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(4)  集団自決に関する文献等の評価について(203P)
 (2)で指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の
諸文献、証言等が存するところ、控訴、被控訴人らにおいては、その信用性等
を争う諸文献等が存するので、真実性及び真実相当性の判断に先立ち、次に、そ
うした諸文献等の信用性等について判断する。(なお、本件訴訟提起後に訴訟の
争点に関してなされた供述・証言等と異なり、歴史的文献や証言についての総合的な
評価や意義付けは、本来、その作成し証言された時代の背景や社会状況、関連史料
との比較検討等をも踏まえて多角的に行われるべき歴史研究の課題である。沖縄史
料編集所専門員の大城将保は、沖縄戦記録の事集が現在も進行中であり、戦史、戦
記類は知る限りでも700冊にのぼると述べ、沖縄県史の作成に関与した安仁屋政昭
は、その作業について第4・5(2)ア(ア)j(a)(本判決151頁)に引用したようなことを述べて
いる(甲B104資料1の3頁以下、乙11)。以下は、当然ながら、本件の名誉毀損によ
る個人の権利の救済に必要な限りで、挙証責任を踏まえて要件事実の判断に必要な
限度で行うものにすぎない。そして、これについては、当審でも控訴人らから証拠等の
評価について種々の主張がなされているが、それらを検討してみても、以下に変更、
補正するものを除き、原判決の判断を変更するまでには至らない。
)
鉄の暴風について(204P)
(ア)  第4・5(2)ア(ア)aに記載したとおり、「鉄の暴風」は、軍の作戦上の動き
をとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに
重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版さ
れたものである。
 第4・5(2)ア(ア)aのとおり、牧港篤三が記載した「五十年後のあとがき」
によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を
収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版
されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができた
ことも窺われる。
 同じく「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、沖縄タイムスに掲載され
た「沖縄戦に神話はない−「ある神話の背景」反論〈1〉」、「同〈3〉」
(甲B40の1)において、「鉄の暴風」の執筆に当たっては古波蔵村長を
含め多くの体験者の供述を得たこと、「鉄の暴風」が証言集ではなく、沖縄
戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するとい
う方法をとらなかったことを記載している。

(イ)  控訴人らは、「鉄の暴風」の初版には、「隊長梅澤のごときは、のち
に朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」との記
述があり、「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが
多く信頼性に乏しいと主張し、確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記
述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば、第1
0版で訂正されていることが認められる。)。
 しかしながら、戦後の混乱の中、体験者らの供述をもとに執筆されたとい
う性質上、住民ではない控訴人梅澤のその後などについては不正確になった
としてもやむを得ない面があり、そのことから、直ちに「鉄の暴風」全般の
信用性を否定することは相当でないものと思われる。

(ウ)  控訴人らは、「鉄の暴風」について、米軍の渡嘉敷島への上陸を昭和20
年3月26日午前6時ころとするが、「沖縄方面陸軍作戦」によれば正しく
は同月27日午前9時8分から43分であって、米軍上陸という決定的に重
大な事実が間違って記載されていると旨批判するところ、この批判は、第4
・5(1)の認定事実に照らして、妥当するものと思われ、この点でも「鉄の暴
風」の記述には、正確性を欠く部分があるといわなければならない。
 もっとも、「鉄の暴風」は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえる
ことを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置い
た戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が
「鉄の暴風」それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘
員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。すなわち、
「鉄の暴風」の控訴人梅澤が「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民
をあつめ、玉砕を命じた」との記載、赤松大尉が「こと、ここに至っては、
全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵ま
で戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」と命じたとし、これを聞
いた知念副官の心境までも具体的に記述しているが、これを話した者が特定され
ておらず、どれほど正確なものであるかどうかは全く不明である。しかし少なくと
もその内容は編集者が創造し、脚色するようなものとは考えられず、そのような話
が仮に伝聞であったにしても当時住民からなされたこと自体は明らかであると考
えられ、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については、第
4・5(2)で子細に認定、判示した住民の体験談と枢要部において齟齬するこ
とはなく、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたとする牧
港篤三、「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たとする
太田良博の見解を裏付ける結果となっており、民間から見た歴史資料として、
その資料的価値は否定し難い。

(エ)  もっとも、曽野綾子が著した「ある神話の背景」では、「鉄の暴風」は直
接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである
旨の批判がなされている。
 この点、「鉄の暴風」の執筆者の1人である太田良博は、沖縄タイムスに
複数回連載した「沖縄戦に神話はない−「ある神話の背景」反論」(甲B4
0の1 枝番を含む)の中で、山城安次郎と宮平栄治からは渡嘉敷島の集団
自決について取材したのではなく、沖縄タイムスが集団自決について調査す
る契機となった情報提供者にすぎないと反論し、集団自決の証言者として取
材した対象は古波蔵村長など直接体験者であったとしている。「ある神話の
背景」には、宮平栄治が太田良博から取材を受けた記憶はない旨述べたこと
が記述されているが(甲B18・51頁)、これは、前記の太田良博の反論と
整合する側面を有している。
 そして、先に指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に至
る経緯等については、第4・5(2)で子細に認定、判示した住民の体験談と枢
要部において齟齬を来していないのであって、この事実からすると、「鉄の
暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づく
ものである旨の批判は、採用できない 。

