相生市教育委員会の案内板には以下のような説明があります。
大石良雄にゆかりのあるこの別邸は次のように伝えられています。
元禄7年(1694)、備中松山城の開城にあたって、浅野内匠頭が城の受取りを命じられましたが、病気のため家老の大石良雄にその名代を命じました。大石は流血を好まず、平穏のうちに城を明け渡させることに成功し、その功績として相生村を私領として賜りました。そうしたことから、大石はこの中世以来の相生の名家海老名家へよく来遊し、ことのほかこの庭を好んだので、いつしか大石さんの別邸と呼ばれるようになったと伝えられています。
その別邸は、明治9年に焼失してしまいましたが、現在庭の一部が残されています。 |