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ドイツ魅力のすべて

参加者がつくる(3)
昼食をした古城ホテル(Burghotel Auf Schonburg)前の私たち(写真提供:愛知の新婚さん)
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廃墟のようなハイデルベルク城
(写真提供:旅大好きさん)
崩壊した火薬塔
(写真提供:旅大好きさん)
↑(拡大写真にリンク) ↑(拡大写真にリンク)
哲学の道から見たハイデルベルク城
ネッカー川にかかるカールテオドール橋
(写真提供:ヅカさん)
『アルト・ハイデルベルク』の舞台となった
ハイデルベルク大学旧校舎
(写真提供:アマデウスさん)

 Heidelberg(ハイデルベルク)は、Neckar(ネッカー)川(Rhein(ライン)川の北を流れる支流)沿いにあります。人口は約14万人の小都市です。
 ハイデルベルク城は、 ネッカー川の南岸に位置するケーニヒシュツール山(566m)の麓にあります。
 ハイデルベルク大学は、ハイデルベルク城より市街地を通って西へ約1キロの所にあります。学生数は約2万5000人で、「人口の5分の1が学生である」と言われるほど、学生の街です。
東山魁夷画『緑のハイデルベルク』(カールテオドール橋を前景にしたハイデルベルク城)

 13世紀、ライン宮中伯の居城地として発展しました。
 1386年、ハイデルベルク大学が創建されました。
 1556年、新教(プロテスタント)に改宗しました。
 1621年、 三十年戦争(宗教戦争)がおこると、旧教(カトリック)のバイエルンに征服されました。街は大きく破壊されました。
 1648年、ヴェストファーレン条約が締結されて、宗教戦争が終了しました。バイエルンの支配から脱したPfalz(プファルツ)選帝侯カール1世ルートヴィヒは選帝侯となりました。プファルツ選帝侯は、街の再建に努めました。
 1688年、プファルツ選帝侯カール2世が死亡しました。ルイ14世は、自分の弟オルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットがカール2世の妹だったことを口実に、プファルツの継承権を主張して、ライン地方を攻撃しました。これをプファルツ継承戦争といいます。
 1693年、市街の大部分と城の外郭などが破壊されました。
 1697年、レイスウェイク条約が締結されて、プファルツ継承戦争は終了しました。
 1718年、プファルツ選帝侯は、城の再建に着手しました。
 1720年、プファルツ選帝侯は、居城をマンハイムに移したので、城の再建は頓挫しました。
 美術史・建築史家のGeorg Gottfried Dehio(ゲオルク・ゴットフリート・デヒオ)は、 「復元するには資料が残っていない」として「復元ではなく保存」を訴えました。 現在、ハイデルベルク城が廃墟のような形で残っているのはこのためです。

 私にとって、ハイデルベルクは、世界史の「宗教戦争」や「プファルツ継承戦争」を通じて、知っていました。それと、何歳の時に読んだか思い出せないのですが、ハイデルベルク大学を舞台にした本を読んだことがありました。現地のガイドさんに聞くと、「『アルト・ハイデルベルク』でしょう。ここの人もあまり知らないのによく知っていましたね」とびっくりされました。
 Wilhelm Meyer Forster(ウィリヘルム・マイヤー・フェルスター)が1901年に発表した『ALT HEIDELBERG』(アルト・ハイデルベルク)です。あらすじは以下の通りです。
 ザクセン地方のカールスブルグ公国王子であるカール・ハインリッヒは、幼くして両親を亡くしていたので、伯父である大公の手で育てられていました。やがて成長したカール・ハインリッヒは、ハイデルベルク大学に入学しました。
 カール・ハインリッヒは、ネッカー川の畔にあるリューダー夫妻の経営する下宿に入ることになりました。そこにはウィーン生まれの娘ケティが働いていました。ケティは、下宿に着いた王子を歓迎するため、花束をささげ、次のような詩を暗唱しました。

1.遠き国よりはるばると ネカーの河の懐かしき 岸に来ませし我が君に 今ぞ捧げんゆく春の いと麗しき花飾り

2.いざや入りませ我が家に されど去ります日もあらば 忘れたもうな若き日の ハイデルベルグの学び舎の
幸ち多き日の思い出を」

 やがて、カール・ハインリヒも、ハイデルベルクの自由奔放な生活にもなれ、口角泡を飛ばして議論したり、大ジョッキのビールを飲み交わしたりして、青春を謳歌しました。
 4カ月後、カールスブルグ大公が危篤となり、カール・ハインリッヒは、急いで、帰国しました。
 2年後、カール・ハインリッヒは、カールスブルグ大公となりました。
 カール・ハインリッヒは、2週間後に結婚という時、ハイデルベルグの下宿の洗濯男がやって来ました。色々な懐かしい話をした後で、ケティについては、「王子が帰国した後よく泣いていた」と話しました。
 その夜、いたたまれなくなったカール・ハインリッヒは、ハイデルベルクを訪れました。しかし、そこには昔のハイデルベルクの自由奔放な雰囲気はありませんでした。
 そんな中で変わらぬものがありました。それはケティでした。大公となったカール・ハインリッヒは、ケティを抱き寄せ「変わらないのは君だけだ。ケティ君一人だ」と囁きました。
 しかし、そのケティもウィーンで結婚することになっていました。
 カール・ハインリッヒ大公は、「ぼくのハイデルベルクへの憧れは、君への憧れだった」と言って、ケティに別れを告げるのでした。

 この戯曲に登場する「赤い雄牛」亭(Zum roten Ochsen)は今も存在しているそうです。
 中学生か高校生の時に読んだ感想は、「一途な純愛」小説(戯曲)というものでした。今、改めて読み直してみると、「時代は流れているのに、心は過去の純粋な気持にしがみついていた」という時代錯誤的な物語に感じられました。
 今の学生が読まない理由、ハイデルベルクでも知られていない理由が分ったような気がしました。
 と、同時に、このような感傷(sentiment、センチメント)は誰にもある。それは大切にしたいとも思いました。

ツアーコンダクター美奈子さんの旅のメモです
 昼食は、バスで15分行ったオーバーヴェールの町にある古城レストランで、食べていただきました。11世紀に起源をさかのぼる城で、現在は古城ホテルとして営業されています。
 Burghotel Auf Schonburgという名の古城ホテルで、季節の野菜サラダ、マスのグリル、アップルタルトがメニューでした。
 昼食後は、ハイデルベルクまバスで約1時間半です。ハイデルベルク城と旧市街の観光です。
 ハイデルベルクは、人口約14万人で、古くから学生の町として知られています。城を中心として城下町でもあります。
 ハイデルベルク城は、11世紀頃から要塞が築かれ、本格的な築城は、歴代の選帝侯によって進められました。
 フランスとの戦争で、破壊されてしまいましたが、19世紀に修復されています。地下には、1751年建造の22万リットル入るワイン樽が置いてありましたね。テラスからの市街の眺めも良かったです。対岸には哲学者の道も見えていました。
 またもや大雨です。ご希望の方だけ旧市街観光に。お1人だけでした…。
 夕食は、Leonardo(レオナルド)ホテル内のレストランで、お団子入りスープ、ポークミュニィッツェル(トンカツ風)、ベリー類のシロップ付けでした。
 レオナルドホテルで宿泊しました。

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