| (2) | 控訴人らの主張(058P) | ||||
| ア | 真実性の対象となる命令(059P) 被控訴人大江の論評の前提となった事実は、「沖縄の民衆の死を抵当にあが なわれる本土の日本人の生」という論評を示すことができる中身を持った命令 (以下「無慈悲直接隊長命令説」という。)であり、これと異なる命令につい て立証しても、真実性の立証とはならない。このことは、本件記述(1)にも同様 のことがいえる。 被控訴人らは、手榴弾の交付を自決命令とする「手榴弾交付命令説」、軍官 民共生共死の一体化という政治体制による強制的雰囲気が集団自決を生んだ 「命令」と評する「政治体制命令説」、日本軍の指示・強制を自決命令とする 「広義の命令説」を展開する。 しかし、手榴弾交付命令説は、控訴人梅澤や赤松大尉以外の者の手榴弾交付 行為を、控訴人梅澤及び赤松大尉の行為と評価するもので、これを立証しても、 無慈悲直接隊長命令説の立証にはならない。 また、政治体制命令説は、軍人の命令が、日本国内すべての人間の生死を徹 底的にコントロールできるような政治体制であったということが前提となるは ずであるが、そのような体制は旧ソ連や北朝鮮でも聞かない。 広義の命令説は、控訴人梅澤及び赤松大尉以外の者の命令・指示・誘導・示 唆等から命令の存在を推認するものであり、内容として一定しないし、本来の 立証対象となるべき無慈悲直接隊長命令説の範囲を都合良く拡大解釈するもの である。 被控訴人らは、第3・4(1)ア記載の背景事情を軍の自決命令と結びつけてい るが、それは、極めて粗雑な議論である。また、阿嘉島の野田隊長による自決 命令も存在しないし、あったとしても控訴人梅澤による自決命令及び赤松大尉 による自決命令の根拠とはならない。 | ||||
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| イ | 援護法適用のための捏造(059P) | ||||
| (ア) | a | 座間味島の集団自決が控訴人梅澤の自決命令によるものであるとされた のは、援護法の適用のためである。 「母の遺したもの」(甲B5)には、概略、次のような記述がある。す なわち、「援護法は、軍人・軍属を対象に昭和27年に施行された法律で、 翌年には米軍支配下にあつた『北緯29度以南の南西諸島(奄美諸島と琉 球諸島)に現存する者』にまで適用が拡大された。それによって、戦没者 の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民 間人には適用されなかった。」「ところが、昭和34年から、旧国家総動 員法に基づいて徴用された者、あるいはそれ以外に軍の要請で戦闘に協力 して死亡、または負傷した『戦闘参加(協力)者』に、準軍属という新し い枠が設けられて、結果的には20種のケースに適用されることになった。 沖縄関係では、『集団自決』、スパイ嫌疑で日本軍に殺害された人、義勇 隊参加、陣地構築、食糧供出、壕の提供、道案内、勤労奉仕などによる負 傷者や、死亡者が含まれた。つまり、一般住民の死者たちに対して、単に 砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが、 『日本軍との雇用関係』にあって亡くなったり、負傷した人には補償され るという法律である。したがって、この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族 が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなければならなかっ た。」「その結論を得るまでの作業として、まず厚生省による沖縄での調 査がはじまったのが昭和32年3月末で、座間味村では、4月に実施され た。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語 ることはせず、投げかけられる質問の1つ1つに、『はい、いいえ』で答 えた。そして、『住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか』 という内容の問いに、母は『はい』と答えたという。」「座間味村役所で は、厚生省の調査を受けた後、村長を先頭に、集団自決の犠牲者にも援護 法を適用させるよう、琉球社会局を通して、厚生省に陳情運動を展開し た。」「陳情の成果なのか、昭和34年、戦闘参加者への援護法の適用と ともに、慶良間諸島の6歳未満を含む集団自決の負傷者や遺族に、障害年 金、遺族給年金が支給されるようになった。戦闘参加者に6歳未満を含め たのは、当初は集団自決だけで、他の戦争犠牲者には適用されなかったが、 全県的な運動もあって、昭和56年以降は、壕の追い出しなどで犠件にな った6歳未満の子どもたちにも適用されている。」との記述がある。 | |||
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| b | 渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の自決命令によるものであるとされたの も、援護法の適用のためである。 琉球政府社会局援護課の元職員である照屋昇雄は、平成18年8月27日 付け産経新聞において、渡嘉敷島の集団自決について、援護法の適用の ために軍による命令ということにしたものであり、軍命令とする住民は1 人もいなかったと述べた。 照屋昇雄は、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で、旧軍人 軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給 対象者を調べるために、渡嘉敷島で聞き取りを実施した。 援護法では一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動したこと にして準軍属扱いとすることを企図し、照屋昇雄らが、赤松大尉が自決命 令を出したとする書類を作成し、厚生省に提出した。これにより、集団自 決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が、年金や弔慰金を受け 取れるようになった。 | ||||
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| c | その他にも、控訴人梅澤の陳述書(甲B1)や本田靖晴の「第一戦隊長 の証言」(甲B26)など、援護法適用のために、座間味島の集団自決を 控訴人梅澤の命令によるものであることにしたこと及び渡嘉敷島の集団自 決を赤松大尉の命令によるものであることにしたことを示す関係者の証言、 文献等がある。 | ||||
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| (イ) | a | 援護法が沖縄に適用されるに至った経緯は以下のとおりであり、この一 連の事実は総合的に踏まえなければならないところ、被控訴人らは、自ら に都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、粗雑な推論をして事実を歪曲 するものである。 昭和27年4月援護法の公布。援護法の目的は、「軍人軍属の公務上の負傷 若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者 又はこれらの者の遺族を援護すること」にあり、軍人軍属ではない一般住民は 適用外となっていた。 昭和27年8月政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置。政府 としても、将来的には援護法の沖縄への適用を考えていたため、主として援護業 務推進のために、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した。 昭和28年3月北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。琉 球政府社会局に援護事務を主管する援護課が設置され、各市町村にも援護係 が設置される。宮村幸延が座間味村の援護係に着任する。「琉球遺家族会」が 「琉球遺族連合会」と改称して、各市町村に遺族会が相次いで結成される。 昭和28年9月琉球遺族連合会が日本遺族会の一支部として正式加入を認め られる。 昭和30年3月総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事 務所へ着任する。 昭和31年3月中等学校生徒について、男子生徒は全員軍人。女子戦没学徒 は軍属として死亡処理され、援護法の適用開始。 昭和31年3月厚生省の援護課事務官が、沖縄住民の戦争体験の実情調査に 訪れる。この際、初枝に対する事情聴取も行われた。また、昭和31年ころまでに、 渡嘉敷村において、照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。 その結果、控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が公認されることと なった。 昭和32年7月厚生省が、一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要 綱」を決定し、住民の沖縄体験を20種類に類型化した「戦闘参加者概況表」にま とめる。その結果、軍の命令による「集団自決」に該当すれば、一般住民も兵士同 様「戦闘参加者」と認定され、「準軍属」扱いされることになる。ただし、軍の命令を 聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられた。 昭和38年10月6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる。 | |||
