| 4 | 争点C(真実性の有無)について(034P) | |||||
| (1) | 被控訴人らの主張 | |||||
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| ア | 背景事情(035P) | |||||
| (ア) | 前第2・2のとおり、慶良間列島には、昭和19年9月、陸軍海上挺進戦 隊が配備され、座間味島に控訴人梅澤が隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶 留間島に野田義彦(以下「野田隊長」という。)が隊長を務める第二戦隊、 渡嘉敷島に赤松大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の 米軍進攻当時、慶良間列島の守備隊はこれらの戦隊のみであつた。 これらの戦隊は、住民に対し、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食 糧の供出・生産、炊事その他の雑役等を指示するとともに、住民の住居に兵 士を同居させ、さらには住民の一部を軍の防衛隊に編入した(乙9・685な いし702頁、甲B5・181頁以下)。また、軍は、村の行政組織を軍の指揮下 に組み込み、全権を握り、住民に対し、軍への協力を、防衛隊長、村長、助 役、兵事主任などを通じて命令した(甲B5・215頁)。このように、軍官 民共生共死の一体化による総動員体制が構築されていた。 | |||||
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| (イ) | 座間味村では、防衛隊長兼兵事主任の宮里盛秀助役(以下「盛秀助役」と いう。)が、伝令役の防衛隊員であり役場職員である宮平恵達を通じて軍の 命令を住民に伝達していた(甲B5・96、212、215頁)。 渡嘉敷村では、村長の古波蔵惟好(以下「古波蔵村長」という。)、防衛 隊長の屋比久孟祥、兵事主任の富山真順(以下「富山兵事主任」という。) らが軍の命令を住民に伝達していた(乙10・6頁、乙13・196、197頁)。 兵事主任は、徴兵事務を扱う専任の役場職員であるが、軍の命令を住民に 伝達する重要な立場にあった(乙13・197頁)。 また、防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて防衛召集された隊員からな る軍の部隊そのものであり、沖縄では、昭和20年1月から3月の沖縄戦に かけて大々的な防衛召集がなされ、17歳から45歳の男子が召集の対象と された(乙11・138ないし142頁)。 したがって、兵事主任や防衛隊長の指示・命令は、軍の指示・命令そのも のであった。 | |||||
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| (ウ) | 沖縄の日本軍は、玉砕することを方針としており、軍官民共生共死の一体 化の総動員体制のもと、動員された住民に対しても、捕虜となることを許さ ず、玉砕を強いていた。 座間味島では、昭和17年1月から、太平洋戦争開始記念日である毎月8 日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に住民が集められ、君が代を歌い、開戦の 詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行った。住民は、日本軍や村 長・助役(防衛隊長兼兵事主在)らから、戦時下の日本国民としてのあるべ き心得を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ 裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし。」と指示されていた(甲B5・97、98頁)。 | |||||
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| (エ) | 阿嘉島では、野田隊長による自決命令があったが、これと、上記の軍官民 共生共死の一体化の総動員体制を併せ考えると、後記のとおり、控訴人梅澤 による自決命令及び赤松大尉による自決命令もあったというべきである。 | |||||
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| イ | 座間味島について(036P) | |||||
| (ア) | 自決命令を示す文献等 | |||||
| a | 「鉄の暴風」(乙2) | |||||
| (a) | 「鉄の暴風」は、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版され た沖縄最初の戦記であり、沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会 を相当回数開催するなどして住民から直接取材し、得られた証言をもと に執筆された。 「鉄の暴風」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人梅澤が座間味 島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| (b) | 控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人梅澤の 自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張する が、神戸新聞の記事のとおり牧志伸宏が述べたか疑わしいし、沖縄タイ ムス社は、現在もなお、控訴人梅澤が自決命令を出したという見解を維 持している。 | |||||
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| b | 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書) 所収) 「座間味戦記」は、座間味村が援護法の適用を当時の厚生省に申請した 際に提出した資料である。 「座間味戦記」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人が座聞味 島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| c | 「秘録 沖縄戦史」(乙4) 「秘録 沖縄戦史」は、戦争当時は警察官として軍部と協力すべき地位 にあり、戦後は戦没警察官の調査を行い、その後は琉球政府社会局長とし て戦争犠牲者の救援事業に関わり、戦争当時の状況について調査を行った 山川泰邦が、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を もとに執筆したものである。 「秘録 沖縄戦史」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人梅澤が座 間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| d | 「沖縄戦史」(乙5) 「沖縄戦史」は、沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史が、時事 通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。 「沖縄戦史」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人梅澤が座間味島 の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| e | 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」は、座間味島における戦闘で死亡し た下谷勝治兵長の兄である下谷修久が、戦後、座間味島に赴き、住民の供 述をまとめたものである。 