home back next

 宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について(240P)
 原審の口頭弁論集結後、控訴人梅澤の伝令要員を務めていた
という宮平秀幸の新しい供述が明らかになったとして新聞報道
や雑誌への記事掲載がなされ、当審においても関連証拠が多数
提出されて、それらに基づく事実主張がなされている(なお、
控訴人ら訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人調
べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった。
しかし、当事者の用語例にならい以下「秀幸新証言」と略称す
る。)。
 そこで、以下、これらの当審提出証拠の証拠価値についてま
とめて検討する。
(1)  甲B149(平成20年1月26日撮影のDVD映像)、
150(同前半部分反訳)、159(同後半部分反訳)によ
ると、当初の秀幸新証言の概要は次のとおりである。
@  秀幸は第一戦隊(梅澤部隊)の本部付きの伝令員であっ
た。だから、一切は、全部分かっている。

A  3月25日の夜、村三役―村長、助役、収入役と学校長
が本部の壕へ来て、梅澤戦隊長が対応した。村側が「いよい
よ明日は米軍の上陸だと思うので、住民はこのまま生き残
ってしまったら鬼畜米英に女も男も殺される、同じ死ぬく
らいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい、それでお
願いに来ました。」と言うのに対して、梅澤隊長は、「何
をおっしゃいますか。戦うための武器弾薬もないのに、あ
なた方に自決させるようなそういうものはありません。絶
対にありません。」と答えた。

B  逆に梅澤隊長は、目を皿にして、軍刀を持って立って、
「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。私たちは国
土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住
民を自決させるために来たのではない。あなた方は、畏れ
多くも天皇陛下の赤子である。あんた方が武器弾薬、毒薬
を下さいと言っても、それは絶対に渡せない。そうした命
令は絶対にないから解散させろ。」と命令した。

C  自分はその場にいて、隊長とは2メートルくらいしか離
れていないところで隊長の話を聞いた。そのとき、助役に、
うちの家族も忠魂碑の所に来ているのかと尋ねたが、集ま
っている、80名くらい集まっているという話であった。

D  それで、村の者たちは渋々帰っていき、自分もそれにつ
いて行ったところ、三役は忠魂碑の前の階段に立ち、野村
村長が、「自決するために集まってもらったが、日本軍の
隊長からは『自決してはいけない。させない。』、しかも
『民間人に渡す武器弾薬、毒薬、何もない』と強く叱咤さ
れて、どうすることもできないから、ただいまから解散す
る。」と解散を命じた。

E  その後、家族を引き連れて避難し、整備中隊の壕に行き、
自決させてもらおうと来たと言ったところ、内藤中隊長ら
からも『だれがそんな自決命令を出したんだ。軍からは自
決命令、玉砕命令は全然出していないよ。早く避難しなさ
いよ」と言われ、食料を持てるだけ持たされて追い出され
た。

(2)  しかし、上記秀幸新証言は、同人自身の過去に話していた
ことと明らかに矛盾している。また、秀幸はさらに3通の陳
述書甲B132添付(平成20年3月10日付)、甲B14
2(同年8月7同付)、甲B158(同年9月1日付))を作成
し『証言』しているが、証言自体にも矛盾や不自然な変遷
がある。

 秀幸は、平成4年制作のビデオドキュメント「戦争を教
えてください・沖縄編」(乙108の1、2)で自分の戦
争体験を詳細に語っている。そこでは、3月23日の晩か
ら家族7人で自分たちの壕に入って24、25日を過ごし、
25日の午後8時半か9時頃になり、軍が(ママ) 、玉砕命
令が出ているから忠魂碑前で自決するので集まるようにと
伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中攻撃
を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、
整備中隊の壕の前等を経由して、夜明けに自分たちの壕に
たどり着いたと話している。3月25日夜に宮里助役らが
梅澤隊長を訪れた際に、本部付き伝令として隊長の傍らに
いたということや@、梅澤隊長が自決するなと命じたとか
AB、野村村長が忠魂碑前でそれを伝えて解散を命じたD
などということは全く出ていない。