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| b | 「住民処理の状況」(乙36)は、「軍によって作戦遂行を理由に自決 を強要されたとする本事例」「比較的信愚性があり」というように、推測 に基づく表現や信用性に一定の留保を付す表現がある。 また、「沖縄作戦講話録」(乙37) は、「渡嘉敷村(住民自決数32 9名)座間味村(住民自決数284名)」としており、「鉄の暴風」の記 載(座間味島52名)や「住民処理の状況」(乙36)の記載(座間味村 155名、渡嘉敷村103名)と大きく異なっている。このように、各文 献、調査により自決者数が異なることから、集団自決以外の原因で死亡し た住民の数も含まれていき、自決者数が増加していったことが疑われ、控 訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が虚偽であることを示してい る。 さらに、「戦斗参加者概況表」(乙39の5)は、自決命令の主体を、 単に「警備隊長」としており、その主体が控訴人梅澤及び赤松夫尉を指し ているのか疑問である。 | ||||
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| c | 被控訴人らは、「鉄の暴風」が出版された昭和25年には援護法摘要の 問題は発生していないと主張する。 しかし、「ある神話の背景」(甲B18)にあるように、「鉄の暴風」 出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅し、ある家 族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任 を追及されることになり、責任を回避するために集団自決が軍の命令によ るものだとせざるを得ず、それがいかにもありそうな風説として流布した ものと理解することができる。 | ||||
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| ウ | 座間味島について(064P) | ||||
| (ア) | 集団自決は盛秀助役の命令で行われたこと 「母の遺したもの」(甲B5)及び初枝の手記(甲B32)によれば、住 民に対し、忠魂碑前に集合し玉砕するよう命令したのは、盛秀助役であつた。 「母の遺したもの」には、概要、「そこで、盛秀が戦隊長を前に発した言 葉は、『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と子ど もたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思いま す。弾薬を下さい』ということだった。初枝は息が詰まるほど驚いた。しば らく沈黙が続いて。垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせ、片ひざを立 ててじっと目を閉じて座っていた戦隊長はやおら立ち上がり、『今晩は一応 お帰り下さい。お帰り下さい』と、 五人を追い返すように声を荒げて言い、 申し入れを断った。五人はあきらめるより他なく、その場を引き上げていった。 その帰り道、 盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回 ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は 初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛 秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じ た。盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事 前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」との記 述がある。 座間味村の助役であった盛秀助役が、自らの判断を、そう意図したことか どうかは分からないものの、軍の命令ととれるような形で、住民に指示した というのが実態であった。 後述の宮村幸延の「証言」(甲B8)もこれを裏付けている。 | ||||
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| (イ) | 被控訴人ら主張の文献に対する反論(065P) | ||||
| a | 「鉄の暴風」について | ||||
| (a) | 「鉄の暴風」の初版には、被控訴人ら引用箇所の後に明らかに誤りで ある「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と 不明死を遂げたことが判明した。」との記述があり(甲B6・41頁)、 「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが多く信 頼性に乏しい。座間味島の住民の宮里美恵子、宮平初子、宮里とめ、宮 平カメ及び高良律子の手記(乙9)を見ると、このような風聞が成立し たのは、忠魂碑前で玉砕するから集合するようにとの命令が、軍の自決 命令であると信じられたからであることが分かる。 また、沖縄タイムス社の牧志伸宏は、昭和61年6月6日付けの神戸 新聞(甲B10)の取材に対し、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない 中で、取材、執筆した経過があり、梅沢命令説などについては、調査不 足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦 悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の執筆者 らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにした い。」と、「鉄の暴風」について出版経過と内容の杜撰さを認めている。 | ||||
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| (b) | 神戸新聞の中井和久記者は、沖縄タイムス社に対する電話取材を確か に行い、記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B3 4)。 報道内容の社会的・歴史的重要性、沖縄タイムス社に対する影響力の 大きさ、新聞記者の職業倫理からすれば、中井記者が牧志伸宏のコメン トを捏造するはずがない。沖縄タイムス社は神戸新聞の記事に対して、 抗議もしていない。 | ||||
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| b | 「座間味戦記」について(066P) 座間味村当局が琉球政府及び日本国政府に提出した「座間味戦記」は、 援護法の遺族補償を受けるために、集団自決が控訴人梅澤の命令によるも のであるという事実の意図的改変を行ったものである。このことは、座間 味村の総務課長を務め戦没者遺族の補償業務に尽力した担当者の供述(甲 B8及び10)や「母の遺したもの」(甲B5)によって明らかとなっている。 | ||||
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| c | 「秘録 沖縄戦史」等について(066P) | ||||