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には、第2・2(5)ア記載のとおり、 控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| f | 「秘録 沖縄戦記」(乙7) 「秘録 沖縄戦記」は、「秘録 沖縄戦史」(乙4)を執筆した山川泰 邦が、内容を再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史 局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。 「秘録 沖縄戦記」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人梅澤が座 間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| g | 「沖縄県史 第8巻」(乙8) 「沖縄県史 第8巻」は、昭和40年から昭和52年にかけて、沖縄の公式 な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した全 23巻中の1巻であり、昭和46年4月28日に琉球政府の編集により発 行された。 「沖縄県史 第8巻」には、第2・2(5)ア記載のとおり、控訴人梅澤が 座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| h | 「沖縄県史 第10巻」(乙9) 「沖縄県史 第10巻」は、「沖縄県史 第8巻」と同様の沖縄の公式 な歴史書であり、昭和49年3月31日に沖縄県教育委員会の編集により 発行された。 「沖縄県史 第10巻」には、第2・2(5)ア記載のとおり・控訴人梅澤 が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| i | 米軍の慶良間列島作戦報告書 平成18年夏、米軍の慶良間列島作戦報告書が、関東学院大学の林博史 教授(以下「林教授」という。)によって発見された(乙35、114の各 1、2)。上記報告書には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、 日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたとき は自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間味村の 状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するよ うに指導されていた」との記述がある。 この報告書の記載を控訴人らの主張のとおりに、「民間人達は、3月2 1日に、日本の兵隊達は、慶良間島の島民に対して、米軍が上陸したとき は、山に隠れなさい、そして自決しなさい、と繰り返し言っていた。」と 英訳したとしても、日本軍が慶留聞島の住民に自決を指示していたことに 変わりはない。 | |||||
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| j | 「沖縄県史 第10巻」(乙9)等には、宮里とめ(乙9・738ないし7 39頁)、宮平初子(乙9・746頁)、宮里美恵子(乙9・741頁、乙50・ 34頁)、宮平カメ及び高良律子(乙9・753頁)、初枝(甲B5・39、40、4 6頁、乙6・45頁、乙9・756頁)など、座間味島の集団自決が軍の命令で 行われたことを示す手記等が記載さんているほか、宮里育江(乙53及び 62)、宮川スミ子(乙98)、上洲幸子(乙53)、宮平春子(乙51、 乙71の1及び2)、宮村トキ子(乙71の2)らも、近時、新聞の取材に 応じて、同趣旨を語るなどしている。 | |||||
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| k | 以上の資料から明らかなように、座聞味島では昭和20年3月25日の 夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、兵事主任兼防衛 隊長である盛秀助役の指示により、防衛隊員が伝令として、軍の玉砕命令 がでたので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう軍(隊長)の命令 を住民に伝達して回り、その結果集団自決に至つた。 そもそも、軍の絶対的支配下にあった座間味島において、控訴人梅澤の 指揮下の防衛隊長であり、兵事主任であり、軍の命令を住民に伝達する立 場にあった盛秀助役が、軍、すなわち控訴人梅澤の命令なしに、勝手に住 民に自決命令を出すなどということはありえず、軍の命令がなけれぼ、幼 い我が子を殺すことはなかったはずである。 控訴人梅澤は、米軍が上陸してくることを認識しながら、住民を他に避 難させたり投降させたりするなどの住民の生命を保護する措置をまったく 講じていなかったが、このことは控訴人梅澤が住民を玉砕させることにし ていたからにほかならない。控訴人梅澤は、昭和20年3月25日の夜、 助役らに面接した際に住民が自決しようとしていることを認識しながら、 これをやめるように指示、命令しなかったのも、あらかじめ住民に玉砕を 指示、命令していたからにほかならない。 以上のとおり、座間味島の住民の集団自決は、軍すなわち控訴人梅澤の 自決命令によるものであることが明らかである。 | |||||
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| (イ) | 控訴人ら主張の文献、見解等に対する反論(040P) | |||||
| a | 控訴人梅澤の陳述書について 「母の遺したもの」(甲B5)に紹介されている宮城初枝(以下「初 枝」という。)の手記では、控訴人梅澤は、盛秀助役らの申出を聞いた後、 「今晩は一応お帰りください。お帰りください。」と答えただけであった とされており(甲B5・39頁)、控訴人梅澤の陳述書で控訴人梅澤が「決 して自決するでない。共に頑張りましょう。」と述べたとされているのと 重大な食い違いを示している。また、控訴人は役場職員らの訪問自体 を覚えていなかった様子であったというのであるから(甲B5・262頁)、 控訴人梅澤の陳述書の前記記載は信用できない。なお、初枝の供述する控 訴人梅澤の発言は、面談の際に控訴人梅澤が自決を命じなかったことを示 すにすぎないことは後記eのとおりである。 | |||||
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| b | 昭和60年7月30日付け神戸新聞には、初枝の話として、「梅澤少佐 らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」と記 載されているが、初枝は、手記ではそのような事実を語っておらず、娘で ある証人宮城晴美(以下「宮城証人」という。)も初枝からそのような 話は聞いていない(甲B5・39、214頁)。神戸新聞の記事は、控訴人梅澤 が神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり、初枝の発言とさ れる部分も控訴人梅澤の言い分をもとに記載された疑いがある。 | |||||
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| c | 大城将保主任専門員の見解について(041P) 「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)の中の、大城将保専門員執筆の 「座間味島集団自決に関する隊長手記」に、控訴人梅澤の手記である「戦 斗記録」が掲載されたのは、控訴人梅澤の自決命令に疑問を呈する控訴人 梅澤らの談話が神戸新聞に掲載され、当事者である控訴人梅澤の異議があ る以上、史実を解明する史料とするためであって、「沖縄県史 第10 巻」の記述を修正したものではない。 大城将保が「沖縄県史第 10巻」の実質的修正を行ったとして控訴人 らが引用する「沖縄史料編集所紀要」の末尾6行部分(甲B14・46頁) は、控訴人梅澤の文として記載されているものである。仮にこの部分が大 城将保の見解として記載されているものであるとしても、初枝が控訴人梅 澤の自決命令はなかったと言明していることを付記するものにすぎない。 控訴人らは、大城将保の見解が神戸新聞に記載されているとも主張する が、神戸新聞記載の大城将保のコメントは、大城将保に対する取材に基づ くものではない。 | |||||
