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吉良邸の北側に土屋主税邸跡があります。
土屋家は、上総国久留里領2万石の大名でしたが、延宝7(1679)年、土屋主税達直時に3000石の旗本となりました。
分家が老中土屋相模守です。
討入りに際しては、土屋主税の家臣・笠井権兵衛は、老中・土屋相模守に報告しています。
また、土屋主税の家臣・岡部新左衛門は、御目付・近藤平八郎に報告しています。
さらに、土屋主税の家臣・中村吉右衛門は、御用番・本多伯耆守に報告しています。
土屋家の家老・竹中助右衛門は、討入り当夜の記録「元禄実紀」を残しています。
現在は、京葉道路に面した住宅地となっていま
す。 |
討入後、赤穂浪士は両国橋東詰で休息しました。
この時、大高源五が次の句を読んだとされています。
日の恩や たちまち砕く 厚氷
元禄事件当時の架橋位置は、現在地より150メートルほど川下でした。
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土屋主税邸跡 |
両国橋東詰 |
墨田区両国3−17 |
墨田区両国1−11−3 |
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12月14日、弥兵衛宅に行かなかった赤穂浪士はこのうどん屋に集合したといいます。 |
12月13日、この橋の上で大高源五と宝井其角が出会ったといいます。 |
久兵衛宅 |
両国橋 |
墨田区両国 |
墨田区両国 |
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大高源五の俳譜師匠・水間沾徳の墓があります。
水間沾徳の書「浅野氏家滅亡之濫觴」には、俳句の弟子として、冨森助右衛門(春帆)、大高源五(子葉)、神崎与五郎(竹平)、萱野三平(洞泉)などの名前があります。
さらに、「皆予俳門に入りて秀作たり」とあります。 水間沾徳の墓石の右側には、
「初雁や
おもふ田へ
ただ一文字」
の句が刻まれています。
陽運院は、日蓮宗法恩寺の支院で、法恩寺の参道を入ってすぐ左側にあります。 |
長禄元(1457)年、太田道潅が江戸城築城に当たり、城内鎮護の祈願所として建立したのが起源です。開山は日住上人です。境内900坪、建物本堂・庫裡105坪です。
太田道潅の墓や江戸城松之廊下の襖絵の松を描いた狩野寿石の墓があります。 |
陽運院 |
法恩寺 |
墨田区太平1−25 |
墨田区太平1−26−16 |
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