(オ)  以上のとおりであるから、「鉄の暴風」には、初版における控訴人梅澤の
不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば、平成5年7月
15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。)、渡
嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民
の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定できな
いものと認めるのが相当である。

(カ)  ところで、控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人
梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し、
控訴人梅澤の陳述書(甲B33)にも、昭和63年11月1日に新川明と面
接した際のことについて、「私の方から提出した宮村幸延氏の『証言』を前に、
明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には、応対し
た同社の新川明氏(以下「新川明氏」)が、謝罪の内容をどのように書いたら
良いですかと済まなそうに尋ねて来たため、私が積年の苦しい思いを振り返
りながら、また、自分自身の気持ちを確かめながら、自分の望む謝罪文を口
述し、それ新川明氏が書き取ったのです。」、「その後、昭和63年12月22
日、私の上記要求に対する回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社に
おいて新川氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様、岩崎氏に立ち会っ
て貰いました。そうしたところ、沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変さ
せ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』と主張して私の
言い分を頑として受け入れませんでした。」と記載している。
 先に認定したとおり、沖縄タイムスは、控訴人梅澤と面談した直後である
昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決につい
ての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長宮里正太郎は、同月18日
付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり、こうした回答を待つ
ことなく、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」
と題する親書(甲B8)を示されただけで、困惑して謝罪したというのは、
不自然の感を否定できない。仮に、控訴人梅澤が陳述書で記載するとおり、
昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば、同年12月2
2日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判
するのが合理的であろうが、会談の記録を録音し、それを反訳した記録であ
る乙第43号証の1及び2には、そうした状況の録音若しくは記載がない。
加えて、証拠(乙43の1及び2)によれば、控訴人梅澤は、「日本軍がやら
んでもええ戦をして、領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということ
は、これは歴史の汚点ですわ。」「座間味の見解を撤回させられたら、そ
れについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたし
はそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長
さん、宮村幸延さん、立派なひとですよ。それから初枝さん、私を救出し
てくれたわけですよ。結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切
やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない以上で
す。」と述べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが、それは、控訴
人梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間
であったとすれば(さらに言えば、控訴人梅澤の主張を前提とすれば)、控
訴人梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは
不合理であるといわなければならない。
 この点についての控訴人らの主張を踏まえても、「鉄の暴風」の戦時下の
住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定す
ることはできない。