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| d | 宮村幸延の証言について 宮村幸延は、「証言」(甲B8)を作成し押印した記億はなく、宮村幸 延が作成し押印したものではないと述べている(乙17及び18)。 宮村幸延は、その経営する旅館に宿泊した控訴人梅澤から、昭和62年 3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、 家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒否した。同月27日、 控訴人梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ、宮村幸延は泥 酔状態となった。宮村幸延は、この時に「証言」を書かされた可能性があ るが、そうだとすれば、「証言」は仕組まれたものであり、宮村幸延の意 思に基づくものではないことは明らかである。 宮村幸延は、座間味島の集団自決があった当時、山口県で軍務について おり、集団自決の経緯について証言できる立場になかったし、また、実兄 である盛秀助役が自決命令を出したなどと証言するはずがない。 | |||||
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| e | 「母の遺したもの」について(042P) 「母の遺したもの」によれば、初枝は、宮城証人に対し、昭和52年3 月になって、昭和20年3月25日夜に控訴人梅澤に会った際には控訴人 梅澤の自決命令はなかった旨、告白するに至ったとされているが、そうで あるからといって、昭和20年3月25日夜の初枝と控訴人梅澤の面会の 際に控訴人梅澤の自決命令がなかったということにはなっても、控訴人梅 澤の自決命令自体がなかったということにはならない。そして、初枝自身、 自分が控訴人梅澤が自決を命じなかったと言ったことで軍の命令がなかっ たとされては困る、住民は軍の命令だったと思っていると述べ、第3次家 永教科書訴訟の際の文部省の指示に怒りをあらわにしていた(乙63・5 頁、乙65、宮城証人調書11頁)。 初枝自身、軍の命令で弾薬箱を運搬するため出発する際、木崎軍曹から、 「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をやり なさい」と言われ、手榴弾を渡されており、この手榴弾で自決を図ってい る(甲B5・46頁、乙6・45頁、乙9・756頁)し、また、宮平重信一家 らも日本兵から手榴弾を手渡されている。 また、初枝は、農家向けの月刊誌である「家の光」に投稿し、控訴人梅 澤が自決命令を出したことを積極的に述べていた(乙19)。 | |||||
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| f | 住民の手記について(042P) 大城昌子の手記には、「阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時に は玉砕するよう命令があったと聞いていました」と記載されている(乙9 ・730頁)。野田隊長らの玉砕指示は、慶良間列島に駐留していた日本軍 が、軍官民共生共死の一体化の方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよ う住民に指示していたことを示す証拠であり、控訴人梅澤の自決命令の根 拠となる。 宮里美恵子の手記には、「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう」 命令を受けたとの記載があり(乙9・741頁)、また、初枝の手記には、 軍曹から自決用に手榴弾を渡されていた旨の記載があり(乙9・756頁)、 さらに、吉田春子の手記には、水谷少尉から「玉砕しよう」と言われた旨 の記載がある(乙9・758頁)。 控訴人らが引用していないその他の手記でも、宮平初子の手記には「忠 魂碑の前で玉砕するから集まれ」との連絡を受けたこと、壕の中で兵隊か ら手榴弾を渡されたこと、宮里とめの手記には「全員自決するから忠魂碑 の前に集まるよう違絡を受けた」こと、友軍から攻撃用兼自決用に剣をも らったこと、宮平カメ及び高良律子の手記には「全員忠魂碑前で玉砕する から集まるように私達の壕に男の人が呼びにきた」ことが、それぞれ記載 されている(乙9・746、753頁)。 | |||||
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| (ウ) | 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応(043P) | |||||
| a | 控訴人梅澤から「鉄の暴風」の記述の訂正と謝罪を求められた沖縄タイ ムス社は、座間味村村長に対し、昭和63年11月3日付けの文書(乙2 0)により、座間味島の集団自決についての座間味村の公式見解について 照会した。 これに対し、座間味村村長は、控訴人梅澤による自決命令はあった、宮 村盛永など多くの証言者が自決命令があったと述べている、集団自決が村 の助役の命令で行われた事実はない、宮村幸延は酩酊状態で控訴人梅澤に 強要されて「証言」(甲B8)に押印した、援護法の適用のために自決命 令を作為した事実はない旨回答をした。この回答には、座間味村の沖縄 県援護課宛ての文書(乙21の2)が添付されており、座間味村は、沖縄 県援護課に対しても、同趣旨の回答をしていた。 その後、沖縄タイムス社が、控訴人梅澤に対し、座間味村の上記公式見 解を得たことを示したところ、控訴人梅澤は、「日本軍がやらんでもいい 戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。 座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの 問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたく ない。」と述べ、沖縄タイムス社に対して「鉄の暴風」の記述の訂正・謝 罪要求はしないことを明言した(乙22)。 このように、控訴人梅澤は、座間味村の上記公式見解を受け入れたので ある。 | |||||
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| b | 控訴人らは、宮村盛永の「自叙伝」(乙28)に控訴人梅澤の自決命令 の存在をうかがわせる記述は一切ないと主張する。 しかし、「自叙伝」(乙28)には、「その時、今晩忠魂碑前で皆玉砕 せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった。」 との記述がある(71頁)。また、「自叙伝」には、「3月26日座間味島 に米軍が上陸以後の詳細については、沖縄市町村長會編地方自治七周年記 念誌に登載されてあるので省畧する。」との記述もあるところ(67頁)、 その「地方自治七周年記念誌」(乙29)には、「夕刻に至つて部隊長よ りの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後 まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑の前において玉砕する様にとの 事であった。」との記述がある。 | |||||