| (a) | 大城将保の指摘(甲B14・37、46頁)を踏まえて検討すれば、「戦 える者は男女を問わず先頭参加、老人子供は忠魂碑前で自決せよ」とい う内容を持つ梅澤命令説は、昭和32年ころの「座間味戦記」に初めて 現れ、それが引用されて昭和43年、公開の文献である「悲劇の座間味 島 沖縄敗戦秘録」に載ったことになる。 また、梅澤命令説を一般に広めることになった「秘録 沖縄戦史」は、 大城将保も指摘するとおり(甲B14・37頁)、座間味戦記の引用であ り、「秘録 沖縄戦史」の中身は、 同じ山川泰邦が昭和44年に著した 「秘録 沖縄戦記」の元版(乙7)でも大きな変更のないまま維持され ている。 さらに、昭和34年ころに著された「沖縄戦史」の記述は、「秘録 沖縄戦史」とほぼ同様であり、「沖縄県史 第8巻」の内容も「秘録 沖縄戦史」の要約といってもよいものであり、大城将保自身が記載した 「沖縄県史 第10巻」は、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙 6)所収の初枝の「血ぬられた座間味島」を参考に書かれたものである (甲B14・37頁)。 すなわち、以上の諸文献は、「座間味戦記」を淵源としている。そし て、これらにより成立し定説化した梅澤命令説は、後記のとおりの初枝 の告白を端緒として破綻していく。 | ||||
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| (b) | したがつて、「秘録 沖縄戦史」、「沖縄戦史」、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」、「秘録 沖縄戦記」、「沖縄県史 第8巻」、「沖 縄県史 第10巻」の各書籍は、「鉄の暴風」や「座間味戦記」などの 虚偽の記述に基づいて書かれたものであり、独自の資料的価値はなく、 もしくは、援護法の適用を受けるための口裏合わせによって生まれたも のである。 | ||||
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| d | 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について(067P) 沖縄タイムスに掲載されている英文は、その一部だけが掲載されている だけで、全文が掲載されているわけでなく、一体どのような文脈の中で書 かれた文書なのかは不明である。また、掲載部分は本件とは無関係な座間 味村「慶留間島」のものであり、「座間味島」のものではない。さらに、 これを訳した林教授は「tell 人 to 〜」を殊更に「命令した」と誤訳し、 「Japanese Soldier」という主語は、特定されない一般的な「日本の兵隊 達」を意味するだけなのに、わざわざ軍命令が存在したと同じ意味である と解説している。しかし、英文は、「日本人の収容所には、おおよそ10 0人の民間人が含まれていた。二つの収容所が設置され、一つは男性用と 女性・子供用である。尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の 兵隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさ い、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。」と訳すべ きである。また、林教授によれば、「慶留間島」は命令で、「座間味」は 指導であったということになる。 | ||||
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| (ウ) | 自決命令を否定する文献、見解等(068P) | ||||
| a | 控訴人梅澤の陳述書等 控訴人梅澤の陳述書には、「問題の日はその3月25日です。夜10時 頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助 役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、 女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉 は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別 れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足 手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思い に死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さ い。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下 さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。 この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅 然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至 った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであ るではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りまし ょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が 再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月2 6日から3日聞にわたり、先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し、ついで 村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です。」との記載が あり(甲B1・2、3頁)、本人尋問においても、同趣旨の供述をしている。 なお、被控訴人らは、控訴人梅澤の陳述書と初枝の手記との記述の相違 を指摘する。しかし、控訴人梅澤が、盛秀助役らからの住民の自決目的の 弾薬・爆薬の求めの申出を断ったという出来事の核心部分については、両 記述ともに一致しており、些末な点の相違を問題とすべきではない。 | ||||
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| b | 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との 大見出し、「日本軍の命令はなかった 関係者の証言」との小見出しの下、 「助役とともに自決の前夜梅沢少佐を訪れた初枝」「軍とともに生き延び た上津幸子」「梅沢少佐の部下だった関根清」らの控訴人梅澤による自決 命令はなかったとする供述を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の 命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、 絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選ん だものとわかった。」と報道した。 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いた中井和久は、初枝に 対する電話取材を複数回行い、その際の初枝のためらいや控訴人梅澤に対 する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている(甲B3 4)。 神戸新聞が、控訴人梅澤だけの言い分をもとに、初枝のコメントを捏造 して掲載する理由など考えられない。 | ||||
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| c | 大城将保の見解(069P) | ||||
| (a) | 控訴人梅澤が自決命令を出した旨の記載がある「沖縄県史 第10 巻」所収「沖縄戦記録2」の「座間味村」の解説を執筆した大城将保は、 控訴人梅澤に宛てた親書の中で、「沖縄県史 第10巻」が通史的な戦 史や戦記とは異なり、一種の資料集であり、記述されている事柄は沖縄 県の公式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正 することが可能であることを述べている。 大城将保は、昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」に「座間味島 集団自決に関する隊長手記」(甲B14・38頁)を発表し、その 中で、昭和60年7月30日付け神戸新聞(甲B9)が、控訴人梅澤が 自決命令を出したとする見解に疑問を呈したことを契機として、控訴人 梅澤や初枝に事実関係を確認するなどして、史実を検証し、控訴人梅澤 の手記である「戦斗記録」(甲B14)を掲載した上、次のように記述 して、「沖縄県史 第10巻」を実質的に修正した。すなわち、「以上 により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に 対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬら れた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮 城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。」と記述 した。 こうした大城将保の見解は、昭和61年6月6日付け神戸新聞にも掲 載されている。 | ||||