母の遺したものについて(208P)
(ア)  「母の遺したもの」(甲B5)には、その第一部に初枝の手記である「血ぬ
られた座間味島」が収録されているところ、そこには、初枝が昭和20年
3月25日に盛秀助役らと控訴人梅澤に会いに行った際のこととして、「助
役は隊長に、『もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協
力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手ま
といにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をくださ
い』と申し出ました。」「私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばか
りに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを
立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んで
アゴをのせたまま、じーっと目を閉じたっきりでした。」「私の心が、千々
に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたう
えで殺されるのかと、私は、最悪の事態を考え、動揺する心を鎮める事がで
きません。やがて沈黙は破れました。」「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一
応お帰りください。お帰りください』と、私たちの申し出を断ったのです。
私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。」「ところが途中、助役
は宮平惠達さんに、『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」
「後は聞き取れませんが、伝令を命じたのです。」との記述がある(甲B5
・39、40頁)。
 以上の部分は、初枝が控訴人梅澤に送ったノート「とっておきの体験手記」の写
し(甲B32)の該当部分でもほぼ同一である。すなわち、「助役は隊長に、『もはや
最後の時が来ました。私たちも精根を尽す限り軍に協力致します。それで若者た
ちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足・手まといにならぬよう忠魂碑の前
で玉砕させようと思いますので弾薬を下さい』と、申しでました。私はこの時になっ
てほんとに息もつまらんばかりにハッといたしました。あたりには重苦しい沈黙が
しばらく続きました。そして隊長もまた軍刀の上に手を組み目をつぶってじ一一と
沈黙のままでした。私の心は干々に乱れます。明朝の敵の上陸開始の事を思い、
上陸後はいつも噂に聞かされている敵の私達への取扱いなどの事を考えると動
揺する心をしづめる事ができません。やがて、沈黙は破れました。隊長は沈痛な
面持ちで([行外加筆]承諾なされず)『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と
なだめられ、私たちもそこを引きあげて元の所へ帰る途中、助役は宮平恵達さん
に各壕を廻って皆んなに忠魂碑の前に集合するように・・又、私には役場の壕か
ら重要書類を同じく忠魂碑の前に運ぶようにと命じられました。」というものである。
 以上の手記に描写された本部壕のやり取りは極めて印象的である。初枝は、
厚生省の調査ではこのことに触れず、家の光の手記で隊長命令を書いたがその
ことが梅澤隊長に破滅をもたらしたと自責の念を持って、何度も記憶を確かめた
上で、真実を伝えるべく手記に書き残して娘に伝え、懺悔の意味で控訴人梅澤に
もその写し(甲B32)を送ったものであり、これに虚偽を記載したり、想像を加えた
りするような動機は全くなかったと考えられる。出来事自体が初枝にとって非常に
印象的であったことや罪責感から細部まで記憶が保持されていたものと理解され
る。ちなみに、初枝の心の動揺をよそに長く続いた重苦しい沈黙の後に、沈痛な
面持ちで隊長から発せられたという「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい。」と
いう言葉、長い沈黙の後の「今晩は一応・・」という言葉は、重い事実を背景とする
言葉であったとも考えられるのであるが、当時初枝にはその意味するものは理解
できないままに、強い印象を残し、言葉のままに記憶されたものと解されるのであ
る。その様な意味でも、初枝が記憶し、記述するところは正確なものと評価される。
ともかく、初枝にとっては、二重の意味で、忘れるにも忘れようがない場面であっ
たのであり、その記憶は、手記のように印象的で臨場感のある表現が可能なほど
に細部に至るまで保持されたと見るのが相当である。また、控訴人梅澤に送った
ノートの写し(甲B32)には上記のように「沈痛な面持ちで」と「今晩は一応・・」と
の間の右行外に「承諾なされず」と初枝の字で書き加えられている。これは記載
の位置からして、初枝がノートの写しを昭和57年頃までに控訴人梅澤に送るにあ
たって、先のような自責の念を背景に、控訴人梅澤がこの時村の幹部の申し出に
応じていないということをはっきりさせ、自分もそのように認識していることをしっか
り伝えようとして書き加えたものと解される。なお、甲B32のこの「承諾なされず」
には現在は赤で傍線が付されているが、それは甲B32を受け取った控訴人梅澤
が初枝の意図を受け止めた上で、特に傍線を付したものではないかと推認される。
そして、このころ控訴人梅澤と初枝は手紙のやり取りをしていたというが(甲B5)、
このノートの内容について、控訴人梅澤が初枝に対して自分の記憶と違うなどと
手紙で伝えたような形跡が全くない。そのことは、控訴人梅澤も、事実が初枝のノ
ートのとおりであることに当時は異論がなかったことを窺わせるものである。また、
初枝も、控訴人梅澤と何時間も話し合ったというのに(甲B5)、本部壕でのことに
ついて控訴人梅澤と話が違ったなどということは全く述べておらず、その後も話は
一貫しているのである。

(イ)  もっとも、 本件訴訟では、この点について、控訴人梅澤は、その陳述書
(甲B1)において、初枝が語る同じ場面について、「問題の日はその3月
25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来
訪して来ました。助役の盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、
吏員の宮平惠達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その
時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来
ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、
軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一
思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下
さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下
さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。こ
の島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅然と
して答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。
我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではな
いか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。
また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑
近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間に
わたり、先ず助役の盛秀さんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、
次々と悲惨な最後を遂げた由です。」と記載しており(甲B1・2、3頁)、
控訴人梅澤は、本人尋問において、同趣旨の供述をしている。また、控訴人
梅澤は、大城将保に依頼されて執筆した手記「戦斗記録」(甲B129)(昭和61
年3月の沖縄史料編集所紀要甲B14所収)に同旨の記載をしている。

 しかしながら、初枝の記憶するやりとりとして「母の遺したもの」に記載
してあるのは、前記のとおりであり、かつ、初枝が残したノート(甲B
32)も、同様の記載にとどまっている。そして、宮城証人は、この点につ
いて、「武器提供は断ったとは言っていましたけれども、そういう最後まで
生き残ってというふうなことは、もし梅澤さんがおっしゃっていれば母は
ちゃんとノートに書いたと思います。」と証言している。確かに、控訴人梅澤
が決して自決するでないなどと述べたのであれば、それは、それまで住民に求め
られてきた覚悟とは正反対の指示であり、初枝がそれを曲げて記憶し、記録する
などとは考えられない。後にも触れるように「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さ
い。」というのは、「自決するでない。」というのとはその実体において意味するとこ
ろが全く異なる内容の言葉であるというべきなのである。こうした事実に、控訴
人梅澤作成の陳述書(甲B33)の記載内容の信用性についての、これまで
の検討結果からすると、控訴人梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分に
ついては、信用し難い。

