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(3) 本件各書籍の記述(012P)
 「太平洋戦争」の記述
 「太平洋戦争」の第一版は昭和43年2月14日に発行され、その改訂版で
ある「太平洋戦争 第二版」は昭和61年11月7日に発行された。「太平洋
戦争」は、平成14年7月16日、「太平洋戦争 第二版」を文庫化し、発行さ
れたが、現在まで合計1万1000部が発行されている(「太平洋戦争」が
「太平洋戦争 第二版」を文庫化したものであることは争いがなく、その余は
甲A1、B7及び弁論の全趣旨)。
 「太平洋戦争」には、その300頁8行目から、【本件記述(1)】「座間味島
の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した
島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということ
になり、このため三〇名が生命を失った。」との記述(以下「本件記述(1)」と
いう。)がある。
なお、この記述は、昭和43年の第一版以来変更はなく、渡嘉敷
島及び沖縄本島の残虐行為等の事例と合わせて、[注]の参考文献として上地一史
「沖縄戦史」ほかが掲げられている。以下においては、「太平洋戦争」の第一版をも
含めて、本件書籍、「太平洋戦争」や本件記述(1)ということもある。

「沖縄ノート」の記述(013P)
(ア)  沖縄ノートは昭和45年9月21日に発行され、平成20年5月7日の第5
9刷まで増刷を重ね、現在まで、合計三十数万部が発行された(弁論の全趣
旨)。
 「沖縄ノート」には、その69頁10行目から、【本件記述(2)】「慶良間
列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史
著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土か
らの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。した
がって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供す
るため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民
衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なま
ぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、そ
れが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのであ
る。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の
責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人
の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復している
ものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自
分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれ
の内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」との記述(以下
「本件記述(2)」という。)がある。

(イ)  「沖縄ノート」には、その208頁1行目から、【本件記述(3)】「このよ
うな報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住
民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもす
くなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告
にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのよう
な状況下に、『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのは
っきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出
席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、
息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この
旧守備隊長が、かつて《 おりがきたら 、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っ
ていたという記事を思い出す時である。」「おりがきたら 、この壮年の日本
人はいまこそ、おり がきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りた
ったのであった。」との記述(以下「本件記述(3)」という。)がある。

(ウ)  「沖縄ノート」には、その210頁4行目から、【本件記述(4)】「慶良間
の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえ
ずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまり
にも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。
かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対
化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の
改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事
実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがって
いる本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、
倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。
誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなっ
た風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」
 「本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、その
おりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷
島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに
逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企て
は完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような
生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折
りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武
装した守傭隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手
が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な
市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないか
とかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの
屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうる
のではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にと
っては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。この
ようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりが
きたら
、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきた
とみなしたのだ。」「日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々
をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのような
おりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄
をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうし
てできぬだろう? あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校た
る自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の
者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわ
れは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのよう
にして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思
えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのであ
る。」との記述(以下「本件記述(4)」という。)がある。

(エ)  「沖縄ノート」には、その213頁3行目から、【本件記述(5)】「おりがき
とみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰
されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから
乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマン
のように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわた
って怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、
かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷
に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日
本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由を
もつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果した
いと、『或る昂揚感』とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に
思い描く、想像力のにがい自由をもつ。」との記述(以下「本件記述(5)」と
いい、本件記述(1)ないし本件記述(4)と併せて「本件各記述」という。また、
本件記述(2)ないし本件記述(5〕を併せて「沖縄ノートの各記述」という。)が
ある。

(4)  「太平洋戦争」が歴史研究書であり、本件記述(1)が公共の利害に関するもの
であることは当事者間に争いはなく、それがもっぱら公益を図る目的による
ものであることについては、それが公益を図る目的も併せもってなされたも
のであるとの限度で当事者間に争いはない。

 沖縄ノートは、被控訴人大江が、沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきた
ことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和4
5年の時点において、沖縄の民衆の怒りが自分たち日本人に向けられているこ
とを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へ
と自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見
つめ、戦後民主主義を問い直したものである。
 沖縄ノートの各記述は、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題
としてとらえ返そうとしたものであり、沖縄ノートの各記述は公共の利害に関
する事実に係るものである。

(5)  座間味島について(017P)
 「鉄の暴風」等の書籍には、それぞれ以下のような記述が存在する。
(ア)  「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行
 「鉄の暴風」(41頁)には、「座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四
四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百名
近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢少佐
だつた。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あった
が、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛
隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民
をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、
その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役
場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて
自決した。その数五十二人である。」との記述がある。

(イ)  「座間味戦記」(昭和32年ころ、「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況
報告書)所収)

 「座間味戦記」(7頁)には、「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依っ
て住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老
人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」と
の記述がある。
 この「座間味戦記」は、座間味村が戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下
「援護法」という。)の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出
したものである。

(ウ)  「秘録 沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著
 「秘録沖縄戦史」(229ないし231頁)には、「昭和二十年三月二十三日、
座間味は米機の攻撃を受け、部隊が全滅するほどの被害を蒙り、住民から二
十三人の死者を出した。村民たちは、焼跡に立って呆然とした。早速、避難
の壕生活が始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加え
られ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれ
おののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。
『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠
魂碑前で自決せよ』と。」「梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは、その
まま実行したのである。その日、七五名が自決し多くの未遂者を出した。」
との記述がある。

(エ)  「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著
 「沖縄戦史」(51、52頁)には、「梅沢少佐は、『戦闘能力のある者は男女
を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令し
た。」「日本軍は生き残った住民に対し『イモや野菜を許可なくして摘むべ
からず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についてのきびし
いおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令だった。
このために三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命をつないで
いた。」との記述がある。