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| (b) | 大城将保が「沖縄県史 第10巻」を実質的に修正したと控訴人らが 主張する上記引用部分は、その直前までの迫真の体験供述と異なり、客 観的な内容、書きぶりに変わっており、控訴人梅澤ではなく大城将保が 書いたことは明らかである。そして、上記引用部分は、それを大城将保 が書いたのであれば、大城将保が「沖縄史料編集所紀要」発表当時、控 訴人梅澤の手記及び初枝の説明を真実と考えていたと読まれて当然の結 びとなっている。 また、神戸新聞の中井和久記者は、大城将保に対する電話取材を行い、 記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B34)。 | ||||
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| d | 宮村幸延の「証言」(070P) | ||||
| (a) | 座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取 りまとめた宮村幸延は、控訴人梅澤に対し、昭和62年3月28日、 「証言」と題する親書(甲B8)を手交した。この親書には、「昭和二 十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任 (兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が 遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであり ます」と記載されている。 宮村幸延の談話は、昭和62年4月18日付けの神戸新聞にも記載さ れている。 | ||||
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| (b) | 被控訴人らが主張する「証言」の作成経緯は全く理由がない。 控訴人梅澤は、合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日、集団自 決に関する座間味村の見解を尋ねるべく、村長の田中登に会ったが、補 償問題を担当していた宮村幸延に聞くように言われたため、1人で宮村 幸延を訪ねた。控訴人梅澤と宮村幸延は、面識があったため、再会を懐 かしんだ。 控訴人梅澤が訪問した理由を話すと、宮村幸延は、突然謝罪し、援護 法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった 経緯を語ったのである。 「証言」(甲B8)は、このような経緯で宮村幸延が述べたことを文 書にしてほしい旨、控訴人梅澤が依頼し、宮村幸延自身が一言一言慎重 に言葉を選んで作成したものである。決して、控訴人梅澤が原稿を書き、 宮村幸延に押印だけさせたものでもないし、泥酔状態の宮村幸延に無理 矢理書かせたものでもない。控訴人梅澤が原稿を書いたのであれば、末 尾宛名の「裕」の字を間違えるはずがないし、宮村幸延が泥酔状態であ れば、筆跡に大きな乱れが生じるはずである。 また、宮村盛永の息子である宮村幸延は、集団自決当時、山口県にい たとしても、その後、村に帰ってから、集団自決の真相を知ったことは 明らかであり、「証言」を作成する立場になかったとの被控訴人ら指摘 も当たらない。 また、神戸新聞の中井和久記者は、宮村幸延に対する電話取材を確か に行い、記事記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B3 4)。神戸新聞が、記事中で「Aさん」とされている宮村幸延のコメン トを捏造する理由はない。宮村幸延から神戸新聞に対し抗議があったこ ともない。 | ||||
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| e | 「母の遺したもの」(甲B5)(072P) 控訴人梅澤が自決命令を出したという根拠として、初枝の手記である 「血ぬられた座間味島」(乙6・39頁)があったが、初枝の娘である宮城 証人は、「母の遺したもの」を著わした。 「母の遺したもの」には、前第3・4(2)イ(ア)記載のとおり、初枝が、集 団自決についての厚生省の調査の際、役人の質問に対して、「はい、いい え」で答え、座間味島の集団自決が控訴人梅澤の命令によるものであるか との問いに対しては、援護法の適用のために肯定したこと、初枝が、宮城 証人に対し、昭和52年3月26日、座間味島の集団自決が控訴人梅澤の 命令によるものではなかった旨の告白をしたこと、初枝が、集団自決の真 相を公表するには盛秀助役の名をあげなければならず、盛秀助役の遺族に 迷惑がかかってしまうとの苦悩を抱えていたこと、初枝と控訴人梅澤が昭 和55年12月に面会し、援護法適用のために集団自決を控訴人梅澤の命 令によるものだったことにした旨の会話をしたことなどが記載されている。 また、被控訴人らは、初枝の農家向けの月刊誌である「家の光」への投 稿で、初枝が、控訴人梅澤の自決命令について積極的に述べていたと主張 するが、「母の遺したもの」によれば、初枝が、「家の光」への投稿の際、 真実でない控訴人梅澤の自決命令について記述すべきか悩んでいたことが 分かるのであり、「家の光」の投稿にある控訴人梅澤の自決命令について の記述には証拠価値はない。 | ||||
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| f | 住民の手記(072P) | ||||
| (a) | 「沖縄県史 第10巻」(乙9)に掲載されている、中村仁勇(703 頁)、大城昌子(729頁)、宮里美恵子(739頁)、初枝(755頁)、吉 田春子(757頁)及び金城ナヘ(775頁)ら住民の手記を読めば、被控訴 人らの歴史認識が誤っていることが分かる。 | ||||
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| (b) | 大城昌子の手記についての被控訴人らが引用する部分は、阿嘉島の野 田隊長の自決命令に関する記載であり、座間味島の集団自決とは関係が ない。 宮里恵美子の手記については、自決命令の主体が記載されていない。 盛秀助役ら座間味村の幹部による命令を指していると解すべきである。 初枝の手記にある木崎軍曹らの手榴弾交付についての記載は、上意下 達の命令ではなく、いよいよ米軍に殺されそうになったらどう行動すべ きかという極限の場面の備えについて、個人的に教示された程度のもの にすぎず、控訴人梅澤による自決命令の根拠にはならない。 吉田春子の手記については、確かに水谷少尉から「玉砕しよう」と言 われた旨の記載があるが、これは、壕の中に米兵がやって来たという進 退窮まった緊急場面でのことであり、水谷少尉はすぐに「自分が命令を くだすまでは絶対に自決をしてはいけない」と言を改めている。 宮平初子、宮里とめ、宮平カメ及び高良律子の手記についても、自決 命令の主体が記載されておらず、主体は盛秀助役ら村の幹部を指してい ると解すべきである。 | ||||
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| (エ) | 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応について(073P) | ||||
| a | (a) | 被控訴人らは、座間味村に対する照会に対し、宮村盛永など多くの証 言者から、自決命令があった旨の回答があった旨主張する。 しかし、宮村盛永らの証言したとする内容は沖縄県史等に記録されて おらず、また、昭和63年当時も、援護法による遺族給付を継続し、過 去の受給についても違法と評価されることを避けるため、控訴人梅澤が 自決命令を出したという事実を維持する必要があったから、座間味村が 公式見解として控訴人梅澤による自決命令があったという真実に反する 回答をしたのも当然である。 | |||