(イ―2)  これに対し、控訴人梅澤は当審でも、改めて、自決してはならないと命じた
旨を強調し、原判決の事実認定を「些末な点を云々して無理に難癖をつける」もの
で、「『一応』というただ一つの言葉や、梅澤のわずかな沈黙に、特段の意味を見
いだそうとするのは、真実からあえて目をそらそうとするものに等しい」などとして
縷々非難する。
 しかし、控訴人梅澤の同主張や上記供述等が到底採用できないことは、当審で
補正、補足して引用した上記説示のほか以下のような事実からも明らかである。
すなわち、先の「母の遺したもの」には、昭和55年12月16日の那覇のホテルで
の控訴人梅澤と初枝との面談の様子を次のように記述している。「梅澤氏は、私
(宮城晴美)がマスコミを連れてきてはいないかと、しきりにあたりを見回している。
一方、母(初枝)の方は、雲上人であった戦時中の梅澤氏のイメージがまだ強く残
っているらしく、極度に緊張しているのがそばにいる私にも伝わってくる。私はホテ
ル内の喫茶室の最も奥まった席に梅澤氏を案内し、しばらく話したあと母を残して
職場に戻った。以下は、母から聞いた話である。」「母が梅澤氏に、『どうしても話
したいことがあります』と言うと、驚いたように『どういうことですか』と、返してきた。
母は、三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し、『夜、艦砲
射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元へ伺いましたが、私はその中の1人で
す』というと、そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。
母はもう一度、『住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にはその
まま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません』と言うと、驚いたように
目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で『ほんとうですか』と椅子を母の方に
引を寄せてきた。母が『そうです』とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手
を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず『ありがとう』『ありがとう』と涙声で言い
つづけ、やがて嗚咽した。母は、はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。」
「梅澤氏は安堵したのかそれから饒舌になり、週刊誌で「集団自決j命令の当事
者にされたあと職場におれなくなって仕事を転々としたことや、息子が父親に反抗
し、家庭が崩壊したことなど、これまでいかにつらい思いをしたか、涙を流しながら
切々と母に語った。」
 以上の記述は、本件訴訟など予想されていない時期に発行された娘の宮城晴
美の記述であり、その後の座間味島内案内の様子などとも整合性があり、初枝の
複雑な心理や感想や、万全の受け入れ態勢を整えて控訴人梅澤の来島を勧めた
経緯(甲B114)にも裏付けられていて、その内容を疑うべき事情はない(これに
対し、甲826号証の「第一戦隊長の証言」の再開場面は異なるが、両者を比較す
ると、甲B26号証には時間的な経緯の省略や再構成(なお、後示のように藤岡教
授は別の場面についてはその様に分析している。)及び潤色があると疑わざる得
ず、上記判断を左右しない。)。
 上記「母の遺したもの」の記載によると、どうしても話したいことがあると思い詰
めて初枝が35年前の3月25日夜の出来事を順を追って詳しく話し、役場職員ら
5人で隊長の元に伺いましたが私はその一人ですと言っても、控訴人梅澤はその
こと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子であった、そこでもう一度
初枝が「住民を玉砕させるようにお願いに行きましたが、梅澤隊長にはそのまま
帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」というと、驚いたように目を
見開き大声で「ほんとうですか」と身を乗り出してきたというのである。これに対し、
控訴人梅澤は、本部壕の出来事を忘れていたのではなく、目の前の女性が本部
壕に来た若い女性であることが分からなかっただけであるかのように本人尋問で
は述べるが、先の具体的な記述とは到底相容れない。順を追って詳しく話したが、
忘れていたようですぐには理解できない様子なので、再度、「お願いに行ったがそ
のまま帰されたこと」を説明したというのであるから、忘れていてすぐには理解でき
なかった「そのこと自体」とは本部壕への5人の訪問自体であることは文脈上も明
らかである。そして、控訴人梅澤が反応したのは、同控訴人が村側の要請には応
じてくれずそのまま帰された、命令したのは梅澤さんではありませんという言葉を
聞いてから、「ほんとうですか」と身を乗り出したというのである。それまでに、控訴
人梅澤に本部壕での応答についての具体的な記憶があったとしたら、むしろ、本
部壕を訪れたという話を聞いた時点で、すぐにその話になり、両者で記憶を確か
め合うというような流れになるのが自然であろうが、命令したのは梅澤さんではあ
りませんという言葉を聞いて初めて「ほんとうですか」と身を乗り出して反応し、「そ
うです」と応えると「ありがとう」「ありがとう」と泣き出したというのであるから、それ
まで自分の記憶には残っていなかった35年前の出来事、自決命令を否定する根
拠となる事実を教えられて、感動したものとしか理解できず、その様に理解すると、
前記の「母の遺したもの」の記述は極めて自然である。
 もっとも、その様なきっかけを得て、控訴人梅澤が、その当時のことを思い出し
てゆくということは十分あり得ることであるから、上記の経緯だけで控訴人梅澤の
前記供述等が信用できないということにはならない。しかし、ここで検討を要する
のは、控訴人梅澤が本部壕でのことを億えていなかったとすれば、それはなぜか
ということである。既に出来事から35年が過ぎているのであるから、記憶がなか
ったとしても一般的には異とするにあたらないが、控訴人梅澤は昭和33年頃には
自決命令についてマスコミの標的になったと述べており、その当時において、自決
命令を出したか否かが自身にとって深刻な問題になったはずである。しかしその
当時においても、控訴人梅澤が本部壕でのやり取りを記憶していたという具体的
な形跡が全くない。しかし、この点は、次のように考えるならば、よく了解できる。
すなわち、当時はまさに翌朝にも米軍上陸が予想された極めて緊迫した非常時で
あり、日本軍は玉砕を覚悟して防戦の準備に奔走し住民もかねての軍官民共生
共死の覚悟のもとで戦える者は軍とともに戦うという態勢にあったのであるから、
軍の足手まといにならないようにと住民から集団自決の申し出があったたとしても
その当時の状況下では(昭和60年代になって控訴人梅澤が述べるようには)特
別のことではなかったのではないか、捕虜になるよりは潔く自決するということは
当時は当然の覚悟とされていたのである。しかし、いざ住民が集団で自決に踏み
切ると聞かされれば、ためらいが生まれるのは自然であり、そのための爆薬の提
供を要請されても躊躇するのは当然である。そのため、控訴人梅澤も長い沈黙の
後に「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」とだけ言ってひとまず住民を帰した
ものの、それは単に決断を延ばしただけのことで、軍の従来の大方針を変更した
というようなことではなく、控訴人梅澤にとって非常時の混乱の中で格別記憶に残
るような出来事ではなかったし、残しておきたいような事柄でもなかったのではな
いかと考えられるのである。それは、翌日の米軍上陸、応戦、山中への退避、日
々続く戦闘、自身の負傷、投降、その間の多数の部下の戦死、そして戦後の混乱
等々の大激変の中で埋もれてしまう程度の出来事であったと考えられるのである。
控訴人梅澤は、その後もマスコミが書き立てるような自決命令自体については自
分の責任を意識するすることはなかったし、その意味で集団自決自体は控訴人梅澤
にとって重大な問題ではなかったことは、昭和55年の初枝との再会後戦跡を案
内されているときにも、部下の戦死には涙しても住民の自決にはあまり関心を示
さなかったということ(甲B5の264、265頁。この点の描写は具体的である。)か
らも裏付けられる。そうだとすると、本部壕の出来事も、初枝からその時弾薬の提
供を断ったと教えられるまでは、控訴人梅澤にとって長く記憶に残るほど重大なこ
とではなく、戦後35年の間、思い出されることもなかったと理解されるのである。
ちなみに、この点は原審以来問題とされてきた点であるが、控訴人梅澤からは、
昭和55年以前に控訴人梅澤が本部壕の出来事について記憶していたことを裏
付けるそれ以前の日付の記録、日記、手記、戦友会誌の記事、戦友たちとの会話、
マスコミ取材への応答、週刊誌の記事やそれへの反論の類の提出は一切ない。
現在からそれらを収集するとすれば相当困難でもあろうが、控訴人梅澤は昭和3
3年頃にはマスコミから激しい個人攻撃を受け、昭和60年頃には沖縄タイムス等
への抗議活動を行い、手記や「戦斗記録」を執筆しているのであるから、それ以前
の記録類が残っていても不思議ではない。しかし、本件訴訟記録上は、控訴人梅
澤の上記供述は、客観的資料としては、昭和60年7月30日付神戸新聞の記事
(甲B9)、同年10月6日付書簡(甲B130)、同年12月10日付書簡(甲B27)及
び昭和61年発行の沖縄史料編集所紀要11号所載の手記「戦斗記録」(甲B14)
とその原稿(甲B129)にまでしか遡れないのである。

