home next next

港区(3)

(写真提供:東京有賀泰三さん) 堀部安兵衛父子の墓(G)
 増上寺は、徳川家の菩提寺です。天正18(1590)年、徳川家康が江戸城に入城した時に菩提寺とし、
寺領として20万坪を寄進しました。
 増上寺には、6代将軍・徳川家宣や、家宣夫人・天英院と家宣側妾月光院の墓があります。
 5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の宝塔もあります。
 月光院は、お喜代といい、浅野家鉄砲洲屋敷に奉公していました。赤穂藩が断絶後、甲府の徳川綱豊(後の6代将軍・徳川家宣)に仕えて、その寵愛を受けるようになりました。
 そんな縁で、月光院と赤穂藩の関係が取りざたされています。
 広島藩主浅野本家や堀部弥兵衛一族の菩提寺です。堀部弥兵衛は、青松寺の住職と縁があり、菩提寺となりました。
 堀部父子の供養墓や目付天野伝四郎富重の墓があります。
現在も堀部家の墓があります。
 忠見扶右衛門(弥兵衛の妻わかの兄)の墓もあります。
 墓参はもちろん、撮影も許可されていません。私も直接行って、墓参を拒否されました。住職の許可が必要とのことでした。
 義士の墓の写真を撮らせて下さいとお願いして、
「墓参なら許可するが、写真のみは駄目だ」と言われたことがあるが、墓参すら拒否された体験は初めてです。
増上寺(大本山三緑山) 青松寺
港区芝公園4 港区愛宕町2−4−7
 乃木希典は、赤穂浪士が切腹した毛利邸の長屋で誕生しました。そんな関係で、赤穂義士を崇拝していたと言います。
 現在は、神社を中心として公園になっています。公園内には、旧邸が残されています。
 乃木夫妻が自刃した部屋も保存されています。
 浅野内匠頭の妻・遙泉院の実家・浅野土佐守長澄の上屋敷跡です。
 遙泉院の実家である三次・浅野家は、5万石の大名です。
旧乃木邸 浅野土佐守上屋敷跡
港区赤坂8−11 港区赤坂8−7
 浅野内匠頭の妻・遙泉院の実家・浅野土佐守長澄の下屋敷跡です。
 刃傷事件後、遙泉院が引き取られた屋敷です。
 正徳4(1714)年、遙泉院(46歳)は、この地で、亡くなりました。
 享保4(1719年)年4月、三次・浅野家4代・長経が13歳で亡くなり、広島藩領となりました。
 11月、長経の弟・長寔に相続が認められました。  享保5(1720)年、長寔が10歳で亡くなったので、三次・浅野家は取り潰しとなりました。
 享保14(1729)年、8代将軍吉宗の命により、この地に稲荷が氷川大明神として移されました。
 現在も、この地に氷川大明神があります。
 浅野内匠頭・五万石の下屋敷跡があります。
 赤坂下屋敷は、延宝年間(1673〜1680)、3500坪ありました。
 元禄10(1697)年頃、1390坪となり、その代替地に北本所に3900坪を与えられました。
 現在、氷川武道場があります。
 ここは、勝海舟の屋敷でもありました。
浅野土佐守下屋敷跡 浅野内匠頭下屋敷跡
港区赤坂6−10−12 港区赤坂6−6−14

home next next