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| (b) | 控訴人梅澤は、沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日、控 訴人梅澤が自決命令を出したとする記事の訂正と謝罪を要求した(甲B 27)。これに対し、沖縄タイムス社の牧志伸宏は、「事の是非を究明 し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答をした。 その後、沖縄タイムス社は、態度を一変させ、座間味村が集団自決は 軍命令によるものであるとしていると主張した上、控訴人梅澤に対し、 以後沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしないことを内容とする書面(甲 B29)を示し、押印するよう求めてきた。 これに対し、控訴人梅澤が強く非難したところ、沖縄タイムス社は、 結局、控訴人梅澤が自決命令を出したのではないことを認め、謝罪した が、謝罪文の提出については即答を避けた。 | ||||
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| b | 被控訴人らは、宮村盛永の「自叙伝」(乙28)に控訴人梅澤の自決命 令があったことを示す記述があると主張する。 しかし、宮村盛永の「自叙伝」には、控訴人梅澤の自決命令は記載され ておらず、逆に、宮村盛永が一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程 が生々しく記載されている。すなわち、「明くれば二四日午前九時からグ ラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸 寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅する のも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春 子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談した ら皆賛成であった。」「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味 の山は殆んど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然と するばかりであった。丁度午前九時頃、直が一人でやって来て『お父さん 敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い 処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意 して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機銃弾は頭をかすめてピュンピュ ン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで 来た。早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕 せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさい』との事であったの で、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつ の間に壕に入ったか政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」 との記載がある。 この文章から明らかなように、玉砕する方がましではないかと言い出し たのは宮村盛永であり、相談した家族は皆賛成している。つまり、玉砕が、 軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっき り表れている。 | ||||
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| c | また、被控訴人らは、第3・4(1)イ(ウ)aのとおり、控訴人梅澤が沖縄タ イムス社が示した座間味村の公式見解を受け入れたと主張するが、控訴人 梅澤は、沖縄タイムス社が座間味村の公式見解を盾に手応えのない返答を 延々と繰り返したため、やむなく矛を収める趣旨で彼告ら引用の発言 をしたにすぎない。 | ||||
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| エ | 渡嘉敷島について(075P) | ||||
| (ア) | 集団自決の経緯 安里巡査の「沖縄県警察史 第二巻」における記述(甲B16・772ない し775頁)及び星雅彦の取材結果(甲B17・210ないし213頁)によれば、 渡嘉敷島の集団自決の経緯は、概ね以下のようなものであったことが分かる。 | ||||
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| a | 昭和20年3月23日には初めて本格的な渡嘉敷島への空襲が行われ、 村役場や郵便局が焼けた。同月25日には、艦砲射撃も加わった。古波蔵 村長は在郷軍人であり、安里巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1月下 旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協力してきた住民が、 これからどうすべきか相談するため、安里巡査は、同月27日朝から赤松 大尉を捜し回った。 | ||||
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| b | 安里巡査は、同月27日午後、タ方近くになって、西山の谷間の日本軍 陣地で陣地構築の指示をしていた赤松大尉に会った。陣地壕はまだほとん ど掘られていなかった。赤松大尉は、安里巡査に対し、「島の周囲は敵に 包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守 するつもりだから、住民は一か所に避難した方がよい。」と言った。そこ で、安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、 自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の1人から古波蔵村長へ伝達をし、古 波蔵村長からも同様の伝達が出た。 | ||||
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| c | 渡嘉敷村の約3分の2の住民が、大雨の中を恩納川に沿って北上した。 米軍に追われた阿波連の人たちは、1時間遅れて西山に到着した。同月2 8日午前7時ころ、防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び、住民は命令 どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。郵便局長、校長、助 役、幹部十数人が、3時間ほど、これからどうするかについて協議した。 話し合ううち、玉砕するしかないという結論になった。 | ||||
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| d | 具体的にどうするかという段階になって、全員が死ぬには手榴弾が足り なかったため、防衛隊の1人が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取っ てきましょう。」と申し出、防衛隊3人が出かけた。 それから1時間後に、防衛隊が住民に対し玉砕の話を広めた。村の指導 者は、それぞれ家族や親戚に玉砕の話をした。古波蔵村長が全員の中央に 立って、「敵に取り囲まれて逃げられないから、玉砕しなければならない。 手榴弾の炸裂音が起こった。 | ||||
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| e | 逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300人が、日本軍陣地 へ向かったが、300メートルも進まないうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を 受けた。村長は逆上して「女、子どもは足手まといになるから殺してしま え。早く軍から機関銃を借りてこい。」と叫んだ。そこで防衛隊長である 屋比久孟祥と富山兵事主任が、日本軍陣地に駆け込み、住民を撃ち殺すた めに機関銃を貸してほしいと願い出たが、そのような武器は持ち合わせて いないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで 接近していたが、将校は、泣き叫ぶ住民に対し、抜刀して立ち去るよう威 嚇した。 住民は、恩納川の谷間へと散っていった。 | ||||