(イ―3)  したがって、控訴人梅澤の語る本部壕での出来事は、一見極めて詳細でか
つ具体的ではあるが、初枝から聞いた話や初技から提供されたノート等によって
35年後から喚起されたものであり、記憶の合理化や補足、潜在意識による改変
その他の証言心理学上よく知られた記憶の変容と創造の過程を免れ得ないもの
であり、その後さらに繰り返し想起されることにより確信度だけが増したものとみる
しかない。先にみた初枝の記憶し記録する事実の信頼性を左右するようなものと
は到底認められない。したがって、控訴人梅澤は、本部壕で「自決するでない。」
などとは命じておらず、かねてからの軍との協議に従って防衛隊長兼兵事主任の
助役ら村の幹部が揃って軍に協力するために自決すると申し出て爆薬等の提供
を要請したのに対し、要請には応じなかったものの、玉砕方針自体を否定すること
もなく、ただ、「今晩は一応お婦り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであった
と認めるほかはない。
 このことは、帰された村の幹部らが、その直後に、集団自決を実行していろこと
にも符合している。村の幹部らが揃って軍に協力するために自決を申し出たのに
対し、部隊長から、決して自決するではないなどとそれまでの玉砕方針とは正反
対の指示がなされたのであれば、その命令に反して、そのまま集団自決が実行さ
れたというのは不自然であり、「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」として決
断しない部隊長に帰されて、村の幹部らが従来の方針に従い日本軍の意を体し
て信念に従って集団自決を実行したものと考えるほうがはるかに自然である。

