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(5) 知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について(226P)
知念証人の証言について
(ア)  第4・5(1)イ(イ)のとおり、米軍の上陸前、赤松大尉が住民に対して西山陣
地へ集結するよう指示したことが認められ、第4・5(2)イ(イ)aのとおり、赤
松大尉自身、部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山に移動するか
ら住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいであろうと示唆してとニュアン
スにやや差異はあるものの、赤松大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよ
う指示したことを、その手記に記載している。
 一方、知念証人は、陳述書(甲B67)に「私は、正式には小隊長という
立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり」と記載してい
るにもかかわらず、西山陣地への集結指示については、聞いていない、知ら
ない旨証言し、陳述書(甲B67)にも「住民が西山陣地近くに集まってい
たことも知りませんでした。」と記載している。この食い違いは、西山陣地
への集結の持つ意味の重さに照らしても、知念証人の証言の信用性に疑問が生
じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかっ
たことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を「聞いてい
ない」「知らない」という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を
否定することは困難であるということになる。

(イ)  知念証人は、「軍として手榴弾を防衛隊員の人に配っていたと、そういう
ことは御存じですか。」という質問に対し、「知りません。」と答え、さら
に「それは全く知らないということですか。」という質問に対しては「はい。
ぶら下げているのは見たのは見たんですが、配ったことについては全然わか
りません。」と答えた。
 第三戦隊が住民に対して自決用等として手榴弾を配布したことは、第4・
5(2)イ記載の各諸文献及びそれらに記載された住民の体験談から明らかに認
められるものであり、第4・5(1)のとおり、補給路の断たれた第三戦隊にと
って貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知
らないというのは、極めて不合理であるというほかない。

(ウ)  知念証人は、原告ら代理人に対しては「沖縄県史 10巻」の「副官の
証言」の記載内容は事前に確認して間違いがないと証言していたにもかかわ
らず、「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」に「米軍の捕虜になって逃げ
帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来てい
ました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どの
ようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立
木に首をつって死んでしまいました。」との記載があり、第4・5(1)のとお
り認められる米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、
被控訴人ら代理人に問われると、「正直言ってそれはわかりません。」「私
は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょ
っとわかりません。」と答えた。
 また、伊江島の女性等を処刑したことについても、「沖縄県史 10巻」
の「副官の証言」に「伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人
が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕らえられて処刑されました。」な
どと記載があるにもかかわらず、「それは私、正直言って存じませんね、こ
の処刑という。処刑ということについては私は存じません。」と証言した後、
控訴人ら代理人の問いに対しては、「伊江島のこの処刑については、私は全
然如らないんです。」「(知らないとはと聞かれて)それで、3名やっぱり
処刑されて、それでも生き返りというとおかしいんですが、埋めたところか
ら逃げていなくなったと。それをうちの将校が、知念おまえが逃がしたんだ
ろうと、だから探してこいという命令を受けました。私はそのときはむかっ
としたんですが、上官ですから。5人ぐらい兵隊を連れて捜しに行きました
ら、もう伊江島の人は、本当にもう、何といいますか、呼吸も困難な状態に
あったんです。それで話を聞いたら、もう軍刀よりはピストルでやってくれ
と、ピストルでもう殺してくれという話がありましたので、私がピストルで
撃ちました。」などと証言し、控訴人ら代理人の質問には迎合的で、被控訴
人ら代理人の質間には拒否的で、一貫性のない証言をしている。

(エ)  以上指摘した点を考えると、知念証人の証言は措信しがたく、(ア)でも指摘
したとおり、知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定すること
は困難である。