 このことについて、拓殖大学藤岡信勝教授は意見書(2)
(甲B145)で、秀幸は平成4年の記録社によりなされ
た上記ビデオ撮影に先立ち平成3年6月大阪の読売テレビ
の取材を受け、箝口令が敷かれていた村長の解散命令のこ
とをうっかり話してしまい、そのことについて取材の数日
後に田中登元村長から厳しく叱責された、そのこともあり
平成4年の記録社のビデオ撮影も村当局の厳しい監視下
に行われ、村長の妻が秀幸に真実を語らせないように秀幸の
母貞子に圧力をかけ貞子と秀幸の妻がつきっきりで撮影さ
れたため、秀幸は真実を語ることが出来なかったものである
と詳細に解説し、秀幸も、上記ビデオとの矛盾を指摘さ
れた後の陳述書(甲B142)で同様に弁解する。しかし、
田中登元村長は既に平成2年12月11日に病気療養中の
県立那覇病院で死亡しているのであって(乙119)、上
記藤岡教授の解説や秀幸の弁解は明らかに事実に反する。
また、記録社の撮影状況に関する電話回答(乙118)も
これを否定しているし、宮城晴美の陳述書(乙117)に
よると、貞子は遅くとも平成3年からは病気療養のため本
島に住んでいて酸素ボンベが手離せず、秀幸のビデオ撮影
に立ち合うはずもないとされている。

 「小説新潮昭和62年12月号」所載の本田靖春著ノ
ンフィクション「座間味島一九四五」(乙109)には、
語り部の役割を果たそうとする秀幸から当時聞き取ったと
いう戦争体験が詳しく記載されている。それによると、秀
幸は3月25日の夜、家族7名で宮平家の壕にいたところ、
「午後10時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前
に集合するように」との命令が伝えられ、家族で相談した
後、牛前0時になろうとするころ7名が正装して忠魂碑前
に行ったが皆の集合は遅れていた、だれかが爆雷を貰
いに行ったという話がその場に流れていたが、待てど暮ら
せど現物は届かない、そこへ米軍の小型機が飛来し照明弾
を集まった村人のうえに落とし、その10分後くらいから
忠魂碑めがけてものすごい艦砲射撃が始まり、皆その場か
ら四散して山に逃げ込んだ、その夜から島内各所で集団自
決が次々に起きたと、話している。秀幸が梅澤部隊長の傍
らに居て、自決してはいけないとの命令を聞いたとか@〜C、
村長がそれを住民に伝え解散を命じたDなどの話とは
全く異なっており、秀幸はこれらを聞いていないことにな
っている。
 ちなみに、本田靖春は、上記ノンフィクション記事に宮
城初枝の手記を引用しており、その次の号の「第一戦隊長
の証言」〈甲B26)には3月25日の梅澤隊長と助役ら
とのやりとりについて初枝や控訴人梅澤の話を掲載してい
るのであるから、秀幸からの取材のなかでも初枝が聞いた
当日の本部壕でのやりとりが話題になっていても不思議で
はないのであるが、それにもかかわらず、秀幸は本部壕の
その場にいたなどとは全く述べておらず、忠魂碑前で爆雷
が届くのを待っていたというのである。なお、藤岡教授は、
本田の記事は、取材時間が少なく「宮平語」に通じてもい
ない本田の錯誤であり、場面の再構成があるなどと解説す
る(甲B132)が、本部壕にいたなどと述べていないと
いう事実自体は否定しようがないというべきである。

