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ドイツ魅力のすべて

参加者がつくる(12)
ベルリン、午後自由行動
人間が造ったベルリンの壁
人間が壊したベルリンの壁
ブランデンブルク門(ここを中心にベルリンの壁が張り巡らされる)

今も残るベルリンの壁(昔の検問所付近)

ドイツの地図(=西ドイツ、=東ドイツ、=ベルリン)
 東ドイツの中にベルリンがありました。

 ベルリンの地図(=西ベルリン、=東ベルリン、=東ドイツ)
 東ドイツの中にベルリンがあり、そのベルリンも東西に分割されています。
 資本主義の西ベルリンは、社会主義の東ベルンに接し、さらに、社会主義国の東ドイツの中にありました。

↑クリック(拡大写真にリンク)
(ベルリンの壁)
(ブランデンブルク門) (検問所) (Mariottホテル)
(森鴎外記念館) (ペルガモン博物館) (ソニーセンター)

ベルリンの壁の悲劇と感激
1943(昭和18)年10月、モスクワの米英ソ外相会議で、ドイツの無条件降伏・3カ国による暫定分割統治・FAC(復興協議機関)の設立などが決定されました
1944(昭和19)年1月、第1回FAC会議の席上、イギリスの副首相・クレメント・アトリーは、戦後のドイツ領土・首都ベルリンの共同統治を提案し、承認されました。
 6月、連合軍は、北仏のノルマンジーに上陸しました。これを史上最大の作戦といいます。
 10月、モスクワで、チャーチル・スターリンは、南東欧の英ソ勢力範囲を画定しました。
1945(昭和20)年4月、米ソ両軍は、エルベ河畔のツルゴウで邂逅しました。
 5月、ドイツ軍は、連合国に無条件降伏をしました。
 6月、米英仏ソ4国は、ベルリン協定に調印し、4地区を分割占領することになりました。この結果、西ドイツと西ベルリンを米英仏が占領し、東ドイツを東ベルリンをソ連が占領することになりました。西を資本主義国、東を社会主義国が分割統治したことで、悲劇が始まります。戦後、東西の冷戦という言葉に象徴されるよう、両陣営は厳しく、激しく対立しました。

 1946(昭和21)年2月、米英仏ソは、「ベルリン回廊」に同意しました。その内容は、西側からベルリンまでの3本の空路は自由な利用を認めるというものでした。西ベルリンに居住する市民は200万人に上り、その生活を支えられるだけの物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかったことと、ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったということが、空路の封鎖をしなかった理由
1947(昭和22)年6月5日、マーシャル国務長官はマーシャル=プランを発表しました。
 7月、ソ連・東欧を除くヨーロッパ16カ国はマーシャル=プランに参加を決定しました。
 10、ソ連・東欧9カ国はンフォルムの設置を発表しました。

1948(昭和23)年4月、ソ連は、西ベルリンへの物資搬入を制限・強化しました。
 この背景には、西側諸国は、西ベルリンを「自由主義社会のショーウィンドウ」として、大々的に宣伝をしたことにあります。
 6月1日、米英仏ら6か国は、ドイツの西側3地区統合・西独憲法作成を決定しました。
 6月24日、ソ連は、ベルリン・西側管理地区間の陸上交通を全面封鎖しました。
 6月26日、西側諸国は、「ベルリン回廊」の同意により、大空輸作戦を開始しました。それは、ヴィースバーデンとラインマインの両基地からC-47輸送機が西ベルリンのテンペルホーフ空港に大量の物資を輸送するというものでした。さすがのソ連も、「ベルリン回廊」の同意を無視できませんでした。
 6月30日、マーシャル国務長官は「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は可能な限り実施されるだろう」と言明しました。
1949(昭和24)年1月、ソ連・東欧5カ国は、コメコン設置すると発表しました。
 4月、西側12カ国は、NATOに調印しました。
 5月6日、西ドイツに、ドイツ連邦共和国臨時政府(西独)が成立しました。
 5月12日、ソ連は、西ベルリン地上封鎖を解除しました。
 10月、ドイツ民主共和国(東独)が成立しました。これをといいます。首相にグロテヴォールが就任しました。
これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治した事に由来する。つまり、ドイツおよびベルリンにおいても東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断したのであった。
分割後まもなく米・英・仏など資本主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を初めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)翌1949年5月に封鎖は解除された。

ベルリンの壁の構築
ベルリンの壁(写真提供:旅大好きさん)
 壁は薄いが、その背後に、軍人が警備しています。薄い壁を越えようとすると、射殺される。
1953(昭和28)年6月、東ベルリンで、反ソ暴動がゼネストとなり、ソ連戦車が出動し、16人が死亡しました。これをベルリン暴動といいます。
1956(昭和31)年1月、東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟しました。
1961(昭和36)年6月、ベルリン問題をめぐり米ソが激しく対立ししました。
 8月13日、ソ連は、西ベルリンの周囲を完全に囲む「ベルリンの壁」を構築しました。
 ソ連は、「この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものである」と主張しましたが、誰が見ても、東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出することを防ぐためのものであることは明白でした。

ベルリンの壁の崩壊
ベルリンの壁の崩壊(写真提供:旅大好きさん)
 ブランデンブルク門の向う側(東ベルリン)から手前(西ベルリン)にやってくる人々でベルリンの壁の上は一杯です。
1963(昭和38)年6月、西ベルリンを訪問したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と演説しました。
1985(昭和60)年3月、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、ペレストロイカの見直し、外交の転換を図りました。これが東欧革命のきっかけになりました。
1989(平成元)年2月、ハンガリーでは、複数政党制が導入されました。
 5月、ハンガリーでは、オーストリアとの国境が開放されました。
 6月、ポーランドでは、選挙により、「連帯」への政権移譲が行われましたた。
 6月、東ドイツ市民1000人は、ピクニックの恰好をして、ハンガリー・オーストリア国境を越え、西ドイツに亡命しました。
 これがきっかけで、大量の東ドイツ市民がハンガリー・チェコを越境して、西ドイツに亡命しました。警備の警官も放任するか、一緒に亡命したといいます。
 11月9日夕、ドイツ政府は、「東ドイツ市民の旅行を自由化する」と発表しました。
 11月10日、ベルリンの壁が崩壊しました。
1990(平成2)年10月3日、東西ドイツが統一されました。

ツアーコンダクター美奈子さんの旅のメモです
 今日は、最後の観光ですね。良いお天気になりそうです。
 ベルリンの壁
 意外と厚みがなかったですね。
 ブランデンブルク門
 18世紀に建設された凱旋門。戦後長年にわたって壁に囲まれて東西分断の最前線となっていました。
 現在は、統一ドイツの象徴となっています。
 ペルガモン博物館
 古代ギリシア、古代ローマ、古代西アジアなどの遺跡博物館
 午後はフリータイム
 ショッピングされたり、美実館に行かれたり。
 食事も付いていませんでしたので、ご希望の方と一緒に。
 昼食は、中華の明園大酒楼
 夕食は、ビアレストラン

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