参加者がつくる(11) |
ドレスデン〜ポツダム〜ベルリン |
ツェツィーリエンホフ宮殿とプツダム会談 |
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ツェツィーリエンホフ宮殿 |
(写真提供:アマデウスさん) |
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この度の旅は、イギリス・フランス・イタリア・スペイン・オーストリアに次ぐヨーロッパ旅行です。
ドイツが最後になったのは、これが見たいと思う歴史的遺産が他より少ないと思ったことによります。
多くの人は、オーストラリアやアメリカ(ハワイを含む)を希望しています。私は、歴史的遺産ということからして、全く行く気がありません。 |
しかし、この度、ドイツに旅して、非常に多くの収穫がありました。食わず嫌いだったことを深く恥じています。
すでに、触れて来たように、同じ敗戦国であるのに、ドイツ人を自然や物を大切にする心に接したことです。
もう一つは、ニュールンベルク裁判がなぜニュールンベルクで行われたかが分かったことです。
もう一つは、今回紹介するポツダム会談の場に立ち会ったことです。授業では、「ポツダム会談により、抗戦を続ける日本への対応と戦後処理について合意した内容をポツダム宣言として発表した」と説明します。しかし、そのポツダムがベルリン郊外のどの位置かを確認したことはありません。 |
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↑クリック(拡大地図にリンク。GoogleMapより) |
右上の□(ベルリン)、左下の□(ポツダム) |
ポツダムは、ベルリンの西南約26kmにあります。ということは、ポツダム会談が行われた1945年7月17日〜8月2日当時は、ソ連の占領下にあったことになります。
ナチス・ドイツ降伏後、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われたのは、ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿でした。
参加したのは、アメリカ大統領のトルーマン、イギリス首相のチャーチル、ソ連共産党書記長のスターリンでした。
資本主義国が英米の2カ国、社会主義国がソ連の1カ国なのに、なぜ、ソ連の占領下のポツダムで重要な会議を行ったのでしょうか。 |
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色々な書物やホームページにあたってみましたが、警備の都合などを上げていました。しかし、私の納得するような解答はありませんでした。
日清戦争では、勝利国日本の下関で講和条約が締結されました。日露戦争では、アメリカのポーツマスで講和条約が締結されました。日本は「勝った、勝った」と喜んだそうです。しかし、ロシアは15ラウンドの7回を戦ったという感覚でしたから、負けたとは思っていませんでした。だから、アメリカのポーツマスなのです。
そういう視点で、ポツダムを考えた場合、政治的な駆け引きがあったに違いありません。 |
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イギリスでは、ポツダム会談前の1945年7月5日に、下院議員の投票後行われ、7月26日に開票が行われました。その結果、チャーチルが率いる保守党は、チャーチルら6名の閣僚が当選しましたが、残りの閣僚は全員が落選するなど、193議席(181議席減)の惨敗でした(定数640)。逆に、クレメント・アトリーが率いる労働党は381議席を獲得しました。
その結果、7月27日、チャーチルは総辞職し、アトリーが首相に就任しました。
選挙戦を通じて、労働党の圧勝が予想されたのか、ポツダム会談には、次席としてアトリーが最初から参加していました。これでは、会議の主導権を握れません。 |
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次にアメリカはどうでしょうか。
アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、1944年11月7日、前例のない4選を果たしました。
そのルーズベルト大統領は、ヤルタ会談(1945年2月4日〜11日)で、対日戦を早期に終結させるために、ソ連のスターリンに対して、千島列島・南樺太の割譲を条件に、ドイツ降伏後3カ月以内の対日参戦を要請しました。
しかし、ルーズベルト大統領は、1945年4月12日、脳卒中で亡くなり、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格・就任しました。この知らせを聞いたヒトラーは、「ルーズベルトは今次の戦争を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、さらに最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」という声明を発表しました。
1945年5月7日、ドイツが無条件降伏しました。
1945年8月9日、ソ連がヤルタ会談(ヤルタ協定)により、日本に宣戦を通告しました(ソ連の対日参戦)。
こうして見ると、アメリカには、対日参戦を促すがために、ソ連に譲歩する立場にあったことが分かります。 |
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サンスーシー宮殿 |
(写真提供:愛知の新婚さん) |
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サンスーシー宮殿 |
(写真提供:旅大好きさん) |
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