 今回の秀幸新証言自体にも不自然な変遷が見られる。秀
幸新証言は当初は梅澤隊長の自決してはならないという命
令を隊長付き伝令としてその2メートルの傍らで聞き、助
役と会話もしたかのようなものであった(甲B111、1
49、150)が、初江や控訴人梅澤は秀幸がその場にい
たことを否定していることなどを指摘されると、25日は
夕刻まで整備中隊の壕で仮眠を取っていたが、家族のもと
に帰るように言われ、途中、艦砲射撃が始まり本部壕の脇
に転がり込むようにたどり着いたところ、壕の入り口から
人の声が聞こえた、何事かと壕の入り口に何枚もかけられ
た毛布の陰に身を潜めた、毛布が死角になって私の姿は梅
澤隊長からも盛秀助役からも見えなかった、しかし、梅
澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていなかっ
たという補足の説明がなされている(甲B132藤岡教授
意見書添付の「証言」、甲B158)。いかにも不自然な
変遷であり、辻棲合わせといわざるを得ない。
 また、秀幸新証言では、同人は、姉である初枝に対し
て、梅澤さんが自決命令を出していないことを生きてい
るうちにはっきり言わないと後で悔いを残すよと亡くな
るまで言い続け、危篤状態の時にまで押しかけたかのよ
うに述べられている。しかし、先に認定したとおり、初
枝は既に昭和55年の時点で控訴人梅澤と会って自分の
記憶している壕での様子をそのままに話しており、ノー
トも送り、昭和57年にも手紙で詫びを述べているので
ある。したがって、秀幸が初枝に晦いを残すよと言って
告白を促すようなことはあり得ないことである。

(3)  また、秀幸新証言は、他の多くの手記などが述べるところ
とも明らかに矛盾する。幾つかの例を挙げれば次のとおりで
ある。
 秀幸の母宮平貞子の「座間味村史下巻」(平成元年発行
乙50)登載の詳細な手記(談)によると、25日夜は家
族で自分の壕に隠れており、夜になって艦砲射撃が激しく
なるなか、家族で壕を出て逃げ回り、26日夜明けに自分
の壕に戻った、この間3男(つまり秀幸。当時15歳)は、
租父母の手を引くようにして歩いた、途中、整備中隊の壕
に行ったら、「こっちは兵隊のいる場所だからあなた方は
上の方に逃げなさい。もし玉砕の必要があったら自分たち
が殺してあげるから、決して早まったことをしてはいけな
いよ」とすごい口調で言われた、貞子たちの壕は奥まって
いたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知
らなかったので、忠魂碑前には行っていないと述べている。
整備中隊の壕に行ったことは秀幸の話と一致しているが、
当夜は家族で終始行動を共にしていたことを詳細に述べて
おり、それによると、秀幸が本部壕に行ったり、忠魂碑前
に行くことなどあり得ないことである。この貞子手記は、
今回の秀幸新証言がなされる遥か前に記録されたもので、
貞子が虚偽を述べる理由はない。

 「母の遺したもの」に記録された宮平春子(宮里盛秀の
妹)の話によると、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に
忠魂碑にむかったが、数メートル前に照明弾が落下し、進
むことが出来ずに、来た道を引き返すことにしたところ、
村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向か
ってきたので、ここで全員が忠魂碑に行くのをやめ、それ
まで村長や収入役らとその家族が避難していた農業組合の
壕へ向かったと述べている。すなわち、これによると、村
長は忠魂碑前に行っていないことになるのであり、秀幸の
述べる忠魂碑前での村長の解散命令Dなどあり得ないこと
になる。宮平春子が虚偽を述べる理由もない。