(ウ) ・・・

(エ)  したがって、(ア)記載の「母の遺したもの」の記述から、・・梅澤命令説を否
定できるものではないというべきである。もとより、「母の遺したもの」の
記述からすれば、前記「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(下谷修久刊行
「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」所収 乙6 )及び 「とっておきの体験実話
 沖縄戦最後の日」(「家の光」所収 乙19)にある控訴人梅澤の自決命令
の記載が初枝の体験談としては措信し難いことはいうまでもない。
 しかしながら、反面、第4・5(2)ア(イ)eで記載したとおり、「母の遺した
もの」には、初枝が木崎軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日
本女性として立派な死に方をしなさい・・」と手榴弾一個が渡されたとのエピ
ソードも記載されており(甲B5・46頁)、この記載は、日本軍関係者が米
軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意
味を有し、軍が自決を方針としていたことを裏付けるものとして、梅澤命令説を
肯定する間接事実となり得る。控訴人らは、これを「軍の善き関与」であるなど
とも主張するが、採用できない。

ある神話の背景及びその指摘に係る文献について(217P)
(ア) a  「ある神話の背景」は、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」の3
つの資料は米軍の上陸日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず同
月26日と誤って記載していると指摘し、「鉄の暴風」は直接の体験者で
はない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものであり、
これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成さ
れたものが「戦争の様相」であるとの記述、「戦争の様相」に「戦闘概
要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長
の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものであるとの
記述がある。
 控訴人らは、この記載を踏まえて、「戦闘概要」という私的文書で記載
されていた「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」と
の一文が公的な文献である「戦争の様相」においては削除されていると主
張する。

b  「鉄の暴風」がそうした誤記をしていること、それをどう評価すべきか
については、先に判示したとおりであり、「鉄の暴風」が直接の体験者で
はない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものである
と認め難いのも、先に判示したとおりである。

c  先に判示したとおり、「戦闘概要」(乙10)は、昭和28年3月28
日、太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力のもと、
渡嘉敷村遺族会が編集したもので、新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」に
転載、収録されているものであり、「戦争の様相」(乙3)は「沖縄戦記
(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」に収められた文書で、先に判示した
「座間味戦記」も、同じく「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」
に収められており、これらは援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に
提出した資料である。
 そこで、「戦闘概要」(乙10)と「戦争の様相」(乙3)を比較する
と、両者においては、単に記述されている事柄が共通しているだけでなく、
その表現が全く同じであるか酷似している点が多数見られるなど、昭和2
0年3月27日から集団自決に至るまでの経緯の記述が酷似していること
が認められるから、両者は、いずれか一方が他方を参考にして作成された
ものであることが窺われる。
 この「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序については、伊敷清太郎
によれば、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語、表現
等)を直したと思われる箇所が見受けられること、当時の村長の姓が
「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているのに対し「戦闘概要」では
改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先に書かれた
ものであり、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられると分
析されている(乙25)。
 この伊敷清太郎の分析は 、「ある神話の背景」の指摘をも踏まえて、極めて
多くの箇所について綿密に検討を行い、緻密な考察を重ねたもので 合理的な
根拠を有し無理が無く、「ある神話の背景」の論拠にも疑問を呈しており、その
考察はより説得的であると評価できる。したがって、前記のような「ある神話の
背景」の「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序についての記述は採用
できず、これに基づく控訴人らの主張も採用できない。
 もっとも、以上の類似性からすると、両者に独立の資料的価値を見出す
ことは困難であるというべきであって、真実性等の評価に当たっては、こ
の点を十分踏まえる必要がある。

(イ)   嶋津与志(本名大城将保)は、「青い海『慶良間諸島の惨劇−集団自決事
件の意味するもの』」(昭和53年、甲B91、以下「青い海」という。)
において「従来の記録が、事実関係のうえで多くの誤りを含んでいることは
曽野綾子氏の『ある神話の背景』で指摘されたところである。」と、「沖縄
戦を考える」(昭和58年、甲B24)において「曽野綾子氏は、それまで
流布してきた赤松事件の"神話"に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従
来の説をくつがえした。」「今のところ曽野・・説をくつがえすだけの反証は
出ていない。」と、それぞれ評価している。 ・・・

(ウ) ・・・


(エ) ・・・

(オ)  前記(イ)のとおり、大城将保は「ある神話の背景」を評価している。しかし
ながら、大城将保は、前記「青い海」において「私自身は、今のところ戦争
責任追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについ
てはさして興味がない。」とした上で、星雅彦の指摘する、逃げ場のない無
防備な小島の地理的状況・恐怖観念(やがて死ななければならぬ思案)・軍
国主義教育による忠君愛国の精神・旧日本軍が常に発散させていた国民への
圧力(黙っていてもある指示ができる状況−軍の意志を献身的に買って出て、
さらにそれを末端へ促す可能性の強さ)・作戦と指導力のまずさ・敗色から
くる狂気・沖縄県民への差別意識・非戦闘員の生命への無関心さ(軍優先の
戦闘モラル)・責任を転嫁しやすい軍人階級の大義名分(利己的な虚栄心)
・運命共同体の憎愛の狂気・弱肉強食のパターンといった原因の中に事実は
ほとんど網羅されているとし、こうした要因の中でも、旧日本軍が常に発散
させていた国民への圧力を重視すべきであると述べて、全体として集団自決
に対する軍の関与自体は肯定する見解を主張している(甲B91・86頁以
下)。