(オ)  「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久著 刊行
 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(7、9、39頁)には、「戦闘に協力でき
る村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足
手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、
悲壮にも集団自決を遂げたのであります。」「米軍の包囲戦に耐えかねた日
本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」「午後
十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わ
ず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」との
記述がある。

(力)  「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)山川泰邦著
 「秘録沖縄戦記」(156、158頁)には、「艦砲のあとは上陸だと、おそ
れおののいている村民に対し、梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。そ
れは『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村
の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」「梅沢少佐の自決命令を純朴
な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七五人が自決、
そのほか多くの未遂者を出した」との記述がある。

(キ)  「沖縄県史 第8巻」(昭和46年)琉球政府編集
 「沖縄県史 第8巻」(411、412頁)には、「翌日二十四日夕方から艦砲
射撃を受けたが、梅沢少佐は、まだアメリ力軍が上陸もして来ないうちに
『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の
忠魂碑前で自決せよ』と命令した。」「(三月二十六日、その夜)「村長、助役、
収入役をはじめ、村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した。」との
記述がある。

(ク)  「沖縄県史 第10巻」(昭和49年)琉球政府編集
 「沖縄県史 第10巻」(698、699、746頁)には、「午後十時ごろ、梅沢
隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人
子供は村の忠魂碑の前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記
がこの命令を各壕をまわって伝えた。」「部隊長から自決命令が出されたこ
とが多くの証言からほぼ確認できるのである。」「中にいる兵隊が、『明日
は上陸だから民聞人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれ
で死になさい』と手榴弾がわたされた。」との記述がある。

 渡嘉敷島について
 「鉄の暴風」等の書籍には、それぞれ以下のような記述が存在する。
(ア)  「鉄の暴風」
 「鉄の暴風」(33ないし36頁)には、「赤松大尉は、島の駐在巡査を通じ
て、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、
すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民
に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよ
う』ということも駐在巡査から伝えられた。」「恩納河原に避難中の住民に
対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っ
ては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後
の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。
この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵
攻してから、わずかに五日目だった。」「住民には自決用として、三十二発
の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」
「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住
民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかっ
た。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移し
た翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は
『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員
をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、
持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む
すべての人間に死を要求している』ということを主張した。」との記述があ
る。

(イ)  「秘録 沖縄戦史」
 「秘録 沖縄戦史」(218頁)には、「友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、
何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』と赤
松大尉から命令が発せられた。」との記述がある。

(ウ)  「沖縄戦史」
 「沖縄戦史」(48頁)には、「しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれ
なかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。
だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供す
るため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのであ
る。」との記述がある。

(エ)  「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」
 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(107頁)には、赤松少佐は島の西
北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自決せよと命令した。」との記述
がある。

(オ)  「秘録 沖縄戦記」
 「秘録 沖縄戦記」(148頁)には、「赤松隊は住民の保護どころか、無
謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。」との記述
がある。

(力)  「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和44年、「ドキュメント沖縄闘
争 新崎盛暉」所収、以下「戦闘概要」という。)
 「戦闘概要」(12、13頁)には、「昭和二〇年三月二七日、夕刻駐在巡査
安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝
えられた。」「間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せし
めたのであるが、赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令
である。何のために住民を集結命令したのか、その意図は全く知らないまま
に恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二○年三月二八日午前一〇時頃、
住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集まったが、島を占領した米軍
は友軍陣地北方の約二、三百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、
迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に
赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつ
あり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝
を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめら
れた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、
一発の手留弾に二、三○名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと
思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し
阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」との記述がある。

(キ)  「沖縄県史 第8巻」
 「沖縄県史 第8巻」(416頁)には、「いよいよ、敵の攻撃が熾烈にな
ったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」との記述がある。

(ク)  「沖縄県史 第10巻」
 「沖縄県史 第10巻」(689、690頁)には、「上陸に先立ち、赤松隊長
は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりの安
里喜順巡査を通じて命令した。安里巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕
にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地に
村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命してい
た。」「 (その時、) 陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴
弾を配り出した。自決をしようというのである。」との記述がある。

(ケ)  「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年、平成
2年「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)
 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(287、288頁)には、
「それは当時、村の指導者を通して、軍から命令が出たというふうな達しが
ありまして、配られた手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであり
ます。」「はい、当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられてお
りまして、そのつもりで自決を始めたわけであります。」「( 証人自身は、
直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい、
直接聞きました。」との記述がある。

(コ)  「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(昭和63年 証言 、 平
成2年 「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)
 安仁屋政昭は、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際
大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡嘉敷
村史の編集にも携わった者である。
 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(54、69頁)には、
「第一点米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾
が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を
受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が
手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。
これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは、
『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、
兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要で
あるということを強調しておきたいと思います。」「兵事主任という役割は、
大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決
定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、
いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、
それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそん
でいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということ
ですね。」との記述がある。

(サ)  「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集
 「渡嘉敷村史」(197、198頁)には、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主
任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も
重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役
場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わ
されていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)
は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主
任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二○日、赤松隊から伝令が来
て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命
令した。新城真順氏は、軍の指示に従つて『一七歳未満の少年と役場職員』
を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下
に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ(ママ)二十数名の者に手
榴弾を二個ずつ配り訓示をした。<米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至であ
る。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残り
の一発で自決せよ。B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事
主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、<住民を軍の西山陣地近
くに集結させよ>というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住
民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の
<集団死>事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の
自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器で
ある。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことであ
る。」「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍
の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」との記述がある。

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