 宮城晴美は昭和60年頃から4年余り、座間味村役場の
委託を受けて「座間味村史」全3巻の編集執筆に携わり、
昭和63年1月頃から高齢者の聞き取り調査を行った。そ
して、そのころ秀幸から立ち話で昭和20年3月25日の
夜忠魂碑前で村長から隊長が来たら玉砕すると言われたが、
来ないので解散した旨の話を聞き、事実だとしたら村史か
らは絶対はずせない話であると考え、母初枝に確かめたが、
そんな話は聞いたことがないということであり、貞子にも
確かめるように言われて数回にわたって貞子から聞き取り
をしたのがアの手記である、重要なことなのでそれまで聞
き取りをした人やそれから聞き取りをした人にも忠魂碑前
のことを確かめたが、誰一人として、秀幸の言うようなこ
とを述べる人はいなかったというのである(乙110)。
現に、忠魂碑前に老人子どもを連れて行った成人女子が戦
後多くの証言をしているが(「母の遺したもの」、「座間
味村史下巻」、「沖縄県史10巻」など)、誰も忠魂碑前
に村長が来たことや解散命令を出したことDを述べている
ものはいない(この点についても藤岡教授は、箝口令があ
り、老人の多くは調査の頃までには死亡してしまい、子供
はものごころがついていなかった可能性があるなどと解説
する(甲B132)が、採用できない。)。

 初江の話は既に認定したとおりである。3月25日本部
壕に行った人のなかに村長は含まれておらず、秀幸がその
場にいたとはされておらず、梅澤隊長の対応も秀幸が述べ
るものとは全く異なっている。助役の申し出の後「重苦し
い沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、
垂直に立てた軍刀で体を支えるかのようにして、つかの部
分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたき
りでした。・・やがて沈黙は破れました。隊長は沈痛な面
持ちで「今晩は一応お帰りください。お帰りください。」
と私たちの申し出を断ったのです。」という記述は、遅く
とも昭和52、3年以前に書かれたものと考えられ、先に
詳細に検討したとおり、秀幸の言うようなことがあったの
なら、初枝が手記にそれを書き残さない理由はないし、娘
の宮城晴美に話さない理由はない。初枝が昭和55年に梅
澤隊長と面会し、その日の壕での出来事を話しあい、その
後控訴人梅澤と文通した後にも、初枝の話に変わりはなく、
一貫している。前記のように控訴人梅澤が初枝に対しその
当時異論を述べた形跡もない。

 控訴人梅澤も、秀幸新証言の後にも、秀幸がその場にい
たことは認めず、村長が来たとも認めていない。天皇陛下
の赤子というようなことも自分はいわないと藤岡教授には
述べたようである(甲B110)。

(4)  以上のとおり、秀幸新証言は、それまで自らが述べてきた
こととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも
多くの証拠と齟齬している。
 甲B111(鴨野守 「住民よ、自決するな」と隊長は厳
命した 諸君!2008年4月号所収)、甲B112(産経
新聞同年2月23日付「新証言」に関する記事)、甲B11
0(藤岡信勝 集団自決「解散命令」の深層 正論同年4月
号所収)、甲B148(藤岡信勝・鴨野守 沖縄タイムズの
「不都合な真実」 WILL同年8月号所収)等はいずれも
今回の秀幸新証言を無批判に採用し高く評価するものであっ
て、同新証言と独立した証拠価値を持つものではない。また、
藤岡教授は、平成20年7月28日付意見書(甲B132)、
同年8月28日付意見書2(甲B145)で、上記秀幸新証
言の矛眉や辻棲合わせ等について種々解説を加えて秀幸新
証言の信憑性を強調し、秀幸の驚異的な記憶力や標準人を遙か
に超える映像的な記億力についてもエピソードなどを紹介し
ているが、一方に偏するもので採用できない。
 反対に、宮城晴美は、叔父秀幸について「・・。何よりも、
秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めて
いられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコ
ミ好きは島でも定評があります。」と述べている(乙11
0)。秀幸や藤岡教授はこれに反論しているが(甲B142、
145)、そのような秀幸の性格は、秀幸のこれまでのマス
コミ等との被取材歴(甲B113、145、乙108の1及
び2、109)や、長時聞に及ぶ甲B149号証のDVD映
像での話しぶりやその話の内容自体からも十分見て取れると
ころである。

(5)  以上を総合すると、秀幸新証言は明らかに虚言であると断
じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない。

home home back next