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| (エ) | 援護法適用のための捏造について(044P) 控訴人らは、集団自決について援護法の適用を受けるため、座間味村が厚 生省に陳情し、適用を拒否されたが、隊長命令があったのであればと示唆さ れ、隊長命令があったことにして援護法の適用を受けるに至ったと主張する。 しかしながら、集団自決の直後に米軍に保護された慶良間列島の島民が、 捕虜になることなく自決するよう軍に命ぜられていたと証言していたことが、 林教授が米国国立公文書館で発見した米軍歩兵第77師団砲兵隊の慶良間列 島の作戦報告書に記載されており(乙35の1及び2)、昭和25年に刊行さ れた「鉄の暴風」(乙2)にも、日本軍の隊長の命令によることが記載され、 座間味島の住民の多くが当時から梅澤隊長から自決命令が下ったと認識して いた(甲B5・215頁、宮城証人調書)。すなわち、援護法の公布は昭和2 7年であるところ、集団自決が日本軍の隊長の命令によることは、援護法の 適用が検討される以前である集団自決発生当時から座間味村及び渡嘉敷村当 局や住民たちの共通認識となっていたから、控訴人らの前記主張は失当であ る。 また、控訴人梅澤及び赤松大尉の命令による集団自決は、当初から「戦闘 協力者(参加者)」に該当するものとして、援護法による補償の対象とされ ていた。 元大本営船舶参謀であり、復員後に厚生事務官となった馬淵新治は、「住 民処理の状況」(乙36)において、援護法の適用の対象となる「戦闘協力 者(参加者)」に該当するものとして、「慶良間群島の集団自決 軍によつ て作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]で あるが、沖縄における離島の悲劇である。自決者 座間味村155名 渡 嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。 昭和32年5月の「戦斗参加者概況表」(乙39の5)においても、「座 間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決」が、戦闘参加者の2 0類型の1つとして挙げられている。 その他、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙3 6)、「沖縄作戦講話録」(乙37) からも、集団自決が、当初から「戦闘 協力者(参加者)」に該当するものとして援護法による補償の対象とされて いたことが分かる。 | |||||
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| ウ | 渡嘉敷島について(046P) | |||||
| (ア) | 自決命令を示す文献等 | |||||
| a | 「鉄の暴風」(乙2) 「鉄の暴風」には、第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島の 住民に集団自決を命じたとする記述がある。 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、山城安次郎と宮平栄治以外の 直接体験者からも取材しており、太田良博の取材経過に関する「ある神話 の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周 辺」(『戦争への反省』所収 乙23)に記載されているとおり、「鉄の 暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文 章化したものである。 | |||||
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| b | 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛暉編」所収) | |||||
| (a) | 「戦闘概要」は、当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力 の下、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。 「戦闘概要」には、第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島 の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 | |||||
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| (b) | 「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3、 以下「戦争の様相」という。)との関係についての控訴人ら主張は根拠 のない憶測にすぎない。 「戦閾概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎が詳細 に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備 (用語、表現等)を直したと思われる箇所が見受けられること、当時の 村長の姪が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているのに対し「戦 闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」 が先に書かれたものであり、これを補充したものが「戦闘概要」である と考えられる(乙25、「『ある神話の背景』における『様相』と「概 要』の成立順序について」)。 したがって、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので あり、「戦闘概要」に赤松大尉の自決命令が明記されたとみることがで きる。 | |||||
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| c | 「秘録 沖縄戦史」(乙4)(047P) 「秘録 沖縄戦史」には、「三月二十七日−『住民は西山の軍陣地北方 の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発 せられた。安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合すること は死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」「西山の軍陣地 に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去 れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持ち で北方の盆地に移動集結したのであった。」との記述があり、その後には、 第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発し たとする記述がある(乙4・217、218頁)。 | |||||
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| d | 「沖縄戦史」(乙5) 「沖縄戦史」には、「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し、さらに住 民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊は 唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろ こんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合 したのである。」との記述があり、その後には、第2・2(5)イ記載のとお り、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙 5・48頁)。 | |||||