皆本証人の証言について(228P)
(ア)  証拠(甲B66)によれば、皆本証人は、海上挺進戦隊第三戦隊の第三中
隊長であった者であると認められる。そして、証拠(甲B66及び皆本証
人)によれば、皆本証人は、陳述書(甲B66)あるいはその証人尋問にお
いて、昭和20年3月27日、赤松大尉から部隊の後退の援護を命ぜられ、
午前9時すぎころに渡嘉敷島に上陸した米軍に対し、第三中隊に配属された
基地隊の高塚小隊を率いて交戦したこと、同月28日午前1時ころになって、
ようやく第三戦隊の主力部隊と合流し、午前3時ころになって、赤松大尉と
会ったこと、皆本証人は、同月28日、第三中隊長として中隊を率いて陣地
の配置場所におり、赤松大尉の側に常にいたわけでないこと、赤松大尉が住
民に対して陣地の近くに来たらと言ったことも、当時、聞いていなかったこ
とを記載し、若しくは証言した。もっとも、防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄
方面陸軍作戦」(乙55)では、「二十七日〇九〇○ころ猛烈な砲爆撃の支
援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。第三中隊長皆
本義博少尉(57期)は配属の高塚小隊(勤務隊の高塚春次郎少尉以下二八
名)を指揮し、渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を射撃し
て前進を阻止したが、迫撃砲、機関銃の猛射を受け交戦約三○分にして高塚
少尉以下九名の戦死者を生じた。皆本中隊長は高塚少尉に代わって小隊を直
接指揮し、交戦を少時続けたのち一○○○ころから撤退を開始し、二十八日
一〇〇〇ころ戦隊本部に到着した」と記載されており、皆本証人が本隊と合
流した時間に関し皆本証言と差異がある。
 第4・5(1)イ(イ)のとおり、皆本証人は、赤松大尉が住民を西山陣地の方に
集合するように指示した昭和20年3月27日には、主力部隊と合流してい
ないとのことであるから、同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかっ
たことになる。そして、翌28日の合流時間は、皆本証人の証言等と防衛庁
防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)との間で食い違いがあり、
特定できないけれども、皆本証人の証言等によれば、同月28日、第三中隊
長として中隊を率いて陣地の配置場所におり、赤松大尉の側に常にいたわけ
でないことが認められ、同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかった
ことになり、赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては、この点を
重視する必要がある。

(イ)  皆本証人は、手榴弾に関し、陳述書(甲B66)に「手榴弾は軍が管理し
ていましたが、一部を『防衛隊』の隊員に配布していました。」「『防衛隊』
とは、防衛召集により部隊に編入された成人男子のことで、沖縄では昭和1
9年7月に編成されました。普段は家族と一緒に暮らしているのですが、い
ざという時には敵と戦わなければならず、軍人としての扱いを受けていまし
た。そのために、軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。あくまで
戦闘に備えて交付していたのです。」「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用
いられたのは、以上の理由によるもので、普段から防衛隊員が手榴弾を保持
していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのでは
ありません。」(甲B66・5頁)と記載している。
 ところが、被控訴人ら代理人の「しかし皆本さんは手りゅう弾の交付自体、
それは御存じないんですね。」という問いに対しては「はい。」と答え、
「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということです
かね。」という問いに対しては「そうです。」と答え、さらには手榴弾の交
付時期に関する質問に対しては、「私は当事者ではありませんから、何月何
日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」と答えてい
る。そうすると、皆本証人の証言は、手榴弾を交付した目的等を明示する陳
述書(甲B66)の内容と齟齬し、手榴弾に関する皆本証人の陳述書
(甲B66)の記載及びその証書には疑問を禁じ得ない。

(ウ)  以上のとおり、皆本証人は、昭和20年3月27日及び同月28日の赤松
大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく、また、その陳述書
(甲B66)に記載された手榴弾に関する記述は、皆本証人自身の証言と齟
齬し、信用できない。

控訴人梅澤の供述等について(230P)
(ア)  控訴人梅澤作成の陳述書である甲B第33号証の信用性に問題のあること
は、既に第4・5(3)オ(ウ)及び (オ) 、第4・5(4)ア(カ)、第4・5(4)イ(イ)で指摘
したとおりである。また、決して自決してはならないと命じたとか、「証言」の作
成経緯等に関する、戦斗記録(甲B129)、陳述書(甲B1、33)や本人尋問の結
果が採用できないことも、控訴理由に応じて既に詳述したとおりである。

(イ)  控訴人梅澤は、その本人尋問において、第一戦隊では手榴弾を防衛隊員に
配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する一
方、木崎軍曹が初枝に手榴弾を交付したことについて、木崎軍曹が初枝の身
の上を心配して行ったのではないかと供述する(控訴人梅澤本人調書3頁)。
 しかしながら、防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)
によれば、第一戦隊の装備は、「機関短銃九のほか、各人拳銃(弾薬数発)、
軍刀、手榴弾を携行」というものであることが認められ、控訴人梅澤自身、
本人尋問において、「短機関銃、ピストル、軍刀、手榴弾しかない装備だっ
た」と述べている。しかも、第4・5(1)ア(イ)aのとおり、慶良間列島は沖縄
本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあ
ったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器
であったと認められる。軍の装備が不十分で補給路が断たれていたことに
ついては、後記第4・5(7)ウ(ウ)のとおり、同じ慶良間列島の渡嘉敷島でも同
様の状況であったところ、皆本証人は、手榴弾の交付について「恐らく戦隊
長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います。」と
証言し、控訴人梅澤自身も、一方で村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供
述している。
 そうした状況で、第一戦隊長である控訴人梅澤の了解なしに木崎軍曹が初
枝の身の上を心配して手榴弾を交付したというのは、不自然である。しかも、
第4・5(2)アに記載したとおり、宮里育江(乙50・61頁、62)、宮原初
子(乙9・746頁)、宮川スミ子(乙62及び98)も、初枝と同様に自決
用に手榴弾を渡されたと体験談や陳述書等に記載しており、貧しい装備の戦
隊長である控訴人梅澤が、手榴弾を自決のために住民に相当数交付するという
事実を知らなかったというのは、先に記載した事実に照らして考えると、・・・
不自然であるというべきである。

