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那波本町:神崎与五郎の孝行井戸

 
神崎与五郎由来の孝行井戸(相生市那波本町)
 神崎与五郎の役柄は、御徒士目付で、全義士中後ろから3番目の貧乏侍でした。しかし、神崎与五郎は藩中きっての孝行侍でもありました。
 神崎与五郎は那波に役宅を与えられ、母と二人慎ましく暮らしていました。ある日、その母が不治の眼病にかかりました。
 常に孝道に心掛けていた神崎与五郎は那波荒神山の國光稲荷社の籠堂に、毎日無心で祈願していました。
 そして七日目の夜更に突如、御神殿の内より、扉を押し開く音がして、若い美女が手に三光の玉をもってあらわれました。
 そのうしろに天童一人が稲穂を持ち出現し、玉光は月夜のごとくあたりを照らしました。
 「大神は神崎与五郎の孝心を見て、天下台よりさし昇るご来光の光線を口に戴き、赤松の葉をかみしめ、井戸水で目を洗え、塩水をのませよ。されば苦悩去らん」とお告げがありました。
 与五郎は、早速、下山し、お告のごとく行うと、母の目の不治の病が治ったということです。
 目を洗うために使った水がこの井戸水と言われています。
詫び状文(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
 元禄14(1701)年3月、浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだ時、神崎与五郎は、神文血判を提出しました。
 赤穂城開城後、与五郎は那波に住み、ここで那波十景を詠みました。
 元禄15(1702)年4月、病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門にかわって江戸に下向しました。
 箱根の山の茶屋で休んでいると、峠の馬方・丑五郎から「わしの馬に乗れ」と言いがかりをつけられました。与五郎が断ると、「わしの馬には乗れんのか」とよけいからんできました。
 討ち入りの大事を前に、与五郎は我慢に我慢を重ねていると、丑五郎は、腰抜け侍と思って「詫び証文を書け」と要求してきました。証文を書くと、今度は、「丑五郎の股くぐり」を
強要しました。丑五郎は「腰ぬけ侍」とののしって立ち去りました。
 その後、吉良邸討ち入りがあり、その中に詫び證文を書いた侍がいたことを知り、丑五郎は、深き後悔したということです。

 「一、牢(浪)人 壱人 浅野内匠頭様牢人衆神崎与五郎 当村九郎左衛門家に御座候」とある。文中の浪人神崎与五郎が身を寄せた「九郎左衛門」とは「那波屋九郎左衛門」のことと考えられ、現那波西本町六ノ一にある旧表屋の屋敷がそれである。赤穂藩横目当時の別宅は、現在那波本町十七ノ十六前にある駐車場がをの跡で、明治の頃「ササ屋」の屋号をもつ家の跡ということから、俗にササ庭の別宅跡とも云われている。

古伝那波十景と神崎与五郎の詠んだ発句
宮山松開花 神山や 松はすねつつ 花の雲 那波宮山
渡田面早苗 那波と陸 争ひはなし 夕田植 那波大浜町一帯
■渕流蛍乱 すんなりと 渕に入りてぞ 蛍の火 入鹿渕の池
岡野台秋月 海山も 月の隅かな 岡野台 那波丘ノ台
雪降台暮雪 龍神も 雲を見よとや 山のかげ 天ケ台山
二子対姨川 川柳 まねいて見るや 二子島 薮谷川・半田病院付近
浮水大島翠 大島や 海はいよいよ 夏木立 大島山
大避崎宿鷲 此の月に 素面なりけ新 秋の鴬 那波大避神社南
相生浦漁舟 涼みかも 網帆唐めく 相生の舟 旧皆勤橋付近東寄り
馬通曲江望 彩色や 入江々々の 浅かすみ 松之浦付近
■(魚+孚)

神崎与五郎撰「那波浦十景」
 元禄の十二己卯歳(1699)那波浦荒神山に於て浅野氏家臣神崎与五郎那波浦十景を撰す
 濱田之早苗 攣子島凉舟 竹島之暮雪 大島之藤花 宮山之躑躅
 向ヒ鼻夜漁 岡之台秋月 汐見坂夕霧 鍋崎之蛤狩 白鷺鼻群蟹
  右神崎の作れる那波浦十景を氏神大避社へ奉納す
      田中孫四郎  書写
   庄屋 孫左衛門 保管

神崎与五郎の詠んだ丘ノ台の句
  丘ノ台 古城のあとに吹く綿を
       己は着ねども 暖に見ゆ

  水仙に 酔顔見せず 梅もどき(田中弘司家所蔵)
と丘の台を詠んだ歌二首と
  朝日てる 国光稲荷山桜
        花を眺めて 君を思はむ
の一首が今も伝えられている。
相生市那波
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