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| e | 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には、第2・2(5)イ記載のとおり、 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。 | |||||
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| f | 「秘録 沖縄戦記」(乙7) 「秘録 沖縄戦記」には、第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷 島の住民に自決命令を発したとする記述がある。 | |||||
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| g | 「沖縄県史 第8巻」(乙8)(048P) 「沖縄県史 第8巻」には、「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕 刻、駐在巡査安里喜順を通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣 地へ集合するよう命じられた。」「ところが、赤松大尉は『住民は陣地外 に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆 地に移動集結しなければならなかった。」との記述があり、その後には、 第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発し たとする記述がある(乙8・410頁)。 | |||||
| h | 「沖縄県史第 10巻」(乙9) 「沖縄県史 第10巻」には、第2・2(5)イ記載のとおり、赤松大尉が渡嘉 敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙9・689、690頁)。 | |||||
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| i | 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11「裁かれた沖 縄戦 安仁屋政昭編」所収) 証人金城重明(以下「金城証人」という。)は、家永第3次教科書訴訟 第1審における証言当時、沖縄キリスト教短期大学学長であり、戦争当時 渡嘉敷島において、自ら集団自決を体験した者である。 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には、第2・2(5)イ記 載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述が ある(乙11・286ないし288頁)。 | |||||
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| j | 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11『裁かれた 沖縄戦 安仁屋政昭編」所収) 安仁屋政昭は、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国 際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡 嘉敷村史の編集にも携わった者である。 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には、第2・2(5)イ 記載のとおり、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述 がある(乙11・54、55、69頁)。 | |||||
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| k | 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」(乙12)(049P) 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」は、渡嘉敷村役場 の富山兵事主任の、赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨の供 述を記載した新聞記事である。それには、「『島がやられる二、三日前だ ったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近 くの国民学校にいた軍から命令が来た』。自転車も通れない山道を四キロ の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉 敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊 へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人 の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ご ろだったろうか、と富山さんは回想する。『中隊にいる、俗に兵器軍曹と 呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つ ずつ担がせて役場へ来たさ』すでにない旧役場の見取り図を描きながら、 富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅ニメートルほどの 道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令 した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあ るときは、残る一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、 と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは、 証言をそうしめくくった。三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さん の記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ 一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三○)が、日本軍の陣地 近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』 とはいうものの、今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができ る限り伝えて回ったこと、『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近 く』という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。その夜、 豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示"通り、食糧、衣類など洞穴に残し、 日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川と いう名の渓流ぞいの斜面である。”指示”は当然ながら命令として、口伝 えに阿波連へも届く。『集団自決』は、この渓流わきで、翌二十八日午前 に起きた。生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次 々に軍配布の手榴弾が爆発した。」との記述がある。 | |||||