(カ)  以上によれば、「ある神話の背景」は、命令の伝達経路が明らかになって
いないなど、赤松命令説を確かに認める証拠がないとしている点で赤松命令
説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、赤松命令があり得ないこ
とを論証するものとまではいえない。

 慶良間列島作戦報告書について(220P)
 第4・5(2)ア(ア)kのとおり、米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵
第77師団砲兵隊が慶良間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に
保存されていた資料であって、その資料価値は高いものと思われる。
 前記のとおり、林教授は、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日
本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決
せよと命じたとくり返し語っている」「明らかに、民間人たちは捕らわれな
いために自決するように指導されていた」とその一部を訳しているの
に対し、控訴人らは、「尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵
隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そ
して、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。」と訳すべきである旨
主張する。
 しかし、仮に控訴人らの主張するように訳したとしても、日本軍の兵士達が
慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するように促していたことに
変わりなく、その訳の差異が本訴請求の当否を左右するものとは理解されない。

沖縄史料編集所紀要等について(221P)
(ア)  大城将保が昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)に「座
間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、梅澤命令説が従来の通説であ
ったが、前記昭和60年7月30日付けの神戸新聞の報道を契機として、控
訴人梅澤や初枝に事実関係を確認するなどして史実を検証したと述べ、控訴
人梅澤の手記である「戦斗記録」を前記紀要に掲載し、また、前記紀要には、
「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省
に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた
座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝
氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。」との記述があること
は、第4・5(2)ア(イ)cのとおりである。

(イ)  そして、証拠(甲B115、128、129)によれば、上記の「以上により」以下の記
述は、上記手記を掲載した大城将保が、付加して記載したものであると認められ
る。もっとも、宮城初枝が「真相は梅澤氏の手記のとおりである」と言明していると
いうのが手記のうちのどの部分までをいうのかは具体的に明らかではない。しか
し、当時主に問題とされていたのは控訴人梅澤が直接、自決命令を発したか否か
であり、その点について、本部壕で助役らが弾薬等の提供を求め、控訴人梅澤が
その要請を断ったという経緯を初枝も認めている、という限りで「手記のとおり」と
されたものと解するのが相当である。けだし、先に詳細に検討し、認定したとおり、
初枝の記憶するところは「母の遺したもの」の記述や前記のノートの記載のとおり
であり、これを超えて、控訴人梅澤が「決して自決するでない」とか「壕や勝手知っ
た山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。」とかと言ったなどということを、
初枝がそのとおりであると大城将保に言明したとは到底考えられないし、そのよう
な証拠はない。なお、神戸新聞(甲B9)の初枝のコメント中の控訴人梅澤の言葉
も、初枝が述べるはずもない内容であり、控訴人梅澤の説明との混同ないしは両
者の違いの意味についての理解不足があると解され、これに関する記者の釈明
(甲B34)は採用できない。

(ウ)  結局、「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)は、文献的価値としては、控
訴人梅澤の手記を掲載したこと、それには初枝の従前の話と一致する限度で
裏付けがあるとされたことに意義を見出し得るにすぎないと認められる。

(エ)  ところで、これに関違して、昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、大城
将保の談話として「宮城初枝さんらからも何度か、話を聞いているが、『隊
長命令説』はなかったというのが真相のようだ。」「梅沢命令説については
訂正することになるだろう。」との記載がある(甲B10)。
 これについては、大城将保自身が、「私は神戸新聞の記者から電話一本も
らったことはない。おそらく梅沢氏の言い分と私の解説文の一部をまぜあわ
せて創作したのであろうが、誰がみても事実と矛盾する内容で、明白なねつ
造記事である。」などとしている (乙44及び45)が、取材の経緯(甲B3
4)はともかく、本部壕で控訴人梅澤が直接命令したことは無かったという限りで
の大城将保の認識を示すものでしかない。

徳平秀雄らの体験談(222P)
(ア)  「沖縄県史 10巻」(乙9・765頁)に記載された徳平秀雄の集団自決
に関する体験談中、事実を述べる部分で主なものとしては、恩納川原で米軍
の攻撃を受けたこと、そこに防衛隊が現れたこと、徳平秀雄も参加の上、村
長・校長・防衛隊員ら渡嘉敷村の有力者が何らかの協議をしたこと、防衛隊
員が住民に手榴弾を配布したこと、村長が何か言っていたこと、その後、住
民が手榴弾を用いるなどして自決したこと、西山陣地に行ったものの、軍が
陣地内に入れてくれなかったことなどであり、これらの事実は、赤松命令説
を覆すものではない。
 そのほか、徳平秀雄の体験談の記載は、村の有力者の協議内容や村長の発
言が明らかでないなど、あいまいな部分があり、また、「防衛隊とは云って
も、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。」
「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそう
いう状態に持っていったとは考えられませんでした。」などの部分は、
徳平秀雄の推測を述べたものである 。

