝わっていたにしても御体調が悪くて健全に判断出来なかったのか、或いは忘れてしまわれたのか。または、歴史に明るくない富田さんが事実と異なったことを書いてしまった可能性も考えられます」と書いています。誠に驚くべき表現です。
 1978年10月にA級戦犯の合祀があり、11月に天皇にその名簿が届けられています。田久保氏のような説がどこから出てきたのか、常識では理解できません。それを取り上げる上坂氏や櫻井氏の態度も一流のノンフィクション作家やジャーナリストとも思えません。
 田久保氏がどんな人か調べてみました。「新しい歴史教科書をつくる会」顧問とありました。
 *解説(2006年8月発売の『文藝春秋』9月号には、日経新聞から事前に富田メモの評価や相談を受けた半藤一利さんや秦郁彦さんらの対談があり、その中で半藤さんは昭和天皇の「遺言」ともいえる史料といい、秦さんも同感されています。最近のTVでは京都産業大学教授で靖国神社総代の所功さんや保守派の評論家である三宅久之さんも富田メモを「本物です」と断言しています)
 上坂氏や櫻井氏らは、外圧によって、天皇の靖国参拝がなくなった言っていました。
 岡崎久彦氏や小林よしのり氏は、「三木首相は、首相として、初めて、8月15日に靖国神社に参拝したが、私人として参拝した。その結果、天皇には私人としての立場がないから参拝できなくなった」と主張してきました。
 このような議論を曖昧なままで終わるのでなく、きちんと、参拝問題を整理しておきましょう。
 1945年、靖国神社は、宗教法人となりました。
 1948年、東京裁判で判決が下りました。
 1951年9月、サンフランシスコ講和条約を締結して、日本は独立しました。
 10月、例大祭で、吉田首相らは、新憲法下で初めて靖国神社を公式参拝しました。
 1952年、天皇・皇后両陛下が戦後初の参拝をしました。
 1953年3月、財団法人日本遺族会が設立されました。
 8月、戦傷病者戦没者遺族等援護法一部改正・恩給改正法が公布され、戦犯の遺族にも軍人恩給が支給されました。
 1955年、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えるという靖国神社公式参拝に関する政府統一見解を発表しました。
 1959年3月、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑が完成し、天皇・皇后両陛下が出席しました。
 4月、戦争裁判死亡者(法務死)のB級戦犯・C級戦犯346柱を始めて合祀しました。
 1966年、厚生省は、A級戦犯14人の祭神名票を靖国神社に送付しました。
 1969年、自民党は、靖国神社の国家管理をもり込んだ靖国神社法案を国会に提出しました。
 1970年、靖国神社崇敬者総会は、A級戦犯の合祀を決定しましたが、筑波藤麿宮司預かりとしました。
 1974年5月、名古屋高裁は、津地鎮祭訴訟に関して、違憲判決を下しました。
 5月、衆議院本会議で、自民党は靖国神社法案を単独可決しましたが、参議院で廃案になりました。以後、自民党は、靖国法案を断念しました。
 1975年8月、三木武夫首相は、私人の資格で、首相として、初めて終戦記念日に参拝しました。
 11月、天皇・皇后両陛下は、靖国神社に参拝しましたが、この時以後、天皇の靖国参拝は途絶えています。この事実から、岡崎氏や小林氏は、三木首相の私人参拝が原因で、天皇の靖国参拝は中断したと主張していました。
 1977年、最高裁は、津地鎮祭訴訟に関して、「地鎮祭は世俗的目的」として合憲判決を下しました。
 1978年7月、筑波藤麿宮司が死亡して、新宮司に松平永芳が就任しました。
 8月、福田赳夫首相は、終戦記念日に、靖国神社に、「私的」としながら、内閣総理大臣の肩書きを記帳して、参拝しました。
 10月、参議院で、安倍晋太郎官房長官は、福田首相の靖国参拝について、「首相が私人の立場で神社に参拝することは自由である」であると答弁しました。
 10月17日、靖国神社は、「合祀するのに何の不都合のない」として、東条英機・広田弘毅らA級戦犯14人を昭和受難者として密かに合祀しました。不都合がなければ、堂々と合祀すればよいのを、秘密裏に運んだことが、問題を大きくしました。
 11月、A級戦犯合祀名簿が昭和天皇のもとに届けられました。
 1979年4月19日、A級戦犯の合祀が表面化しました。
 1980年8月、鈴木善幸首相や閣僚が大挙して参拝しました。
 11月、「総理大臣が国務大臣の資格で参拝することは憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」「「私人」参拝は認める」という政府の統一見解を発表しました。
10  1982年、鈴木善幸首相は、「公人か私人か」を答えず、靖国に参拝しました。
 1983年4月、中曽根首相は「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として靖国に参拝しました。
 7月、中曽根首相は、「1955年11月の靖国公式参拝に対する政府見解」の見直しを表明しました。
 1985年8月15日、中曽根首相は、戦後政治の総決算として、靖国神社に公式参拝しました。
  9月、中国外務省は、「A級戦犯も祀る靖国神社への日本内閣構成員の公式参拝について、わが国の友好的な勧告にもかかわらず、わが国人民の感情を傷つけた」と抗議しました。