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| l | 「渡嘉敷村史」(乙13)(050P) 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村の公式な歴史書として、平成2年3月31 日、渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものであ る。そして、「渡嘉敷村史通史編」には、渡嘉敷村役場の富山兵事主任に よる供述を主な内容とする次のような記載がある。すなわち、「すでに米 軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住 民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主 任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を 住民に伝える童要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であつた 新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていた ことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四 五年三月二○日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡 嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示 に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aその とき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせ た。兵器軍曹は集まっ二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。 <米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に 投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。>B三月 二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝 えられた。その内容は、<住民を軍の西山陣地近くに集結させよ>という ものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。 C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の<集団死>事件が起 きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実 がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器 が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」「渡嘉 敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に 置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(乙1.3・197、198頁)。 | |||||
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| m | 米軍の慶良間列島作戦報告書(051P) 米軍の「慶良間列島作戦報告書」については、前4(1)イ(ア)i記載のとお りである。 | |||||
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| n | 以上の文献等からも、渡嘉敷島の集団自決の経緯が次のとおりであるこ とは明らかである。すなわち、渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前 の昭和20年3月20日、赤松隊から伝令が来て、富山兵事主任に対し、 住民を役場に集めるよう命令した。富山兵事主任が軍の指示に従って17 歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれてい た下士官が、部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の住民 に対し手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至であ る。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは残り の1発で自決せよ。」と訓示した。そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した昭 和20年3月27日、赤松大尉から兵事主任に対し「住民を軍の西山陣地 近くに集結させよ。」との命令が伝えられ、安里喜順巡査(以下「安里巡 査」という。)らにより、集結命令が住民に伝えられた。さらに、同日の 夜、住民が命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集 まり、同月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えら れ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自 決が行われた。 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松大尉であり、陣中日 誌(甲B19)から明らかなように、弾薬である手榴弾は、軍の厳重な管 理の下に置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松大尉の意思と関係なく、 手榴弾を配布し、自決命令を発するなどということはあり得ないし、証人 皆本義博(以下「皆本証人」という。)も、「軍の最高責任者である赤松 隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない」旨証言して いる(皆本証人調書25頁)。したがって、手榴弾配布の時点で、あらかじ め赤松大尉による自決命令があったのである。なお、この点について、控 訴人らは、小峰園枝の「義兄が、防衛隊だつたけど、隊長の目をぬすんで 手榴弾を二個持つてきた」との供述(甲B39・374頁)を挙げて反論す るが、わずか1人の、しかも、盗んだとされる者とは別の人間の供述にすぎ ないし、また、盗んだとされる者は防衛隊員という手榴弾を正式に入手で きる立場にあったから、手榴弾が軍の厳軍な管理の下に置かれていなかっ たことの根拠とはならない。 赤松大尉が具体的にどのように自決命令を発したかは必ずしも明確でな いが、前記第3・4(1)のとおり、軍は、住民に対し、軍官民共生共死の一 体化の方針のもと、いざというときには捕虜となることなく玉砕するよう あらかじめ指示していたから、この点からも、軍の自決命令すなわち赤松 大尉の自決命令があったことは明らかである。 | |||||
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| (イ) | 控訴人ら主張の文献等に対する反論(052P) | |||||