(ウ)  以上の次第で、控訴人梅澤作成の 陳述書(甲B1)、陳述書(2)(甲B33)及
び控訴人梅澤本人尋問の結果は、これまで指摘した点では採用できないという
ほかない。

赤松大尉の手記等について(231P)
(ア)  赤松大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に「私は自決を命令していな
い」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年、甲B7
3)、昭和43年4月8日付けの琉球新報(乙26)で取材に応じた記録が
残っている。

(イ)  赤松大尉は、「潮」(甲B2)の「私は自決を命令していない」と題する
手記(以下「赤松手記」という。)の中で、部落の係員に「『部隊は西山の
ほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示
唆した。」とする一方、住民が集結していたことすら知らないと記載してい
る。
 他方、「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては、赤松大尉は、「 そん
な話は、まったく身に覚えがないことですよ。三月二十六日、米軍が上陸した時、
島民からわれわれの陣地に来たいという申入れがありました。それで、私は、
私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって、
まったく陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分のは
いれる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、二十八日の
午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んで来た時、われわれがそのための配備をし
ているところに、島民がなだれこんで来てた。そして村長が来て”機関銃を貸
してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい”というんです。もちろん断り
ました。村長もひどく興奮していたんでしょう。あの人は、シナ事変の時、伍
長だったと聞いていたけど・・。」「ところが、そのうちに島民たちが実に大き
な声で泣き叫び始めた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ八百
メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣声が敵に聞えて、今
度は集中砲火も浴びるわけです。それで防衛隊に命じて泣声を静めさせ
ようとしました。」と語っている。
 この両者を比べれば、住民が結集していたことを認識していたか否かとい
う事実に関し、大きな違いを示しており、同じ赤松大尉の認識としては、極
めて不合理であるというほかない(ちなみに、住民を、軍の陣地近くに集結させ
たか否かは、自決に関する軍の関与の上では大きな意味を持つ事柄である。な
お、防衛隊が赤松大尉の命令によって行動したという点は、陣中日誌(甲B19)
にも同旨[戦隊長防召兵を以って之を鎮めしむ] の記載がある。

(ウ)  米軍の捕虜となっていた2人の少年の処刑に関して、赤松手記では、「二
人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されていなくとも、いったん
米軍の掩虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからな
いから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおう
なったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息
子なので、私が直接取り調べに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと、
『ここで自決するか。阿波連に帰るかどちらかにしろ』といったら、二人は
戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線
を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではな
い。」と記載している。
 この赤松手記の記載の前段では、二人の少年が「どんな謀略的任務をもら
っているかわからないから、部落民といっしょにはできない」と言っている
のに、後段になると、ここで自決する選択肢のほか、「阿波連に帰るか」と
いうことも提案しているのであって、その判断は矛盾している。
 一方、「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては、赤松大尉は、「あと
でやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っ
ていました。彼らが歩哨線で捕まった時、私か出かけると、彼らは渡嘉敷の
人といっしょにいたいという。そこで、『あんたらは米軍の捕虜になったん
だ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ
帰りなさい』といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんで
す。」と答えている。これを赤松手記と比較すると、少年達が投降勧告に来
たかどうかの認識に差異があるし、死亡に至る経緯にもニュアンスに差異
がある。そして、赤松手記等は、「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」にあ
る「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえ
られ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、
捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かん
され、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。」との記
載(乙9・773頁)とも齟齬する。
 この二人の少年の処刑に関する記載に顕著なように、赤松手記は、自己に
対する批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに
差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困
難である。

(エ)  以上、検討したところによれば、赤松手記の記載内容には疑問があり、そ
れを直ちに措信することはできないというべきである。

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