 10月、自民党の板垣正が遺族会を代表して、靖国神社に対して、A級戦犯の合祀の取りやめを要請しましたが、東条英機の次男輝雄は「東京裁判史観に納得していない」と拒否し、神社側もこれに同調しました。当然のことです。自民党の慌てぶりがよく分ります。
 1986年7月、平和遺族会全国連絡会は、「我々は、アジア、太平洋で肉親を失いました。同時にアジア各国の2000万人以上の命を奪った侵略戦争でした。再び戦争による惨禍を避ける為に最大の努力をするように希望します。私たちの肉親の悲しみと無意味の死、およびアジア各国人民の死も意義を失わずに報われることでしょう。これこそが私たちの追求する只一つの道です」と宣言しました。
11  1986年8月14日、後藤田正晴官房長官は、「近隣諸国の国民の間に、公式参拝は靖国神社に合祀(ごうし)されているA級戦犯に礼拝したのではないかとの批判を生み、わが国の戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生む恐れがある。近隣諸国の国民感情にも配慮しなければならない。首相の公式参拝は差し控える」との談話を発表しました。
 8月15日、中曽根首相は、中国共産党の胡耀邦総書記に対して、靖国神社公式参拝の取り止めに関する『中曽根康弘書簡』を送っています。
 「胡耀邦総書記閣下
 私は戦後40年の節目にあたる昨年の終戦記念日に、わが国戦没者の遺族会その関係各方面の永年の悲願に基づき、首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しましたが、その目的は戦争や軍国主義の肯定とは全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼と国際平和を祈願するためのものでありました。 
 しかしながら、戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました。
昭和61年8月15日
内閣総理大臣 中曽根康弘」
 8月19日、中曽根首相は、衆議院内閣委員会で、「サンフランシスコ平和条約第11条によって極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しております」と答弁しました。
 8月19日、後藤田正晴官房長官は、衆議院内閣委員会で、「東京裁判についてはいろいろな意見があるが、日本政府はサンフランシスコ講和条約で、東京裁判の結果を受諾している」と答弁しました。
 *解説
(1)この中曽根康弘書簡には、日本人の気持ちと、アジア人である日本人の気持ちがよく表現されています。上坂さんや櫻井さんのように単純に日本人だけを主張する気楽な時代ではありません。
(2)上坂さん・櫻井さん・小林よしのり氏らは、合祀以後も首相は靖国に参拝していた。それが、1985年から中国などの外圧により日本の首相が屈したと主張します。1985年から中国が抗議したのは事実です。しかし、1955年の「公的参拝することは差し控える」という政府統一見解を反古にして、1985年に公的参拝を強行したのです。こうした歴史的事実を踏まえず、表面的な事象で判断することは、学問的と言えません。政治的行動です。
(3)上坂さん・櫻井さん・小林さんらは、よくよく外圧にしたいようです。日本人の感情を逆なですることを期待する言論です。しかし、冷静に見ると、これは完全な国内問題です。国内問題であるにもかかわらず、日本人が真剣に討議しなかったことに責任があります。
12  最後に、富田メモがこの時期に出されたことを、産経グループの人は、政治的な意図があると断じています。私も政治的な意図があったと思います。
 私の立場は、日経新聞の朝刊に富田メモが報道されました。夕刊では、産経以外は、各紙で大々的に取り上げられました。朝刊から夕刊までに時間があります。富田家の遺族は、これが不当な扱いならば当然否定的なコメントを産経にもたらすはずです。それがなかったということは、富田家の遺族の意向もあったと見るべきです。
 では、富田家の遺族の意向とはどういうものでしょうか。小泉さんが靖国参拝を強行し、アジア外交が破壊されました。次の首相候補とされる安倍晋三官房長官も靖国参拝を公約しています。これでは、昭和天皇の意図と逆行することを心配して、富田メモを出したのです。
 天皇は、A級戦犯が靖国に合祀されていることは、日本国論を二分し、アジアを分断すると考えたのです。これほど高邁の政治的意図があるでしょうか。
 朝日新聞(2006年7月27日)には次のような記事がありました。
 A級戦犯である広田弘毅元首相の孫の弘太郎氏(67歳)は、A級戦犯が合祀された1978年当時について、「合意した覚えはない。今も靖国神社に祖父が祀られているとは考えていない」と話した。靖国に絡むこれらの思いは「広田家を代表する考え」としている。
 私には、これら全ては、納得いく話しですが、上坂さん・櫻井さんらは、現役の広田弘太郎氏を老衰・病気にも出来ません。どんな人を動員して、歴史を修正をするのか楽しみです。
13  靖国神社のA級合祀問題に終止符を打つ貴重な史料が、富田メモ以外に発見されました。
 その史料は、昭和1994年7月15日付けで、陸軍大臣東条英機名で出された「陸密第二九五三号靖国神社合祀者調査及上申内則」です。そこには陸軍秘密文書として、靖国神社合祀基準「戦役勤務に直接起因」して死亡した軍人・軍属に限ると通達していました。