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| f | 西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連の人たちは、300人の集団が去 った後、殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂音を聞きながら、なたや鎌を借 りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺した。 手榴弾で死にそこなった住民は、農具を凶器にして殺し合った。 こうして集団自決があったのは、昭和20年3月28日の午後1時ころ であった。 | ||||
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| (イ) | 手榴弾の交付について(077P) | ||||
| a | 富山兵事主任の手記や家永第3次教科書訴訟第1審における曽野綾子の 証言からすれば、富山兵事主任は、曽野綾子の調査当時、17歳未満の少 年らに非常招集をかけて手榴弾を配った事実については全く表明していな かった。このことは、そうした事実がなかったことを示している。 手榴弾の交付が自決命令の物的証拠であるとする論は、安仁屋政昭の評 価であって、事実そのものではない。 仮に手榴弾を交付していたのであれば、住民に操作方法の指導があった ばずであるが、爆発した数より不発であった数の方が多いのは、操作方法 の指導がなく、ひいては手榴弾の交付による自決命令がなかったからであ る。 | ||||
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| b | また、「渡嘉敷村史 資料編」(甲B39)によれば、小峰園枝は、 「27日玉砕するから、本部に集まれと言われて集まった。家族が一か所 に集まって座っていたら、義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすん で手榴弾を2個持ってきた」と供述しており(甲B39・374頁)、手榴 弾が軍の厳重な管理の下に置かれていたとはいえない。 | ||||
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| (ウ) | 文献に対する反論(078P) | ||||
| a | 渡嘉敷島における住民の集団自決が赤松大尉の命令によるとの記述は、 「鉄の暴風」(乙2)、「戦闘概要」(乙10)、「戦争の様相」(乙3、 但し、これには赤松大尉の自決命令それ自体の記載はない。)に記載され、 その後に出版された「秘録 沖縄戦史」(乙4)、「悲劇の座間味島 沖 縄敗戦秘録」(乙6)、「沖縄県史 第8巻」(乙8)の記載は、「鉄の 暴風」等を下敷きにして記載された。 | ||||
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| b | 「鉄の暴風」について(078P) 「鉄の暴風」の記述は、控訴人梅澤を不明死扱いにした初版の記述(甲 B6)や、沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)か ら、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。 また、渡嘉敷島の集団自決の真相について調査した曽野綾子の「ある神 話の背景」(甲B18)によれば、「鉄の暴風」の執筆者である太田良博 は、自らは渡嘉敷島に行かず、座間味村の助役であった山城安次郎と戦後 南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも 渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。 さらに、「鉄の暴風」には、その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴 風」は、米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが、防 衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば、3月27日午前 9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が 間違って記載され、その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」に おいても、米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。 米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全 くなく、事実調査の杜撰さと併せて、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の 様相」が一様に信用できないことを示している。 また、「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下 壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの、知念証人は、西 山A高地に地下壕がなかったことや、同日に将校会議など開かれていない ことを明確に証言しているのであって(知念証人調書6頁)、この点でも 「鉄の暴風」は信用性に乏しい。 | ||||
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| c | 「戦闘概要」について(079P) 「戦闘概要」は「戦争の様相」と前後の文章が全く同じであり、その内 容が極めて酷似しているが、「戦闘概要」の「時に赤松隊長から防衛隊員 を通じて自決命令が下された」との一文だけは、「戦争の様相」には記載 されていない。「戦闘概要」は私的な文献であり、「戦争の様相」は公的 な文献であるから、「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載され ていたのが、「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたこと は明らかである。 | ||||
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| d | 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について 「慶良間列島作戦報告書」についての反論は、座間味島に関する主張と 同旨である。 | ||||
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| (エ) | 自決命令を否定する文献、見解等(079P) | ||||
| a | 赤松大尉の手記 | ||||
| (a) | 自決命令を出したとされる赤松大尉は、「私は自決を命令していな い」と題する手記を執筆し、次のとおり、自決命令を出していないと明 言する(甲B2)。すなわち、「二十六日夜」「私たちは」「寝ている と、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が『上陸はた ぶん明日だ』と本部の移動を伝えると『では住民は?住民はどうなるん ですか』という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住 民の処置は頭になかった。そこで、『部隊は西山のほうに移るから、住 民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。これが 軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれな い。」「二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に 包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿 も見えなかった。」(甲B2・216、217頁)。 | ||||