| a | 「ある神話の背景」について 「ある神話の背景」では、前記のとおり、集団自決の直接体験者から取 材を行い執筆された「鉄の暴風」(乙2)を直接体験者からの取材に基づ くものではないとしている(甲B18・51頁)。また、その著者である曽 野綾子は、取材過程において富山兵事主任に会ったことはないと記してい るが(乙24・219頁)、曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭が指 摘しているように、曽野綾子が渡嘉敷島を調査した昭和44年当時、富山 兵事主任は、渡嘉敷島で2回ほど曽野綾子の取材に応じているのであり (乙11・14頁)、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都 合なものを切り捨てた著作である。 | |||||
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| b | 「陣中日誌」について(053P) 「陣中日誌」(甲B19)は、昭和45年3月に赤松大尉が渡嘉敷島を 訪れた際の抗議行動が報道された後の同年8月に発行されたものであり、 本来の陣中日誌ではない。赤松大尉自身が自決命令を否定している以上、 赤松隊が戦後20年以上経過してから発行した「陣中日誌」(甲B19) に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠に はならない。 | |||||
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| c | 「沖縄戦ショウダウン」について 赤松大尉は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告の ために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松 大尉は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200、201頁)、投 降を呼びかけにきた少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導 (教頭)であり防衛隊員であった大城徳安を、家族を心配して軍の持ち場 を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・41 1頁、乙9・693頁)。このように、赤松大尉は、罪のない住民を虐殺した 人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」は、赤松大尉を「立 派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価して いる者の供述だけから執筆されたものであり、信用性がない。 | |||||
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| d | 照屋昇雄の供述について(053P) 琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の 調査をしたとして、照屋昇雄は、援護法を適用するために集団自決が軍の 命令によるものであるとの虚偽の申請を行ったという趣旨の供述をしてい る(甲B35)。 しかし、渡嘉敷島の集団自決は、前4(1)イ(エ)で主張したとおり、はじめ から援護法の適用の対象となっていたことが明らかである。 また、照屋昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務 していたと供述するが、この供述は、琉球政府の人事記録に反する。すな わち、照屋昇雄は、昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に 採用され、沖縄中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し(乙56 の1及び2)、昭和31年10月1日に沖縄南部福祉事務所に配置換えとな り(乙57の1及び2)、昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換え となっている(乙58)。照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭 和33年10月のことである(乙59)。 さらに、照屋昇雄は、赤松大尉の同意を得て、赤松大尉が集団自決を命 じた文書を当時の厚生省に提出したと供述するが、現在の厚生労働省によ れば、そのような文書は保有していないとのことである(乙60及び6 1)。援護法に基づく給付は現在も継続して行われているから、そのよう な文書が作成されていたのであれば、それが廃棄されて存在しないという ことはあり得ない。 以上のことから、照屋昇雄の供述は信用できない。 | |||||
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| (ウ) | 自決命令の命令者・伝達者・受領者について(054P) 控訴人らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令 が誰を通じて住民側に伝えられたか全く不明であるとし、命令者・伝達者・ 受領者が分からない命令はあり得ないから自決命令で集団自決したとするこ とはできない旨主張する。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記第3・4(1)ウ(ア)nのと おりであり、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていな いからといって(防衛隊員が伝達したことは明らかであるが)、赤松大尉に よる自決命令が存在しなかったことにはならない。 また、控訴人らは、集団自決が古波蔵村長の責任であるかのような主張を するが、仮に古波蔵村長による演説があったとしても、それは赤松大尉の自 決命令を伝達したにすぎない。 | |||||
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| (エ) | 自決命令の言い換えについて(055P) | |||||
| a | 控訴人らは、古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、古波蔵村 長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。 しかし、古波蔵村長は、「沖縄県史 第10巻」において、赤松大尉の 命令によって軍陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出 してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に撃ち込ま れている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行 われたこと、古波蔵村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具 体的に供述しており、古波蔵村長が、赤松大尉が自決命令を出したことを 明確にしていることは明らかである。 | |||||