 文書は、靖国への合祀は「戦役事変に際し国家の大事に集れたる者に対する神聖無比の恩典」と位置付け、合祀の上申は「敬虔にして公明なる心情を以て」当たるよう厳命。原則として戦地以外での死者は不可としている。元首相自身の戦中の通達に従えば、戦後の同元首相らA級戦犯は明らかに「合祀の対象外」となる内容だ。
 八〇年ごろに旧厚生省が廃棄処分にした書類の一部として作家の山中恒氏が古書市で入手した。
 防衛庁防衛研究所の史料専門官は「旧陸軍の秘密文書の書式に合致し、内容にも矛盾がない」と原文を写したものにほぼ間違いないとしている。
 文書は、戦死者、戦傷死者以外の靖国神社への「特別合祀上申」対象者として@戦地でマラリア、コレラなどの流行病で死亡した者A戦地で重大な過失によらず負傷、病気の末に死亡した者B戦地以外で戦役に関する特殊の勤務に従事し負傷、病気の末に死亡した者ーの三つの要件に限定。「死没の原因が戦役(事変)勤務に直接起因の有無を仔細に審査究明すること」を命じている。
 また、この文書と同じとじ込みの中にあった同年七月十九日付の「陸軍省副官・菅井斌麿」名の秘密文書の写しは「東条通達」を補う形で、上官らの温情から合祀対象者が拡大傾向にあった当時の事情を「神霊の尊厳を冒すことあらんか實に由々しき大事なり」と戒め、基準徹底をさらに詳細に指示している。
14  東条英機元首相の二男・東条輝雄氏(91歳)の話
 「父が陸軍大臣として、そのような文書を出したとしても、立場上、当然のことだったと思う。戦地に行かなかった者は靖国神社に合祀されないというのは当時の常識だった。父も戦後、自分が合祀巳されるとは思ってもいなかったはずだ。ただ、(父についての)合祀は靖国神社が決めたことであり、一民間人の私が是非について意見を言うことは控えたい。
 (13、14は2006年8月6日付け神戸新聞より)
15  2007年4月26日、朝日新聞は、晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕えた卜部亮吾侍従が32年間欠かさずつけていた日記を公表しました。そこには、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と書かれていました。
 朝日新聞は、「昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる」としています。
 4月27日、朝日新聞の姿勢に批判的で、新しい教科書を作る会を支援する産経新聞は、この卜部侍従日記についてはコメントを加えず、事実のみを次のように紹介しています。
 【靖国神社合祀】
 「長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」(63年4月28日)
 「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」  (平成13年7月31日)
16  2007年8月4日、朝日新聞は、「A級合祀”靖国の性格変わる” 昭和天皇が側近に不快感」と題して次の様に報じました。
  歌人で皇室の和歌の相談役を務めてきた岡野弘彦氏(83歳)は、『四季の歌』で、故徳川義寛・元侍従長の証言を明らかにしました。
 その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があった。
 岡野氏が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川元侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べたうえで「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明。さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。
 8月4日、共同通信は、「A級合祀”禍根残す”昭和天皇が懸念」と題して次の様に報じました。
 歌人の岡野弘彦氏によると、徳川元侍従長が昭和天皇の和歌数十首について相談するため、当時岡野氏が教授を務めていた国学院大を訪れた。
 持ち込んだ和歌のうち86年の終戦記念日に合わせて詠んだ「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という一首が話題になり、岡野氏が「うれひ」の内容を尋ねると、徳川元侍従長がA級戦犯合祀に言及。「お上(昭和天皇)はA級戦犯合祀に反対の考えを持っておられた。理由は2つある」と切り出した。
 その上で「1つは(靖国神社は)国のために戦に臨んで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのにそのご祭神の性格が変わるとお思いになっておられる」と説明。さらに「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残すことになるとのお考え」と明言したという。
 現在の天皇陛下は即位後、参拝していない。
17  櫻井よし子氏や小林よしのり氏らは、執拗に総理大臣の靖国神社参拝を強要してきました。この靖国神社の政治化が、天皇の靖国神社不参拝の原因ということがお分かりになっていないようです。
 そのくせ、日本歴史の特殊性を主張しています。歴史修正主義者の面目躍如です。
 歴史を社会科学者、実証主義者の手に委ねないと、どんな結果になるかという教訓の好例です。

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