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本所相生町にあり、討ち入り前に集合して、祝いの宴を開いたといいます。 |
吉良上野介の従弟婿伊東志摩守の屋敷跡です。
伊東志摩守は5000石寄合衆で、妻は酒井兵部忠経の次女、忠経は上野介の母方の叔父に当たります。
現在の横山印刷の辺りです。 |
堀部弥兵衛宅 |
伊東志摩守屋敷跡 |
墨田区両国矢倉米沢町 |
墨田区緑1−17−3 |
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回向院(F) |
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12月14日、弥兵衛宅に行かなかった赤穂浪士はこの茶屋に集合したといいます。 |
明暦3(1657)年、振袖火事で焼死した10万8000人の内2万人の屍を一坑に埋め、その菩提を弔うため建立しました。境内2000坪、諸宗山無縁寺といいます。
その後も、江戸時代の無縁仏はすべてここに埋葬しました。
鼠小僧次郎吉や竹本義太夫の墓があります。
元禄15(1702)年12月15日、討入り後の赤穂浪士四十七人がこのお寺で、上杉家の追手を待とうとしましたが、寺内に入ることを拒まれました。
そこで、両国橋東詰へ向かいました。 |
亀田屋 |
回向院 |
墨田区両国橋川岸町 |
墨田区両国2−8−10 |
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吉良邸討入り当日の拠点となった場所です。
討入りの赤穂浪士は次の通りです。
店借主 堀部安兵衛 仮名 長江長左衛門
同居人 倉橋伝助 仮名 倉橋十左衛門
同居人 横川勘平 仮名 三島小一郎
同居人 木村岡右衛門 仮名 石田左膳
脱盟の赤穂浪士は次の通りです。
同居人 毛利小平太
同居人 小山田庄左衛門
同居人 中村清右衛門
同居人 鈴田十八
現在、安兵衛宅の場所は特定できずませんが、仲よし公園の辺りとされています。 |
大石頼母助家を継ぐ浅野左兵衛の屋敷跡です。
大石頼母助は、浅野内匠頭の祖父長直の娘鶴姫を妻としています。その頼母助と鶴姫の間の長男が長恒、次男が左兵衛です。
その左兵衛が頼母助の遺領1300石を継いでいましたが、浅野内匠頭の命で分家家原浅野家(旗本寄合3500石)を継ぎます。この系列が幕末の北町奉行浅野長藤(浅野梅堂)につながると言われています。
現在の菊川駅前の交番の後辺りです。 |
堀部安兵衛道場跡 |
浅野左兵衛屋敷跡 |
墨田区立川3−15 |
墨田区菊川2−19 |
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