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| (b) | 赤松大尉は、座間味村がまとめた「座間味戦記」が「マスコミの目に とまるや」「つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、 赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったの である。」「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペ ンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書 くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのがジャ ーナリズムとしての最小限の良心ではないか」「戦記の作者の何人かは 沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものな のに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。彼らの書物を孫 引きして、得々として“良心的”平和論を説いた本土評論家諸氏にも 同じ質問をしたい」と現地調査もしないままの無責任な報道を批判す る。 | ||||
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| b | 「ある神話の背景」(甲B18)(080P) 「ある神話の背景」によれば、「鉄の暴風」の記述は、当事者に対する 取材も信用に足る証拠もないまま、著者の偏見と風聞に基づいて書かれた ものであり、それが他の文献等に引用されることによって、赤松大尉の自 決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち、軍の自決命 令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄 の暴風」であり、これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概 要」には「鉄の暴風」と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致で はあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られ る。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが、「戦 争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様 相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から 外したものである(甲B18・48頁)。そして、これらの3つの資料は、 米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず、同月26 日と間違って記載していると指摘する(甲B18・49頁)。 「ある神話の背景」によれば、上記神話が生まれた背景は、次のとおり である。すなわち、生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるとい う立場上、事件について説明責任を免れない古波蔵村長が、遺族からの怨 嗟の目から逃れ、責め苦を少しでも軽くするために、元村長としての責任 を負担するよりも、集団自決を命じた下手人として赤松大尉を選び、非難 を向けた。このことは、古波蔵村長の、赤松大尉や安里巡査に対するあか らさまな人身攻撃的言辞や、事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫 性のない説明などからも窺われる。 大城将保は、昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24) において、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の”神話”に 対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」「今の ところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない。」と評価してい る。 | ||||
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| c | 「陣中日誌」(甲B19)(081P) 赤松隊が作成した陣中日誌によれば、自決命令があつた形跡は全くなく、 「三月二十九日」「悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣し たるもの約二百名」(甲B19・13頁)とあるように、赤松隊が集団自決 があったことを知ったのも、昭和20年3月29日になってからであった。 | ||||
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| d | 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44) 沖縄出身の作家である上原正稔は、集団自決を目撃した米軍兵士グレン ・シアレスの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲 B44)。上原正稔は、その取材過程において、赤松大尉が自決命令を出 しておらず、金城武徳、大城良平、安里巡査、知念証人らの供述または証 言から、赤松大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。上原正 稔は、取材の結果、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるために は『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てるこ とは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。 だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認し た。 | ||||
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| e | 知念証人及び皆本証人の各証言(082P) | ||||
| (a) | 知念証人は、赤松大尉の側近として常に赤松大尉の側にいた者である ところ、赤松大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。 | ||||
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| (b) | 皆本証人は、第三戦隊においては昭和20年3月23日の空襲と艦砲 射撃が始まるまで陸上戦を予想していなかったと証言しているところ (皆本証人調書2、15頁)、陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を 交付することなどあり得ず、同月20日に役場の職員から手榴弾の交付 を受けたとする金城証人の証言は虚偽である。 そして、皆本証人は、@集団自決の起こった3月28日は午前1時頃 に主力部隊と合流したこと(皆本証人調書10頁)、A同日午前3時頃赤 松大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかったこと (同10頁)、B翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を 受けたこと(同12頁)、C赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが、8 月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも、赤松大 尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(同12 頁)を証言している。 | ||||
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| f | 照屋昇雄の供述(082P) 照屋昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護 法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして、渡嘉敷島での聞き 取り調査について、「1週聞ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」 ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と供述し、赤松大尉に 「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、「遺族た ちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令というこ とにし、自分たちで書類を作」り、その書類を当時の厚生省に提出した旨 供述している(甲B35)。 | ||||