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| b | また、控訴人らは、昭和63年になって突然、手榴弾の配布を自決命令 であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張する。 しかし、富山兵事主任には供述を捏造する理由も必要性もなく、また、 富山兵事主任の供述は、前記のとおり、詳細である上、実際に手榴弾を交 付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である。ま た、「潮」1971年11月号(甲B21)の記事は簡単なものであって (同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね…」とあ る。)、にわかに手榴弾を配布したことが自決命令であると言い出したと いうことでは全くない。富山兵事主任は、朝日新聞の記事(乙12)にお いて、「43年後の今になってなって初めてこの証言を?」との問いに対し、 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令 でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなか った。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったこ とのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」と供述し、供 述をした理由を明確にしている。そして、このことは控訴人が赤松大尉 の命令がなかったことの根拠としている星雅彦「集団自決を追って」(甲 B17) においても、「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人 あて2個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決 するかにせよということであった。」と記載されているところである。 | |||||
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| (オ) | 衛生兵の派遣と恩賜の時計について(056P) 控訴人らは、赤松大尉が自決命令を出していたとすれば、集団自決後、自 決に失敗した住民の治療のために衛生兵を派遣することはあり得ないし、ま た、恩賜の時計など赤松大尉の記念品が渡嘉敷村の資料館に飾られることも あり得ない旨主張する。 しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという 事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛 生兵が治療したということと、赤松大尉が自決命令を出したということが矛 盾するわけではない。また、渡嘉敷村の資料館に赤松大尉の時計が飾ってあ るとしても、赤松大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけでは ない。 | |||||
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| (カ) | 自決命令を記載していた文献の絶版等について(056P) 「沖縄問題20年」が昭和49年に出庫終了となったのは、「ある神話の 背景」により赤松大尉の自決命令が虚偽であることが露見したからではない。 「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉と中野好夫は、昭和40年6月に 「沖縄問題20年」を出版した後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」 を出版した。その後、両者は、昭和51年10月、「沖縄問題20年」と 「沖縄・70年前後」を併せて「沖縄戦後史」を出版した。「沖縄問題20 年」は、このような経緯から昭和49年に出庫終了となったのである。 また、「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したので はなく、「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長赤松 嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、こ れを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民32 9名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、 軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」と記述して おり、自決命令がなかったとしているわけではない。 | |||||
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| (キ) | 控訴人らは、渡嘉敷島の集団自決の経緯について、安里巡査の説明(甲B 16)と星雅彦記者の記事(甲B17)に基づいて主張しているが、両者の 説明はいずれも信用性がない。 まず、星雅彦については、いかなる対象についていかなる取材を行ったか 明らかでないし、星雅彦自身認めるとおり、星雅彦の記事は、星の想像に基 づいたものにすぎない。 安里巡査については、集団自決の現場へ住民を集結させながら、状況を赤 松大尉に報告するため自決はできないとして、自らは、集団自決の現場から 少し離れたところから見ていたとされる人物であり(乙9・768頁)、その 責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松大尉の命令によるものではなかっ たとしなければならない立場にある人物であるから、信用性がない。 | |||||
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| (ク) | 証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について(057P) | |||||
| a | 皆本証人は、赤松大尉が自ら認めている住民を西山に集結させたことに ついても「知らない」と証言しており、また、常時赤松大尉の傍らにいた のではないことを認めており(皆本証人調書20頁)、赤松大尉による自決 命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。 また、皆本証人は、当時の行動について、3月28日の午前1時ころに 陣地に到着し、午前3時前後に赤松大尉に対して状況を報告したとしてい るが(甲B66・14頁)、皆本証人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55・ 248頁)に皆本証人が28日午前10時ころ戦隊本部に到着したと書かれ ていることについて、防衛研修所戦史室の調査に対しては午前10時と答 えたかもしれないが後から考えると午前1時ころであると、一貫しない証 言をしており(皆本証人調書17ないし19頁)、皆本証人の同日の行動につ いての証言は全体として信用性がない。 | |||||
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| b | 証人知念朝睦(以下「知念証人」という。)は、赤松大尉が住民に対す る伝言として、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と伝言し たことがあるかとの控訴人ら代理人の質問に対し、「これはあります」と 答え(知念証人調書5頁)、被控訴人ら代理人の質問に対しては、そのよ うに控訴人ら代理人の主尋問に答えたことについて記憶がない旨証言する など(知念証人調書11頁)、証言が一貫しておらず、赤松大尉が住民に対 する自決命令を出したことはないとする証言は信用できない。 また、知念証人は、赤松大尉自身が認めている住民に対する西山への避 難命令について、知らなかったと証言しており(甲B67、知念証人調書 12頁)、知念証人が赤松大尉の出した命令・指示を把握していなかったこ とが明らかであり、知念証人も、赤松大尉による自決命令がなかったと証 言できる立場にない。 そして、知念証人は、赤松大尉が、捕虜になることを許さないとして、 伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城徳安の処刑を口頭で命じたと証言してお り(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、住民が 摘虜になることがないよう、赤松大尉が自決命令を出したということは十 分に考えられる。 | |||||