(イ)  「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に記載された大城良平の体験談も、
赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(大城
良平の体験談以外に赤松大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、
本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くは大城良平の観測を述
べるものにとどまっている。

 「秘録 沖縄戦記」(223P)
 「秘録 沖縄戦記」は、平成18年に復刻版(甲B53)が出版されており、
復刻版では、赤松大尉が自決命令を出したとする記述が削除されている。しか
しながら、山川泰邦の長男である山川一郎の記載した復刻版のはしがきによれ
ば、復刻版は、山川泰邦の死後に復刻出版されたものであると認められ、また、
「一 渡嘉敷村民の集団自決」の章に先立って、「※本復刻版では『沖縄県史
第10巻』(一九七四年)ならぴに『沖縄資料編集所紀要』(一九八六年)を参
考に、慶良間列島における集団自決等に関して、本書元版の記述の一部を削除し
た。集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしてい
く必要があることを付記しておきたい。」との記載がなされている。
 こうした記載を踏まえると、第4・5(2)ア(ア)e及びh記載のとおり、自己の
体験や、終戦の翌年沖縄警察部が行った戦没警察官の調査の際に収集された数
多くの人の体験談や報告、琉球政府社会局長時代の援護業務のために広く集め
た沖縄戦の資料などに基づいて執筆されたとする「秘録 沖縄戦史」及び「秘
録 沖縄戦記」の作者山川泰邦が赤松命令説についての見解を改めていた
というものではなく、赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめ
ぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族である山川一郎が慎重な態
度をとって沖縄県史第10巻などの記載の範囲に止めた ものと認められ・・る

その余の文献の評価(224P)
(ア)  櫻井よしこは、第4・5(2)ア(イ)f(b)のとおり、週刊新潮のコラムにおいて、
座間味島の集団自決について概ね控訴人梅澤の供述に沿う事実経過を記載し
ているが、第4・5(2)ア(イ)f(b)で判示したとおり、その記載内容から控訴人
梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、控訴人
梅澤に対する取材を除き、櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを
行ったものとまでは認められないから、後記第4・5(5}ウのとおり、控訴人
梅澤の供述等が措信し難い以上、その資料的価値は乏しいというほかない。

(イ)  陣中日誌(甲B19)は、その中に掲載された「編集のことば」によれば、
第三戦隊本部付であった谷本小次郎が基地勤務隊辻政弘中尉が記録した本部
陣中日誌と昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中
隊陣中日誌をもとに、昭和45年8月15日に編集、発行したものであると
している。折しも、赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そ
のことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、「陣中
日誌」は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、
その元となった資料は当時の記録として貴重であろうが、それ自体は 書証とし
て提出されておらず、前記指摘のとおりその転載の正確性を確認できない。

(ウ)  戦史研究家である大江志乃夫が執筆した「花綵の海辺から」には、第4・
5(2)イ(イ)のとおり、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶ
ん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばっ
たのは、米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであ
った赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」との記載
がある。
 その「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は、甲B
第36号証として提出された「花綵の海辺から」の一部からは、「沖縄県史
 10巻」(乙9・781頁)に赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指
摘する体験談を記載された大城良平の証言をあげる以外明確にされていない。
「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に記載された赤松大尉が部下を指揮
できなかったことを指摘する大城良平の体験談の評価については、第4・5
(4)カ(イ)のとおりであり、大城良平から聞かされたという遺族年金の支給とい
う実益問題にも疑問があることは、第4・5(3)のとおりであって、大江志乃
夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は、
本訴において資料価値は低いものというほかはない。

(エ)  上原正稔が平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダ
ウン」には、第4・5(2〕イ(イ)gのとおり、金城武徳や大城良平、安里巡査が、
赤松大尉について、立派な人だった、食料の半分を住民に分けてくれた、村
の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された
部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だっ
たから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。
 しかしながら、第4・5(1)のとおり、赤松大尉は、大城徳安、米軍の庇護
から戻った二少年、伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらな
く、各処刑したことに関与し、住民に対する加害行為を行っているのであっ
て、こうした人物を立派な人だった、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者
はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。そして、第4
・2(3)で判示したとおり、赤松大尉は、昭和45年3月28日に渡嘉敷島で
行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの、反対派の行動もあっ
て、沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって、このことに照ら
しても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは
疑問であって、その記載は一面的であるというほかない。
 また、援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だっ
たから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても、
前示のとおり 、根拠がないのみならず、そもそも、赤松大尉自身がその様な考
えを持っていたことを裏付ける的確な証拠もない 。

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