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| g | 徳平秀雄の供述(083P) 渡嘉敷島の郵便局長であった徳平秀雄は、「恩納川原に着くと、そこは、 阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃 砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛 隊が現れ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当って いました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、 前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA 高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決す る他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に 防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。 防衛隊とは云っても支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに 違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていまし た。」「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村 民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」と供 述している(乙9・765頁)。 徳平秀雄の供述によれば、渡嘉敷村の責任者の協議の中から進退窮まっ た状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況 が明らかとなっており、軍や赤松大尉の命令など全く語られていない。 | ||||
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| (オ) | 自決命令の命令者・伝達者・受領者が不在であること(084P) 赤松大尉は、自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。ま た、恩納河原に避難中に住民に伝えられたとされる自決命令は、誰を通じて、 住民の誰に伝えられたのか、全く不明である。命令者も受領者も伝達者も分 からない命令はあり得ない。 赤松大尉から自決命令が出されるとすれば、副官であった知念証人を通じ てであるはずであるが、前記のとおり、知念証人は自決命令が出た事実を否 定する(乙9・773頁上段)。知念証人は、地下壕内の将校会議についても 否定している。 仮に自決命令が出たとすれば、その命令が村に伝達される経過が必要であ る。伝達役として考えられるのは、兵事主任、防衛隊長、駐在巡査であるが、 古波蔵村長によれば、渡嘉敷村において、軍から命令が村に伝達される場合 の伝達者は、安里巡査であった(甲B18)。安里巡査は赤松大尉から自決 命令が出たことを認めておらず(甲B16)、安里巡査が自決命令を伝達し ていないことは明らかである。 さらに、古波蔵村長、富山兵事主任、防衛隊長の屋比久孟祥のうち、誰が 自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。 | ||||
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| (カ) | 自決命令の言い換え(084P) | ||||
| a | 古波蔵村長は、住民を部隊の陣地に集合させておきながら出て行けとい うのは、住民に死ねというのと同じである旨発言しているが(甲B20)、 部隊の陣地は戦闘のためのものであって、住民の避難場所としては危険で あるし、軍の活動に支障が生じることから、部隊の陣地への集合を命じる はずがない。住民が軍の陣地に押しかけたとしたら、住民の安全のために 退去を求めるのは当然のことである。 したがって、古波蔵村長のいう「軍の陣地からの退去要求」を自決命令 とするのは無理な論理である。 そもそも、古波蔵村長は、他方で、「軍の陣地の裏側の盆地に集合する ようにといわれた。」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団 自決はその時始まった。」とも述べており(乙9・768頁)、赤松大尉が 住民を軍陣地に集合させたのでも、陣地から退去させたのでもないことは 明らかであるし、乙第9号証に記載された古波蔵村長の供述からすれば、 古波蔵村長は、盆地への集合は住民を救う赤松大尉の得策と考えていたの であるから、古波蔵村長には赤松大尉が自決命令を出したという認識がな かった。 むしろ、安里巡査の説明(甲B16)によれば、住民が軍の陣地に押し かけたのは集団自決が始まった後であり、古波蔵村長は、その際の退去要 求を「死ねというのと同じ」と言っていることになる。よって、集団自決 が始まるまで赤松大尉が自決命令を出していなかったことは明らかである。 | ||||
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| b | 富山兵事主任は、昭和63年になって、兵器軍曹が17歳未満の少年と 役場職員に対し、手榴弾を、1発は攻撃用、もう1発は捕虜になるおそれ のあるときの自決用として、2個ずつ配布した旨供述する。 しかし、手榴弾の配布の事実自体疑わしいし、仮に事実だとしても、当 時の日本国民の多くは、捕虜になるなら自決する覚悟を持っていたのであ るから、捕虜になるおそれのあるときの自決用として手榴弾を配布したこ とから赤松大尉が自決命令を出したことにはならない。 富山兵事主任によれば、手榴弾の配布は3月20日ころということであ るが、これを自決命令というのであれば、手榴弾配布の時点で、自決命令 を受けたという認誠が住民にあるはずであるが、「鉄の暴風」の記述によ れば、住民の認識では自決命令は3月27日から28日にかけてであった。 そもそも、富山兵事主任は、これまで集団自決について語りながら、昭 和63年になって突然、手榴弾の配布を自決命令と語り始めたのであり、 信用性がない。 | ||||
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| (キ) | 衛生兵の派遣と恩賜の時計(086P) 第三戦隊は、渡嘉敷島の集団自決後、自決に失敗し負傷した住民のために、 衛生兵を派遣した。赤松大尉が自決命令を出したとすれば、このようなこと はあり得ない。 また、渡嘉敷村資料館には、赤松大尉の陸軍士官学校卒業時の恩賜の時計 や第三戦隊の軍医の遺品が、記念品として飾られている。これも、赤松大尉 が自決命令を出していたとすればあり得ないことである。 | ||||
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| (ク) | 自決命令を記載していた文献の絶版等 赤松大尉の自決命令を記述し、昭和40年6月に被控訴人岩波書店から出 版された「沖縄問題20年」は、その後出版されなくなった。これは、「あ る神話の背景」により、赤松大尉の自決命令が虚偽であることが露見したか らである。 また、「太平洋戦争」は、昭和43年2月に被控訴人岩波書店から出版さ れ、そこでは、赤松大尉の自決命令が記述されていたが、昭和61年9月の 第2版の増補発行にあたっては、赤松大尉の自決命令を含む渡嘉敷島の記述 が完全に削除され、その後、平成12年7月に発行された文庫版においても、 赤松大尉の自決命令の記述は削除されたままであった。これは、「太平洋戦 争」の著者である家永三郎と被控訴人岩波書店が、赤松大尉の自決命令を虚 偽であると認識していた証左である。 さらに、「秘録 沖縄戦記」は、平成18年10月に復刻版が出版され、 控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令のいずれも、削除されている。 これは、控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が、史実の検証に耐 えられなくなったということである。 | ||||